時々子供になっちゃう兄様と一緒に暮らすことになった話1 「お前には腹違いの兄がいるのだ」
勇作の父は、死の間際に衝撃的な一言を残して逝った。
厳格で寡黙な人であった。大企業の社長としてたくさんの部下を抱え、周囲を見渡すその眼光はいつも鋭かった。「お前は将来この会社を引き継ぐのだから」と、勇作のこともけして甘やかさなかった。しかし勇作は幼い頃から聡明であったので、その厳しさが父の愛であることを理解していたし、そんな父を尊敬していた。
だから「腹違いの兄」など、勇作にとってはまさに青天の霹靂であった。思わず耳を疑ったが、隣にいた母が眉を顰めたのを見て事実なのだと直感した。
社長である勇作の父には莫大な遺産があった。遺産相続の手続きを進める上で腹違いの兄の存在を隠し通すのは不可能、父はそう思ってやむを得ず秘密を明かしたのだと思われた。
(兄様……、兄様か!どんな方だろう…?)
遺産相続の話し合いのために設けられた席で、勇作は緊張しつつ初めて会うその人の到着を待った。彼がようやく現れたのは、集合時間を20分すぎて母が痺れを切らそうとした時であった。
「……どうも。尾形百之助と申します。」
漆黒の髪をかきあげながら、男は勇作達の前に立った。歳は勇作よりも少し上、二十代後半くらいだろうか。かっちりした場の空気にそぐわないラフなパーカーを着ている。背はそれほど高くないものの、しっかりと筋肉のついた身体つきに色白の肌。しかしなにより勇作の目を奪ったのは、彼の黒曜石のように濡れた深い瞳であった。覗き込んでいるうちに吸い込まれてしまいそうなその双眸は、亡き父によく似ていた。
(この方が…!)
勇作は感動に頰を紅潮させつつふらふらと立ち上がり、男に手を差し出した。
「初めまして、花沢勇作と申します。お会いできて光栄です兄様…!」
兄様と呼ばれた瞬間、無表情だった男の眉毛がぴくりと動いた。彼は目の前に差し出された勇作の手を一瞥し、苦々しい笑みを浮かべる。
「いけませんよ、大企業の跡継ぎともあろうお方が……俺なぞに兄様、だなんて。」
その言葉には翳りがあった。耳ざわりの良い低音の声には少し投げやりなニュアンスが含まれている。彼は勇作の手を取ることなく、じっと目を見つめたままはっきりとした口調で言い放った。
「遺産はいりません。」
「え??」
驚く勇作に男は鞄の中から取り出した封筒を渡しつつ言葉を続ける。
「遺産相続放棄の意思を示す書類です。司法書士に用意させました。もう実印を押してあります。」
部屋の中がわずかにどよめいた。予想だにしなかった展開にぽかんと立ち尽くす勇作に、さらに男は淡々と告げた。
「不備はないと思いますが、何かありましたら今後の連絡は司法書士を通してください。連絡先は封筒に記載がありますので。……では失礼。」
男は興味なさげに勇作から視線を外すと踵を返し、今入ってきたばかりのドアを開けて部屋を出て行ってしまった。母をはじめとした親戚一同は彼の失礼な態度に憤慨しつつも、遺産相続の意思無しと分かり内心喜んでいる様子である。勇作ひとりが稲妻のような衝撃を心に受けて顔面を蒼白にした。弾かれたように慌てて後を追い、廊下に飛び出す。
「あ、兄様!お待ちください!!」
男は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。顔にかかる髪の毛がふわりと揺れる。
「なぜ……?」
まだ混乱している勇作を見つめる眼差しは酷く冷たい。息を潜めた肉食獣のような容赦のなさに思わず近付くのをためらって足を止めた。
「兄様……」
「いいえ、他人ですよ。」
間髪入れず放たれた言葉には取り付く島もない。
「……俺の母は…まぁ、もう亡くなりましたがね、俺はあなた方のことを子守唄がわりにずうっと聞かされ続けてきました。」
勇作は先程までの自分の浮かれようを恥じていた。初めて会う兄弟と親睦を深められたらいい、などと本気で考えていたのだ。相手の立場からはどんな景色が見えているかなど考えもせずに。
「正直うんざりなんですよ。あなたがたに一切関わりたくありません。もう会うこともないでしょう。では。」
遠ざかる背中を勇作は黙って見送るしかなかった。
****
桜の花びらがひとひら、窓の外をひらひらと横切っていく。
ふと顔を上げた勇作は大きく伸びをして、気分転換にバルコニーに出た。振り返った部屋の中にはまだ段ボールがいくつか積まれている。
