黎明 長い長い夜が明ける。
脆弱な月明かりも星の光も飲み込んで、赤く燃える生まれたばかりの今日が始まる。
こんな朝を受け入れられるようになったのは、いつからだったか。
ガミジンは山の稜線から溢れる陽光に目を細め、まだ肌寒い朝の空気で肺を満たしてそこに佇んでいた。
道端の薄汚れた雪と、それを掻き分けて芽吹く緑が真新しい。もうじき春だ。
彼が嫌いな春、数年前から受け入れがたくなった春、生命の息吹に満ちた春。
誰も彼もがフォトンの恩恵を受け、その生を謳歌し、言祝ぐこの季節が疎ましい。
春は未来を生きる者への恵みだ。
ガミジンはそんなに長くこの世界と共に生きるつもりはない。もっと早く、なるべくすぐにでもこの身が朽ちてしまえばいい、そう思いながら生きていた彼には、春はどこか後ろめたいものだった。
因果なもので、ヴィータとしての彼はこの季節に生まれ落ちた。生を呪う彼への罰か、当て付けのような巡り合わせが憎かった。けれど、その生まれを喜ぶ者がいた事で彼の想いは変容した。
暖かくなっていく季節に生まれたから、あなたは優しいのでしょうね。
そう言われた時、彼はそう言った女を鼻で笑った。生まれた時期と人格にどのような相関があると言うのか、ましてや自分のような負け犬根性が染み着いた男がそんなおめでたい人格を持っていると思うのか。彼の氷のような冷たい言葉に、女は少し困ったような顔をしたが決してその言葉を撤回はしなかった。
ガミジンは、その女の方がよほど春のようだと思った。
日向を思わせるやわらかな声音。
花が咲いたような瑞々しい笑顔。
纏う空気は春風のような温かさがあった。
日陰者の自分にさえ平等に恵みをもたらすような温もりが、嫌いな季節とよくよく似ていて、ガミジンは戸惑いを覚えた。
その生命の終わりさえ、目を離せばすぐに散ってしまう春の花を思わせた。
与えるだけ与えておきながら、その身はすぐに散って大地に還り、再びこの世に春が巡るまで会うことが叶わない、花のような女。
疎ましいはずの春を、恋しく思わせた女だ。
花のように消え去った女を想い、ガミジンは冬を愛した。
誰にも優しい季節よりも、すべてを拒絶する冷たさに安堵した。優しくされるよりも、疎まれていたかった。温もりを知ってそれを失うのはあまりにも切なかったのだ。
吐息さえ凍てつくような厳寒の冬に、彼は幾度となく死の気配を覚えた。
ようやく、終われる。
そう思う度に、彼を引き留めたのは春の気配だった。
あと少し生き延びれば、またあの季節に巡り会える。そう思えば、重く鈍くなった四肢を振るう力がどこからか沸き上がった、朽ちかけた心に炎が灯った。
これきりで諦めようとした生命をまだ終わらせられなくなった。
強烈に死に惹き付けられるのはあの女のせいだと言うのに、死に身を委ねられない理由もまたあの女を忘れられないせいだ。
死に魅せられ、生に縛り付けられる二律背反が彼を苛む。
元より苦痛だったこの生は、たった一人の女によって更なる苦痛と、それすら霞むような希望を得た。それを彼女は知ることはない。
堕落し、腐りきったこの魂は希望を得て再起し、明けぬ夜の中にいるような暗い失意は失せた。だが、褪せることのない痛みが刻まれた。その痛みに救われ、生きる意思をもたらされたことさえ失って気づいた。彼は遅すぎたことを悔やみ、悔やみきれぬ想いを背負っていた。
その想いごと生きていくことを誓って、光が差した道を歩み始めた。その道を振り返れば、そこに彼女と共にあった証が生まれていた。彼はそこに生き甲斐を見出だした。
自分が生きている限り、彼女は消えない。彼女の遺志を受け継ぐ限り、自分の中に彼女はあり続ける。
それが希望だった。
祈るように彼女を想い、慈しむように彼女の心を辿り、彼女の面影を日々に宿した。そうすれば、彼女に寄り添っていられるような気がした。一人ではないと思えた。
生きることを一度諦めた男を立ち上がらせ、その命が尽きてなお、その存在が生き甲斐となっていることなど、彼女は思いもしないのだろう。彼はそれで良いと思った。
荷が重すぎる期待や感情は、彼女には照れ臭くて向けられない。
せめて、共にあった頃のような他愛ない喜びを、いつか思出話になるような下らない事を彼女に伝えたい、彼はそう思った。
例え二度とあの目を見詰められなくとも、その魂に還っていく何かがあるように。
いつの日か、彼が彼女との他愛ない日々に救われたように、彼女の魂が彼の他愛ない言葉に慰められるように。
やわらかな風が吹き抜け、生まれたばかりの太陽が大地を照らす。暖かな光の中、ガミジンはかつて自分の心を照らした彼女の姿を脳裏に浮かべた。
春の日差しのような、あの優しげな笑みに凍り付いた心を溶かされたことを忘れはしない。
歳を重ねる度、春が訪れる度に、彼は一人の女に想いを馳せ、またもう少し先を生きる希望を得た。
彼の人生の長い夜は、とうに明けていたのだ。