過去ログ11レッドグレイブの路上には未だに瓦礫が転がり、とても復興が進んでいるとは思えない有様だった。
流石に枯れたクリフォトの根は撤去されたようだが所々に白い根の残滓が風に吹かれて転がる。最初こそそれらを拾ってはご自慢の腕で握りつぶしていたがそれにも限りがある。忌々しそうに転がる死んだ根の残骸を睨みつければ短い銀髪を掻き上げた。その指に感じた毛先はパサつき埃っぽい。
「ああクソっ……!やってらんねえよ」
ここ最近は晴天が続いているおかげで非常に埃っぽく風も乾いている。
髪がパサつくのもそのせいだろう。巻き上げられた塵で喉がイガイガと乾くのもまたネロの苛立ちを誘った。
分厚い靴底で根の残骸を踏み潰したが気が晴れることはない。そもそもこの街はネロにとっていい思い出はない。らしくもないが、一度のみならず二度も味わった敗北の味がジワジワと喉元に苦く込み上げてくるのだ。
視界で得た情報が記憶となって蘇る。こんな不快を感じたのは生きていてたった一度だけ。
それは何年も前に遡る。突如、教皇の登壇中に現れたダンテに全く歯が立たなかった日のこと。
今でこそ当時の自分の実力のなさを認めることはできたがレッドグレイブでの一件はまだまだ日が浅い。到底、あの敗北の味を飲み込みきることはできなかった。
最終的にはダンテとバージルの間に入り、勝利を収めることができてもその記憶は刺さったトゲのようにいつまでも残る。だが、その不快感はきっと敗北という苦い経験だけが原因ではないのだろう。
不愉快そうに顔を歪めながら舌打ちをすると、シワが刻まれた眉間を揉んだ。
その腕は間違いなく人間のものだ。肌は白いが、引き締まったたくましい腕に五本の指。その指には無骨な爪が均等に並んでいる。どう見ても人間の腕だ。しかし、ついこの間までは無かったものでもある。
宿って、奪われて、戻ってきた右腕。経緯こそ稀有なものだったが間違いなくこの腕はネロのものだ。
そして、振りかぶって右腕を突き出せば、遥かに遠くに見える街灯を指が捉えた。
「ったく、……どうなってんだかな」
人間の腕の姿でもデビルブリンガーの能力は失ってはいなかった。
生身の腕でもクソッタレな悪魔を叩き潰し、引きちぎり、投げ飛ばすこともできる。その原理とやらはネロ自身も予想にもできないかったしそれを知ろうとも思えない。ダンテにでも聞けば何かしら掴めるのかも知れないが、肝心のダンテは魔界に留まっている。
レッドグレイブの件から何週間も経ったが……ダンテが死んでいるとはまず思えなかった。それどころか、金に悩まずに済むことに気が付いたら戻ってこないんじゃねえかとピザを摘みがてらトリッシュらに零す程だった。
もちろん、ネロ自身ダンテに帰ってきてほしいとは願っている。
だが、ダンテが一人で帰ってきたとすればバージルは死んだのだろう。
二人で仲良く帰ってきたのであれば……どんな顔で接したらいいのかサッパリだった。
まだまだ気持ちの整理がついていない現状では帰ってこなくていいとさえ思っていた。
叔父に位置するダンテに然り、父親であるバージルに然りだ。
「じゃあ、少し行ってくるよ。どんなに遅くなっても今日の夜までには帰ってくる」
キリエにそんな言葉を残してフォルトゥナを後にしたのは今日の明け方のことだった。
子供達はまだ全員眠っており、とても静かな朝焼けが孤児院の玄関を照らしていた。
何故突然レッドグレイブへ?とキリエも聞きこそはした。
だが、ネロに明確な理由はなかった。復興の具合が気になるといえば気にはなった。だが目的は違うところにある。
ネロが足を向かわせたいと願ったのはレッドグレイブの市街から外れた、一軒建ての家だ。幸福な家庭が築かれていることは想像できるような家。
幼いダンテとバージルが母と共に暮らしていた家だった。
だが、どうしてそこへ向かいたいのか説明などできなかった。
不安そうなキリエのために説明をしたいのに、全く説明できるような理由が浮かばない。
なんとも歯切れの悪い様子で言葉を探したが、その様子をしばし伺っていたキリエはネロの胸にトンと小さな手のひらを置いた。
キリエの温もりは常にネロの心を満たしてくれた。そして今日も。
