7月、🌟は自覚する。① 7月8日 水曜日
空は青く澄み渡り、開け放たれた教室の窓から心地の良い初夏の風が吹き込んでくる。
__少し、疲れたな。
天馬司は飛び出した欠伸を左手の袖口で抑えながら、6限の授業を受けていた。水曜日の5限は隣のB組との合同体育がある。夏を目前にした体育は異様な程に体力を奪っていくうえに、次の時間割には倫理が魔物のように待ち構えている。我がワンダーランズ×ショウタイムの演出家である類曰く、「倫理とは面白いもの」らしいのだが、司にとっては先生が教科書を読み上げるだけの少し退屈な時間になっていた。体育の後で疲れて寝ている生徒は半分を超えるものの、先生は構わず教科書の朗読を辞めない。板書もすることなく、注意することもなく、淡々と進んでいく授業。
あぁ、期末試験も倫理のクラス平均点は散々だろう。
窓から流れ込む涼しい初夏の風、時折感じる温い空気感、気にすれば気にするほど静かな教室の雰囲気、そして極めつけに低く落ち着いた先生の声。全てが皆を眠りの世界へと導いていく。天馬司は再び小さく欠伸をすると、白紙のノートに目を落とした。
水曜日は素晴らしい日であると、司は思う。
勿論フェニックスワンダーランドで仲間と共にショーを研究する毎日も楽しく素晴らしい日であり、勿論妹をはじめとした家族と共に過ごす日々も最高だ。しかし、そうは思ってはいたって水曜日は素晴らしい。両親は仕事で夜遅く、妹も放課後にバンドの練習があるといって夜ご飯を食べてから帰ってくる。そして、我がワンダーランズ×ショウタイムの定休日でもあるのだ。学校から帰り、自身の赴くままに好きなことを堪能し、自分好みの料理を作って食べて、また、自分の好きなことをする。だから、今日は毎日羽を伸ばすスターの休息日ともいえる日だ。
む、そう表現すると何だかカッコいいな!
天馬司が少し笑みを浮かべると同時に、6限の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。先生は教科書の朗読を辞め、同じトーンで「本日はここまで。日直」と呟く。今日の日直は——、と教室を見渡してから自分が日直だったことを思い出す。「あ」と情けない声を飲み込んで、「起立!」と持ち前の声と共に椅子から立ち上がった。司の声で起きたクラスメイト達がずるずると椅子の音を立てながら立ち上がったのを見届けて、「気を付け!礼!」と掛け声をすれば、気の抜けた「ありがとうございました」が教室内にコダマする。と、同時に教室は一気に騒がしくなり、ずっと静かな空気を堪能していた司にとっては頭に響くものとなった。
__すぐに帰ろう。
まともに見てすらいなかった教科書やノートを閉じ、鞄の中に丁寧にしまう。そして昼前には完成させていた日直ノート(いわば日誌のようなものだ)を机から抜きとり、鞄を背負うと賑やかな教室を飛び出した。この瞬間がたまらない、と個人的には思う。まさに、捕らわれた檻から放たれ、自由を手にした者のように。
心なしか軽い気持ちで廊下を歩き、無事に教員室に日誌を届ければミッションコンプリート。今日は類の不思議な実験教室にも巻き込まれなかったし、虫にも出会わず、怪我をすることもなく、授業もほどほどに、全てが完璧であった。計画的であったし、授業も程よく聞き入り、体育では良い成績を収めることが出来たであろう。嗚呼、これといってないほどに完璧だ。
__では、この完璧な日々に何をしようか。
脚本を添削するのでも良い。何か作るのでも良い。そうだ、また新たなミュージカルを見て見る者良いなあ。
「……くん」
そうだ、夜ご飯は。
「司くん!」
考え事に熱中しているとついつい周りのことが見えなくなる時がある。司は自身を呼び抱えてきた声の主をまじまじと見つめると、「どうしたんだ、類」と首を傾げた。目の前には派手な髪に背の高いい見知った顔。あと二歩も進めば校門をくぐる所で呼び止められたため、周りからの視線が少しばかり痛い。
「まったく、何回も呼んだのに。今日は何を考えていたんだい? それはさておき、司くん。この後少し暇かな?」
