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    pixivにアップしてたの引っ込めたのでこちらに

    #Bloodborne

    過去ログ21血を吸って湿った砂塵が靴底でじゃりじゃりと鳴る。乾いた空気はひどく冷え、気が緩めば足が竦んでしまいそうだった。見慣れたヤーナムの街はひしゃげて歪み、整地された道は木の根のようにねじれて小山のように盛り上がっている。岩場を登るように、ときには這うように進んでも見えてくるのは見慣れた筈の聖堂街だ。
    そこに人の影はあった。しかし正気を失い、生ける屍のように血を求めて彷徨う狩人がいるだけだ。かつては自分と同じように狩人だったであろう獣を狩り、肉を裂いて浴びる血に喜びを見出していた。妙に明るい街並みを見渡し、霞む瞳を手で拭う。

    罹患者の症状の一つである、蕩けて崩れた瞳孔のような太陽が不気味に明るい。なんの温かみのない光が崩れたヤーナムを照らしていた。がり、と硬質な地面を爪でかく。腕の力で這い上がれば見えたのは異様な風景だった。ほとんどの道も家も崩れ切ってしまっているのに聖堂街だけはそのままの姿を保っているのだ。また、がりと音を立てて岩のように凹凸が目立つ地面に爪を立てる。見れば爪を立てた場所には深い爪痕が残されていた。背中の産毛が逆立つような不安を感じてルドウイークは装束の手袋を外した。手袋の下には割れた爪が並んでいた。割れた爪の間からは血が滲んでいる。それなのにもはや痛みらしいものさえ感じることもなかった。ルドウイークはここ数ヶ月前から痛みを感じることも少なくなっていた。痛みどころか肉体で感じ得る感覚全てが鈍くなり、体を薄い膜が包んでいるように現実味が薄くなっていた。
    そんな中、狩りだけがルドウイークを現実に引き戻してくれる。身体中に熱い血が漲り、高揚感と快楽を感じて生を実感することができた。そして、狩りの中に身を置くときのみだけ、神秘的な青い月明かりだけが孤独を癒してくれたのだ。
    小さくうめき剣を抜く。どこかで磯の鉄臭い香りがした。
    大聖堂へ続く道を阻む狩人を斬り伏せ、銃弾を放つ。彼らが自分と同じく迷い込んでしまっただろう狩人であることは理解できる。だが理性よりも本能が勝るのを止める術はなかった。血に酔った狩人の懐に入り、鳩尾に長剣を突き立てる。噴き出た血の匂いに、先ほど感じた磯の香りはかき消されてしまったようだ。
    剣に突き刺さり血反吐を吐く狩人が、死への恐怖か刃を抱くように両手で掴む。それを振り払って切り捨てた瞬間、ぞっとした。いつから自分はこうも他者の痛みに無慈悲になってしまったのかという怖気だ。
    狩人として冷徹になるべき場面は弁えているつもりだった。しかし、今はどうだ。地面に倒れ込んだ狩人は痙攣を繰り返し、言葉なき断末魔をあげている。彼がまだ獣でなければ戦う手段を奪い、無力化させることもできた筈だった。英雄と呼ばれるほどの男であれば。

    「あ……あ、すまない……」

    右手の指が切り落とされ、上半身を縦に切り裂かれた狩人の傍に膝をつき手を伸ばす。がくがくと震える彼の手を掴んで握りしめるも体温は失血とともに失われていく。彼は直に事切れてしまう。せめて少しばかり最期が楽であるよう、頭を抱きあげる。血反吐を吐きながら、腐った歯茎を見せて何かを呟くのが見えた。
    耳を近づけ、その言葉を聞き取ろうとすると不意に胸ぐらを掴まれた。その力は致命傷を負った者とは思えぬほどに力強い。

    「……っ、のろ、わ、れろ……この、獣憑きが……」

    侮蔑だった。血と呪いに塗れた言葉にもう心さえ痛むことはない。首を絞めるように胸ぐらを掴む力が緩んだ。呪いのようにべっとりと外套に血塗れた指の痕が残る。事切れた狩人の言葉を反芻するように生臭い痕を指でなぞる。

