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    「哀愁のひまわりのエチュード」に同行したリリーベルの話。9話仕立て

    亡き友に贈るララバイ『ランズベルグ領のビアンカ』

     聞き知った名前に思わず足を止める。フィガロ先生達南の魔法使いに同行させてもらっていた私は隣にいるレノックスと顔を見合わせた。けれどどうやら良くない話のようだった。何故ならビアンカは「ひまわり畑の人食い魔女」と呼ばれていたからだ。足を踏み入れた食堂には東の魔法使いが勢揃いをしていて、ヒースクリフ達がどこからか帰ってきたところのようだった。話を聞く内に、異変が起こっているのがヒースクリフの実家の領内のとある村だとのことだということが分かった。そこの領主から異変を解決してほしいと依頼がきているのだと。ビアンカの素性について踏み込んで訊ねるヒースクリフには普段にない厳しさがあった。魔法舎にお邪魔してからの日は浅いけれど、それでも僅かな関わりから争い事を好まない、優しい少年だと感じていた。その彼が険しい顔つきをしているのは良くない事態が差し迫っているのだろうと察しがついた。
     レノックスの返答を聞きながら、私は腰の辺りで両手を握り合わせて視線を逸らすように俯いた。彼女の顛末は過去にレノックスに聞かせてもらったことがある。救いのない、居た堪れない幕切れだった。どうしてと泣き崩れた日のことが思い出される。

    「リリー、あなたはわたしが守るからね!」

     真面目で、優しくて、家族思いで仲間思いだったビアンカ。私にとってはお姉ちゃんみたいな人だった。いつか故郷の家族に会ってほしいと笑っていたけれど、人間の裏切りに遭って人間達を呪い、自らの呪詛に呑まれて暴走したまま首を吊られたのだと聞かされた。かつて共に戦場に立った、かけがえのない同志。ただ大切な人達に戦火が及ばないよう、より良い暮らしをさせるために守りたかっただけなのに。
     団欒室に場所を移して私達はビアンカについての話をしていた。主に彼女について語っていたのはレノックスだ。悲痛な彼女の最期を思うと、とてもではないけれど私は口が開けなかった。お互い花が好きで、話が合う私達は本当にたくさんの話をした。故郷のこと、家族のこと、お互いの夢……それから故郷に咲く花のこと。平和になったらお互いの故郷を一緒に訪れることが出来たらいいねと笑いあっていた。
     レノックス以外の誰も、当時のビアンカについては語らなかった。ファウスト様も、フィガロ先生も……私も。それぞれがそれぞれの理由で口を閉ざす中、レノックスだけがビアンカについて彼女を知らない魔法使い達に生前の彼女を、そしてそこに至るまでの出来事を語っていた。
     人間との決裂前に不穏な気配を察知し、耐えきれず一人逃げ出した私には語れない話だった。我が身可愛さに誰にも何も告げずに姿を消した私は臆病者で、薄情者で、卑怯者だ。そんな魔法使いに仲間を語る資格は無い。

