夢視日はすっかり落ち、寂しげに点滅を繰返しながら羽虫を誘う明かりの下で徳州扒鶏は納屋の掃除をしていた。
定期的に誰かしら手入れは行っていたと聞いているため、ほとんど大掛かりな作業は残っていない。軽く床を掃いて、虫や鼠などが発生していないかを懐中電灯で確かめて納屋を後にしようとしたとき、あるずた袋が目に入った。それは納屋の角にまるで誰の目にも触れないよう隠してあるかのように、隠した本人さえ己が二度と目を当てないようにと忌避したのかのように、白い埃をかぶり鬱鬱と背を丸めて佇んでいた。内容物は袋の半分ほどまで詰められていて、曲がった背を伸ばせば徳州の膝を超すくらいの大きさかと思われた。
あれ、こんなものは前々からあっただろうか。
今まで気づかなかったことが不思議なほど、薄明かりの下で謎めいた袋は異様な存在感を放っていた。否、存在感というよりもそれは「違和感」に近かった。徳州は嫌な予感とともに、袋への既視感や恐れを感じていた。
中身を確認しなくては。
万が一良くないモノが隠されていたり、腐り乾き果てた穀物の類が出てきたらいけない。徳州は微かな恐れを振り払うように勢いをもって袋を開いた。
「………これは」
詰められていたのは、どす黒い腐葉土と、おがくず、木屑、そして大きな幽霊蜘蛛のような虫の死骸たちだった。予想だにしない内容物に困惑していると、徳州は土が蠢いていることに気がついた。まだ幼虫が生きているのだ。一匹掴んで手のひらの上で転がしてみると、釣りの餌として好まれるものによく似ている。アオイソメが近いだろうか。すっかり弱りきっていて、指で転がしてもわずかにうねるだけだった。
「これは、誰かが育てているのか?こんな薬や食材があるとはまるで聞いたことはないが」
餃子か屠蘇の私物かもしれない、明日確認してみなくては。徳州は冷静に思いながらも、喉が締め付けられ、胸が縮み口の中に嫌な唾液が湧いてくる感覚を覚えていた。早くこの袋から、虫から目を背けたい。徳州が袋を閉じようとした時、死骸だと思い込んでいた幽霊蜘蛛のような成虫がぴくりと動き、徳州を見つめた。
虫と目が合うなど、不思議な感覚だ。だが確かに「彼」は極小の複眼で徳州を見つめていた。これはいったい?まるでオレに縋るように、まるで愛を────
「あにき」
「!」
電灯に群がる虫の羽音のような声で、彼は徳州を呼んだ。
「あにき、捨てないで」
死骸たちが、幼虫たちが、蛹までもが数百の目で徳州を見つめている。愛を乞うように。
「やっと見つけてくれた」
「世話をしてくれるって言ったのに」
「このままじゃ、俺、死んじゃうよ」
「徳州、捨てないで」
「徳州、俺が気持ち悪いから捨てるって」
「徳州、俺を」
耳鳴りがする。耳鳴りの甲高い音も、彼らの不快な蠢く音も、袋の繊維に脚を引っ掛けるカサカサという音も、声も、すべてが腐った土とぐちゃぐちゃに混ざり合うように徳州の心を掻き乱した。鼻をつくのは黴のような臭い。
「……ッ!化物!符を騙るな!」
衝動に駆られるように徳州は銃に手をかけたが、右手の中にいつの間にか紐が握られていたことに気がついた。
「これは……」
おくるみの紐。
記憶が徳州の頭を駆け巡った。洪水。泥と雨の臭い。三等室に押し寄せる人間たちの群れの暑さ。濁流に消える小さな命。ちぎれて泥まみれの、赤い紐────
「あにき、すてないで」
ちっ。ちっ。電灯にぶつかる羽虫の音。
「あにき、ころさないで」
ちっ。ちっ。ちっ。ちっ。
「ごめん、符………」
徳州は袋を納屋の外に持ち出し、中身をすべて地面の上にぶちまけると、油をまいて火をつけた。
「ごめん、符……本当に………ごめんなさい」
「はぁ………」
時計は朝6時31分25秒をさしている。1250ミリ秒の寝坊だ。しとしとと、ひんやりした湿った空気と寝汗で気分が悪い。
「やはり、雨か」
窓の向こうから聞こえるごー、という雨音がより徳州の腰を重くさせる。大雨の日は決まってあの洪水にかかわる悪い夢を見る。徳州はそんな悪夢を「自分への警告」と捉えていて、夢の後は己をより厳しく律することで良いものに昇華させているのが常だった。
「符まで出てくるなんて……はぁ」
癒えたばかりの左胸の傷跡が痛み始めた。内側から虫に食い荒らされているようなじくじくとした不快感がある。
なぜ、捨てられるなんて思うのだろう?
たった一人の、実の弟をいったいどうして捨てられよう?
オレは符を命に代えてでも守ろうとした。兄として当然のことだと思ったから。
とうとう頭痛までしてきて、ベッドから出ようとしていた徳州は脱力して丸めた布団に顔を押し付け寝転がった。
違う。これは、符の気持ちではなくて、オレの、オレの符へのわだかまりなのかもしれない。
たしかにあの時──符が易牙について行くと明言した時、自分は無意識に彼に銃口を向けてしまった。手ががくがくと震えるのを必死で抑えながら諭したことを覚えている。
だが、徳州がいくら正論をぶつけても符には届かなかった。あの時の彼は、オレに銃口を向けられた符は初めは目を丸くして、眉根をきつく寄せて悲しそうに口をぽかんと開けた。そして笑いにならない声で笑いだした。撃てよと言われたことは覚えている、だがオレは引き金を引くどころか身体が硬直して、言葉すらも出なくなっていた。去りゆく符の背中を見ながら何かを言ったような記憶はあるが、正直はっきりとは覚えていない。
そんな考え事も頭痛の衝撃に邪魔されて霧散していく。
「符……見捨てないよ。お前がどうしようもない困難に直面した時、オレは助ける。守るから。初めて出会った時のように、あらゆる想定外からお前を守るから」
だから、殺さないでなどと言わないで。
雨足は弱まりそうにない。