この春から大学院に進学した勇作は、この部屋で初めての一人暮らしを始める。数日後に始まる新学期にそなえてもう少し部屋を片付けなければならないのだが、朝から片付け通しでさすがに疲れてきたところだった。ぼんやりと見下ろした街には鮮やかな桜並木がまさに春爛漫と咲き誇っている。
人々の往来を眺めていた勇作は1人の男に目を止めた。皆が忙しなく行き交う中で、彼だけが静かに桜の木を見上げている。その姿は数ヶ月前に初めて会った腹違いの兄に佇まいが似ていた。
(兄様……)
勇作はいまだに時折あの日を夢に見てうなされる。
もう2度と会うこと叶わぬ、たった1人の兄弟。
あんなに冷たくあしらわれたにも関わらず、勇作はいつでも親しみを込めてその姿を脳裏に描いた。邂逅は一瞬だったが、兄の小さな所作のひとつひとつ、何もかもがどうしようもなく愛しく思い出されてしまう。あの方と普通の兄弟のように過ごせたなら、どんなに素晴らしかっただろう。
ため息をつきながら頬杖をつく。桜の下では先程の男がまだ木を見上げて立っていた。
「……」
なにか違和感を感じて再び彼に目を留める。先程は花見でもしているのかと思ったが、それにしてはやけにきょろきょろと辺りを見回しているようだ。まるで迷子のようにうろうろしたりぼうっとしたり。
「なんだ…?」
目を凝らしていると、ふと彼がこちらを振り向き思いがけず目があう。
「えっ?」
勇作は目を疑った。そんな、まさか、と思ったがやはりその姿を見間違えるはずもない。勇作は慌てて鍵を掴むと爪先に靴を引っ掛けて玄関を飛び出す。
エレベーターを待ちきれずに階段を転がるように降り、マンションのエントランスをぬけると桜舞う中にあの人が立っていた。
「兄…様……?」
呼ばれると男はぼんやりと勇作に目を向けた。
オールバックのヘアスタイル。黒曜石の瞳。
やはり間違いなく、それはあの日出会った兄その人である。
だがあの日の凍りつくような雰囲気は身を潜め、代わりに無防備な素直さと困惑を感じた。勇作を見ても何の反応も示さなかったので、忘れてしまったのかとおずおずと自己紹介をする。
「兄様、あの…、花沢勇作です。あの日にお会いした…」
「……」
「す、すいません、偶然お見かけしたもので…ついお声掛けしてしまいました。兄様はもう関わりたくないとおっしゃったのに…ごめんなさい…。」
「……」
兄はきょとんとした様子で小首を傾げた。本当にすっかり忘れてしまったのだろうか。しかしそれにしても仕草に毒気がなく、本当に幼い子供のようだ。あの日の兄と姿は同じだが同一人物とは思えない。
「あの、兄様…?」
訳がわからずに言葉を詰まらせていると、兄はゆっくりと口を開いてたった一言呟いた。
「……おとうさま?」
「……え?」
黒い瞳を濡らしてぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。突然の出来事に勇作はぎょっとして固まった。
「おとうさま、ごめんなさい…できそこないでごめんなさい…良い子にしますから…どうか母さんのところに…」
「あ、兄様…?どうされたのですか!?」
ひっくひっくと嗚咽を隠すこともなく泣きじゃくる兄の背中を勇作はわけもわからず慌ててさすった。大の男が泣き喚く異様さに周囲の視線が集まってくる。
「…兄様、私の部屋へ来ていただけませんか?すぐそこですので…」
勇作は泣き止まない兄の手を引いて、マンションのエントランスに駆け戻った。
****
ごめんなさいごめんなさいと謝り続ける兄をソファーに座らせると、勇作はその横で彼が落ち着くのをひたすら待った。兄はひどく動揺しているようで、身体は震え呼吸も荒い。この間の無表情が嘘のように必死の形相で勇作にしがみついて許しを乞うた。
「兄様、……水を持ってきますね」
あまりの様子に勇作は困ってキッチンに行こうと立ち上がった。しかしそれが兄の動揺を最大限に引き出すきっかけになってしまった。
「おとうさま…行かないで…」
兄は勇作を追ってソファから転げ落ちると、顔面蒼白でガクガクと痙攣した。
「…あ、あ!」
兄の足元にジワジワと水溜りが広がる。彼が粗相をしたのだと勇作が気付くまでにはたっぷり数秒の時間を要した。
「あ、兄様…?!」
「うっ…ううっ……ごめんなさい…ごめんなさい…」
一体何がどうなっているのか?