     自らの呪詛に飲み込まれるのは弱い魔法使いにはたまにあること。強い魔法使いにだってそれは起こり得る。フィガロ先生の言葉に胸に針が刺されたように痛む。客観的に、感情を挟まず語るならそうなるのかもしれない。けれど仲間を淡白に語ることも深く切り込んで話すこともどちらも出来なかった。ただひたすら追っ手に怯えて隠れ過ごし、仲間が討たれた話を聞いても尚彼らのために憤ることすら出来なかった。怖がりで、泣き虫で、情けない自分。ただ胸を痛めるだけでは彼女達のためになることなんて何もないのに。自分だけのうのうと生き延びているなんて合わせる顔がない。
     強い憎しみを人間に抱いて暴走し、その果てに処刑されたビアンカのことを思うと顔が上げられなかった。その強い感情でさえ私は抱かなかった。仲間が追われ、苦しんでいる中私は自分のことばかりを守ることに必死で誰のことも気にかけてあげられなかった。傷付いた皆を癒す聖女として彼らと共にあったのに、私は与えられた役目を放棄して逃げた。……喩えそれが自分の心を守るための行動だったとしても、とても許されるものではない。
     頭の上を魔法使い達の会話が行き交う。ヒースクリフが現地の領主から聞いた話では、大いなる厄災が近付いたあたりから異変が起きているのだという。なんでも季節はずれのひまわりが咲いて、そのひまわり畑の上に何もない空から絞首刑の縄が垂れて揺れているのだと。何も被害は出ていないけれど、領民が震え上がってひまわり畑を焼き払うように役人たちに詰め寄って、今にも暴動が起きそうになっているそうだ。
    「そのひまわり畑にはビアンカさんの石が埋められているそうです」
     魔法使いが姿を変えたマナ石は希少な価値がある。けれどビアンカのそれを所持したものは次々と不幸に見舞われ、最終的にひまわり畑に埋められたらしい。領主はひまわり畑を焼き払うことで呪いが強まることを恐れ領民を宥めてはいるものの、彼らの我慢も限界が近いとのことだった。
     アーサーが働きかけているものの、賢者の魔法使いとして依頼を請け負うのはまだ先になるという。けれどランズベルグの民はそこまで待ってはくれないだろう。悩むヒースクリフにフィガロ先生が名乗りを上げた。先生に続いて次々と名乗りを上げる南の魔法使い達にギュッと拳を握り締める。シノにせっつかれてネロも同行を承諾した。残るはファウスト様だ。ファウスト様に無理はさせるな、具合が悪いからというネロの言葉にそっと顔を盗み見る。日頃から顔色は良くないように見えるけれど、それ以上に何かあるのだろうか。ヒースクリフが心配そうに見詰める先でファウスト様は自身も異変の解決に向かうと言った。
     それぞれが出立の準備のために席を立つ。その姿に焦燥感に似た、何かに追い立てられるような衝動が湧き上がった。私はいつも何も出来ない。弱いから、怖がりだから、向いてないから。そう言ってたくさんのことを諦めてきた。やる前から逃げ出してきた。今まで過去の傷から立ち直れていないからと甘やかされてきたけど、いつまでもそのままではいけない。大事な仲間が死して尚苦しんでいるのに、ただ黙って皆を見送って帰りを待って報告を聞くだけなんて。私にも、私にも何か出来ることはあるんじゃないのか。今までだって何かやれることはあったんじゃないのか。いつまでも殻に閉じこもって、体を丸めて耳を塞いでいるだけなんて。
    「リリーベル、大丈夫ですか?もしかして具合が悪いんじゃ……」
     心配そうに眉を下げた賢者様が心配そうに声を掛けてくださる。ああ、駄目だな私。いつもそうやって誰かに心配を掛けている。か弱くて守ってあげなきゃいけない魔女はもう卒業したいんだ。自分の足でしっかり立って歩けるようにならないと。
    「ぁ、あの……っ!」
     思ったよりも大きな声が出た。退室しようとしていた魔法使い達が一斉に振り返る。一気に浴びた注目に怯みそうになりながらもキュッと唇を結んで顔を上げる。逃げ出さないよう、しっかりと足に力を込めて。
    「私もご同行させていただけませんか……っ」