    「……もう、呪われているとも」

    この声は狩人に聞こえただろうか。聞こえたとしても救いにはならなかっただろう。
    ならば、飲み込んだ言葉を続けるべきだっただろうか。君もまた等しく呪われているのだと。
    悪夢に迷い込み目的も分からないままに彷徨い、肉体は不治の病に蝕まれる。いつ自身も獣となり街に爪痕を刻むことになるのかという恐怖の重圧に耐え続ける。聖職者であるが故にだ。
    これが呪いと呼ばずになんと呼ぶのだろうか。もはや耳に届く呪詛でさえ鈍くなった心に響くこともない。
    命の灯火が消えた狩人を横たえれば、また、大聖堂に続く石階段を登る。この程度で辟易するようなことはない。だというのに道すがらに感じる肉体の重たさは誤魔化しようもなかった。足の関節は軋み、靴底はべったりと樹脂が塗り込められたように重たい。肺に水を詰められたように息苦しい。
    疲労のままに全てを投げ出し、この場に倒れ込んでしまえばこの重圧から逃れられるのだろう。自身に恨みがあろうとなかろうと血の香りに惹かれた狩人が歩み寄り、首を断つか内臓を引き摺り出すか。長引く苦痛もあろうが全てを終わらせてくれると願いたかった。

    欠けた段に足が絡れる。それでも足を止めることはできなかった。狩人としての責務か義務か。ルドウイークは内心に抱く望みとは裏腹に大聖堂前へと立った。
    鉄の彫刻が施された扉に触れる。観音開きの扉の間から冷たい空気が流れ込んでいた。それだけではなくムッとするような獣の匂いもだ。市民の祈りの場である聖堂にあってはならない穢れた匂いが鼻腔をくすぐった。獣の侵入を許さぬよう厚く重く作られた扉を体重をかけ押し開ける。扉の隙間から、霧のように白い塵が舞いあがるのが見えた。久しく手入れをされていないのだろうか。広間へ続く、長い階段の脇に備えられた彫像は錆が浮き始めている。ヤーナムで信仰されている神の遣いは静かにこちらを見つめていた。目玉を抉られた眼窩のような瞳が。

    「それらに見覚えがあるだろう」

    階段の先は逆光になりその姿は伺えない。だがそこに立つ者が何者かだけはすぐに理解ができた。彼から饐えた獣の匂いがすることも。

    「教区長……」

    愕然としたままにその名前を読んだ。同じ病を患ってしまっている為だろうか。彼も同じく発症していることを直感し、また確信した。
    まだ人の形を失っていないものの、彼もまた長くはないだろう。知性と気丈さを感じさせまっすぐ伸びた背中は曲がりきりまるで老人のようだった。
    衝撃を飲み込めないままに背負う大剣の柄に指を置く。その指は震えているが対峙は免れないだろう。ルドウイークが狩人である以上は。
    だがガンガンとこめかみに響く警鐘が響いていた。
    聖職者である彼を放っておけばヤーナムは滅んでしまう。教区長ほどの存在であればどれほどの脅威を齎すかは火を見るより明らかだった。そうとは理解していても、震える指は大剣を抜くことができなかった。そもそもこの世界が現実であるか否かさえ分からない。目前に立つローレンスが本物かどうかさえも疑わしい。だが、ここで殺さねば恐ろしいことになる。その直感が正しいだろうことを痛いほどに感じていた。

    教区長を殺す。そこに生じる私的な感情を押し殺すことはできる。
    だが、彼がいなくなったヤーナムはどうなる?そもそもこの捩れ曲がる悪夢は現世に影響が及ぶのか。そもそもここは一体何処であるのか。誰かが見ている悪夢の中に足を踏み入れてしまったかのように現実味さえもない。
    一切の先が見えぬ不安はただただルドウイークを困惑させ、辟易させた。
    何故、こうも救おうと足掻くほどに希望は砕け散っていってしまうのか。これこそが狩人に齎す呪いだとでもいうのだろうか。

