窓の外 窓の外から聞こえる雨音に、オレは深々と溜息をついた。
『連日の秋雨前線による雨雲は、今後も暫く停滞する模様で……』
テレビからは何も面白くない情報ばかりが流れてくる。昨日も雨だった。一昨日も雨だった。今日こそはと期待したが、天気予報は変わらずの傘マーク。そして予報通りの雨。雨。雨。どうせ明日も雨だろう。明後日だって雨なんだ、きっと。
じめじめした天気に気持ちまで連鎖反応してしまったのだろうか。いつになく腐った気持ちで、オレは自分のスマートフォンを手に取る。数時間前のやり取りを思い出して、腹の底がムカムカした。その原因のメッセージアプリの、アイコンすらも憎らしい。
「類の馬鹿者」
大学入学を機に、オレは類とルームシェアを始めた。同じ鍵を持って、同じ家に帰って。お互いに「おかえり」と「ただいま」に慣れ始めた最近は、二人で日々の生活を共にすることにソワソワする気持ちもすっかり落ち着いてきた。
恋人という関係性になったのは、ルームシェアを始めて少し経った頃のこと。いつの間にか、友人とのルームシェアから恋人との同棲へと発展していった。
とはいえオレ達は大学生とショーキャストという二足の草鞋を履いて毎日を過ごしている。24時間365日、ずっと類と共にいられるわけではない。そんなことは、オレだって十分承知している。オレにはオレの、類には類のプライベートがあるのだ。
悶々としているオレを他所に、窓の外の雨足は随分と強まっていた。大きな雨粒が、時折窓ガラスにバチバチと当たる音がする。
「……」
腹を立てているはずなのに、こんなに雨が強くて類は大丈夫だろうかなどと考えてしまう自分を殴りたくなった。
『それじゃあ、明日は溜めてたミュージカル映画をたくさん観ようか』
ニコニコ笑って、上機嫌でそう言っていたのは類本人のくせに。オレだって楽しみにしていたのに。今朝になって急に、落ち着かない様子で出掛けなくてはならないと言い出した。
何かあったのかと聞けば、視線を彷徨かせて大丈夫だと答えられる。それは答えになっていないと言おうとしたが、類がオレから視線を逸らす時はオレに言えないことがあるということを知っていた。頻繁に通知を知らせるスマートフォンを気にして、オレとの会話も上の空な類は朝食をかき込むように食べて家を出て行った。そういえば「いってきます」もなかったな。いつもなら必ず言うのに。
昼食の時間が近付いても、類からの連絡はなかった。食べるのか食べないのか確認のメッセージは、既読マークすら付かなかった。
そうして今は、もう夕方になる。楽しい一日になるはずだったのに、今日という日が虚しく終わってしまう。
(まだ既読にはならないか……)
腹の虫はいまだに収まりどころを見失っていて、ふとした瞬間に怒りを増幅させてしまう。それなのに、夕食はどうするのかと類に確認しようとする。メッセージアプリを開いて、オレが送っただけの一言がポツンと残る画面に、再び文字を入力しようとした瞬間。
「……冬弥?」
弟分からのメッセージを受信した通知が届く。その内容を確認して、無意識に強張っていた肩の力がストンッと抜けてしまった。悪い意味で。
ガチャンとドアの鍵が開けられる音。ベッドの中で、毛布に包まっていただけのオレの耳に大きく響いた。それから、ひたひたと忍ばせるような足音がして、控えめなノック音がした。
「司くん、もう寝ちゃったかな……」
「……」
「ごめん、開けるね」
部屋の主の返答を待たずに勝手に開けるなと内心で呟きながら、寝室のドアが開けられる気配を背中で感じた。
今何時だと思っている。夕食どころじゃない。あと30分で今日が終わる、そんな時間だ。オレは健康的な生活を心がけているから、この時間はとっくに夢の中だ。それを類も知っているはずだから、オレは部屋に入ってきた類の気配を無視する。オレは寝ているんだ。
「ねぇ、まだ起きているよね」
「……」
知らん。オレは寝ている。喋りたいなら勝手に喋ればいい。オレは返事をしない。