クールで大人な兄が幼児のように泣きじゃくり粗相を…?
混乱した頭で状況を整理しつつも勇作はてきぱきと風呂を沸かし、震える兄を洗面所へ連れて行った。
これはさすがにどう考えてもおかしい。
二重人格?記憶喪失??
「兄様、お風呂…ひとりで入れますか?」
尋ねてみるが案の定何も答えは返ってこない。勇作は迷ったが心を決めた。兄の服に手をかけシャツのボタンを外していく。
「し、失礼します。」
シャツを脱がすと形の良い筋肉の丘陵が現れた。意識しないように心がけようとしたが顔が紅潮してしまうのを感じる。少し罪悪感を覚えつつ引き締まった腰に手をかけ下の服も脱がしてやると、勇作は自らも服を脱ぎ兄と共に風呂場に入った。
「大丈夫ですからね」
優しく声を掛け、白い肌に石鹸を滑らせる。泡を洗い流し、浴槽に入ると兄もやっと落ち着いてきたようだった。
「……あの…兄様、私はおとうさまではありません。」
「…そうなの?」
上目遣いに様子を伺う兄に勇作はニッコリと微笑みかける。
「はい、私はあなたの弟です。」
「おとうと…」
「勇作と申します。あなたの味方ですよ。だから…どうか怖がらないでください。」
兄はじっと伺うように勇作の顔を見た。彼の真顔を見ているとこの状況の異様さに改めて混乱しそうになる。狭い浴槽に大の男が2人ぎゅうぎゅうに詰まって顔を見合わせている。これではまるで…
勇作は頭を振って浮かびかけた邪な考えを吹き飛ばし、誤魔化すように言葉を紡いだ。
「いくつか…お聞きしてもよろしいでしょうか?ご自分の名前は言えますか?」
兄はゆっくりとまばたきをしてこくりと頷いた。
「ひゃくのすけ。おがた…ひゃくのすけ」
「そうですね。歳はわかりますか?」
「ええと…」
百の介は両手の指を折りながら数を数えている。
「6つ。」
「……」
やはり幼児退行のような状態にあるようだ。勇作は困って頭をかきながら次の質問を考えた。
「おうちはどこですか?」
「わかんない。」
「どうやってここにきましたか?」
「わかんない。」
「そうですか…。」
「あつい。……もう上がってもいい?」
「あ…ああ、そうですね!」
考え込んでいるうちに長風呂になってしまった。勇作は慌てて立ち上がると兄を連れて浴室を出た。タオルで体を拭いてやり、自分の部屋着を着せてやる。少し大きいらしく、袖口から指だけが覗いた。もともと兄が着ていた服は洗濯機に入れてスイッチを押し、てきぱきとドライヤーで髪を乾かし始める。普段は頭に撫で付けている長い前髪がそのまま目元に覆い被さると、意外にも兄は童顔であった。
「…ユーサク」
「はいっ?!」
初めて名前を呼ばれて、声に隠しきれない嬉しさが滲んでしまう。百之助は少し遠慮がちに呟いた。
「…お水ちょうだい」
「ど、どうぞ!」
大急ぎでコップを手渡すと兄は「んく、んく」と喉を鳴らして水を飲み、その様子を勇作がじっと見つめていることに気づくと少し微笑んだ。
「ユーサク、はだかんぼ」
兄の世話に必死で、勇作はまだ風呂から上がったままの姿だったのである。彼はカーッも顔を紅潮させ、大急ぎで身だしなみを整えた。
髪を乾かしてリビングに戻ってくると、ベッドの上で兄は小さく丸まって寝息を立てていた。
****
百之助はあの遺産相続会議以来、毎日悪夢に悩まされていた。
夢の中で彼は子供で、何も思い通りにすることができない。いつも家を見つけられずにさまよう、ひとりぼっちの迷子だった。
その日の悪夢では、百之助は母の作ったあんこう鍋を抱えていた。父を探して暗闇を見渡すと、かなたにその姿が見えた。
「まって!」
重い鍋をひっくり返さないようにヨタヨタと助けを求める。しかし父は振り向きもせず、別の子供の手を取った。
「花沢…勇作……」
自分の声にハッと我に帰り夢から醒める。目を開けるとすぐ前に、まさに今呟いた名の男が寝そべっていた。危うく声を上げそうになりながら慌ててベッドの上から飛び退く。
「はっ…はっ…?」
跳ね上がる心臓を押さえながら、百之助は真っ暗な部屋の中を見渡した。カーテンを捲ると空にはもう月が昇っている。
(なんだ…?どういうことだ…?!ここは…?!)