    「剣を抜きたまえよ。ルドウイーク。君も察しているだろう」

    教区長の死はヤーナムの死だ。ピリオドは今打たれるべきものなのか、患い、今や腐り出すのを待つだけの脳ではもう何も分からない。だがそれでも、ルドウイークには拒む信念ばかりが残されている。もはや良心や善意ではなく意地でしかないのだろうが。

    「何かの間違いです。……貴方がいないヤーナムなど、あってはなりません」

    打開策もない。慰めにもならない安い言葉を吐きながら、拳を固く握る。その様を嘲笑うようにローレンスの体が大きく揺らめいた。階段から身を投げるようによろけ、一歩一歩と下り近づいてくる。先ほど一瞬だけ嗅ぎ取った磯の香りが強くなった。まるで潮風を一身に浴びたばかりのように、その香りはローレンスから漂っていた。そして獣の匂いも。

    「ヤーナムは終わりだ。まだ……分からないとでも」

    聞きたくない言葉が鼓膜から潜り込んで胸を抉る。まるで頭の中を虫が這いずり回るような不快感に頭を抑える。囂々と内から響く脈拍は不規則に打つ音以外、もう何も聞こえなかった。
    ルドウイークも既に理解していた。いくら狩人が足掻き、希望で満たそうと尽力しても滅ぶことは免れないだろう。それでもルドウイークはヤーナムの街を愛していた。その唯一さえ奪われる恐怖に耐えるしかない。波に攫われる砂の城を守る手段などないのだから。
    弧を描く鋭い爪が伸びる。伸びた爪先がルドウイークの痩せた喉に触れた。地獄の業火に燃える獣が、希望をあちら引き摺り込もうと袖を引く。心臓が凍てつき、血流に乗って全身に氷の粒子が広がっていく心地だった。それなのに内包したものは熱く、煮え滾る衝動に視界が眩んだ。

    「……」

    視界が晴れる。粉雪のように舞い続ける塵が乱れ、宙に踊る。その中に目に痛いほど鮮やかな紅が散った。
    ルドウイークはもう何の動揺も感じることはなかった。
    ああも慕い、敬ったローレンスを斬り捨ててもなお。
    罪悪感よりも異様な興奮に心が浮き立っているようだった。獣を狩ったという喜びだ。血を浴びる喜びだ。
    右肩から脇腹へ斜めに斬り付けられたローレンスは倒れはしなかった。傷は深いだろうに、大きくよろめきながらもその場から一歩も引くことはなく、自身の血で濡れた刃を掴んで立ち続ける。

    「君を……獣吐きと嘲笑う輩も多かった、こと……だろう」

    ローレンスの刃を握る指に力が加わったのが柄に伝わる。剣を押し返しかねない力強さだった。

    「だが、間違いなく君は狩人、だよ……」

    ルドウイークの一太刀は肺を傷付けただろうか。痰が絡まったような咳をしながら血の塊をローレンスが吐く。血反吐はルドウイークの教会装束を濡らし、酷い腐臭を纏わせた。
    他者の血に溺れ続けるだけのおぞましい存在に成り果ててしまったことなど、本当はルドウイークだって気がついていた。後ろ指をさし、罵倒を浴びせ続けた市民らこそ正しかった。
    熱い血を浴びた頬が綻びゆくことが全てだった。

    「教区長、私は……」

    遠くに赤子の泣き声が聞こえる。教会の鐘の音に掻き消されることなく響いたその声はがらんどうの大聖堂の中で反響する。それは幻聴ではなくローレンスの耳にも届いたのだろう。夜が明ける度に悲壮を帯びていくヤーナムの惨状より、ルドウイークが刃を向けたときより、ずっと怯えた表情を浮かべるのをルドウイークは見逃さなかった。まるで悪事がばれた子供のようにその表情は幼く、無力だった。
    刃を握っていた指が剥がれ、その場に伏せる。泣き崩れるように伏せたその体を中心に血溜まりが広がりルドウイークの足元まで滴った。冷たい石畳の亀裂にまで血が流れ込む。地獄へ続く穴のように深い血の色はゆっくりと広がり続け、扉の外まで流れ出て行こうとしているかのようだ。

