ヴァンパイアが好きなもの ――うろうろ、うろうろと。
雲一つない夜空で細い月が輝く夜。古びた屋敷の入口である大きな門の前を往復し続ける一人の警察官の姿があった。
街外れにいつの頃からか存在するその屋敷には、好奇心で侵入を試みる人間が後を絶たない。その為、定期的に近場の街の警察官が巡回をするルーティンが出来上がっていた。
当初は交代制であったものの、現在はイサミ・アオという名の警察官が主に担当している。当初は人命救助優先で己を危険に晒す行為を重ねる彼への罰――その実、彼を危険な任務から遠ざける目的も含まれていた。
だが、イサミが屋敷の巡回任務に就くようになってから、彼は明らかな変化を見せたのである。馴染み深いサタケとヒビキ、ミユ以外のメンバーとも交流を深めるようになり、身を呈する行為の頻度も減ったのだ。
「イサミ、どうしたのさ」
友人の変化に驚いたヒビキが素直に声を上げれば、イサミは気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「別に。ただ」
「ただ?」
「一人で背負う必要はないんだって、分かったから」
その回答には、二人のやり取りを近くで眺めていたサタケも驚いた。正に、サタケやヒビキが危惧しており、何度も指摘してきた事柄をイサミは〝理解〟出来ていたのだから。彼らが知らぬうちに。
「よ」
「よ?」
「ようやく分かったのか~!」
満面の笑みで、ヒビキは自身より背が高いイサミの頭に手を伸ばす。当人の戸惑いなどお構いなく、彼女はそのままイサミの短い髪の毛を両手でかき混ぜてやるのであった。
「イサミさん、何があったんですかね?」
「さぁな。だが、アオが成長したのは喜ばしい」
「ですよね!連続傷害事件も犯人を逮捕出来ましたし、良いこと尽くめです」
「捕まえられたが、あれは自首……だな、一応は」
イサミとヒビキの姿を見ながらミユと会話を交わすサタケは溜息を吐き出した。
この街を騒がせていた連続傷害事件。被害者の中には重症に近い怪我を負わされた人もいたが、何故か〝人通りのない現場より離れた人目の付く場所〟で倒れており、幸運にも死者は出ていなかった。その犯人が突然、警察署の前に現れたのだ。確固たる証拠として、事件で使用された全ての凶器をリュックに詰めて。「私が犯人です」と。
「確かに、変な話ですよね。あんなに堂々と警察署の前に出てきたのに」
「全く、理解出来ん」
はぁ、とサタケは大きくため息を吐き出す。そして再び、手元の資料を確認し始めるのであった。
(助かった)
直ぐ近くで交わされているそのやり取りが聴こえていたイサミは、そうヒビキに感謝するのであった。
もしも、自分にその話を振られたのならば――果たして、自分はサタケ相手に「俺も理解出来ません」とバレずに嘘を貫ける自身がなかったからである。
***
――うろうろ、うろうろと。
十分以上往復をし続けていたイサミ。彼は大きく息を吐き出した後、門から離れるのであった。向かう先は、警察署や自宅がある街ではない。屋敷を囲う壁の一角だ。
「……」
藪に隠れた壁には穴が開いていた。身を縮めればイサミすら通れる程の穴が。
「ったく、さっさと修理しろよ」
そう誰にともなくボヤいて、イサミは穴の中に入っていくのであった。
屋敷の敷地内へと入って行く為に。
***
古びた屋敷は街から離れた場所にあるが、所有者の名前は判明している。
持ち主の名は、ルイス・スミス。
珍しい名前ではないが、街に同姓同名の人間はいない。
だが、税金もしっかり支払われており、法的に必要な手続きは百年以上更新され続けているのである。対応したはずの人間がルイス・スミスその人の姿を思い出せないという不可思議を抱えたままで。
故に、歴代の警察官達は屋敷の周囲の警護しか出来なかったのである。法的に問題がなく事件性がないのに、侵入する訳にはいかないと。
そんな屋敷に、イサミは足を踏み入れていた。
壁の穴を通り、玄関は鍵を開けて。
そっとイサミが足を踏み入れた屋敷の中は、外見からは想像が出来ない程に綺麗に掃除されていた。
『イサミの体に悪影響が出るなんて、恐ろしい!』
かつて、屋敷に入った瞬間に積もった埃で咳をしたイサミ。それは〝彼〟にとってはかなりのショックだったようで、二度目に入った時に綺麗にされた室内を見てイサミは驚いたものだ。これ程の広さの屋敷を一人で掃除したのかと。
『なに、数日徹夜すれば出来るさ。ああ、でもイサミはそんなことしないでくれよ。君達人間にとって、寝不足は体に悪いんだから』
掃除なんて何時ぶりだろうと言いながら、〝彼〟はイサミの目元に指先を伸ばして優しく触れるのであった。
当時、連続傷害事件の捜査で満足に眠れていなかったイサミを気遣う〝彼〟。
イサミは既に彼が悪い人間――人間ではないが、悪いひとではないと分かってしまっていたのだ。
今思えば、その時点で自分は〝彼〟に惹かれていたのだろうとイサミは頬を赤く染めてしまうのであった。
華美ではないが品があるエントランスホールを抜けて、イサミは一つの部屋に辿り着いた。窓一つない暗い部屋だ。まるで、霊安室のような。
(棺が置いてあるんだから、あってるのか?)
