がたん、とひときわ大きな揺れを残し、馬車が止まる。
ふと目をやると、窓の外にはそれなりに栄えた街並みが広がっている。
目的地までの道のりはまだまだ遠いはずだ。おそらくは馬車の休憩地点に着いたのだろう。噴水公園と思しき広場には、他にも大小さまざまな馬車が列を成している。
ちょうどこちらも座りっぱなしで、尻と足が限界に近くなってきたところだ。少し外に出してもらおう。
立ち上がり、敷物代わりにしていたストールをはたいて巻き直していると。
頼むまでもなく扉が開き、御者が無遠慮に顔を覗かせた。
「バーソロミュー様、お降りください。我々がお送りできるのはここまででございます」
「なに?」
「辺境伯領への道行を知るのは、かの領地に通ずる者だけ。間もなくあちらの馬車がお迎えにあがるそうで、しばしお待ちいただかなければなりません。さあ、外へ」
そんな話は聞いていない。見せかけだけは恭しく頭を下げてみせた御者を、じっと睨む。
馬車を乗り換えろというのはいい。だが、肝心の乗り換え先が到着するまで外で待てというのか。このまま馬車の中で待機するわけにはいかないのか。
そういった文句を、しかし、私はすべて喉の奥に押し込めた。末端の使用人である彼に何を言おうが変わらないことなど、重々承知である。
それにいつものことだ。ぞんざいな扱いなどというものは。
禿げ頭にわざとらしいため息をぶつけて、荷物を片手に、大人しく馬車を降りる。
昼過ぎの空は爽やかに晴れていた。屋根付きキャビンのこもりきった空気にも辟易していた私は、新鮮な春風を胸いっぱいに補充しながら、固くなった身体をぐぐっと伸ばした。
「お父上にお伝えすることはございますか?」
視線だけを振り向かせ、中肉中背の御者を見下ろす。彼はすっかり帰還の構えを取っている。早く帰りたくて仕方ないのだろう。仮にも爵位持ちの家柄に属する人物に対して、露骨なまでに礼を欠いた態度だ。
まあ、本当に『仮』でしかないので、何とも言いがたい。
そして、こちらも決まった文句しか返さないのだから、そんな態度を取りたくもなるのだろう。
「『今までお世話になりました。今度こそは幸せになれるよう、誠心誠意尽くします』と、お伝え願いたい」
「……承知しました」
舌打ちを誤魔化すような返答の他に、御者はもはや口を開かなかった。私が降りて空っぽになったキャビンの扉をしっかり締めきり、そそくさと御者席に飛び乗って手綱を振るう。二頭立ての馬車がまるで逃げるように遠ざかるのを、私は横目で見送り、息を吐いた。
……今回ばかりは、わりと本音だったのだが。
まあいい。彼には知る由もないし、訂正してやる義理もない。
さて、首筋を伸ばすがてら、辺りを見回してみる。ここまで誰も声を掛けてこないということは、先方の馬車とやらはまだ来ていないのだろう。やはり、待つ必要があるようだ。
とりあえず、噴水の縁に荷物を置いて、その隣に腰かけることにした。自由に空気が吸えて思いきり足を伸ばせるぶん、狭いキャビンよりは格段に快適だ。とっとと帰ってもらって正解だったかもしれない。
それにしても、街はやけに賑わっているように思える。こうしている間にも広場には馬車が次々と入ってくるし、そこから降りてくる人々の大半は身なりよく着飾っている。年齢層としては特に若者が多く、どこかで見覚えのある顔がちらちら目に留まったあたりで、ようやく確信した。
あれらのほとんどは、貴族の子息令嬢らしい。今夜、社交パーティーでも開かれるのだろうか。
これは、使者とやらを見つけるのに苦労するかもしれないな。