「心配かけてごめん……ごめんなさい」
しょぼくれたような声を出す類なんて珍しいなと思いながら、オレは微動だにせずに体を丸めている。そんなオレの、口を利かないぞという無言の主張を、類はどんな気持ちで見ているんだろうか。
『神代先輩が女性と歩いているところを見かけたのですが』
オレと類が恋人同士だということを知っている冬弥からのメッセージに、ああそういうことかと力が抜けた。こんなひどい雨の中でも、呼び出されれば飛び出していくような相手がいたのか。オレの知らない誰かが、類にはいたのか。
お前は誰と会っていた、こんな時間まで何をしていた、なんて聞きたい気持ちも萎えてしまうくらいには衝撃的な現実を突きつけられた気がした。
「つかさくん」
類は捨てられた猫みたいな、情けない声を出す。何かしら後ろめたく感じているから、そんな声を出すのだろうか。オレも随分と嫌味な性格をしているものだと思う。いい加減、だんまりを決め込むのも飽きてきた。
「楽しかったか?」
「え?」
「今日はずいぶんと雨がひどかったが、それでも会いたい人がいたんだろう?今日一日、楽しかったか?」
窓の外で強く降る雨。類がどこかの誰かと会っている時も、オレは腹を立てながら呑気に部屋で過ごしていた。馬鹿みたいだ。
「待って、何言って……」
「気にするな。オレも気にしていない」
「司くん!」
ただのルームメイトに戻ればいいのだろうか。それとも、同じ家に住んでいることも難しくなってしまうのだろうか。類が一緒に住みたくないと思うなら、オレは何も言わずに従うまでだ。ひとまず実家に置かせてもらって、それから一人暮らしできる物件を探すか……。
「気にしていないなんて言わないでよ……もっと気にしてよ!」
そう言って、類は少し強引にオレの包まっている毛布を引き剥がそうとする。思い通りにされてたまるかと、オレも毛布を強く握りしめた。
「司くんのその諦め癖、本当に良くないと思う」
「他人のお前にそんなこと言われる筋合いはない」
「他人じゃない!恋人だろう?」
恋人だった、じゃないのかと頭の中で冷めた自分が呟いている。他人という表現が不適切なら、友人にでもしておいてくれ。
「司くんが話を聞かないって言っても、僕は勝手にここで話すからね」
ああ勝手にしろ。好きに話せばいい。だからいい加減オレの毛布を引っ張るのは止めろ馬鹿力め。
「帰ったらちゃんと話そうと思っていたんだよ。司くんがどうして知っているのか分からないけど、僕は何も隠さず話すつもりなんだよ」
類の声はさっきまでしょぼくれていたとは思えないほどハッキリと、事の仔細を詳らかにオレに話すと言う。冷えきっていた心の中で、ほんの少しだけ手放しきれなかったものが疼いた。
「今日一緒にいたのは、大学で同じ講義を選択している子なんだ。僕がフェニランでキャストをしていることも知っていて、それがきっかけで少し話をするようになったんだ」
だけど、と続けた類の声は暗く淀んでいた。オレの知らないところで、類は何かに悩んでいたのか。そう思うと、今更になって後悔の念が迫ってくる。
「僕のことを好きだって言われて、僕にはお付き合いしている大切な人がいるからって正直に伝えたんだ。もちろん司くんの名前を出したりなんかはしていない」
類の話を、オレは最後まで聞いた。そうして、オレは自分を包んでいた毛布からそっと手を離すことにした。
類に告白をした女性は、どうしても類を諦められなかったらしい。それまで話をすることもあったから、メッセージアプリの連絡先まで交換してしまっていたのが仇となった。危うくストーカーの一歩手前まで思い詰めた女性に危機感を持った類は、オレには何も話さずにどうにか彼女に諦めてもらうよう説得しようとしていた。
しかし女性間の情報網というのは恐ろしいものだ。彼女は類の恋人が男のオレであるということまで突き止め、それをネタに類に迫ったのだという。