ふと視線を落とすと、見覚えのない服を身に纏っていた。袖が少し長くて余っているが、花沢勇作のものなのだろうか。この部屋も彼のものだとすると、自分はなぜここにいるのだろう。
頭がズキズキと痛む。何も思い出せない。
「……っ、う……」
「ん……?」
呻き声に勇作が目を覚ました。
「兄様…?どうしましたか…?」
兄は暗闇の中に蹲り、ひっそりとこちらの出方を伺うように息を潜めている。その目には先程までとは違い、しっかりとした意思が感じられた。勇作は慌てて飛び起きる。
「元に戻られたのですか?!」
言い終わる前に兄はベッドの上の勇作に飛びかかってきた。
「俺に何をした……!!」
「ご、誤解です!どうかお聞きください!」
百之助がふらついた一瞬の隙に、勇作はその身体を素早く組み敷いた。両手をベッドに押さえつけ、馬乗りのような姿勢になる。
「離せ……!!」
長い前髪の隙間から真っ黒な瞳が静かに勇作を睨んだ。思わずたじろぎながらも勇作は勇気を出して言葉を紡ぐ。
「無礼をお許しください。私にもこの状況はよくわからないのです…。兄様は先程まで小さな子供のような振る舞いをされていて…」
「……」
「なにかにひどく怯えていらっしゃるようでした。どうしてか私を父上と勘違いして…、あの…覚えていらっしゃいますか?」
百之助は何も答えなかったが、その表情からはゆっくりと怒気が消え、代わりに冷たい空虚が押し寄せた。ぎくっとして思わず手を離すと、百之助はふらふらとキッチンへ向かった。そしておもむろに包丁を手に取ると、振り返って薄く微笑んだ。
「勇作殿、俺を殺してくれませんか?」
「……え?」
勇作は兄の言っている意味がわからず硬直した。しかし手に包丁を握らされ、驚いて我に帰る。
「な、何をいうのですか兄様…!?」
「最初で最後の頼みです。」
「本気でおっしゃっているのですか?!」
「あなたが人を殺すところが見てみたい。」
百之助が服をはだけると白い首筋が露わになる。包丁を当てると切先がつぷと沈み、赤い玉を浮かばせた。
「お、おやめください!!」
勇作は慌てて包丁をはたき落とし、そのまま百之助を抱きしめた。床に落ちた包丁はカツーンと冷たい音を立て、くるくると回りながら部屋の端まで転がっていく。
百之助はぼんやりとされるがままにしていたが、勇作が泣いていることに気付くと急に笑い声を上げた。
「……ははは!冗談ですよ、大袈裟ですねぇ勇作殿は」
「冗談にしていいことと悪いことがあります!」
まだ泣きながら、しかもなにやら怒っているらしい勇作を見て、百之助は一瞬変な顔をした。不機嫌そうに勇作を引き剝がすと長い前髪を掻き上げる。そして急にカーテンを開けると夜空の月を見上げた。
「良い夜ですね。」
カチャリと音を立てて、ベランダの鍵が開く。百之助は窓ガラスを開けて下を見下ろした。月光がその横顔を優しく照らし、優しい風が桜の花びらを連れてくる。
百之助はぼんやりと瞳に夜桜を映し、ぽつりと呟いた。
「……勇作殿、父上は…」
「はい」
「父上は……母のことを、何か言っていましたか?」
「……いいえ。」
「…そうですか。」
勇作もベランダに出てみる。静まり返った街の冷たい空気が心地良い。
「勇作殿はいつから俺のことを?」
「父が死の間際に…。」
「最近ですな。…はは、勇作殿も災難なことです。」
「え…?何がでしょう…?」
「俺のような兄を持ったことですよ。」
そう言うと百之助は急にベランダの欄干を越え、身を乗り出した。危ない!と勇作が叫ぶ間も無く、ずるっと身体が落ちていく…
そう思われた時、百之助の動きが急にガクンと止まった。
「兄様!!」
すかさず勇作がベランダに百之助を引き込む。心臓が早鐘を打つようにうるさく飛び跳ねていた。
一瞬、もうダメかと思った。勇作は顔面を蒼白にして、もう絶対離すまいと兄の身体を強く抱きしめる。
しかし取り押さえられている当の百之助は目をぱちくりさせて言った。
「ユーサク…?いたい……」
