ラッコのせいにはできないからな『ラッコの肉買ってきて』
この文章を見直すのは、これで五度目だ。だからこれが、十五連勤で疲れきったが故の幻覚でないことはわかる。ついでに、このメッセージが送られてきた直後に、本当にラッコの肉を所望しているのかも確認した。答えはイエスだった。
わけがわからない。三ツ谷が狂っているのか、俺が世間知らずなのか、そもそも世間はラッコを食うのか。十中八九、三ツ谷がおかしいとは思う。だが万に一つ、世間はラッコを食うという可能性も、まだ僅かに残っている。
(ラッコ……ラッコって、ラッコだろ……)
他のことを考える気力が沸かないせいで、酷く稚拙な思考回路になっている。
事務所を出て、帰路につき、三ツ谷の待つ自宅の前について尚、頭の中はラッコでいっぱいだった。
『ラッコはなかった』
メッセージを送る。すぐに既読がついた。
バタバタと騒がしい足音が聞こえ、目の前の玄関扉が開く。
「おかえり、大寿くん」
「ただいま、三ツ谷」
中から出てきた三ツ谷は、目元に酷い隅を拵えていた。顔色も悪い。
「うわ、大寿くん隅ヤバイな。顔色も超悪いわ」
「お前もだろうが」
家に入り、鍵を掛ける。今日はもう外には出ない。そう固く決意した。
学生時代に借りた1DKのアパートの廊下は、驚くほど短い。五歩も歩かないうちに、次の部屋についてしまう。
「今日さ、鍋にしようと思ったんだよね」
「鍋? ……そのためのラッコか?」
「そぉ。鍋にぶち込もうと思ってな」
リビングに入り、ずぶずぶと人をダメにするクッションに沈んだ俺は、三ツ谷がなにを言っているのかが本気でわからなくなった。
ラッコを、鍋に、ぶち込む? どこから出てきたのか知らないが、そんなバイオレンスな発想は是非とも捨ててほしい。
「……お前、ラッコ食ったことあるのか」
「無いよ。今日の鍋にも入れてねェし」
「あれば入れたのかよ」
「入れた入れた」
まあどうでもいいけど、と話を切り上げて、三ツ谷はキッチンから大きめの土鍋を持ってきた。それをテーブルにセットされたガスコンロの上に置き、慣れた手付きで火を付ける。
「大寿くん、こっち来て。鍋食お」
「……本当にラッコ入れてないんだな?」
「入れてねーよ。鶏塩鍋だから安心しなって」
怠い身体を起こす。土鍋の中には、確かに見知った鶏つみれが入っていた。得体の知れないラッコはいない。
「もう煮えてるからさ、取り分けは自分でやってな」
ぐつぐつと煮える鍋は、三ツ谷が作ったというのと、胃が潰れそうなほど腹が減っているせいで、おそろしく魅力的に見えた。
冷蔵庫までビールを取りに行った三ツ谷の分も取り分けておき、自分の分を器に取る。
出汁と鶏の匂いが空腹に響いて、思わず喉をならした。
「あ、大寿くん、俺の分も取ってくれたの? ありがとォ」
「ん。いいから早く座れ」
「はいはい。んじゃ、いただきまぁす」
「いただきます」
肉を口に含む。うまい。ちょっと熱い。
噛んだ瞬間、身体がようやく空腹を自覚し、腹の虫を騒がせた。
「んッふふ、大寿くん、めちゃくちゃ腹鳴ってんじゃん」
「これ食ったら腹減った」
「うんうん、いっぱいあるからいっぱい食えよ」
言われずとも、残す気は毛頭無い。俺が好きな味で、三ツ谷の料理で、なにより腹が減っているのだ。
ばく、ばく、ばく、と脇目も振らずに鍋をかき込む。
いつの間にか、あんなに頭を支配していたラッコは、存在感を薄れさせていた。
※
「お前、明日は」
「休みだよ。大寿くんもだろ?」
「……ん」
飯を食って、風呂に入って、片付けをして。
二人して寝室に引っ込んだのは、夜が深みを増してからだった。
「大寿くん、二週間お疲れ。頑張ったな」
「お前もな」
この二週間、納期やら繁忙期やらに追い回され、お互い職場にほぼ泊まり込んでいた。メッセージのやり取りこそしていたが、頭の中じゃない、実体のある三ツ谷を感じるのは、一週間振りだ。
「……あ、三ツ谷」
「うん?」
「結局ラッコってなんだったんだ」
再び出現したラッコに、また思考を奪われる前に、ラッコの生産者である三ツ谷に聞いてしまえと思った。
「あー……クッソくだらねェよ、聞く?」
「聞く」
実はね、と三ツ谷が照れたように苦笑いをする。
「大寿くんとえっちしたかっただけなんだよね」
「……は? どういうことだ?」
「いつだったかなー……八戒に借りた漫画にさ、ラッコ鍋食うシーンがあって」
どんなシーンだそれは。
「ラッコ鍋囲んだ男共が、みんな発情しちまうんだよ」
どんな状況なんだ。
「んで、最後相撲して終わり」
わけがわからない。
「だから、ラッコ鍋作れば大寿くんとえっちする口実になっかなって思って」
「…………そうか」
ラッコの謎は解けた。新しい謎が生まれた気もするが、もうめんどうくさい。
「なあ、するんだろ、三ツ谷」
手を引く。ベッドに誘う。
三ツ谷の喉が鳴るのを聞いた。
「いいの、大寿くん。二週間ぶりだから、途中で止まれねェけど」
「いい。そのために明日休みにしたんだろ」
「ふはっ……ほんとサイコー、大寿くん大好き」
「知ってる」
というか、と呟いて息を吐き、ベッドに膝を乗せた三ツ谷の頬に触れる。
「今さらそんな口実が必要なのか?」
上目遣いに見上げると、三ツ谷は笑いながら首を振る。
「要らねェな」
当然だ。
期待通りの回答に満足した。
「じゃあ大寿くん、相撲しようぜ」
最初からその手しかないだろう。
と、言いかけてやめた。あまりにも野暮だ。
それより、俺を食おうとする三ツ谷の目。あの、獣じみた仄昏い目をからかう方がよほど楽しい。
ゆるりとベッドに沈みながら、そう、思った。