思わず苦笑するさなか、私の鼓膜は、ひそひそと囁き合う声を拾った。
「……ねえ、今のはロバーツ家の馬車でなくって?」
「ああ、あの鞍の紋章、間違いない」
「ということは、そこから降りてきたあの、黒い肌に青い目の彼は……」
畏怖と嫌悪にほんの少しの好奇心を混ぜたような声に、同じ声色が頷いて返す。
「バーソロミュー準男爵令息――――『海の魔女』だ」
おやおや。よくご存じで。
「どうしてこの街に……まさか、今夜のパーティーにいらっしゃるおつもり?」
「いや、礼服でもないし荷物を持っているから、どこかに出かけるんだろう」
「もしかして、またどこかの御家に嫁ぎに?」
「まあ、婚約破棄を言い渡されたばかりですのに? なんてお尻の軽いこと……」
「一月も経たないうちにとは、相手方も相手方だな。どうして皆、あの『魔女』を御家に招き入れようなどと思うのか……」
「でも、たしかに見惚れてしまいそうだわ……あれでもうすぐ四十を召されるなんて信じられないわ」
「ええ本当に、親戚の叔父様方とは比べものにならない若々しさ……」
「いっそ気味がわるいよ。『魔女』らしく若返りの薬でも飲んでるんじゃないか?」
「ああ、だからあんなに肌が黒く、髪も奇妙に色抜けて……」
「おそろしいわね、近づくだけで呪われてしまいそう……」
「ちょっと、聞こえますわよ……」
諸君。聞かれたくないのなら、胸のうちに留めておきたまえ。
鋭い視線を飛ばしてから、にこりと口元だけで微笑んでやると、若い貴族たちはたちまち飛び上がり蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
怒りが湧いたわけではない。こんなのはいつものことだ。危険とされる人物を記憶し、不用意に近づこうとしないあたり、若いなりに世の渡り方を理解していると感心すらしている。
その危機感自体がまったくの空回りでなければ、もう少し褒めてやれるところなのだが。
まことに残念ながら、バーソロミュー・ロバーツはただの人間だ。魔法も呪いも心得てはいない。
肌の色は単なる日焼けによるものだし、毛先が白いのは潮風で痛んでいるからだ。どちらも、海と共に生きる人間には当然に起こり得る身体的変化に過ぎない。
そもそも、私にそんなおそろしい力があるのならば。我らが栄えあるロバーツ準男爵家はとっくの昔に滅亡していることだろう。
未婚にも関わらず使用人に手を出し、孕ませたとわかればクビにして放り出し、正妻との子に恵まれなければその子供だけを呼び戻し、無理やりに貴族教育を叩き込み、正妻が子を産んだとなればあっさり手のひらを返し、妾腹と下に置いて政略結婚の駒扱いするような父親のいる家など、世の為にもいち早く潰してしまっているだろう。
三十年もそうなっていないことが、私がなんの力も持たない人間である証拠だ。
一方で、悪名に付随して語られる悪行はというと、こちらはまぎれもない真実だ。
嫁ぎ先の財産をことごとく食いつぶし、享楽にふける道楽息子。狡猾な手管で破滅させた家は数知れず。そうして、ロバーツ家の傀儡でありながら御家の評判を常に地に貶める落伍者。
マリンブルーの瞳を持つ魔性。『海の魔女』。
少年期から青年にかけて、好き物相手に『嫁』として多く送り出されていたからか。誰もが見上げるほどの美丈夫に育ちきった今でも、私は変わらずそう呼ばれている。
それらはまったく、私のやってきた所業の評価としてふさわしいものだ。弁解の余地はない。
これから向かう先でも、同じようにするつもりなのだし。
