染まる。 俺が関知するよりも遥かに以前から、俺の心は変わっていた。元々の姿からかけ離れて、今の器にそっくりはまるように、時間をかけて歪みながらこの器にあるべきモノへと変わっている。だがそれは、恐ろしいことじゃない。
変化は必然で、誰にも止められない。世界も俺も、同じことだ。
その変化を、どう受け入れるかが重要だ。
きっかけはもう随分前のことだと思う。今のようになる前に、俺の誇りはいとも容易く踏みにじられた。
一人で戦えていたあの頃とは遠く、弱くて情けない生き物に成り果てた自分を受け入れられなかった。
こんな俺は俺じゃない、違う、あの頃に戻れないなんて嫌だ。
そう思えば思うほど、今の自分も世界も嫌いになっていって、憎くて疎ましくなっていった。
早く、世界が滅びてしまえばいい。ハルマゲドンが来たらいい。そう思いながら毎晩目を閉じた。
やるせない想いを抱えて生きるのは難しかった。本当はこんなもんじゃない、以前ならもっと、そんな風に考えて、今の現実を必要以上に貶めた。
世間も環境も俺を嫌っていたが、俺を最も嫌っていたのは俺自身だった。
時折夢に見る過去の姿に、堪えがたい絶望を覚え、気が狂いそうなほどの羨望に焦がれた。そして、煮えたぎる憎悪を抱いた。こんな苦しみを与えた奴らへの憎しみだけが、辛うじて息をしていた。
いつか、あいつらに復讐を。
だが、吹き出した憎しみを叩き付ける相手に手が届くことはなかった。当たり前だ、ヴィータがメギドラルに渡れる手段なんぞなかったんだから。俺はどうしようもない怒りだけを抱えて生きてきて、いつかの復讐を叶わぬ夢だと自覚して、ゆっくりと心を腐らせていった。何もかも、無意味だ。そう思うようになって、そしてついには、そこから動けなくなった。うずくまって、座り込んで、斜に構えて全てを暗い目で見るようになった。
そして、俺は一つの解を得た。
この世には二種類の奴らがいる。
『勝ち組』と『負け犬』
俺は『負け犬』だった。そう気付いてから、何をするにも無気力になって、堕ちる所まで堕ちていった。
暴力の愉悦も、「個」の誇りもない戦争で小銭を稼いで、それを酒と飯で溶かして、泥のように眠って、目覚めてからいつも律儀に絶望した。昨日と地続きの今日があること、明日も終わらない世界があることの絶望で心が砕けそうになった。
どうせ滅ぶのに、生きなければならない。いや、死ぬことすら出来ないことが何よりも俺を失望させた。誇りも「個」も失っている癖に、生に執着する自分がみっともなかった。生き残って、何をする気なのか俺自身わからなかった。何も遺せやしないのに、それでもまだこの身体は戦争を追い求めていた。かつての俺が望んだような戦場を夢見ていた。せめてそこで朽ち果てていくなら、今よりもマシな終わりと言える。
そんな想いから、俺は傭兵として生きる道を選んだ。だが、そんな戦場はこの世界にはない。それを思い知らされ、俺は本当の意味で『負け犬』に成り下がった。
酒場で酒を飲んで時間を潰して、寝て起きて、たまに吹っ掛けられた喧嘩の相手をして、最悪な気分でまた酒場に足を運んでを繰り返して、憎悪も羨望も心の奥底にしまい込んだ。考えるだけ無駄だ。こんなこと、自分が一番わかってる。でも、もう何かもが受け入れられなかった。戦争がない世界も、馴れ合わなければ生きていけないことも、かつての誇りを失った俺も、全てが嫌になった。
捨て鉢になってからは楽だった。
全てを諦めても「どうせ俺は負け犬だ」と思えば、何もかもがどうでも良くなった。
温度の低いぬるい水の中に浸っているような感覚だ。
緩やかに体温を奪われながら、心が冷めていくのがわかった。ここに居続ければ、きっと二度と元には戻れないということも。それでも、もう苦しみを背負ってまで戦いたいとは思わなかった。
ろくでもないこの世界とどう向き合えば良いのかなんて、考えられなかった。
そんなどん詰まりで、一人の女に出会った。
見るからに弱そうで、貧相な女はいかにも『負け犬』側だった。そのくせ、その目は妙に澄んでいた。すげなくしても何とか追い付こうと走って、その場で何度も荒く呼吸を繰り返す必死さが何となく捨て置けなかった。
その女に出会ったのが、俺の人生の転機だった。
酒場を追い出され、その女の家に通うようになって以来、俺は幾度となく妙な気分を覚えた。ただ話しているだけで不意に笑みが溢れたり、一緒に飯を食ったり茶を飲んでいると、いつもより旨く感じた。他愛のない話をしているだけ、飯は質素で大したものじゃない、それなのにどうしてなのか気分は悪くなかった。
理由もわからず何度もこの女に会いに足を運ぶ自分も、いつもそれを笑って迎え入れるこの女も、わけがわからなかった。
戦争からかけ離れたこの場所に、心地よさを覚えている俺がいた。家に帰れば三日と経たずあの女のことを考えている俺がいた。朝目覚めて絶望していない俺がいた。この世界を少しだけ愛しく思える俺になっていた。