    「この悪夢に逃げ場などあるまいよ……。私も、当然君も」

    奥歯を噛み締め苦痛に喘ぎながらローレンスが告げる。死の宣告に相応しい言葉を聞いても心に何も響くことはない。
    悪夢の中で死んだら彼は何処へ行くというのか。死の際に立たされたローレンスが血を吐きながら乾いた笑みを溢した。呪詛でもなく忠告でもない言葉に耳を傾け。
    広がる血の海を踏みにじり背を向ける。血の海の中にしゃがみ、置いたのは輸血液で満たされた一瓶だ。たった一瓶の輸血で致命傷の傷を癒すことができるとは思えない。だがある種の餞だった。ルドウイークはローレンスを慕うことが二度とできなくなるという確信に対して。

    「その先に……、見ると、いい……。狩人の末路を」

    「それでも、私は……最後まで狩人としての務めを果たします」

    酸化が始まり、黒ずみ出した血の海を蹴って大聖堂の扉に指をかける。外界から吹き込む風は渇き、饐えた肉の香りがする。

    「貴方に血の加護がありますように」

    変わらず、空には砕けた太陽が煌々とヤーナムの残骸を照らしていた。
    しかし、あれは本当に太陽なのだろうか。暖かさの欠片もない光を落とす其れは、この悪夢を覗き見る誰かの瞳なのではないかと錯覚するほどに空からの視線を感じていた。これが病故の妄想なのだろうか。カラカラに乾いた口で息を呑む。
    何かに取り憑かれたように血の濁流を進みながらルドウイークの心は消耗していった。血の川には幾重にも肉片が浮かび、ルドウイークの足に絡みつき進む足を絡れされる。その中には生きた人間までもがいた。血の中から這い上がり、ルドウイークの膝に縋り付く。

    「お前ら……狩人のせいだ」

    「……聖人面していれば、全てを正当化できると思っているんだろう」

    「皆、……死ぬ。お前ら医療教会のせいだ」

    ルドウイークの足に縋り付くことしかできないだろう。筋肉までも削ぎ落とされた亡者のような輩が呪いの言葉を吐き、耳に届いたそれらは心を蝕んでいく。
    許してくれ、とはもう言わなかった。ヤーナムの市民の朽ちていった命の残滓が悪夢にとどまり続けていたのだ。結局ルドウイークは街の為、と宣いながら誰一人として救えていなかった。それを突きつけられながらただ血の川の先を目指して進んでいく。その先に自分の求めるものがあるともう信じてはいない。だがそうそれを止めてしまえば二度と先には進めない予感のままに足を進めていく。数多の呪いを背中に投げつけられながら。

    「分かっている……。分かっていたとも……」

    独り言のようにブツブツ呟きながら嘲りと罵倒に言葉を返す。ヤーナムにもう既に救いの手立てはない。一歩足を進めるごとに痛感していく。目を背け続けていた真実に四肢を捥がれるような痛みが胸で爆ぜて息ができなくなっていった。
    それでも、ようやくルドウイークは辿り着いた。流れゆく鮮血の川の先だ。そこは……古びた教会なのだろうか。見慣れないが、血の川の始まりはそこにあった。
    ひゅっと呼気が引き攣るのを感じた。そこにルドウイークが知るべき真実が待ち構えている。知るべきではないだろう、腐臭と咽び泣く悲鳴が木霊している。