まだ少しきょとんとしている司に類はまっすぐに話を続ける。「ああ」と声が自然と漏れて、暇だ、と答えそうになるのをグッと堪える。いかん、まずは先に要件を聞かないと。類のことだ、何かやばそうな実験に巻き込まれる可能性がある。じっと見つめれば、何となくにやけた顔をしているような気だってしてきた。
「暇だが、さてはお前、今日は何をするつもりなんだ」
「何をって、今日は別段何もしないよ。ただ、司くんと遊びたいなと思ってね」
「ふむ」
司は「遊びたい」という類の言葉を素直に受け取り、「なら良いだろう!」と気前よく返事をする。しかし、珍しいこともあるものだ。ワンダーランズ×ショウタイムが結成してから早数か月。えむや寧々を入れて4人で映画を見に行ったり遊びにいったりすることは多々あれど、昼休みや休み時間の度に類と時間を共にすることが多々あれど、確かに類と2人でどこかへ出かけたり、2人で遊びという遊びに出向いたことは無かった。
「で、何をするんだ?」
特に返事もなく、ニコニコと司の返事を待っていた類は、「うーん」と困ったような声をあげる。そして、
「今まであんまり遊びに行こうとして出かけたことはなかったから、こういう放課後はどこに行く、っていうのがわからないんだよね」
と続けると、少しだけ視線を逸らした。類はこういうことを話すとき、そういった癖があるように思う。「そうか」と司は笑い声を漏らして、自身よりも少しだけ上の方にある類の顔を見つめた。
「オレにもわからん!!」
少しどや顔で胸を張って言えば、類はまるで子どものように笑う。普段見ないような笑顔に、司も心なしか嬉しくなってまた笑った。
「だがしかし、とりあえず歩きながら決めよう」
はっと気が付けば、初夏のジリジリと焦がすような日差しでかなりの汗が出ていたようだ。中々動こうとしない類の腕を掴み歩みを進めながら、もう片方の手で額を拭う。そうすれば類も歩き始め、まるで鴨のように後ろをついてくる。よく考えれば確かに何故休日に共に遊ぼうという気にならなかったのだろうか。自身の好きなことをやりたいがために、こういった仲間との大事な時間を過ごすことがなかった。今日類から誘ってくれなかったら、遊びにいくこともなかったのだろうか。
__いい機会かもしれないな。お互いをもっとよく知ることが出来るかもしれないし、それで更なる良いショーを作ることに繋がるかもしれない。具体的にはわからんが。
「司くんは普段、定休日は何をしてるんだい」
「普段はすぐ家に帰ってやりたい事をやっている。まあ、ショーの練習をしたり、衣装を考えて見たり……だな。家族もいないから自由に過ごせる最高の日だ!類は普段何をしてるんだ?」
「ああ、そうなんだね。僕は、いつも通り演出に使えそうなものがないか探したりしてるよ」
「ほう、普段と本当に変わらないんだな」
他愛のない会話をすること数分。行く当てもなく、とりあえず街の方へ向かおうと歩く。確かにこういった練習やショーの無い日は、皆何をしているのだろうか。時折えむからは「暇だ」といった旨のチャットが届くこともある。また寂しがっているのだろうか。寧々は基本音沙汰無しだが、歌の練習でもしているのだろうか。それとも趣味に打ち込んでいるのか。類は普段と変わらないと今言っていたが、他にもやっていることなどはないのだろうか。思えば思うほど気になることが増えてきて、少しだけ頭がパンクしそうになる。
「それで、司くんはどこに行こうとしてるんだい?」
「ああ。そうだな、クラスメイトはよく映画やカラオケに行くと言っていたが。うむ、オレは、……今はどっちも気分じゃないな」
いつの間にかすぐ隣を、少し気だるそうに歩いていた類の顔を見ながら己の気分を述べる。そうすれば類は横目で司を見ながら、「僕もだよ」と返事をする。ならばどうしようか。類は暑そうにしているし、自分も暑さの限界でもあるし、そろそろ疲れてきた頃だ。
「類」
「……なんだい」
「オレの家でも、来るか」
幸い、司の家はここから歩いてすぐの所にある。勿論家には誰もいないし、ゆっくりすることも出来る。冷房をつけてしまえば涼しいし、そういえば。類と話したい演出や脚本の話があったのをすっかり忘れていた。