「大丈夫よ。貴方がいつも正しいって、私は分かっているから」
ネロが欲しい言葉は、彼女は常に与えてくれた。
一つ一つの言葉は間違いなくネロの心へと深く染み込み、人間性を繋ぎ止めてくれていた。しかしキリエの優しさと温かさは時に衝動も呼ぶ。
「その……、キリエ。……ハグしても? あー……、ああ、いやなら勿論断ってくれ」
彼女を抱きしめたいという衝動は年頃の男にしては大人しいものだろう。
しかしネロにとってこんな衝動は激しい嵐に相応しい。
何とも気恥ずかしい気持ちで視線が揺れ動いた。もし、教皇を打ち倒したときほどに髪が長ければ、慌ただしい視線の動きを隠すこともできただろうがそれはできない。
ほんのりと赤みが差した頰を隠すように天井を仰いたが、彼女のクスッと控えめな笑みが誤魔化せていないことを物語っていた。
「ネロ。いらっしゃい」
視線をキリエへと下げれば、嬉しそうに微笑む表情が見えた。
少しばかり頬は朱が差していたがそれを指摘できない程にネロの顔も赤く火照っていた。
大きく左右に開かれた細い腕の中に、おずおずと引き締まった肉体を寄せれば存外強い力で抱きしめられた。
優しい抱擁に、レッドグレイブで傷ついた未だ癒えぬ心身が癒される。このままレッドグレイブに向かわずに身を委ねていたいと思えるほどに温かな抱擁に、かすかに吐息を零した。
もしも右腕がいまだに悪魔のものだったら彼女を抱き返すような真似はきっとできなかった筈だ。しかし、今はそれを恐れることはない。
ぎこちない動作ではあるがネロの両腕が細いキリエの背中に回される。
不器用な抱擁だったがキリエはそれでも嬉しそうだった。
「貴方が帰ってくる場所はここにあるわ。 だから、いってらっしゃい。ネロ」
子供達が起きたら大騒ぎになっちゃうわと付け加えるのは、後ろ髪を引かれるネロの背中を押すためだろう。
その優しさに甘えてそっと腕を緩めて体を離した。
「キリエの為にも早く帰らねえとな……」
今朝に抱きしめた温もりはとうに肌から抜けている。だがその柔らかな温もりをしっかりと覚えていた。優しい温度は骨に染みて、思い出すだけで胸の内が春風のように優しく包まれる。彼女を思うだけでひどく穏やかな気持ちになれた。その表情もかすかに緩んでいたことだろう。
夜までには帰るという約束を果たす為に足早に市街を抜けた先に、目的の場所が見えた。
地面が崩れ傾斜があり、市街からは離れている。暮らすには相当な不便を強いられるだろう立地のその場所は元なのか、それともクリフォトの根で地面が崩れてこんなことになっているのかネロには見当もつかなかった。
ただ分かるのは、この家に確かにダンテとバージルが暮らしていたということだ。
そして、この家で起きたことが二人の運命を別かってしまったことも。
だが、目的の家の前に立ってもネロには何故ここへ来たかったのか分からなかった。
まさか、ダンテが居なくなった寂しさからなんてセンチメンタルな理由なんてことはないだろうが、そうだとてもなければ理由が全く思いつかなかった。
切り開かれた庭の先にあるその家に扉は無かった。
Vが過去に悪魔に襲われた場所だと語っていた。それを物語るように凄惨な状況だった。
玄関の扉があっただろう壁は崩れ、天井も抜け落ちている。屋根に積まれていた煉瓦まで無残に転がっていた。
この状態で長年放置されていたのだろう。中に足を踏み入れれば雨や風に晒されてカビ臭い香りまでがした。
しかし、悲惨な家の中に確かに幸福だっただろう気配だけが残っている。その証拠が壁に飾られた家族の肖像画だった。
「ダンテと……バージル。それと母親とスパーダ、か」
元々は丁寧に筆を置かれて描かれたのだろうその肖像画はほとんど剥がれて劣化している。油絵の具はひび割れ、その上に塗られていたニスは殆ど溶けて流れてしまっているようだ。そのせいで全員の顔を知ることはできなかった。
唯一分かるのは、母親の手のひらがダンテとバージル、二人の肩に優しく手が置かれていることくらいだ。
しかし、こうして崩れた肖像画を見ても何もピンとこなかった。