    「どうか、師よ……」

    自分自身を鼓舞するように大剣の柄を握る。両手で握りしめた剣から発する青白い光は儚く、美しい。その光に祈りながら瞼を閉じる。もうこの光しかルドウイークの心の縁はない。
    しかしシモンだけは、その光は救いではないと語っていた。心の隙間に潜り込み蝕むだけの寄生虫であると。
    その言葉はルドウイークを案じた故のものだったのだろう。相変わらず冷たい物言いだったがそれでも声をかけてくれたことは純粋に嬉しかった。だがシモンにはヤーナムを救えない。そしてルドウイークの心を救うことさえも。
    青白い月明かりに導かれて足を踏み入れた先は、地獄だった。
    幾層にも積み上がった死体は腐りどろどろに蕩けている。新しい死体はまだ形を残しているが、亡者たちと同じく皮も筋肉も脂肪も削がれ、筋肉繊維を剥き出しにして息絶えていた。中には四肢を落とした者もいる。
    不幸なことにそんな姿になってまでもまだ死ぬこともできず、苦痛に喘ぐ者がいた。助けを求めてあげた腕は肘から先がない。この場から逃げ出そうとしても両足を失いままならない者もいる。
    腐った肉片を踏み躙りながら教会に足を踏み入れたルドウイークに一斉に視線が向いた。ぽっかりと空いた眼窩で睨め付ける視線は憎悪だ。その視線の鋭さにルドウイークは慄かざるをえなかった。

    「医療教会の悪行を……今更知りに来たとでも?」

    うめき声に混じって一つの問いかけが響いた。同時に血の染みが浮いた白い装束を掴まれ、地面に引き倒される。腕を突き出し頭から血溜まりに頭を突っ込むことは避けた。だが服を掴む赤黒い指先が増え、背中、後頭部、太もも、腕、と次々とルドウイークの体を押さえ込む重さは増していく。腕だけでは耐えきれず姿勢を崩すのは時間の問題だった。しかしそれらを振り解くことはできなかった。前髪を掴んで引く、その腕には幾度も注射針を打たれた痕が残っている。身体中の肉を毟るように指を食い込ませる者の腕もだ。
    ルドウイークを腐った血溜まりに引き倒そうとする腕だけではなく、積み重なる死体のほとんどに注射針が穿たれた形跡が残っていた。人為的に開かれた頭蓋骨も隅に転がっているのが見えた。

    「ああ……」

    吸い込んだ鉄錆の血の味は鉛になっていく。信じていたものの実態を目の当たりにしてどう理性を保てばいいというのか。漏れ出た呼気は声にならない悲鳴となった。
    腕の力が抜けて、引き倒される力のままに顔から血溜まりの中に突っ込んだ。
    ゾッとするほど冷たい、死んだ肉から溢れた血だ。後頭部を掴んだ手が顔を上げさせる。その血溜まりの中にあるものを見ろと促しているのだ。

    「醜い獣憑きめ」

    細かな骨が残る血の底へと額を叩きつけられる。痛みはない。だが、ルドウイークは初めてと思えるほどの怒りを感じていた。
    私刑めいた扱いをしては嘲笑する亡者へか。英雄に仕立てあげておきながら陰で悪辣な治験を繰り返していた医療教会へか。それとも、幾度なく救いの手を差し伸べ続けていたというのに、その手を振り払い罵倒した市民たちへか。目に見えるもの全てへの怒りで噛み締めた奥歯がギリと鳴った。意識が遠のくほどの怒りでこめかみが脈打つ。しかし、同時に感じるのは虚しいほどの悲しさだった。結局ルドウイークは誰も救えなかった。自身が救われることもない。鼻につく腐臭は内側から腐り出した臓腑だろうか。それとも幾度も訪れる夜を越えるために針を打ち続けた足が骨まで腐り出しているのだろうか。ルドウイークの肉体は人間の形を保つことはできないだろう。
    血溜まりに映り込んだ、顔の半分が歪み崩れた自身の姿を見て悟った。
    肩の骨が軋み靭帯が伸びる。腕や足の関節が外れ、筋肉が盛り上がって皮膚が裂ける。裂けた皮膚からは針金のように硬い獣毛が生えてく。変わり果てていく肉体を無数の瞳が捉えても恐怖さえ思い出すことはできなくなっていた。
    頭が割れるように痛む中、無数の指が脳漿を掻き混ぜているような不快感に吐き気を感じた。しかし吐き出せるのはやはり意味をなさない呪詛ばかりだ。