     ◆◇


     リリーベルの申し出に咄嗟に反応してしまったことをしまったと思った。けれど思った時にはもう手遅れで、リリーに強い言葉を叩き付けた後だった。
    「賢者の魔法使いでもない君が?そもそも君は元々良くないものを惹き寄せるだろう」
     昔から争い事を嫌う子だった。強くものを言われるのが苦手な子だった。そのくせ、誰より繊細なのに傷付いたことを隠して何でもないことのように振る舞う子だった。その陰でどれだけ涙を流してきたことだろう。独りで傷を抱えるような子だと分かっていたのに。
    「……それでも……それでも大切な友人に関わることです。どんなに小さなことでも友人の為に出来ることを探したいのです」
     フィガロに視線を向けたが、感情の読めない目が見詰め返してくるだけで何も言わなかった。代わりに口を開いたのはレノックスだった。
    「リリーにとってビアンカはとても大事な友人でした。彼女を大切に思う気持ちを俺は尊重してあげたいです」
     ルチルとミチルにもお願いされて、彼らの様子を見たフィガロもリリーを擁護する側に回った。ヒースクリフが迷う姿を目にするとすげなく突っぱねる訳にもいかなくなった。結果、皆の後押しを受けてリリーは僕達と共にランズベルグ領に向かうことになった。
    「眠れないのか。ホットミルクでも入れてやろうか?」
     考えている内に寝付けなくなって、水でも飲もうと厨房に足を向けたらネロがいた。気遣いの込められた軽口に遠慮を返す。
    「でも意外だったな」
    「何が」
    「リリーベルにあんな風に言ったのがさ」
     いつも他の誰かに言葉を向けるよりも余程容赦がなかったとネロは言う。南の魔法使い達も驚いた様子だったと。あの場で言い過ぎたとも言えなかったバツの悪さが今になって押し寄せる。リリーが呪詛や呪いの影響を受けやすいのは昔からだ。その余波を受けると疲れが出たり体調を崩したりする。それは事実だ。理由に挙げても何も間違いじゃない。……だが。
    「まあ、そんなだったら関わらせたくない気持ちも分かる気がするよ」
     肩を竦めてそう言ったきり、ネロはリリーのことについてそれ以上追及することはなかった。ホットミルクの代わりにワインを差し出す彼の気遣いに少し眉を下げてふっと笑う。この男も大概優しい。今までのネロのしてくれたことに報いれるとは思わないけどほんの少しでも僕に返せるものがあるなら。
    「……今度二人で飲もう」
     面食らった後に快諾してくれたネロに肩の力を抜く。それから明日の話を少しして厨房を後にした。「君は優しいよ」と言葉を残して。

     部屋に戻ろうとしたが、その前に立ち塞がる男を見て心底げんなりした。フィガロだ。かつて自分を裏切った相手を信用しろだなんて土台無理な話だ。随分と都合のいいことを言う。たとえそこにどんな理由があったとしてもだ。どれだけ言葉を掛けられようが、その手を二度と取ることはない。
    「あなたは今南の魔法使いで、僕は今東の魔法使いだ。あなたと一緒に生きるのは僕じゃないし、僕と一緒に生きるのはあなたじゃないんだよ」
     かつて途方もない寿命に悩んでいた時、寄り添ってくれたことには感謝していた。フィガロが僕を裏切った、その瞬間までは。決別の意志を示すとフィガロはそっと引き下がったが、「でも」と言葉を発した。この期に及んで何を話すことがあるのか。いい加減にしてくれと口を開こうとして動きを止めた。今一番聞きたくない言葉だった。

    「君、リリーにもそう言うつもり?あの子がこの四百年間、ずっと誰の陰を追い続けていたのか分からないほど馬鹿じゃないよね」

     知っていた。気付いていた。だが気付かない振りをしていた。分かっている。本当は一目見た時から気付いていた。リリーの髪を纏めているバレッタはかつて革命軍で共に戦っていた頃、リリーに贈ったものだった。