ふと、また一台、馬車が広場に入ってきた。私が乗ってきたものと同じように、屋根付きのキャビンを二頭の青毛が牽いている。
しかし、ぴたりと停まったその馬車からは、一向に誰も降りてこない。御者らしき青年もキャビンの扉を開けようともせず、御者席から飛び降りてきょろきょろと視線を巡らせている。
もしかして、と私が思い至ったのと、彼の青い目がこちらを見つけたのはほぼ同時だった。
荷物を持って立ち上がると、青年はぱたぱたとこちらに走り寄ってきた。
「君がゲール家の使者とやらか?」
「はいっ、そうです! お待たせしてすみません!」
目の前でピタッと止まり、キャスケットを脱いでガバッと下げられた黒髪を見下ろす。
彼が謝罪する謂れはない。あの御者が早上がりをしたいがために道を急いだせいで、こちらが早く着きすぎたのが原因なのだ。勇み足の荒っぽい運転のおかげで、私の尻もいつも以上に打撃を受けている。ストールを季節外れの厚手にしておいてよかった。閑話休題。
とはいえ、礼儀正しい御者君には申し訳ないが、そんな情けある言葉を返してはやれない。彼もゲール家のいち使用人。味方でない者に掛ける優しさなど持ち合わせていない。
と、いうふうに、私はふるまわなければならないのだ。
冷酷で悪辣たる『海の魔女』として、徹底するのであれば。
というわけで、図を低くしたままの青年をすり抜け、すたすたと馬車へ向かう。少しして、慌てきって乱れた足音と、青年の上ずった声が追ってきた。
「あ、お荷物お持ちしま……」
「結構」
ばっさりと切り捨て、伸ばされた手もさっと避けて、私は自分でキャビンの扉を開け放った。本来やるべき仕事のすべてを奪われたであろう青年の戸惑いが背中に伝わったが、気づかないふりをして、扉を締めきった。
「あの……休憩とか、されなくても大丈夫ですか?」
「早く出してくれないか」
「えぇっと……じゃあ、はい、出発します……。けっこう揺れるのでお気をつけて。あ、お気分悪くなったらすぐおっしゃってくださいね!」
最後まで気遣わしげな言葉を残し、青年の声は御者席に飛び乗ったようだった。
罪悪感、というべきものがまだ、この私にはしぶとくも残っているらしい。つきりと痛む胸の内に自嘲が漏れる。
その人の好さは、もっと素直な人間に受け取ってもらうべきものだろうに。もったいないことをさせてしまったな。
窓の外に放りだしたため息は、カラカラと回り始めた車輪に牽きつぶされていった。
♢♢♢
馬車を乗り換えて進み、別の街で一夜を明かし、さらにもうひとつ中継地点の街を通過して。
太陽が西へと大きく傾きかけても、私はまだキャビンの中にいた。
嫁ぎ先のゲール伯爵領は、王国が統べる大陸の端の端、まさしく辺境と呼ぶべき僻地にある。我がロバーツ家は大陸中央の内陸に居を構えているが、距離的にはそう遠くはないはずだ。おそらく日が沈む前には到着吸うだろうが……。
ちらり、と窓の外を見やる。
眼前に広がるのは、鬱蒼とした森。昼日中にも関わらず薄暗い中を、木々の隙間を縫うように進んでいる最中だ。
しかし、自然たっぷりの道行は決して悪路ではない。街中に敷かれた道に比べれば多少揺れるものの、耐えがたいほどの不快さはない。どうにも、わかるものにはわかるように整備された道が存在し、あの御者君はそこを順々に辿っているような感じがする。
なるほど。やはり、意図しての秘匿か。
予想を確信に変えながら、私はいま一度、深く考えざるを得なくなった。
パーシヴァル・ド・ゲール。
正体不明の辺境伯―――『清き愚か者』と呼ばれる、我が未来の伴侶について。