あの女はただのヴィータの女だったが、この女は俺の知る底辺より少しマシな『負け犬』だった。
この女は日々に絶望していなかった。毎日を楽しみながら、慈しみながら生きていて、俺みたいな他人に構う余裕さえあった。いや、余裕じゃなく、ただ誰かと過ごしている時間が楽しいと言うような、そんな表情を浮かべていた。
単調で平淡な毎日を、そんな風にいつも新鮮に楽しめる理由はどこにあったのか、それを知るのは少しあとのことだった。
いつだったか、俺は自分が『負け犬』だと女に語ると、女はいくらか困惑して、そして真っ直ぐにこっちを見て俺に語った。
誰もが弱さを持っていて、それを隠すことで目を背けて生きている。弱さに向き合えることは、強さだと。
そう語った。俺は、少なからず驚いた。そんな風に考えたことなんてなかった。
『弱さは強さ』
自分が今の今まで卑下してきたものを、この女はそれを誰もが持つものだと肯定し、それに向き合うことを、それを知っている俺を強いと言ってくれた。
初めてだった。
誰かに強いと言われたのは。
そして、俺は否定のしようがないほどこの女の考えに惹かれた。どうして、こいつはそんな風に思える。何がこの女を奮い立たせている。問うことは叶わなかったが、ほどなくその答えは俺の目の前に現れた。
女がいつ死ぬともわからない身体だと、重い病を患っていると知った時、俺はこの女の不可解さのほとんど全てが腑に落ちた。
同じことの繰り返しなら、楽しかったと思えるように懸命に生きる。今の時間を死ぬ時に後悔しないように全力で生きる。それが、この女の人生の全てで、矜持だった。何も持たなくとも、笑って逝けるならそれでいい。そう語って、女は俺に告げた。
『ガミジンさんがいてくれるから病なんて怖くない』
その言葉は、俺の存在への最大の賛辞だった。何もせずにただ曖昧に日々を生きて、流れ着いた場所で腐っていただけの俺を、この女は必要としていてくれた。そんな風に思われたことなんかなかった。そして、その言葉で俺は一つの覚悟を決めた。
もう一度だけ、この女のために戦おう。そう決めた。
ヴィータの女の言葉に、こんなにも熱くなっている自分を、俺はどこかで笑っていた。何をマジになってるんだ。俺がどうしようとしなかろうと、ヴィータはいつか死ぬのに、何故目の前のあの女のために、こんなにも必死になるんだろう。
理由は至極簡単だった。こんなにも堕落した俺を見て『強い』と言ってくれた、そうありたかったと諦めたはずのそれを、まだ俺は持っていると、そう言われたことがたまらなく嬉しかった。それに報いたいと思えた。俺の強さを信じていてくれる奴がいる、その為にならもう一度傷付くことも怖くはなかった。
諦めかけたものを、掴むのはまだ間に合うだろうか。そんなことを思いながら、俺は走った。
誰かのために戦うことが、これほどにも力を与えてくれることを、俺は初めて知った。
久々の戦いは骨が折れるばかりで、なんとも楽しめないものだったが、それ以上に得た成果が誇らしかった。これをアイツに届けたら、なんと言うだろう。そう思いながら、俺はあの女の元へ行き、そして、全てが遅すぎたことを知った。
アイツは、もう俺の手の届かない所へと去ってしまった。まだ生活の手触りが残る部屋には、誰もいなかった。火も着いていないそこは妙に寒くて、俺はしばらくそこから立ち上がれなかった。まだ、アイツには何も返せていなかったのに。間に合わなかったことが、どうしようもなく腹立たしかった。
暫くは、アイツの為に得た成果を食い潰しながら、少しずつ戦うようになった。逃げ出すのは、もうごめんだった。せめて、アイツが言うようにこの最低な日々をいつか笑って終われるようにしたいと、そう思うようになった。
そして、アイツが俺の前から去ってから暫く経って、俺はようやく気付いた。
俺はあの女の生き方に憧れを抱いていたことを。変えられない現状から目を背けないで、そこで出来る最善を尽くして、そして最期まで戦い続けること。簡単には出来ないことだ。それでも、アイツのようになりたかった。どうしようもなくへこんで、立ち上がれなくなっている奴に見せてやりたかった、『負け犬』はまだ這い上がることが出来ると。アイツの言葉で、俺は立ち上がれたのだと示してやりたかった。
もうこれは俺だけの生き方ではないと、どこかで理解していた。そして、もう以前のような「個」とは言えないものになったことも。いつの間にか、俺はアイツの色に染まっていて、憧れを追い掛けて、遥か昔に置き去りにしたはずの誇りと復讐をもう一度蘇らせた。
全てが元通りではない。俺は以前の俺でも、かつての一人で戦っていた俺でもなく、こうありたいと自分に誓った俺になっている途中だ。まだ、その変化は終わらない。この先も、何度も負けて勝ってを繰り返して、その度に何かが変わって、今の形に相応しいモノへと変わる。
それがどんなモノになるかは、まだわからない。けれど、アイツに誇れる俺であろうと、強く願う。
世界を色付けてくれたアイツに、いつかまた笑って会えるように。