     ◆◇


     翌日、異変の起こっているランズベルグ領へと賢者の魔法使い達と共に向かった。到着すると領民は役人に恐怖を訴え、詰め寄っているところだった。領民たちの不安と恐怖に対して役人の方は危機が差し迫っているようには見えなかった。領民を宥めはしているものの、その切羽詰まった心情は理解出来ていないようだった。これじゃ対応に差が出るのは当然だ。領民が我慢出来ずに暴動が起きそうだというのも分かるような気がした。
     ヒースが領民の人達に詳しく話を聞いていると、シノが声を上げた。その指さした先にあるものに私も息を呑んだ。
    「絞首刑の縄……!」
     遠くからでも分かる禍々しさに冷や汗が流れる。領民達がざわめき、動揺が広がるのが分かった。ひまわり畑を燃やしてくれと詰め寄る領民も、魔道具の大鎌で縄を切り落とそうとするシノも制してファウストがその危険性を説いて制した。あまりに呪詛が強い上に厄災の影響も受けて暴走しているという呪い。その浄化を賢者とその魔法使いが請け負うと。
     納得のいかない領民もいたけれど、ファウストが説き伏せて明日の朝までは待ってもらうことが出来そうだ。それぞれが家に戻るのを見送りながら、私は傍にいたリリーベルに声を掛けようとした。
    「何とかなりそうでよかったですね、リリーベル。これもファウストのお陰……ってあれ?」
     笑いかけた先にはさっきまでそこにいたはずのリリーベルの姿はなかった。慌てて南の魔法使い達にも聞いてみたけれど、誰もリリーベルがいなくなったことに気付いていなかった。手分けをして探そうと皆に声を掛けていた時だった。
    「おい、賢者さん。あれ……」
     ネロの言葉にバッと振り向くと、リリーベルが覚束ない足取りでひまわり畑を歩いているのが見えた。咄嗟に駆け出そうとするルチルとミチルをフィガロが押し止める。さっき南の魔法使いには呪いに対する耐性が低いと言っていた。それならリリーベルだってそうなはずだ。二人を宥めすかしているフィガロの傍を陰が駆け抜けていった。あれは……
    「先生」
    「おっと、お子ちゃまはここで待機な」
     止める間もなくリリーベルに一直線に向かっていったのはファウストだった。慌てて後を追おうとしたヒースと、それに続こうとしたシノがネロに止められる。ミチル達に縋られたフィガロが遅れてファウストを追っていく。呪いに染められるからとその場で待機を言い渡されたわたしはハラハラと事の成り行きを見守ることしか出来なかった。
     リリーベルはフラフラと呼ばれるようにひまわり畑を歩いている。ふと立ち止まって空を見上げるのが見えた。何がいるのかと目を細めた瞬間、姿を現したそれに血の気が引いた。縄だ。さっきと同じく、どこからか吊り下がっている。さっきと違うのはピクリとも動かないことだった。ふらりと伸ばされたリリーベルの手が縄に掛かる。騒いでも喚いてもここからじゃリリーベルに声は届かない。リリーベルは縄とじっと見つめ合っているかのように縄を見つめ続けている。ファウストはリリーベルが悪いものを引き寄せやすいと言っていた。もしも今、彼女が厄災の力に当てられているのならこのままじゃ……
    (お願い誰か……っ、ファウスト、フィガロ……!)
     リリーベルが縄を引き寄せる。縄が首にかかろうという瞬間、リリーベルの体が思い切り後ろに引かれて縄から引き剥がされる。呆然とした様子のリリーベルはそのままファウストに引き摺られ、ひまわり畑から連れ出されていく。ハッとしてそちらへ向かうと、ファウストが声を荒げているのが聞こえた。リリーベルの肩を掴み、怒気を孕ませた声で怒鳴りつけている。人を拒絶する時にピシャリとした物言いをすることはあったけど、あんな風に強い口調をぶつけているのは見たことがなかった。駆けつけようとするも間に合わず、何かを叫ぶとリリーベルはそのままどこかへ走り去ってしまう。私達より先にファウストの元へと辿り着いていたフィガロはリリーベルの後を追っていった。前髪をくしゃりと掴むファウストには苛立ちとやるせなさが見えたような気がした。


