旧友トロストの街を訪れるたびナイルはあの日のことを思い出す。帰還の報を受け、急く気持ちを抑えながら通りへ出れば、凱旋を祝う歓声に包まれた。街は祝勝一色に染まっているかに思われた。しかしナイルの心には影が差していた。仰ぎ見た壁上に立つ影はあまりにも乏しかった。労い、そしてひと言詫びるはずだった友人との再会は遂にかなわなかった。
かつて最前線だったこの街が今は復興の拠点である。一度は荒廃したウォール・マリアが再び人の住める地になりつつある。
日が暮れかけていた。所用はすべて終えたが出張者用の宿舎にまっすぐ帰る気にはなれなかった。酒場街に足が向いた。どうも飲みたい気分のようだ。特にあてもないので目についた酒場に入った。
早い時間の割に客の入りは上々だった。テーブル席にも空きはあったが一人なので憚られた。目を巡らせていればカウンターの隅にいた客と目が合った。
「見た顔だ」
向こうから声を掛けてきた。足がすくみ、震えが来る。怯える必要などない。後ろ暗いところはないし、これまで暴力を振るわれたこともない。向こうとしても睨んだつもりはなく、知った顔が来たので見ただけなのだろう。
小柄な男だ。だが妙な凄味がある。背丈が低いというだけでなくすべて小作りだ。顔も小さければ手も小さい。肩幅も狭いし胸板はさしたる厚みもない。薄い体つきといえる。だというのにじっとしているだけで近くにいる者を震え上がらせる。底冷えの寒さのようだ。足もとから凍りつかせ、身動きできなくする。口が悪いがそのせいではない。ナイルも色々言われたことがあるが痛くも痒くもなかった。黙っている方が怖い。
ナイルの同期エルヴィン・スミスが調査兵団に引き入れた男だ。エルヴィンの時代から、団長が次の代となった今も兵士長を務めている。都の地下街で盗賊団のリーダー格だったという過去がある。ナイルは担当区域が違ったが、憲兵団は相当手を焼いていたらしい。
このリヴァイについてナイルの周囲は似たり寄ったりの印象を抱いている。調査兵団所属の兵士もこの兵士長を恐れていたと聞く。むろんエルヴィンは違った。彼とこのリヴァイについて話したことがある。かわいいから心配だなどと零していた。さらわれたりしないか心配しているようだった。昔から変わったところのある男であったがいよいよ理解できなかった。
人類最強の異名をとるリヴァイを従えていたことでエルヴィンは一目置かれていたようなところがある。あのような物騒な輩を配下におけるということはそれだけ大人物であろうと見なされたのだ。訓練兵時代から彼を知るナイルの受け止め方は違った。一種の安心を覚えた。エルヴィンに強い味方ができたようだと。
一度は共に壁外を志しながらナイルは憲兵になった。どれだけ経とうと後ろめたい。見捨てたような感覚もある。無責任ではあるが旧友に強力な仲間ができたことでほっとした。
「今日は非番か?」
リヴァイは制服を着ていなかった。足がすくんだことなど表に出さないよう、平然として尋ねた。少々無愛想になったが「ああ」と返すリヴァイもぶっきらぼうなのでちょうどいい。
「あいてるか?」
隣を指しながら確認すれば了承するように頷いたのでバーテンに注文しつつカウンター席につく。
「国葬の日以来だな」
ウォール・マリア奪還作戦の犠牲者の遺体が回収され、国葬が執り行われた。一ヶ月ほど前のことだ。
「来るたびこの街は活気づくようだ」
「そうか。街の商会の連中に言わせりゃまだまだのようだが」
トロストの復興や、マリアの再開発、ミットラスを始めとした街の話をする。世間話の域を出ない。敢えて核心を遠ざけている自覚がある。話したいのは、こんなことじゃない。わかっている。だが口に出せない。
結局切り出せないまま、店を出ることになった。
「合同の宿舎か?」
今夜の宿泊先を尋ねられ、「ああ」と答えればリヴァイは先に立って歩き出した。送って行ってやろうということらしい。
「人が増えたのはいいが手癖の悪ぃ野郎共も増えたようでな」
「憲兵から盗むか?」
ナイルは憲兵団の制服を着ていた。
「憲兵だから狙うという野郎もいる」
「そういえば、元は地下街で憲兵をやり込めていたんだったか」
「古い話を持ち出して来やがったな」
「エルヴィンが目をつけ、調査兵団に勧誘したらしいな」
「憲兵様はご存じというわけか」
「憲兵だからじゃないな。エルヴィンから個人的に聞いた」
どこか自慢げだったのを覚えている。訊いたわけではないのにべらべらと喋っていた。
「訓練兵団の同期だったそうだな」