話す相手がいない為、自問自答を繰り返しながらイサミは棺の蓋を開いた。
中身は、空っぽである。
壁に設置された蝋燭の灯りしかない室内の中に現れたその光景は、まるでより深い場所に繋がる穴のようで。〝彼〟が不在であることは理解していたのに、その穴の中に太陽のような金髪がない目の前の光景にイサミは思わず肩を落としてしまうのであった。
(ここに置いとけば、絶対に気付くよな?)
イサミは右手に持っていた紙袋の中を確認する。赤色と白色のリボンで結ばれた正方形の小さな箱。
『お礼?別に良いのに。でも、そうだな……。確か、もうすぐバレンタインってイベントがあるんだろ?君から俺に、贈り物をくれないか』
血の気配に敏感だからと、人非ざる力で負傷者を直ぐに発見される場所まで運んでいた〝彼〟。
その瞬間を目撃したからとはいえ、〝彼〟を犯人だと思い込んで屋敷まで追いかけて、更に一発殴りかかってしまったイサミに対して決して悪感情を抱かなかった〝彼〟。
それどころか、犯人の捜査に強力してくれた〝彼〟。
犯人に辿り着いた後、〝彼〟にはこれ以上甘えられないと、独断で動いて危うく殺される寸前だったイサミの元に空から降って守ってくれた〝彼〟。
傷付いたイサミの治療を優先し、催眠術のような力で犯人を警察署まで歩かせた〝彼〟。
『ああ、イサミ……!良かった。本当に、良かった。君に、もしも、何かあったら、俺は……!』
目を覚ますも、意識は明瞭ではなく、その時のイサミの記憶はどこか覚束ない。
それでも、イサミはしっかりと理解したのであった。
被害を最小に出来ればと、良かれと思った行為が〝彼〟を傷付けたのだと。きっと、今まで自分はずっとそういう人生を送っていたのだと。ヒビキやサタケにも、同じ思いをさせていたのだと。
『す、みす』
『イサミ?無理して喋らなくて』
『好きだ、スミス』
同時に、己の中で花開いていた感情を自覚した瞬間にイサミは言葉にしていた。
自分は〝彼〟を――ルイス・スミスを愛しているのだと。
人間の血を吸うのは極力避けたいとトマトジュースばかり飲んで、ニンニクの代わりにピーマンが苦手で、こっそりと街の人々を助けてくれていた一人の吸血鬼を愛していると。
『え?イサミ?イサ……イサミィ!?』
イサミが目を覚ますまでほぼ丸一日、スミスはそわそわとした時間を過ごしたのであるが。
ルイス・スミス。
それは、街外れにある屋敷の所有者であり、吸血鬼であり、街の人々をこっそりと守り続けていた一人のヒーローの名前だ。
ヒーローの毎日は忙しい。故に、スミスは不在だろうとはイサミは思っていた。否、そもそも、門の前でうろうろしていた時点でスミスの不在にイサミは気づいていたのだ。スミスは居ないと。
スミスが屋敷に居るのならば、彼は決してイサミを一人にはしないからである。
『イサミ、いらっしゃい!』
――そう、笑顔で迎えてくれるはずなのだからと。
「……強請って来たのはそっちのくせに」
己がスミスの不在に拗ねていると自覚してしまい、イサミはまた一人で頬を染めるのであった。
(さっさと置いて帰ろう)
スミスの屋敷なのに、スミスが居ない。
それは、イサミにとってはとても寂しい空間だ。贈り物として買ってきたチョコレートを入れようと、イサミは手を伸ばした。棺の中にと。
「――」
瞬間、イサミの鼻先を匂いが掠った。この場にはいない、スミスの香りだ。
この棺はスミスの寝床でもある。ならば、彼の体臭がするのは別段おかしな話ではない。
(スミス)
この場にはいない、会いたい人の香り。
――いけないことだとは、分かった。許可も取っていないのに、と。
(けど、スミスはここには居ない)
ごくりと喉を鳴らして、イサミは棺から手を抜いた。そして、その場に立ち上がったイサミは再度棺に伸ばしたのであった。腕ではなく、靴を脱いだ右足を。
視認のみでは穴のように見えた棺の底であったが、直ぐに足の裏が着いた。そのまま、左足の靴も脱いでイサミは棺の中に自分自身を入れてしまうのであった。
(スミス)
そして、彼は身を横たえた。
棺に入るなど、彼の二十四年の人生の中で初めてである。人間にとって、棺の用途は埋葬の為にあるものだ。ここはお化け屋敷でも、演劇の舞台の上でもない。
けれどもそこは、スミスの寝床なのである。イサミにとって、最愛のひとの。
(すみす)
この場には当人は居ないというのに、まるでスミスの腕に抱かれている時のように香りがイサミを包み込む。
――目を閉じれば、スミスが居ない事実も分からないのではないか?
