オレンジ(だいだい色)「吉原に鬼が出た」
そんな情報にふと耳を傾ける。
鬼殺隊本部。
宇髄、煉獄の二人の柱は時間が重なって同じお白洲にて膝をつき、首を垂れ、お館様こと産屋敷耀哉への報告の最中、声を落として話していた隠の声がこの場にも届いてしまった。
じゃり、とも、からり、ともつかぬ小さな音が隣で聞こえて、宇髄は左側に座していた煉獄を振り返った。
「れんご……」
「杏寿郎」
産屋敷耀哉と宇髄天元が同時に声が出た。
金色の髪を惜しげもなく冬の日に晒し、首を垂れたまま白い玉砂利に両手を付く。皮膚に白く筋が浮かぶほど、ぎゅうと握りしめる拳の意味を二人は理解した。
そのうちに震え始めた金色の旋毛が、自分らへの報告ではない『隠の言葉』に打ちのめされたのだとわかった。
産屋敷耀哉の命で潜入した、吉原遊郭の極秘任務。ほとんど隠の助けも入らない二人きりの潜入で負った、責任と深い想い。
美しい世界のすぐ真裏の狂乱の世界。
鬼殺隊と同じように階級と似たような『位』を己の体を使ってのしあがり『花魁』と言われるまで。
「すまない、もう、大丈夫だ」
何度倒しても、どこにでも鬼は現れる。
「今日は少し、天元と共に心を休めなさい」
何らかの呪いの病が体表を覆うその面の、まだ少しだけ瞼が開き、慈愛に満ちたその目の輝きを受けて、すかさず宇髄は蹲る煉獄の羽織の背に無意識に手を回し。
ひゅうひゅうと、煉獄が自らの意志とかけ離れて乱れゆく呼吸を助けるために、握りしめていた拳にゆっくりと触れる。
炎柱、音柱として並び立ち、それぞれに鬼殺での実績を上げてその地位を獲得した。
様々な場面で一般隊士たちの力不足に悩まされながらも、至高の呼吸を体得した自分達がそれらを補う。そうすることで鬼殺隊全体の力が底上げしていけばいい、と思っていた。
だが、鬼の力は封じることはできても、人の営みは変えられない。軽く二百年に及ぶその遊郭の歴史に思いだけではひと一人助けることはできないのだ。
お白洲を辞して、あてがわれた柱専用の離れへと案内される頃には、煉獄の呼吸も落ち着きを取り戻し、支えなく自ら歩むこともできてきていた。
「もう、手を貸さなくても大丈夫だ。ありがとう」
「どういたしまして」
そう言われても、愛しい者のその体温を話すのも名残惜しいのが世の常で。
宇髄はより一層煉獄の体を引き寄せた。
「君は!」
「いや、だからさ……」
それを嫌って進もうとする煉獄の腕を引き、案内で先達する隠をそっと牽制してチラリと視線を送る。
「奥の間にご用意がございます」
そう囁いて空気を察し、何事もなかったようにくるりと踵を返した。
鬼殺隊が最も慌ただしくなる夕暮れ時、ひたひたと去り行く隠の足音が消えていくと、ここだけに隔絶され静寂が訪れた。
勝手知ったる離れの構造。
柱ならば、何かしらでここを使うことがある。
まずは閉したままの薄暗い部屋の中で装備を解く。
刀掛けの下段に炎刀を預け、上段に大刀のうちひと振りを掛ける。もうひと振りは切っ先を掛けて柄を置く。
互いの大切なものを分け合う、密かな幸せだ。
宇髄に断って煉獄は衣桁に羽織をかける。
隊服の金ボタンを外し合う行為を始めると、いつもは互いの熱を貪り合い始めるのだが、今日は違った。
宇髄の煉獄を労る眼差しは、慈愛に溢れ、額当てを外されて額に口付けられるまで、性欲の「せ」の字も沸き起こらなかった。下帯姿に浴衣を羽織って繻子帯を軽く結ぶと、揃って二人は庭に向かう障子を開いた。
そこには縁側が広がって、季節の花が変わるがわるに咲き誇る。
大きな柱に宇髄が背を持たせて、その懐に煉獄が身を持たせる。それが二人の安らぎだった。
夏の終わりの生温い風が吹き抜けていく。
じっとりと湿る背と、首筋の不快を感じて煉獄は安らぎの場所から身を起こすと、視界に広がった橙の花畑に目を奪われた。
「あ、あれは……」
あの籠の鳥になった日々。
あの見世の軒先に、ことさら鮮やかに咲いていたのはこの花ではなかったか。
赤でも桃色でもない、この豊かな陽光を溶かしたような色は深くて美しかった。
ちょうど、二輪、仲良く風に揺れる姿に、調伏ののちに号泣してしまったのは、わずかひと月前だった。
「黄花秋桜って言ってたな」
「ああ。先ほどといい、今といい、本当に情けない俺を許してくれ」
煉獄は縁側のすぐ下に視線を送った。
宇髄もそれを覗き込むと、そこに種子が飛んで成長したのであろう、黄色、というより橙色の花弁がキリリと開き、虚空に向かって微笑んでいる。
「この花は彼女たちのようで、とても美しくていじらしくて……そして悲しくて」
宇髄は己の前でだけ、煉獄に弱音を吐くことを許していた。逆に己以外に吐くことを許さなかった。
それは煉獄の心を掴むためではない。
真っ直ぐにひたむきに目標へと向かう彼の邪魔を作りたくないから、あるいは邪魔な考えを彼に与えたくないから。
誰もが思い悩む鬼殺隊の柱という重積。
それを紛らわせるための関係ではない。
互いに頼り、互いを生きる糧として心を寄せて生き抜く。
どんな心の傷があろうともその橙色の可憐な花は自分たちに訴える。
どんなに大人になったって「恋心」は幼くて美しく。
強くしなやかに時代を乗り越えていくのだと。
「俺たちも、この傷を乗り越えていこうや」
逃れようとする煉獄の体を抱き寄せて、頷く丸い額に、静かに口付けた。