「今日は夜まで誰もいないしな。類が良ければ夜ご飯もご馳走しよう」
返事はない。まだ少し早いだろうに、蝉がうるさく鳴く。妹や家族が困るからという理由もあったのだが、ほとんど友人を家に呼んだことは無かった。後輩の冬弥は幼い頃からの顔見知りであり、それとは別の何かわからない緊張がある。いいや、かなり緊張する。少し間が開いて、類が口を開く。
「逆に、いいのかい?」
ピタリと足を止め、まじまじと顔を見つめてくる類をみて緊張が解れ、思わず笑いが零れ落ちる。類も、緊張するんだな。
「勿論!類と話したい演出や脚本が山ほどあったから丁度よいしな」
「そうかい。なら、お邪魔させてもらうよ」
ならば。司は類に向けて自身の家の方向を指さすと、「あと2分もあれば着く」と話しかける。司の家に来るとなれば、通学路の途中にある駄菓子屋に寄ってお菓子を買っても良かったのだが、水曜の第1週目は定休日であるが故にお店に明かりは灯されていない。
家に向かう途中、すぐ横を歩いていたはずの類は少しだけ一歩引いて歩くのが目につく。まあ、少し疲れたのだろうか。今日は体育もあったし、司も熱い日差しの下を歩くにはもう限界を迎えていた。
__しかし、類がオレの家にくるのは、なんだか新鮮だな。
友人であり、ショーの仲間でもある類が家に来るということはかなり新鮮で、さきほどまであった緊張感がむしろ楽しみになってきた。自慢の手料理も類の御眼鏡に適うかどうか見てみたくもあるし、書き途中であった脚本を読んでも欲しいし、この前自分が見たミュージカルを共に見て感想を聞いてもみたい。
__なんだ、やりたいこと、沢山あるじゃないか。
〇×
「ただいま」
「お邪魔します」
自分の家の扉を開ければ、玄関に立った類が誰もいない我が家へペコリとお辞儀をしながら、そう言葉を紡ぐ。思わず笑いそうになるが、たしかに自分も同じ立場じゃあ同じことをするかもしれないと、笑いを咄嗟に隠す。しかし、どうやらバッチリ口角の動きを見ていたようで、「司くん?」と少しだけ肘で押された。
「すまん、つい。この廊下の突き当りに洗面所がある。手洗いうがいはちゃんとするんだぞ」
靴を脱いで玄関から微動だにしない類の背中を押しながら、洗面所に向かった事を確認すると司はリビングへと向かった。キッチンで手洗いうがいを済まし、当初の目的であった冷蔵庫に手をかける。手際よくコップを2つ、氷を少々、麦茶を注いでお盆に載せる。そしてお菓子が入ったバスケットに手を伸ばしたところで、動きっぱなしだった手が止まる。類はお菓子とか食べるのだろうか。
「類!!」
大声で呼べば既に手洗いうがいが終わったのであろう類が、扉から顔だけをだして「なんだい?」と聞き返す。少し様子を伺えば、未だに緊張しているのか、はたまた我が家の設計に興味を持ったのか周りをきょろきょろと見回している。
「何か食べたいお菓子などはあるか」
「ん。なんでも大丈夫だよ」
「なんでもだと困るな。あと、誰もいないのだしこっちまで来い」
バスケットの中を目で物色しながら、類に手招きをする。
「ポテチかドーナツか……。お、ラムネやグミなどもあるな。どうする?」
1つずつ手に取りながら、少しずつ歩み寄ってきた類に見せていく。お菓子などは普段の生活で口にすることはほぼないので、正直なんでも良い。しかし久しぶりに食べるとなると美味そうだな、と思うものばっかりで心なしかわくわくしてきた。類が考えている時間に、暖かな室温で少し麦茶の氷が溶けてカランと音がする。
「じゃあ、ラムネにしようかな」
「ああ」
返事と共に、右手に持っていたラムネと左手に持っていたドーナツをお盆に載せる。普段の言動はいつも奇想天外で驚かされたり、すこし警戒することも多いのだが、今日初めて見る少し緊張した姿は、案外普通の少年なんだなと気づかされた。
「まだ緊張してるのか」
「ふふふ。まさか」
おちょくるように言えば、類も笑い返す。それが何だか、とても心地よくて。1人で過ごすつもりだった今日が、案外にも楽しいものになりそうで自然と笑顔になった。