むしろ見れば見るほどに疑念が湧き出てきた。この肖像画に描かれた家族の末裔が自分なのかと。
狐にでも摘まれたような気分だった。夢の中を彷徨っているように現実味が薄く、何もかもネロの理解が及ばないような気がした。
「何、してんだろうな……。俺」
ここへ来た意味を探して部屋の中を歩き回ったり、一室一室覗いてみたりはしたもののついにはやることは失せた。
家族写真の一枚でもあればと思ったが、あまり写真を撮らない家族だったのか一枚も見つけることはできなかった。せいぜい見つけたのは一冊の本だけだ。
おおよそ、幼いバージルのものだったのだろう。表紙に大きく「V」と書かれている。
そこにバージルの中に確かにいた「V」を感じることができたが、ただそれだけだ。
叔父と父親がかつて住んでいた家に行ってきました。それで父親の読んでいた本を見つけました。なんて帰ってからニコに話したりすれば、パパとお別れしておセンチかよ!と突っ込まれるのは想像に容易い。
だが、そうなる予感をひしひしと感じていた。
そんな不穏な予感に急かされるように、肖像画のある壁に凭れ掛かりながらページをめくった。
「……趣味じゃねえ」
そこに書かれているのはやはり詩だった。とてもネロの趣味嗜好とは真逆に位置する内容のものだった。
神を綴ったもの、生まれたばかりの子供の視点から綴られたもの、一ページ目からぶん投げてしまいそうな衝動を抑えながら、時折苦痛を感じているかのように呻き声を漏らしながらも、書かれた文字を指でなぞりながら読み進めた。
「ちりぢりにもつれた……枝のようにエメットは悲しげに叫んでいた……」
「子供達よ、答えておくれ。お父さんの嘆きを聞いておくれ」
辿々しく読み上げるネロの声に続いて、詩が紡がれた。
気だるそうなのに流暢な声は聞き覚えがある。
カツンカツンと鳴る杖の神経質な音にもだ。
「身を乗り出し道を探し、お父さんの元に戻っておくれ」
その声はほんの暗がりから響き、姿を現した。
黒い髪の毛に、どうやって生きているのか分からないほど痩せ細った体。虚弱な印象を与える猫背に青ざめた肌。何より目立つのは顔を除く全身に刻まれた夥しいタトゥーだ。
「V ……。消えたんじゃなかったのかよ」
ネロの言葉に対してVの反応は薄い。
咎めるような視線の中にはありありと困惑が滲んでいたが、その視線に答える気はVには無さそうだった。
「“無垢の歌”だ」
Vの意識の在りどころはやはり本だった。
あまりの突然の出来事に翻弄され、無垢の歌?と鸚鵡返しに聞き返したネロの様子を鼻で笑うと、Vは杖の先でネロの手元の本を指した。
その本のタイトルだと指し示す。
「お前は少し教養をつけたほうがいいな」
「……うるせえよ、クソポエム野郎」
ウィリアム・ブレイクは絵画も描いているとずれた返答をするものの、その姿は実在しているのだろう。少なくとも、ネロの知り得ないウィリアム・ブレイクの知識を披露するあたりがそれを物語っている。
ユリゼンを殺してその身も滅んで、バージルに戻った筈だった男はそこに佇みネロの持つ本へと視線を落としていた。
「よおよお、ネロちゃんよぉ。元気にしてたかぁー?俺たちがいなくて寂しかったんじゃあねえのぉ?」
Vの腕に刻まれていたタトゥーが溶け、中空に浮かび上がったタトゥーは物質となってVの肩に現れた。その馴れ馴れしい挑発的な態度は疑うまでもなくグリフォンだ。猛禽類らしい羽音を立てながらネロの目前に浮かび上がった。
「なあ、おい!聞いてんのかぁ!?」
困惑しきっているネロを嘲笑うように顔を覗き込むグリフォンの首をネロの右腕が掴んだ。
グエッと苦しげな悲鳴を上げたが、ネロの指に触れたそれはやはり幻なんかではない。しっとりとした羽の感触も、厚い羽の層の下にある筋肉の痙攣も確かに感じられた。
「なんでお前らがまだいるんだよ?またクソ親父が何かしでかしたってのか?」
問い詰める勢いに任せて指に込められる力も込められる。
ギブギブ!と叫ぶグリフォンを無視してVへと問いかければ、やっと彼との視線が噛み合った。
「安心しろ。俺たちはただの残滓だ」
「残滓だと?」