『不明』という文句は、ゲール家の現当主にとっては大袈裟でなく、純然たる事実を示すものだ。
なにせ、顔も、年齢も、経歴も、すべてが謎に包まれている。社交の場に顔を出したことは一度たりともなく、王侯貴族ですら彼の素性を知る者は少ないとか。私もそれなりに多くの場に参列してきたが、それらしき人物を見かけたことはない。
謎に包まれているのは当人のみならず、彼が治める領地についても正確な所在地からして不明瞭。辺境伯であることから、王城からある程度離れた直轄地であるのだろうが、推測できるのはせいぜいそこまでだ。どの家とも領地とも交流していないにも関わらず、王家に納めるべき税を欠かしたことはないらしいので、それなりに栄えてはいるはずだが。
……と、こんなふうに、ゲール家については何もかもがわからずじまいなのだ。これ以上のことを知るのは、かの家に爵位を与えて領地に派遣した王家のご歴々くらいだろう。
そんな少なすぎる情報から、疑り深い貴族社会は当然のごとく、こう判断する。
なんの力も働かずに、ここまで素性が知られないことなどあり得ない。誰もが正体を知り得ないのは、悪意をもって隠されているからだ。隠されているのは、知られたくない理由があるからだ。
では、その理由とは。わからない。だが、表に出せないほどに後ろめたいものには違いない、と。
そこに加えて、現当主であるパーシヴァル閣下を指しての『清き愚か者』。この二つ名だ。
こちらも出所は不明で、いったいどういう意味で、彼の何を評して付けられたものかも定かではない。ただ、どう聞いても誉め言葉ではない通り名まで広まってしまえば、後はもう雪崩のごとく。あることないこと囁かれ、もはや何が真実なのかもわからない状態が、ますますもって『不明』の二文字を確固たるものにしている、などという始末。
挙句の果てに付けられた結論は、寝た犬は起こすな、というもの。実在すら危ぶまれるブラックボックスとして、ゲール家の立ち位置は完全に定着した。
それが、パーシヴァル・ド・ゲールについて私が知り得ることのすべてだ。
……そんな気味の悪い男の伴侶になるのだ。
この私、バーソロミュー・ロバーツは。
正直、縁談の話を聞いたときはぎょっとした。これまで様々な家に押し付けられ、もとい、嫁がされてきた私だが、今回ばかりは流石に即答をためらった。ゲール家の悪評は聞き及んでいたし、万が一にも関わらないように気を配ってもいたからだ。好んで藪をつつき回す趣味など私にはない。
しかしまさか、蛇の方が勝手に藪から飛び出してきて、求婚してくるとは思うまい?
それも、前の夫に公衆の面前で婚約破棄を言い渡されてから、たった三週間後にだ。
何故、という疑問は今になっても尽きない。何故、かの悪名高いパーシヴァル卿が、同じく悪名高い私などと婚約しようと思ったのか。いくら考えても納得できる答えは浮かんでこないでいる。
とはいえ、だ。
私は大いに悩みつつも、結局はごく従順に首を縦に振り、こうして婿先の領地へ向かっている。なにしろ伯爵家直々のお達しだ。下の下の少し上あたりの準男爵家、しかも正妻の子でない私に、謹んでお受けする以外の選択肢は無きに等しい。丁寧にご指名されているのでなおさらだ。
それに、そう。あと少しだ。
あと少し、あと一回。
この婚約さえ乗りきれば、私は、やっと―――。
そう思うとなおのこと、決意は深まるばかりだった。断る理由などあるはずもなかった。
首筋を飾るチェーンを、ふと指でなぞる。それに繋がれた『財宝』の形を服の上から確かめ、来たる難局をせせら笑う。
正体不明の辺境伯? 『清き愚か者』?