    「私は……、わた、しは……っ、なんの……ために、ここまで……」

    血溜まりに浮かぶ頭蓋骨の眼窩と目があった。その空っぽな視線に怒りは収まることはない。振り上げた拳を落とせば卵の殻のようにたやすく砕け散った。その指先は手袋を裂いて長い爪が現れている。みしみしと軋む全身の骨と筋肉の痛みに叫んだ声はもはや人間のものとして耳に届かなかった。獣の咆哮となって暗い闇の中に響き渡る。
    掌で亡者の胴を掴み握り潰す。肋骨が砕け、内臓が口と肛門から噴き上がる様を見ても怒りは収まることはない。黒い長い爪を振り下ろし、罵倒した輩を払い除けて壁に叩きつける。それでもなお積もり積もった怒りは凪ぐことはない。ずっとこんな破壊衝動を抑圧していたような気さえしていた。獣性を理性で押さえ込み、教会の狩人として正しくあろうと努力してきた。これはその報いだろうか。
    哀れな命乞いだけは澱みを浄化してくれるような心地だった。命乞いを聞きながら手を振り下ろす。手のひらの中で潰れる小さな肉の感触に引き攣った叫びを上げた。そこにはもう英雄の姿などない。怒りと本能のままに命を屠る獣がいるだけだった。

    ローレンスは遠くに獣の咆哮を耳にした。その声がルドウイークのものであることは察しがつく。
    彼もまた悪夢に呑まれ、ついにその身を獣へと堕とした。そのことに罪悪感はないのかと問われれば、ないとは言い切れないだろう。
    もしルドウイークがただの男であればこうも思うことはなかっただろう。人間らしく欲深く、英雄の名に相応しい権力に胡座をかくような傲慢さも持っていれば。だが、実際の彼は愚直に医療教会の行いが善きものであると信じ、誰よりも尽くしてくれた。
    それが力を持つ者の権利として市民を愛し、肩を並べた同胞の狩人への敬意を忘れず、信念を持って医療教会に尽くす信仰深い男であった。並外れた狩人の腕さえなければ教会の教えを説く聖職者にもなれるだろう素質を変え備えていた。
    病を発症してもなお、医療教会の狩人の後継者を残せるように身骨を砕いたこともローレンスは知っていた。医療教会存続のために。その結果がこれだった。

    「……馬鹿な男だ」

    大聖堂の壁に背をもたれさせながら、彼が残していった輸血液の瓶を指で転がす。これが獣の病のメカニズムだと最後まで気がつきもしなかったのだろう。狩人の命を繋ぐためのものだと信じて疑いもしない彼を馬鹿だと嘲った。
    結局のところ彼は医療教会にとって素晴らしい恩恵を与えてくれた。そして彼の善意ある行いによって、市民たちの病は進行し被害は増した。
    血によって人を超越した何かを感じていたようだったが及ばなかった。そればかりは残念に思えた。彼ならきっと、善き聖職者である以上に、ロマを超える上位者になる素質を備えていただろうに。そう思えては残念で仕方がない。これがいかに非人道的であれ、ローレンスはその探究心を否定することはできなかった。

    大聖堂の高い天井を見上げる。言いようのない感情のままに瞼を閉じた。ローレンスが今感じているものは後悔だろうか。ウィレームの教えに背を向け、好奇のままに多くの人間の被害を出してしまったことへの。あるいはもっと単純に、ヤーナムの終わりに畏れを感じているのだろうか。
    ヤーナムの英雄は獣に堕ちた。そして自分もそうなるだろうことは間違いない。ルドウイークに語ったようにヤーナムは滅びへの一歩を踏み出したのだ。