徐にVが杖の先を振るう。指揮者のような動きと同時にネロの指の中にいたグリフォンが黒い霧となって抜け出した。その次の瞬間にはVの肩に止まっている。どうやらVにはまだ従者を従える力は残っているらしいことが伺えた。
「あー、そうだよ!バージルのVとしての残留思念っつー方が分かりやすいかもな」
ぜえぜえと息を乱しながらグリフォンが言葉を添えた。
これ以上やられたら死んじまう!とオーバーに声を荒げる様子にも関わらずVは我関せずといった様子で言葉を続けた。
「そう遠くないうちに俺たちもまた消える。一人残らず煤けた棺に閉じ込められるようにな」
「じゃあ煙突掃除の仕事を探してやるよ!」
これもまたウィリアム・ブレイクの引用だ。引用には引用で返す。
先ほど読んだばかりの詩の内容の記憶は新しく、ネロの返答にもキレが戻って来た。
その返事は予想していなかったのか、Vの暗い色の瞳に好奇の色が宿った。
どことなく嬉しそうな様子のVに苛立ちを募らせながら、ようやく立ち上がって埃を払った。ほんのりカビ臭く湿ってしまった上着も右手で払う。
「その右腕はどうした」
絶妙なタイミングで口を開かれればどうにもネロのペースが乱される。
肉体が滅び始め、弱っているときはまだ扱いやすいところはあったが、元々Vはこういう男だった。
無口で何を考えているか掴みにくい男。口を開けばウィリアム・ブレイクのポエムが飛び出す。これがあの父親の一部であるとはにわかには信じ難いものだ。あー、もう!と髪を掻きむしればそんなネロの様子に嬉しそうにグリフォンがウヒャヒャと笑う。
「生えたんだよ。なんか知らねえけど」
見せびらかすように右腕を顔の前に上げて見せた。
肘から捥がれた腕はかつてのように感覚もしっかりと取り戻している。
そんなネロの右腕を見たグリフォンがキモッと心底不気味そうに叫べば、興味津々と言った様子でその腕に止まった。猛禽類らしい鋭い爪が肌に食い込んだが、この程度の痛みはバージルにもぎ取られたときに比べれば屁でもない。しかし、勝手に人の右腕に止まるというグリフォンの不躾さが無性に腹が立ち、右腕を大きく振りかぶった。
不意打ちに驚いたグリフォンがバランスを崩しながらまた宙に羽ばたくのを見れば少しは溜飲が下がる。
「何故、ここへ?」
何故またレッドグレイブへと戻って来たのか。そう問いかけるVの口調は抑揚はない。その声は慣れたものだった。だからこそ、その声がネロの真意が分からないと訴える響きを聞き取ることができた。
「Vちゃんさあ、そこは察してやろーぜ? パパが消えて叔父も消えたネロちゃんの気持ちを考えりゃあ分かるだろーよ?」
Vが無表情に杖のグリップでグリフォンの顎を打ちつけた。
嘴に杖が叩きつけられる、その音の鋭さにVの多少なりの苛立ちを感じることができる。どうやら理由はきちんとネロの口から伺いたいということらしい。
面倒臭い奴なのは肉体が消えても未だ健在ということかと、呆れたようなため息が漏れた。
「理由なんかねえよ。ただ気が向いただけだ」
改めて口に出してしまえば何ともはっきりしない理由だった。
面倒なことは好まないネロはもういいだろうと無垢の歌とタイトルが刻まれた本をVへと突き出した。面倒な押し問答を振り切るかのように勢いづいて突き出された本はVの胸を叩く。
「……悪い」
たたらを踏み、一歩後ずさったVを見れば謝罪の言葉が思わず口に出た。
虚弱なのもそのままらしい。
そんなふらふらと頼りなさげな足取りとは対比的にVの瞳はまっすぐとネロの瞳を覗き込んだ。
Vの深い闇色の瞳にはほとんど光は差さない。ひどく静かで真剣な視線にネロさえも思わず息を呑む。
「……俺がバージルだった頃、そんな風に誰かに謝罪などしたことはなかった」
ネロが相槌を打つ前に、Vが口を開く。
「力こそが正しいと思っていた。そう有るためにも、俺は力だけを貪欲に求めていた。だが、最後には……弟に勝ちたいという欲望しか残らなかった」
その声はやはり抑揚はない。言葉をただ読み上げているかのように無感情な言葉の中に、Vの苛立ちを感じていた。何に腹を立てているのかはおおよそ予想がつく。だからこそネロはその言葉に気の利いた言葉を投げかけることはできない。
