線引き 男女の友情と、恋人関係の線引きはどこにあるのか。どんな物語も、大人も教えてはくれなかった。どれだけ相手を慈しめばそれが愛なのか、どこまで触れて良いのか、わからなかった。
ただ、彼女の中に生まれたこの感情が、友情ではないことは理解していた。
生まれて初めて、彼女はたった一人に触れる権利が欲しいと願った。
*
その日は、ひどい土砂降りで、小さな川が氾濫するほどに荒れていた。人々は家の中に閉じ籠り、雨が収まるのを待ち続けていた。イルセもまた、降りしきる雨を見詰めながら窓辺に佇み、今日、ここに来る予定の男を心配していた。
この雨では、彼はここに来られないだろう。残念だったが、その反面、彼が寒い思いをしないならそれでいいと思っていた。
イルセがお茶でも淹れようか、と椅子から腰をあげたのとちょうど同じタイミングで、扉を叩く音が聞こえた。こんな天気の日に、いったい誰が。そんな疑問を胸に、彼女が扉を開けると、そこに立っていたのは、待ち望んでいた男だった。
「……よお」
雨で濡れそぼっているせいか、普段よりも顔色が悪く、肩が僅かに震えていた。
「ガミジンさん!どうして、こんな雨の日に来てしまったんですか」
早く中へ、と彼の手を引き、イルセは気付いた。手のひらがひどく冷たい。こんなに冷たくなるまで外を歩いていたのか、そう思うとたまらなかった。
「こっちに向かってる最中に降ってきやがってな……自分の家に引き返すよりテメェの家の方が近かったから寄らせて貰った。悪いな、こんな濡れ鼠でよ」
「そんな……私は、来てくれて嬉しいです。でも、それじゃあ風邪を引いてしまう、お湯を沸かしますから、それまで服を脱いでいてください」
そう言って、イルセは釜戸に火を焚べ、水を張った片手鍋を火にかけた。熱い湯を浸した布で身体を拭けば多少はマシになるはずだ。
背後で重い防具が床に置かれる音がする。その響きに、イルセは不思議な感慨を抱いた。これまで関わってきた人々は皆、農民や商人ばかりだった、そのせいか重い装備を身に付けているものが身支度をする音はどこか不思議な音だと感じたのだ。
不意に、イルセが振り返って彼を見ると、彼は上半身に身に付けていたもの全て取り払い、裸になっていた。彼女に背を向けている彼は、彼女の視線に気付いていないのか、淡々と脱いで桶に置いていた衣服から雨水を絞り出していた。その動作で、濡れた腕や背中が微かに光を照り返す様は、奇妙な色香を放っていた。初めて目にしたその身体に、イルセは思わず顔を赤らめ、目をそらした。意識していなければ、ずっと見ていたくなるような、そんな感じがしていたのだ。
「イルセ、もう沸いてねえか、それ」
彼女の背に向かって、彼がそういう。彼が言うとおり、鍋からは湯気がたち、ぼこぼこと沸き立つ音が聞こえていた。
「沸いてましたね、すぐにそっちに持っていきます」
イルセがそう言うと、彼女の背後からスッと腕が延び、鍋の持ち手を取った。触れていないはずなのに、すぐそばに立っている彼の体温を感じて、イルセは右肩が熱くなったような感覚を覚えた。
「このくらいは自分でやるからいい、薪も使わせて悪かったな」
少し掠れた声がすぐそこから聞こえた。イルセは小さく首を左右に揺らし、彼を振り返った。
ガミジンの身体は、衣服の上からではわからなかったが、よく引き締まった身体つきをしていた。肩回りや胸が発達していて、しかし腰の辺りは細く、鍛え上げられている傭兵たちのそれと同じような戦うための身体だ。
見上げると、雨に濡れて少し青ざめた彼の顔と目が合う。髪も雨で濡れてへたり、首に水滴が滴っていた。イルセは、何かいけないものを見てしまったような気持ちに襲われて、彼から離れた。
彼は気を悪くしたような様子もなく、少し遅れて合点がいったように言った。
「…悪い。裸の男が近くに居たら流石に驚くか」
「いえ、その……男の人の裸は初めて見たので、ビックリしちゃって」
「……悪い」
彼はそう言うと、イルセに背を向けて身体を拭き始めた。
*
「止まねえもんだな」
「そうですねえ……」
いつものように茶を飲みながら、二人は雨を眺めていた。けれど、普段よりも二人は少し距離を置いて座っていた。裸を見た方と見られた方ではどこか気まずい気がしたのだ。
そんな二人の気も知らず、雨はまだ降り続けていた。せめて小雨になれば帰れるが、土砂降りの中を突っ切るのは難しい。
「……雨が上がらなかったら、どうしますか」
「……暗くなる前に帰る、長居はしねえよ」
「えっと、そうじゃなくて……雨がひどければ、一晩くらい泊まっていってくださっても大丈夫ですよ。部屋もありますし」
「いや、いい。テメェにそこまで気を遣わせるのは悪い」
彼はイルセを見もせず、そう言う。時折、イルセが彼を引き留めようとしたり、泊まることを勧めたりすると、彼はこうして断り、帰ると言い出す。そこが、彼の線引きなのだとイルセは理解していた。それを越えるのは、今ではない、否、あるいは越える日は来ないのかもしれない。
イルセはこちらを見ない彼の横顔を見詰めた。彼は優しい。けれども、その優しさに少しだけ傷つくことが増えた。いつからか覚えていないけれど、彼が不変であることを切なく感じていた。いつも、他愛のない会話を交わし、茶を飲み、夜になる前に帰っていく。いつもその繰り返しだ。けれど、その『いつも』はいったいいつまで続くのだろう。この日々が永遠でないことがわかるからこそ、イルセにはこの日常が切ないものに感じられていた。
彼にとって、この日常はどんなものなのだろう。
問い質すことは出来ない、けれど、彼の心を知りたかった。例え、今の関係に戻ることが出来なくても、その線引きを越えて何かを変えたかった。
「……雨、上がったな」
ガミジンがそう呟いた。イルセも、その言葉につられて空を見る。先程までの土砂降りとは打って変わり、大地に太陽の光が射していた。
「また降ってきちゃ世話ねえからな、そろそろ帰るぜ」
そう言って、彼は身支度を始めた。ようやく乾いた防具を身に付ける。そして、イルセを振り返って、少しだけ笑って見せた。
「……またな」
「……はい、気を付けてください」
扉を開け、出ていく彼の背中を見送り、イルセは小さな小さなため息を溢した。
今日も、線は越えられなかった。明日も、その先も、ずっとこのままなのだろうか。それは、きっと幸せなことなのだろう。けれど、それでも、彼女はその一線に寂しさを覚えた。
いつか、その線の先に彼が踏み込んでくれないか、そう願ってしまった。