そんなものがいったいなんだというのだ。悪名高い貴族の相手など星の数ほど経験している。いまさらどんな人物が夫になろうと、どんな苦難が待ち受けていようと、私は決して屈したりなどしない。
長く待ち望んだ自由に、もうすぐ手が届くのだから。
♢♢♢
「———あの、お身体は辛くなってませんか?」
不意にキャビンの外から被さった声は、いたわりの気持ちを未だ失くしていない。
当然のごとく答えないでいると、御者の青年は早くも慣れてきたのか、はたまた諦めたのか。ひとりでに言葉を続けた。
「もうちょっとで森を抜けますよ。揺れるのも暗いのもそこまでですから」
御者君の言うとおり、少しずつだが窓の外が明るくなってきている。この森を抜けた先に、ゲール家領があるのだという。
なるほど、いま通って来た森が周辺をぐるりと覆い、領地を外部の目から遠ざけているらしい。あの獣道のような順路を知らずに樹海を超えるのは、きわめて困難を極めるだろう。まるで天然の迷路だ。
つまり、ここから先は知る人ぞ知る―――いや、ほとんど誰にとっても未知の世界になるということか。
いよいよだ、と、私は覚悟を新たにして、窓辺に身体をずり寄せた。
さて、いったいどんな風景が待ち受けているのやら。魔界のごとき荒れようでも驚かない準備はできているが、どうなることやら。
やがて、木々のカーテンが馬車を避け、視界がぱっと開く。
ひさびさの鮮やかな日光に、咄嗟に目をすぼめる。
二度か三度かまばたきをして、徐々にはっきりとしていく目の前の景色を、私はしかと目にした。
そして、見間違いかと思って、もう五度くらいまばたいた。
おだやかな陽気にお似合いの、広々とした農作地帯。
伸びた稲穂がすずやかな風にゆらゆら揺れて、緑の大地をのどかに彩っている。
あぜ道で休む農家らしき人々は、通り過ぎる馬車へと手を振り、御者の青年と挨拶を交わしている。その表情は一様に、春の日にふさわしくにこやかだ。
………おかしい。思ってたのと違う。
そんな疑問と疑念は、カラカラと馬車が進んでいくにつれ、積み重なっていくこととなった。
農地を抜けた先には、領民の多くが居を構えているだろう街があった。程よく栄えてはいるようだが、伯爵家領内のものにしては非常に小ぢんまりとして、質素にまとまった街並みだ。
そこには、キャビンの中からでも感じられるほどの、あたたかな活気があった。
うまくいっていない街にありがちな陰鬱で息づまった空気など、ここには微塵もない。どこを見渡しても、先程の農家と同じように和やかな人々の交流が繰り広げられている。発展した王都のような賑やかさとは違う、ゆるやかに訪れる幸福を大事に噛み締めるような生活の火が、そこかしこに灯っている。
………うん。おかしい。思ってたのと全然違う。
「ちょ……っと、ちょっといいかな、御者の君?」
「へっ⁉ は、はい、なんですか?」
「道を間違ってはいないかな? 今はゲール伯爵のお屋敷に向かっている道中だと思うんだが……これ、行き先あってる?」
「え、はい、あってますけど……?」
「本当に?」
「あってます」
「あってる。……あ、そう……どうも、ありがとう」
何度聞いても揺るぎない回答に、私は浮かせた腰をあえなく下ろした。
しかし、それでも信じられない。
本当にこれが、かの悪名高き『清き愚か者』が統べる領地の知られざる姿だというのか。
———めちゃくちゃ良いところじゃないか?
混乱を落ち着けようと腕を組むと、小窓越しに、同じく首を傾げている御者君が見えた。うっかり素で礼を言ってしまっていたことに気づき、大きくかぶりを振る。
いかんいかん。落ち着け、バーソロミュー。大いに予想外の展開ではあるが、まだ領地に踏み入ったばかり、序盤も序盤だ。こんなところで平常心を崩されてはならない。
いつも通りに、悪辣な『魔女』を演じきるのだ。大丈夫。私ならやれる。今までだってやってこれたのだから、余裕の構えでいればいいのだ。
ああ。しかしながら、なんだか嫌な予感がする。
予想外の展開は、これからも続々と待ち受けている。そんな気がしてならない。
……大丈夫、だよな?
不意に立ち込めてきた雲行きの怪しさに、冷たくなった首筋を無意識にさすった。
♢♢♢
まあ、古今東西、嫌な予感は得てして当たるものだ。
領地の中央にある本拠地、ゲール伯爵家の御屋敷に到着した直後。
「いらっしゃいませ、バーソロミュー様」
ずらりと並んだ使用人たちは、私が馬車から降りるより早く頭を下げていた。非常に恭しい歓迎の挨拶に、石畳の上でうっかり立ち尽くすところだった。
驚きが牽き切らないうちに、今度は御屋敷の全景に目が回る。
白い壁の平屋敷と高い柵で囲まれた敷地は、道中の民家に比べれば圧倒的に大きく、そこに住まう者の裕福さを雄弁に語っている。しかし、権力を見せびらかすような派手さはまるで見当たらず、かといって、倹約をはき違えたような粗末な様子でもない。屋根飾りから庭の草木に至るまで、在るもののすべてが質素で、上品で、洗練されている。まるで美しい風景画の中に立っているかのようだ。
総じて、めちゃくちゃいい。かなり、だいぶ好みだ。この屋敷を造った者には高評価を付けざるを得ない。
……いや、つけてどうする! しっかりしろ『海の魔女』!
