据え膳食わぬは予定時間より少し早くレッスンスタジオに入るとまだ雨彦さんしかいなかった。挨拶もそこそこに雨彦さんは僕を呼び寄せるとわずかに声を潜めて告げる。
「すまん北村。今夜の約束は無しにしてくれ」
今夜の約束。雨彦さん家に泊まる予定のことだ。
そもそも僕が押しかけるような形の一方的な約束なのだし、雨彦さんにだって都合も気分もあるのだから中止にしたって全然構わないのだけど。「うん、わかった」と頷いた僕からなにかを汲み取ったのか雨彦さんは少し早口で付け足した。
「うちのエアコンが壊れちまってな。修理が明後日になるそうだ」
「え、それは大変だねー。雨彦さんどこで過ごすのー?」
「日中は事務所や清掃社に避難するさ。夜は今日明日はホテル泊かね」
夏に向かって暑くなってきた盛り、暑さに弱いこの人はエアコン無しでは辛いだろう。もちろん本人が一番わかっているから、雨彦さんの苦笑には憂いが滲んでいる。だから、つい、ぽろっと提案してしまった。
「じゃあ、うち来ますー?」
僕の言葉に雨彦さんは切れ長の目をちょっと丸くして虚をつかれた顔をした。
「ホテル代もったいないでしょー」
「…いや。申し出はありがたいが、悪いだろう」
「それを言うなら元々は僕が雨彦さんちに行くはずだったんだから、お互いさまじゃないー?」
「一人暮らしの家に連れ込むのと、ご家族がいるお宅にお邪魔するのとは訳が違うさ。それに俺もいい思いさせてもらってるしな」
いい思いって、言い方がいやらしいなー。けれど雨彦さんちに泊まる時は、いつもそういう雰囲気になってしまうのも事実だ。
「うちは今日も兄さん帰ってこないから遠慮しなくていいですよー? …『いい思い』はご遠慮いただきたいですけどー。布団貸すくらいならねー」
雨彦さんが次に何かを言う前に、レッスン室の扉の向こうから足音が聞こえて僕らは口を噤んだ。
「雨彦、想楽。おはようございます!」
「クリスさん、おはようー」
「今日も潜ってから来たのかい?」
「はい!外は暑いですが水温は快適ですよ」
潮の香りと共にクリスさんが到着したので、ふたりの内緒話はいったん打ち止めとなった。
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「どうぞー。いらっしゃいませー」
「ああ。お邪魔します」
我が家の玄関扉をくぐる雨彦さんは、戸口の低さのせいだけではなく少し肩身が狭そうだった。帰り際まで棚に上がっていた雨彦さんの借宿問題は、結局僕が押し切る形で「なら、今夜だけ厚意に甘えさせてもらおうか」と折れてくれた。エアコンが直るのは明後日なのだから、明日の夜だって泊まってもいいのに。雨彦さんは元々の約束の埋め合わせ分しか譲る気はないようだ。
「いい部屋だな」
「それはなにー? 掃除のしがいがあるって意味ー?」
「いいや。さすが、きれいなもんさ」
雨彦さんがうちに来るのは初めてで、興味深そうにぐるりと部屋を見渡された。片付けてはいるつもりだけれど、掃除のプロに見られるのは緊張する。昼の間無人だった室内には熱がこもっていた。すぐにエアコンのスイッチを入れて雨彦さんに振り返る。
「部屋が冷えるまで雨彦さん先にシャワー使ってー。お風呂場はそこのドアのところだよー」
「ああ。ありがとな、先にいただくぜ」
「後でタオルとか置いておくねー」
雨彦さんはお風呂場へ消えて、僕は自室にいったん荷物を置いてからタオルを準備しに行く。もともとホテルに泊まるつもりだった雨彦さんは着替えなんかは持参していたから、僕や兄さんの服を貸して寸足らず、なんて惨事は免れた。お風呂場から聞こえるシャワーの音にちょっとそわそわしてしまいそう。ご飯はクリスさんも一緒に外で食べてきたし、うちですることなんて後は本当に寝るだけなんだけれど、僕も少し浮き足立っているのは否めない。
シャワーの音が止まった。僕は慌ててリビングへと戻った。
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僕がシャワーを済ませて出てくると、雨彦さんは窓際に並んだ雑貨を眺めていた。前髪が下りている雨彦さんは眉が見えにくくなるせいか、よりミステリアスな印象が濃くなる。見慣れた家の中に見慣れない姿があるのがどうにも落ち着かなくてどきどきしてしまう。僕は心の動揺を悟られないように振舞った。