カツンと杖が硬質な音を立ててVの視線が宙へと揺れ動く。
その視線は肖像画へと移った。
「俺は何も正しくはなかった」
肖像画の中に描かれているバージルを見つめているのだろう。その視線には侮蔑が混じり、自嘲的な笑みが口元に刻まれる。
グリフォンでさえもその言葉の前に嘴を噤んだ。それどころか羽ばたきの音を立てるのも控え、古びたクローゼットの上に足をつき静寂を守った。
「お前に謝るべきなんだろうな」
「……謝ってほしいことなんかねえよ。お前はやるべきことは成しただろ」
「いいや、一つだけある」
水を打ったような静けさの中に響く声は穏やかだった。
「父親らしいことをしてやれなくてすまなかった」
その言葉にどう返答をすべきかネロには分からない。
ただただ混乱していた。まさかVの口からこんな言葉を紡がれるとは思ってもいなかった。それだけに一気に混乱状態に陥ったネロは呆然とそのまま棒立ちになってVを見つめていた。
だが、そんな混乱状態も過ぎれば反骨精神もすぐに蘇る。
ふてぶてしそうに口元を歪めれば鼻でVの謝罪を一笑にした。
「バージルに育てられてりゃあ、一生ダンテにまともに敵わなかっただろうから気にすんなよ。むしろ感謝させてもらおうか」
ありがたいありがたいと大袈裟な身振り手振りでお辞儀をすれば、ナメてんのかこのガキ!と怒りを剥き出しに食いついて来たのはグリフォンだった。
口も態度もナメくさったところはあるがVに仕えているだけあって他人の嘲りは許せないのだろうか。意外と義理人情があると感心していれば、Vにしては珍しくクツクツと喉を鳴らして笑っていた。
なおもネロに噛みつこうとするグリフォンを杖で制止する。
「じゃあ礼の一つでもして貰うとするか」
円を描くように杖を振り回して切っ先を持ち直し、グリップでネロの肩をトントンとノックした。その動きはどこか気さくなものを感じさせた。
「なあ、ネロ。一度抱きしめさせてくれないか」
「……はあ?」
素っ頓狂な声を上げるのは無理もない。
最初からVには振り回されているがここまでするか?と疑念がネロの困惑を呼んだ。しかしそのVの申し立てに一番混乱を訴えたのもまたグリフォンだった。
「おい……Vちゃんどうしたの?流石の俺でもVちゃんの考えてること分かんねえよ……。つーか、ネロお前言ってやれよ。V、頭大丈夫かってな」
やはり鳥は鳥だ。感心できるほどの義理人情は持ち合わせていないのかもしれない。
だが、それを突っ込む気は無い。むしろ同意を示したいくらいだった。
「俺には父性というものが分からない。それは今も変わらない。だから、どんなものかを知ってみたいんだ。完全に俺が消える前に」
「……ずりぃだろ。その言い分は」
ネロの性根の優しさを知ってかしらずか、Vの選んだ言葉はネロの良心によく響いた。
Vは放っておいても消えてしまう。その今際の願いを拒絶するほどネロは冷徹ではなかった。少なくとも、腐っても父親に残された僅かな良心だ。
「そもそもハグのやり方知ってんのか?」
「やったことがないから試すまでは分からないな」
オイオイと呆れたように肩を落としたが、今更なしという訳にもいかない。
ネロが腕を左右に広げれば、何ともぎこちない動きでVも真似るように腕を大きく広げた。暫し、腕を広げた状態で互いに睨み合っていたが一歩を踏み出したのはVだった。
タトゥーの刻まれた細い腕がネロの背中に回される。その腕の体温はひどく低い。栄養失調に苛まれたようにVの体温はひどく冷たかった。そして痩せ細った体は固く、肋骨がネロの胸部に当たる。まるで腕の生えた岩に抱きしめられるかのようだった。
抱擁というよりも、知識を頼りに抱擁を真似ているといった表現がふさわしいだろう。ぎこちなくネロの背中へと回された指が強張りながら摩る。
ネロからしてみれば非常に居心地の悪い抱擁だった。
だが、こうして父親に抱きしめられるのは初めてのことだ。その実感は希薄だが、その抱擁を受け入れるようにVの肩甲骨の浮く背中へと腕を回した。
やはりその肌は冷たく、骨が浮いた体は固く、あまりにも貧相だった。
しかし薄い体の中で心臓が脈を打っているのだけは感じることができた。上下する胸も、緊張で強張って軋む背骨も、全てがVの存在を証明していた。