自力で渇を入れていると、使用人の列からひとり、すっと一歩前に出てきた。
「ようこそいらっしゃいました、バーソロミュー・ロバーツ準男爵……えっと、令息、閣下」
つっかえながらも敬称を言いきり、ぎこちないが丁寧なカーテシーで今一度歓待したのは、橙色の髪が鮮やかな少女。まだ二十も超えていないだろう、ここから見える中でもひときわ若そうなメイドだ。
「わたしはリツカと申します。旦那様……パーシヴァル・ド・ゲール卿より、奥方様の身の回りのお世話をするよう……お、仰せつかり? ました。なんなりと言って……じゃなくて、お申しつけ、ください?」
「ああ……まあ、よろしく」
思わず吹き出しそうになったが、どうにか素っ気ない返答をする。
疑問形で締められてもなあ。慣れていないのだろうか、リツカという少女の敬語は全体的に怪しかったが、不思議と腹が立つものではなかった。
「ではどうぞ……あ、お荷物はそれだけでしょうか? お持ちします!」
「いや、結構」
きっぱり断ると、リツカはええっと驚きの声を上げた。ちょっと前にもこんなやり取りをしたような気がするな、と、行き場のなくなった彼女の両手を見下ろす。
すると、デジャブの正体が御者席からバタバタと下りてきて、彼女に耳打ちした。
「姉さん姉さん、このひ……この方はお荷物を預けたがらないんだよ。オレも馬車に乗せるときに断られちゃってさ」
「え、そうなの⁉」
「なんか大事なものでも入ってるんじゃないかなあって……」
「先に言ってよフジマル! いきなりイヤな思いさせちゃったかもしれないじゃん!」
「来たばっかりで教えるヒマなかったってば!」
「だって最初が肝心でしょ、こういうの……」
「それはそうだけど……」
と、御者君とメイド君は内容ダダ洩れのヒソヒソ話を始めてしまった。目の前にいるのだから聞こえるに決まっているのだが。
それにしても、『姉さん』とは。このふたりは姉弟なのか。外見はまったく似ていないが、人懐っこく善良な雰囲気はそっくりかもしれない。
さて、かなり微笑ましい仲睦まじさではあるが、御客人を放置しているのは問題だろう。若年なれど使用人であるからには、なおさらだろう。
だから、これは『魔女』としてではなく、社会経験の長い大人としての咳払いだ。
ぱっと振り向いた若人たちに、にっこりと笑みを作ってやる。
「私はこの庭先で、ゲール卿と面会すればよろしいのかな?」
「あっ……いえっ違います! すみません! すぐ中にご案内しますね!」
「オレも馬つないできます! ごめんなさい! ごゆっくりどうぞ!」
飛び上がるほどの勢いで焦り、彼らは自分の仕事をしっかり思い出したらしい。しかし軌道修正後の行動は素早く、フジマルと呼ばれた御者は厩へ、リツカは屋敷の玄関へとささっと向かっていった。
そんな姉弟を、他の使用人たちは穏やかに見守っている。くすくすと微笑む者もいれば、やれやれと呆れる者もいる。だが、その視線はどれもあたたかい。彼らの可愛げのあるドジはこの御屋敷ではよくあること、日常の風景であるのだろう。
ささいな失敗を許容できることは、いい職場である条件の一つだ。ここにはおそらく、上にも下にも良い風が通っている。だから彼女も、敬語が不得手だったのかもしれない。