「なにか気になるものでもあったー?」
「いや。見覚えがあったんでつい、な」
示したのは小さな砂時計だ。そういえばこれを買う時に雨彦さんも一緒にいたんだった。ものすごく実用的な使用方法を口にしていたのは忘れていない。
「眺めれば時を忘れる砂時計。ちゃんとインテリアになってるでしょー」
「ああ、置くべき場所に置くと洒落たもんだ。俺は片付けるのは得意だが、飾るのはまだ及ばないな」
「元雑貨屋店員ですからー。小さな海コーナーもあるよー。主にクリスさんからのプレゼントだけどねー」
「うちにもどんどん増えてるな。よかったら飾り方のコツを教えてもらえるかい」
「ふふ。まかせてー」
なんてことない雑談をしたり、録画した出演番組を観て反省会したり、そんなことをしている間になんだかんだと時間は過ぎていった。
「いつの間にかこんな時間だー。そろそろ布団敷くねー」
「場所が分かれば自分で敷くぜ?」
「いいよ、毎日してることだからー」
僕は腰を上げてリビングを出ると自室へ向かう。他の部屋は全て洋間だけれど、僕の部屋だけは畳敷きの和室だ。押し入れからいつも使う布団一式を取り出し手早く畳に広げる。最後に枕を雨彦さんに手渡した。
「枕これしかないから使ってー。僕はクリスさんから貰ったメンダコのクッション使うからー」
「……北村はどこで寝るんだ?」
「え? ここだよー。今布団敷いたでしょ?」
「……俺は?」
「だから、ここ………」
気が抜けていた僕は盛大にやらかした。
雨彦さんちに泊まる時は、同じベッドで眠っていた。雨彦さんは縦に大きいから、それに合わせたベッドは横幅が余っていて二人で入ってもなんの問題もなかった。しかし今日は僕の部屋、僕の布団だ。雨彦さんには足がはみ出すほど小さいだろう。だというのに、僕は今、なんの疑いもなくその狭い布団で一緒に寝る気でいたと口にしてしまった。
「北村がそれでいいなら、俺としちゃあ断る理由はないが」
どうだ、って、僕に訊いてくるのは本当にずるいと思う。楽しそうに笑う狐を恨めしく見つめながら、僕はメンダコクッションを力の限り握りしめた。
「…暑いだろうから、設定温度ちょっと下げるねー」
「ありがとな」
ピ、と軽やかな電子音をさせたリモコンを置いて振り返れば、すでに布団の中で雨彦さんが僕を招いている。僕は部屋の明かりを消してからおずおずとそこに潜り込んだ。暗い中でも雨彦さんの顔がわかるほど、近くて、狭い。
「…やっぱり、狭くないー?」
「そうかい? うちで寝る時もこんなもんだったと思うが」
「そうかな…」
雨彦さんの腕が、布団の上から僕の肩に回る。寝かしつけるみたいな穏やかな触り方なのに、僕の心臓は全然穏やかではなかった。それなのに、至近距離から「北村」と囁かれて、ヒッと息を飲んでしまう。
「はは、そう怖がりなさんな。さすがに一宿の恩を仇で返しはしないさ」
「…仇とは、思わないかなー」
「ふぅん?」
「……してもいいよ?『いい思い』」
レッスン室の時は、自宅に雨彦さんが来る実感が湧かなくてああ言ったけど。実際にこんなに近い距離でいたら、触りたいし、触られたい。ちら、と雨彦さんを窺うと少し困ったような顔をして、僕を宥めるように布団をぽんぽん叩く。
「今日はお互い我慢しようぜ」
「どうしてー? 自分で言っちゃうけど、据え膳だと思うよー?」
「男の恥でも、お前さんちで不埒を働くのは忍びないのさ。食い散らかすなら自分の縄張りでって決めてるんでな」
次の楽しみにとっておく、と吹き込まれてしまえば僕もそれ以上は強要しない。
「据え膳をラップで包んで冷蔵庫…。忘れないで食べてよねー」
「その時は美味しくいただくから、覚悟しとくんだな」
手を出されないのが残念な気持ちと、ほんの少しの安堵。冷蔵庫ほどではないけれどひんやりした空気の部屋の中、ピンと張られたラップではなく柔らかな布団と雨彦さんのぬくもりに包まれながら、僕は目を閉じる。
据え膳を大事にしてくれるあなたが、嫌いじゃない。