とても残留思念とは思えない。
「で、どうなんだよ?父性ってもんは芽生えたか?」
ヒューヒュー!お熱いねえ!と煽りながら二人の頭上を飛び回るグリフォンを睨めつけながらネロが問う。
「……さっぱり分からん。だが、……悪くはない」
ネロにとっては全くいいところがない抱擁だったが、Vにはそうではなかったようだ。元々このハグを申し出たのはVだ。その彼が悪くないというのであれば、それでいいだろう。
ブルーローズを引き抜いて煽り続けているグリフォンの頭を狙って撃った。
が、寸でのところでVがグリフォンを呼び戻した為に二発の弾丸は鳥頭を砕くことはできなかった。
抱きしめたときと同じように油が切れた機械のように腕がネロから離れていく。
父性とやらは理解できなかったと語っていたが、その表情は見たことがないくらい晴れやかなものだった。
「ありがとう、ネロ」
「お礼も言えるになってよかったな」
どっちが父親か分からなくなってきたがVは満足を得た様子だ。
しかしそんなネロを裏切るようにVが不意に杖で玄関を指した。
もう行けということなのか。
「息子をやり捨てる気か?」
流石に苛立った口調でVへと問い詰めれば、Vが左右に首を振った。目を凝らせば痩けた頰にかすかな亀裂が見える。
その亀裂は見覚えがある。Vが滅ぶ前兆だ。まだその亀裂は薄いがすぐにでも亀裂は深くなりVの体を砕いてしまう。Vの肩に止まったグリフォンにも同じ亀裂は伺えないが、魔力らしい靄が立ち上り始めていた。
「俺が死ぬ瞬間を見せる気はない。だから行け」
Vが消える瞬間を一度は見た。
最後の力を振り絞りユリゼンを杖で貫いたあのときのこと。
その瞬間、ネロは確かな喪失感を抱いた。その喪失感を二回味わうことになるかもしれない状況を前に、Vの表情は穏やかなものに満ちていた。
その表情こそVに宿った父性だろう。
そして父親が死ぬ瞬間を息子に見せたくないという。
「ああ……、分かったよ。クソ親父」
ふっと緩んだ笑みがネロの顔にも浮かんだ。
その笑みに応えるようにVが軽く手を上げた。その手には無垢の歌が収まっている。
「ニコにも世話になったと伝えてくれ」
「あー、あとあと!キリエちゃんにもドラ息子をよろしくってな!」
実に珍しく勝ち誇ったような笑みをVは浮かべていた。
ネロはキリエのことをVとグリフォンに話した記憶はない。
Vにキリエの存在を吹き込んだのは間違いなくニコだろう。なかなか仲が発展しない二人のことを楽しげに吹き込んだだろうことは何となく想像ができた。
クソっと吐き捨てるとVに倣って右手を上げた。
「じゃあな」
レッドグレイブは晴天だった。晴れた道は帰路に困ることもなく、辿って来た道を戻っていく。その道中にけたたましくベルを鳴らす公衆電話を見つけた。
ここに来ているのを知っているのはキリエだけだ。
いい加減、日が地平線へ傾こうとしている。急いでも家に着くのは深夜になるだろう。
本当に今日中に帰ってこれるのか心配したキリエからの連絡であることは想像に難くない。電話ボックスに身を滑り込ませると受話器を取った。
「ネロ?」
聞き慣れた優しい声が聞こえた。予想通り電話の主はキリエだった。
「ああ、すまない。戻るのはもう少し遅くなりそうだよ。だから先に眠っててくれ。大丈夫。起こさないように帰るから」
彼女と話している間だけネロは穏やかな口調になれたものだった。その理由はきっと彼女の人間性がネロをそうさせているのだろう。
「起きて待ってるわ。だってネロ、夕飯の温め方を知らないでしょう?」
「……そういえば、そうだったな。だけど無理はしないでくれ」
待っていてくれる誰かがいる。帰る場所がある安心感に満たされるのは、父親が帰る場所がなかったのを知ったからだろうか。
「そろそろ切るよ。これ以上遅くならないよう、急いで帰る」
電話ボックスに差し込む夕暮れの橙色は妙にネロの心を掻き乱す。
だが、その乱れも何れかに忘れてしまうのだろう。
家で待っているキリエの顔を見たときか。ダンテが戻って来たときか。再びバージルと顔を合わせるかしたときには。