まったく、いよいよおかしなことになってきたな。
使用人でこれなら、大本命である『旦那様』はいったい、どんなものが出てくるのやら。
♢♢♢
リツカに先導されながら、私は御屋敷へと足を踏み入れた。
廊下の先で通されたのは、落ち着いた雰囲気の広い部屋だった。おそらく応接の間と思しき空間は、床の隅に至るまで清潔に保たれ、花瓶に生けられた花は柔らかく香っている。今この時のために拵えたのだろう、と想像できてしまい、私は思わず息を吐いた。
すると、それを聞きつけたらしいリツカはうんうんと頷いた。
「長旅でお疲れですよね。旦那様はもう少しでいらっしゃいますので、ゆっくりお休みになってお待ちください」
どうやら、疲労のため息だと勘違いしたらしい。彼女は部屋の中央にあるテーブルに近づき、その脇につけられた椅子をさっと引いた。さあどうぞと促す視線は、こちらの身体を心から気遣っている。
確かに、私は疲れている。柔らかそうなクッションが敷かれた椅子など、非常に魅力的で仕方ない。馬車足に揺らされまくった下半身をきっと癒してくれることだろう。
しかし、素直に座ることは躊躇われた。
むずがゆい。ここまで優待されすぎると、一周まわって、気味が悪い。
自分を迎えるためだけに整えられた場も、立ちっぱなしでいることを暗に強制されない空気も。悪として生き、悪として流されてきた身には、まるで肌に合わない。受け入れられない。
………受け入れては、ならない。
ゆえに、私は一歩も足を進めず、クッと喉を鳴らした。
「君は私を、弁えも知らない無礼者に仕立て上げたいのかな?」
「えっ?」
「偉大なる伯爵様のお姿が見えていないのに、末端貴族である私が先に腰を落ち着けるなど、礼を欠くにも程があるというものだ。そうは思わないかね、お若いメイド君?」
「え、えっと……それは……でもお客様ですし、お疲れなんですし……」
「そのお気遣いだけは頂戴しよう。だが二度は言わせないでもらいたいね。君も無駄な問答なんかで、貴重な時間を潰したくはないだろう?」
厳しい言葉尻に合わせて、にこり、と笑みを押しつける。
そら、やればできるじゃないか、『海の魔女』よ。
目論見通り、リツカはひどく驚いたような顔で私を凝視した。「どうしよう…」と呟いた口をぎゅっと閉じて、蜂蜜色の大きな瞳を右往左往させる姿には、心の隙間がわずかにちりつく。そんなものは無視して、私はウンウンと唸る彼女の返答を待った。
そして、しばらくの後。
リツカはぐっと顔を上げ、椅子を元の位置に戻した。が。
「……わかりました。じゃあ、急いで呼んできます!」
決意を込めてきっぱり言い放ち、彼女は一目散に部屋を飛び出していった。
そうしてぱたぱたと遠ざかっていく足音の合間に、「旦那様ぁー!」と元気に叫ぶ声が聞こえたような気がした。
必然、私は応接室に取り残されることとなり、呆然と立ち尽くした。
今のは私の気のせいだろうか。
呼んできます。呼んでくる、と言ったのか? なにを……誰を?
いや。まさか。まさかとは思うが、彼女。
旦那様―――ご領主のゲール卿の方を急がせるつもりなのか?
圧倒的に身分が低い客人が、少しでも早く椅子に座れるように? 休めるように?
………そんなことある?