「ああ。一時期は俺も調査兵団を志願していたんだがな。最終的に憲兵を選んだ。怖じ気づいたんだな。お前から見れば卑怯者だろうな。軽蔑するか?」
「誰でも彼でも壁外へ行きゃあいいってもんでもねぇだろ。死ぬ野郎と生きる野郎とでは生きる野郎の方がいい。大事なのは生きるか死ぬかだろ? ガキみてぇなこと言ってねぇで命を大切にするほうが賢い」
「ガキのようなこと、か」
エルヴィンのことだろうか。訓練兵時代に聞いたあの話を思い出す。大人になってもあの説を抱え続けていたと、クーデターの直前に知った。
「おかしいな。あいつは誰より賢い野郎だと思っていたのに実は誰より馬鹿だった」
そう洩らした後でリヴァイは「独り言だ」と付け加えた。追及してくれるなという意味かもしれない。
エルヴィンはリヴァイにあの話をしたのだろうか。俄然、気になってくる。
「ガキのようなことを言っていた奴を、俺も知っている。訓練兵の時に聞いて、ガキのようだと思った。しばらく聞かなかったからさすがに忘れたかと思っていたら、二十年以上経ってもまだ覚えていた。変わってなかったんだ。調査兵団の団長とかいう立場になってもな」
街灯の明かりでリヴァイの顔つきが変わったのを覚る。
「訓練兵の時か。ガキじゃねぇか。ガキのくせにガキのようだと思ったわけか」
「そんなもんだろ」
「その話を誰かにしたか?」
「ザックレー総統とピクシス司令には話した。ある程度知っているようではあったが」
「あの爺さんたちはうっすら聞いていたっぽいな」
リヴァイや他の調査兵には明かしていなかったということかとナイルは察しをつける。
「エルヴィンはお前には話したんだな」
「俺だけじゃない。同じ訓練兵団で聞かされた奴が何人もいた。調査兵団に行った奴はいないが」
「聞いたが、信じた奴はいなかったということか。ガキのたわごとだと」
そうだと答えようとしてナイルはとどまった。本当にそうだろうか。
四つ辻に差し掛かった。馬車が過ぎるのを待って通りを渡る。
「本当は俺はわかっていた」
罪を打ち明けたいような気分になっていた。何の罪だろう。裏切り? それとも隠蔽?
「俺だけじゃない。あいつの話を聞いた奴ら皆」
はっきり覚えてはいないがエルヴィンからあの話を聞いた時、五、六人はいたように思う。他でも喋っていたかもしれない。
「ああ、そうだ。その通りだ。こいつの言っていることは正しい。そう思ったんだよ、皆。口では茶化して笑いながら内心では気づいていたんだ。エルヴィンの言ったことは一理あると。だからこそ誰も口外しなかった。これは表で話していい内容ではない、そう思ったんだ。話せば捕まるかもしれない」
初めて自覚した。実は分かっていたということに。
「とことん臆病者なんだよ俺は」
「かもな。だが、だからこそ生きてる」
尋ねたくなる。リヴァイ、お前はエルヴィンに生き延びて欲しかったのかと。
「その話、うちの奴らには言わねぇでおいてくれねぇか。もう何人も残っちゃいねぇが。あいつの調査兵になった目的というあたりだが」
もとより言うつもりはなかったこともあり「そうしよう」と約束する。
そろそろ宿舎の門が見えてきていた。
どうしてアルミンを選んだんだ? この質問を口にできずにいる。最高責任者であるザックレーが不問に処すと決めた。ピクシスも同意していた。注射を誰に使うかは、指揮官であるエルヴィン自身が前もってリヴァイに委ねたからというのが理由だった。
「これは独り言だが」
リヴァイがそう切り出した。口外無用、聞かなかったことにしろという意味と捉える。
「俺はあいつの生きたいように生きさせてやれなかった」
自白のような響きだった。彼もまた罪を打ち明けたいような気分なのだろうか。
「それは、あいつが実はガキみてぇな野郎だと気づいてなかったからというのもある。だが、知った後でも俺は変わることができなかった。ああ、俺は、こいつが生きたいように生きさせてやるつもりがねぇんだな。そう気づいちまったんだ。こっちの生きてほしいように生きてくれることばかりを望んでいた。俺も、他の奴らも」
ナイルはもうなぜアルミンを選んだのか訊こうとは思わなかった。エルヴィンに打たなかった理由がわかったような気がしたからだ。リヴァイはアルミンを選んだというより、エルヴィンに注射を打たないという選択をした。そう直感する。
「じゃあな」
「ああ。ありがとう」
門の前で、リヴァイと別れる。
不意に明るくなり、宿舎や庭木がよく見えるようになる。空を仰げば、雲が途切れ、丸い月が顔を出していた。