ふと、そう思ってイサミは鳶色の双眸を閉ざすのであった。
「……スミス」
匂いはすれど、彼のひんやりとした体温は感じられない。
思惑とは異なり、一層スミスが傍にここに居ない現実を突きつけられ、イサミはより残り香に縋るように両目を強く閉ざすのであった。
***
「イサミ」
思い出す声ではなく、直に聞こえてくる声。
「イサミ」
己の名が呼ばれていると、イサミは目を開けるのであった。
彼の視界は暗い。反射的に体を起こそうとするも、イサミは起き上がることが出来なかった。いつもの自分の部屋のベッドの上ならば、存分に手足を動かせるというのに動かせなかったからだ。
「イサミ」
三度目に名前を呼ばれて、イサミはやっと気付くのであった。
己が、スミスの寝床で寝入ってしまっていたと。そして、視界が暗いのは当然であった。第一に、棺が置かれているスミスの寝室は薄暗かった。第二に、その空間で棺に入っていたのだ。壁の蝋燭の灯りが届かずに、より暗く感じるの至極当然だろう。
そして、何より。
「ス、ミス」
棺の中に寝そべっているイサミを覆うのは、人影だ。
棺を上から見下ろしているスミスによって、イサミは一層暗闇の中に身を置いていたのである。
繰り返すが室内は暗く、唯一ともいえる光源はスミスの背後の壁にある。故に、イサミにはスミスの表情が見えなかった。彼がどんな顔で己を見ろ押しているのかを。
「悪い、俺、勝手に」
他人の寝床に勝手に入り込み、その上で眠り込むなど無礼にもほどがある。スミスは寛容な男であるが、気分を害してしまってもおかしくない。
慌てて起き上がり、スミスへの謝罪をしようとイサミは慌てたのだが。
「イサミ」
ふと、そこで彼は気づくのだ。
先程から何度も己の名を呼ぶ声。明るい性格のスミスであるが、イサミの名を呼ぶ声にはいつも優しさが――イサミを想ってくれる気持ちで満ちている聞き心地の良い声。
彼の声が、普段とは違うということに。
だが、イサミが危惧したような負の感情を含む声ではない。イサミが一度も聞いたことがない感情を潜ませている声であった。
「スミス?」
「イサミ、君って人は」
イサミの頭上から降り注ぐスミスの声。声だけでなく、荒い息遣いも聴こえてきて――そして、伸ばされた手がイサミの頬に触れた。その指先が熱を孕んでいると気付き、イサミは彼の指先に誘導される様に顔を上げた。
すると、まるで棺の蓋の代わりとでもいうように、イサミが横たわる狭い空間に入ってこようとしているスミスの姿をイサミは視認するのであった。
「スミス、お前、ここ狭い――」
同時に、イサミはようやく至近距離でスミスの顔を見られたのである。
頬を紅潮させ、普段はブルーの双眸が爛爛とエメラルドの輝きを纏っているスミスの表情を。
「イサミ」
「ス、スミス」
ヒビキ達から鈍感と言われることがあるイサミであったが、気付くしかなかったのである。
スミスが、自分を求めてくれていると。
「イサミ」
再びイサミの名を呼びながら、スミスの体も棺の中へと入りこんでしまうのであった。自身より体格が良いスミスに覆いつくされ、イサミは一層身動きが出来なくなってしまった。
そして、残り香ではない本人の香りがイサミの身を覆いつくす。
(スミス。スミスが、いる。ここに)
もう自分は一人ではないのだと、安心から弛緩してしまったイサミ。彼の唇に触れるだけのキスを贈り、スミスは自身の唇を舐めるのであった。ちらりと、人間のものではない鋭い牙をのぞかせながら。
「最高のプレゼントだよ、イサミ」
――彼らの夜は、これから始まるのである。
尚、翌日。
イサミが準備した本来のプレゼントが棺の傍に置かれたままの紙袋に入っていると知ったスミスは、顔を真っ青に染めることになる――のだが。
「スミス」
「イ、イサミ?」
「血を吸いたくないなら、吸わなくていい。でも、今度は牙“でも”俺を刺してくれよ」
棺の底に横たわったまま、気怠そうな表情で己の首筋を撫で、スミスを見上げるイサミ。
明らかに、それでも遠回しに次のお誘いをしてくるイサミを前にして、スミスは自身の頰を健康的な色に染め上げるのであった。