いよいよ無視できない頭痛を訴えはじめた眉間を揉みしだく。ひとりになったことをいいことに、盛大に肺の空気をぶちまける。
よろしい。了解した。
認めたくはないが、ここまで来ると認めざるを得ない、ということだろう。
パーシヴァル・ド・ゲールの悪評は、まやかしだ。
おそらく彼に、ゲール家に、黒いところなどかぎりなく存在しない。蔓延していた風評のすべては、正体不明の存在を恐れるがゆえに創り出された悪意のある幻想でしかなかったのだ。
私が目の当たりにした現実は———真実のゲール家は、類まれなる良政を敷く名家だった。
しかし、そうなるとだ。
その長であるパーシヴァル・ド・ゲール卿も、噂とはまるで異なるものである可能性が高い。『清き愚か者』などという評価も、ここに来てまったく信用ならざるものへ変わってしまった。そもそも情報が少なすぎたせいで穿って見るしかなかったから、こんな悪し様に言われているのだ。元から信用もなにもありはしなかったか。
とはいえ、こちらはもうすでにさんざん驚かされているのだ。いまさらどんな人物がお出しされようと……。
「———奥様! お待たせしました!」
膨らませかけた想像は、飛び込んできた少女の声に霞と消えた。
振り返ると、雪崩れ込むような勢いで戻ってきたリツカが、はあはあと肩を上下させた。
「も、もう少しっ、で、旦那様、いらっしゃいます、のでっ……もうちょっと、ですの、で……!」
わかったから息を落ち着けたまえ。そう言いたくなるほどの息切れ具合だったが、私はどうにか口を閉ざした。
急いで、というのは予想以上の文言だったらしい。領主の自室がどれだけ離れているのかわからないが、そこまで全力で走って、言伝をして、また全力で走って帰ってきたのだろう。とことん気立てのいいお嬢さんだ。
こんないい子が、私などのお付きにされてしまうとは。本当にもったいないことをしてくれる。
というか、『魔女』とはいっても、私はれっきとした四十手前の男だ。それを貞淑な若い娘にお世話させるというのは、あまりにも無用心ではないのだろうか。私にそういう悪心が無いからよかったものの、手合いによっては彼女が危険に晒されることも大いにあるだろうに。
そんなことが起きないと思われているのならば、なんとも、見くびられたものだな。辺境伯閣下の見込みの甘さを鼻で笑いたくなる。
まあ本当にそんな気はないので、彼女には是非とも安心して務めてもらいたい。むしろ私は、その手の外道を嫌悪するタイプの悪党なことだし。
さて、ゲール卿が『急いで』いらっしゃるには、まだ少しの時間があるようだ。
徐々に落ち着いてきたメイド君を横目に、改めて応接室を眺める。
どこに目を向けても清潔で、柔らかな色合いが目に優しい。置かれている家具や調度品も、一見シンプルだが品の良いものを揃えている。金は見せびらかすものでなく、心地よい空間を作るためにかけるものだと理解しているのだろう。やはり趣味がよろしいようだ。おっと、そういえばテーブルには茶器があったな。あれも非常にいい。使いやすそうでもある。ここを出るときには忘れずにかっぱらっていこう。そうしよう。
そうして、もはや習慣のごとき視線での家探しをしているときだった。
耳の端に、重い靴音が引っかかった。だんだんと近づいてくるそれはだいぶ早足だ。
来たか、と、扉を正面に見据える。いよいよをもってお出ましの時が来たようだ。
パーシヴァル・ド・ゲール卿。『清き愚か者』と呼ばれる辺境伯。
さあ、いったいどんなお姿をしているのか、とくと見せてもらおうじゃないか。
いっそ楽しみな気持ちで待ち構えていた私の前で、バン、と扉が開く。
そうして入ってきた大きな人影に、私は。
目を、奪われた。
現れたのは、冴えるような白銀の、美しい男だった。
「———お待たせしてしまい、申し訳ありません」
はきはきとしたテノールを響かせ、長い足が歩を進める。
私は、こぶし数個の間を空けて立ち止まった彼を、ぼうっとしたまま見上げた。
豊かな白い髪の下に、スカイブルーの澄みきった瞳。白磁のような肌は血色がよく、清楚な礼服に包まれた肉体は、厳しく鍛え上げられているのがわかるほど厚く逞しい。
そんなおおよそ常人離れした体躯だというのに、威圧感は驚くほど覚えない。凛と整った顔立ちの中、甘い目元の印象が強いからだろうか。優しげな表情は、汚れを知らない少年のような無垢さすらまとっている。
精悍と、温和と、清廉。それらをひとまとめにして、神の手で形作り、生命を吹き込んだかのような美丈夫。
そんな男が、いま、私を見下ろして、おだやかに微笑んでいる。
まるで愛おしいものを見るような瞳を、して。
うそ、だろう。
これが、彼が、パーシヴァル・ド・ゲール?
――――私の、夫になるひと?