    「かねて……血を恐れたまえ」

    恐れたまえよ、ローレンス。
    恩師の言葉だ。最後まで聞き取ることはせず、閉じた扉越しに耳にした最後の警句だった。

    「もう遅いでしょうか。先生」

    失血で真っ白になった手で注射針を構える。ガチガチと震える歯は死に近づきすぎた寒さのせいだ。震える右手を左手で押さえながら太ももへと針を打った。
    煮え滾るマグマのように熱い血が動脈に流れ込むのを感じる。肌が内側から灼けるような痛みに意識が眩んでいく。この瞬間までもローレンスは警句を忘れた日はなかった。

    もし、私が満月の夜に狼にでもなったら殺してくれ。
    学徒時代、酒に酔って約束を結びつけたときの記憶だ。当時は冗談でしかなかった言葉に笑うゲールマンの顔が過ぎる。残された微かな幸福だった頃の思い出だったが、すぐに自嘲的に微笑んだ。
    数多の犠牲を出し、なおも治験を繰り返す自分の元に友人など訪れることなどあり得ないだろうと。そしてその首を落としてくれることもないだろうと。
    瞼を閉じたその奥で目玉が蠢くような感覚を覚える。燭台に灯された炎が揺らいだ。

    何も成すべきではなかった。
    漁村に流れ着いた生白い肌がまざまざと脳裏に蘇る。彼女に人為的に生ませた忌子から全てが狂ってしまっていた。血の医療を始めなければ市民に被害を拡大することもなかった。医療教会を立ち上げなければローレンスの跡を継ぎ、治験を続ける者もいなかったろう。

    生まれるべきではなかった。

    そう知りながら流れてこんでいく熱い血に思いを馳せる。自身の血流に乗ったそれは心臓へ肺へ、全身の臓腑へと送り込まれるのだろう。そのとき、まだ自身に残された人間性は朽ちることはないか。多くの被検者から得た知識をもっても想像もつかない。
    空になった輸血液の瓶に反射した、砕けた瞳孔だけが無表情にこちらを覗き見ていた。
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    pa_rasite

    DONEブラボ8周年おめでとう文
    誰かが見る夢の話また同じ夢を見た。軋む床は多量の血を吸って腐り始めている。一歩と歩みを進める度、大袈裟なほどに靴底が沈んだこの感触は狩人にとって馴染みのものだった。獣の唸り声、腐った肉、酸化した血、それより体に馴染んだものがあった。

    「が……ッひゅ……っ」

    喉から搾り出すのは悲鳴にもならない粗末な呼気だ。気道から溢れ出る血がガラガラと喉奥で鳴って窒息しそうになる。致命傷を負ってなお、と腕を手繰り寄せ振り上げる。その右腕に握るのは血の錆が浮いたギザギザの刃だ。その腕を農夫のフォークが刺し貫いた。手首の関節を砕き、肉を貫き、切先が反対側の肉から覗いた。その激痛にのたうちまわるどころか悲鳴さえも上げられない。白く濁った瞳の農夫がフォークを振り回す。まるで集った蝿を払うような気軽さのままに狩人の肩の関節が外された。ぎぃっ!と濁った悲鳴を上げればようやく刺さったフォークが引き抜かれた。その勢いで路上に倒れ込む。死肉がこびりついた石畳は腐臭が染み込んでいる。その匂いを嗅ぎ取り、死を直感した。だがこれで死を与える慈悲はこの街にはなかった。外れた肩に目ざとく斧が叩き込まれたのだ。そのまま腕を切り落とす算段なのだろうか。何度も、何度も無情に肩に刃が叩き込まれていく。骨を削る音を真横に聞きながら、意識が白ばみ遠のきだした。いっそ、死ねるのであれば安堵もできただろう。血で濡れた視界が捉えるのは沈みゆく太陽だ。夜の気配に滲んだ陽光が無惨な死を遂げる狩人を照らし、やがて看取った。
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