はっと顔を上げると、再び子供に戻った兄が困ったようにこちらを見つめていた。
****
百之助の精神が子供化してしまうこの奇妙な現象について、それから数日間寝食を共にするうちに勇作はいくつかのことに気が付いた。
・子供化は百之助にも制御できない現象であること
・子供化している間の記憶が百之助にはないこと
・人格が大人に戻るまでの期間はまちまちであること
最後に最も重要な発見。子供化するきっかけについて。
勇作は兄に正直に話すことにした。
「兄様、落ち着いて聞いて頂けますか」
「…内容によります」
百之助はぼうっとテレビの画面を見つめつつ呟いた。子供化中のことは覚えていないものの、勇作の家で世話になっているということは何度か元の人格に戻った際の記憶が残っているため、もう錯乱することはない。
最初は子供化していることも信じられない様子だったが、証拠として撮った動画を見せたところ、面食らった猫のような顔をしてぐったりと脱力してしまった。相当ショックだったらしい。
そういうわけで今も家から脱走する元気もなく、面白くもない番組をただただ瞳に映している。
「兄様が子供化するきっかけについての仮説なのですが…」
「……」
百之助は視線だけテレビから動かして勇作を見た。勇作はごくりと喉を鳴らしてぽつりと呟く。
「…自傷行為ではないかと。」
「…ああ、やっぱりそうか?」
百之助は髪の毛をかき上げつつ自らの頭をなでた。
「いつも死んでやろうと思うのに全然死ねなくて不思議だったんだよなぁ。ここで死んだら面白い騒ぎになるだろうに。」
最初に大人に人格が戻った際、百之助は飛び降りようとした瞬間子供になった。
その後も何回か大変な騒ぎがあったのだが、いずれも彼が死を選ぼうとする行動の後に同じように子供化したのだ。
勇作は大きなため息をついた。数日間心が休まらず、目の下にはうっすらとクマが出来ている。
「もうおやめください…兄様が死んだら私は悲しいです…」
「人生滅茶苦茶にされるのが迷惑だからここでは死ぬなって正直に言えよ。」
勇作は首を横に振り、兄の胸に頭を沈めた。百之助は居心地悪そうに眉をひそめる。
「育ちの良い方の考えることはよくわかりませんね。早く家から追い出せばいいのに。」
「…私は兄様と一緒にいたいです。」
「おめでたいですなぁ。寝首かかれて殺されてもいいと?」
「…もし殺されたら幽霊になってずっと兄様を見守ります。」
「……悪霊かよ、冗談じゃねぇ…」
勇作は百之助がこれまでどうやって生きてきたのか知らない。何処に住んでいて何をして暮らしていたのか。好きなこと、嫌いなこと、まだ何ひとつ知らない。
それでも人格が子供に戻った時の兄から吐き出される素直な不安や恐怖を見ると、決してこの人の手を離してはいけないと思えるのだった。例え嫌われていようと、隣に居させてほしい。なぜここまで献身的な気持ちになるのか勇作は自分でも不思議な程だった。血のつながりがそうさせるのだろうか?
「兄様だって、子供になってしまうのはお嫌でしょう。もう死ぬのはやめにしませんか?」
「じゃあどうしろと?勇作殿は殺してくれないでしょう。」
「…なぜ、そこまでして死にたいのですか?」
「テメェがそれを言うのかよ。」
百之助の目に凍り付くような殺意が宿った。少しでも返答を間違えたなら取り返しがつかなくなりそうな張りつめた空気の中、勇作は恐れることなく言葉を放った。疲労で頭がぼんやりしていたせいか、その口元は優しく微笑んでさえいた。
「私が責任を取って兄様を幸せにしてみせますから。」
「………は???」
百之助は思わず口をあんぐりと開けて固まった。そのまま永遠とも思われるような長い数秒間が過ぎる。
「な……?それは、どう、いう……」
わなわなと震えながら勇作の顔を見ると、いつのまにか百之助の胸に寄り掛かったまますうすうと寝息を立てていた。百之助は言葉を詰まらせて、混乱しながらいつまでもその寝顔をじっと見つめていた。
兄弟の奇妙な共同生活がこうして始まったのだった。