『二人ともショーキャストなんでしょう?こういうのって知られたらやばいんじゃない?』
『SNSで拡散することもできるんだよ』
『この彼も、どんな目で見られるかな?』
そう言った彼女は、隠し撮りしたオレの写真を類に見せた。オレとの恋愛関係を公にされることよりも、何よりオレ自身が好奇や奇異の目に晒されることを類は恐れたのだと言った。
「一日だけ恋人みたいに付き合ってほしいって……そうしたら諦めるからって言われたんだ」
それが今日だった。夜中に突然連絡が来て、今日一日付き合ってくれと。一日だけでいいから恋人になってくれと。諦めてくれるなら、自分の一日をくれてやると思った。そう言って、悔しそうに類が唇を噛む。
「もちろんこちらも条件は出したよ。キスとか、それ以上のことは絶対にしないって。彼女もそれを承諾して、今日一日だけ付き合ったんだ」
本当は夕方には別れる予定だったが、駄々を捏ねた彼女が約束を反故にして体の関係まで強請ってきたと。それだけは絶対に出来ないと伝えると、道の真ん中で泣き出して大声で喚いてしまった。
「当然周りからはひどい痴話喧嘩に見えただろうね……僕のことが悪い意味で噂になると、宣伝大使としても悪影響が出ると思って……」
彼女の手を引いて駆け出して、カフェで落ち着くまで付き合ってやったのだそうだ。その間もセックスをしたいと迫られては断って、一回だけでいいからと更に迫られては断っての繰り返しだったそうだ。
「僕は彼女の希望に沿う形で大事な一日を差し出したのだから、彼女にも約束を守る誠意を見せてほしいと伝えて……時間はかかったけど、納得はしてくれたと思う」
たぶん、と付け加えるのは、そこまで振り回された結果の不信感だろうか。しかしメッセージアプリの繋がりはお互い見える形で断ち切って、最後は彼女も渋々とではあったが謝罪の言葉を述べたらしい。
そんなことをしていたら、結局は言葉の通り類の丸一日を本当に全て差し出してしまっていた。
「ちゃんと説明しなくてごめん……不安にさせてごめん……ごめんね、司くん」
毛布から出てきたオレを、類がきつく抱き締めてきた。類の体からは、雨の匂いがする。ああ、まだ降っているのか。ぼんやりと思った。
「今日、一緒に映画観ようねって約束したのに守れなくてごめん」
「……お前が謝ることじゃないだろ」
類の体温を感じて、オレの目は馬鹿になってしまったらしい。意識していないのに、目から水がボロボロ出てきた。なんだこれ。
「嫌な気持ちにさせたから、謝らせて」
そう言って、類は止まらない水を唇で啜った。目元に何度もキスをされて、いっぱい泣いていいからと類が言う。ああ、泣いていたのかオレは。
「オレも……悪かった。嫌なことを言った」
「言われて当然だ」
泣き声というものは、どうしてこうも不明瞭で上手く出せないのだろうか。喉の奥がつっかえるような、そんな変な声で話そうとするオレを類が止める。物理的に。唇で塞いで。
「司くん、お願いがあるんだ」
「……なんだ」
「僕とのこと、諦めないでほしい……悲しかったり腹が立った時は、ちゃんと僕にぶつけてほしい……」
司くんはそういうところ、ちょっと鈍いからね。類はそう言って、苦笑いをする。
「鈍くない……」
「鈍いよ」
それだけ言い終えると、類は再びオレの唇を塞いだ。今度はずっと長く、もっと深く。その時、時計の針が0時になった。今日が終わってしまった。オレにとっても、類にとっても、散々な一日で終わった。
それでも、まだこうやって類と一緒にいられる場所が守られたのなら、それを確認できたのであれば、悪くない日だったと思う。思うことにする。
薄く目を開ければ、熱を孕んだ月色の瞳がオレをひたと捉えていた。
窓の外からは、まだ雨の音が聞こえる。明け方にかけて、更に雨足が強まると予報されていた。ザァザァと降る雨に閉じ込められて、このまま類と二人でずっといられたらいいのに。
そんなことを思いながら、類の広い背中に腕を回した。