     ◆◇


     その光景を見た瞬間、一気に体の体温が下がるような感覚がした。周りの音が一気に遠のいて、何かに突き動かされるように気付けば駆け出していた。自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえた。何で目を離した、何で気にしてなかった。リリーは人やものの思念に敏感だ。敏感故に良くないものも拾いやすいし、引き寄せやすい。彼女の安全を考えるなら連れてくるべきではなかった。皆の願いを切って捨ててでも魔法舎に残してくるべきだったのに。
    「リリー……っ」
     首に縄が掛かる既のところで引き剥がす。絞首刑の縄は抵抗することなくぷらりと揺れて、それ以上何かの動きを起こすことはなかった。とはいえ、呪いの具現であるこれの気をリリーに当て続けるのはよくない。
    「来るんだ、リリー」
     見上げてくる瞳に恐れと怯えを見た。言葉を発することはなかったけれど、代わりに気付いたことがある。だがそれを確かめるのはひまわり畑から出た後だ。抵抗する力もない腕を掴み、ほとんど引き摺るようにして先導する。畑を抜けた先で肩を掴み、昂った感情のまま怒鳴りつけた。
    「リリー、君は何を考えてるんだ!考え無しにも程がある」
     周りの不安を煽って、動揺を与えて、浄化の前に何かあったら……
    「だって……だって私だけ何も罰を受けてないんです!みんな、みんな苦しんで、辛い思いをしてきたのに私だけのうのうと……ッ」
    「君はッ」
     感情が沸騰する。何で伝わらない、何で分からない。少し考えれば分かるはずだ。君がしようとしたことで皆にどんな影響を及ぼすのか。他の魔法使いや賢者達がどう思うのか。
    「ファウスト様には私の気持ちなんか……っ、離してください!」
     突然見せた反抗の姿に一瞬手が緩んだ。目に涙が光っているのを見つけて躊躇った。その隙をついてリリーは僕を押し退け、どこかへ駆け出していってしまった。追いかけようとしても全身での拒絶の姿勢と、吐き出された言葉に縛られて動けない。追いかけたところで一体僕に何が出来る?上手く言葉も伝えられない癖に?
    「あーあ、ほんと君達は……リリーは俺が何とかするから」
     呆れた様子のフィガロに何も言えなかった。心配そうに声を掛けてくれたレノックスにも碌に言葉を返せなかった。どうにか建て直して残りの魔法使いを纏め明日に備えるよう誘導したものの、胸にはリリーに対する後悔だけが残った。
     あんな風に言うつもりじゃなかった。泣かせるつもりでもなかったし、傷付けるつもりでもなかった。なのにどうしても上手くやれない。どうやっても上手くいかない。ただ君を大切にしたいだけなのに。
    「くそ……」

     ただ、君には自分を大事にしてほしいだけなのに。


     ◆◇


     夕飯は領主が貸し出してくれた建物でネロが作ってくれた。魔法使いなんて信用出来ないと騒いだ領民の言葉が尾を引いているのを感じ取ったネロが、自分で用意すると言ってくれたからだった。食事の準備が整う頃にわたしはリリーベルの休んでいる部屋を訪ねた。ファウストと言い合いをした後、姿を消したリリーベルはフィガロに連れられて帰ってきていた。けれど、大分憔悴しているからしばらくそっとしておいてあげてほしいと言付けられていた。フィガロに抱えられて部屋に篭ったリリーベルはそれから皆の前に姿を現していない。
    「リリーベル、具合はどうですか?もしよかったらこれから皆でご飯なので……」
    「……申し訳ありません、賢者様。気分が優れないので皆さんで召し上がってください……」
     か細い声に胸が締めつけられる。でも彼女の事情も苦悩も分からないわたしにはかける言葉がなかった。何か気の利いたことのひとつやふたつ言えたらいいのに、こんな時なんて元気づければいいのか分からなかった。わたしはリリーベルのことを表面的にしか知らない。南の魔女であること、革命軍に参加していて聖女と呼ばれていたこと、何らかの理由で軍から逃れて薬屋をしていたこと、そして長い間ファウストの身を案じていたこと。ずっと会いたがっていたはずなのに噛み合わなくてすれ違いを起こしている。すぐ傍にいるのにまともな会話をすることも出来ない。手の届く距離にいるのに、歩み寄ることすら出来ない。わたしにはお互い大切に思っているように見える。だからわたしは二人のことを諦めたくない。まだ自分に何が出来るか分からないけど。
    「とても美味しそうだったからリリーベルの分も取っておいてもらえるようにお願いしておきます。だから……後でもいいのでよかったら……」
    「……お気遣いありがとうございます、賢者様」
     今はこんなことしか出来ない。出来ないけれど、自分なりにやれることを探していきたいと思った。賢者の魔法使いの皆と少しづつ仲良くなれているように、リリーベルとも仲良くなりたい。同じ魔法舎に暮らす仲間として、賢者とか魔法使いとか関係なく親しくなれたらいいなと思う。キュッと拳を握り締め、部屋の扉を見つめると、わたしは階下の魔法使い達の元に戻った。

     作戦会議中の先生役の魔法使いを除いた魔法使い達と一緒にご飯を食べ、それぞれの意見の違いから微妙な雰囲気だったミチルとシノの和解がなされたのを目にしてホッと胸を撫で下ろした。立場も境遇もまるで違う二人がお互いに歩み寄り、理解を深め、手を取り合う姿は胸にくるものがあった。誰もが辿り着ける光景ではないのかもしれないけど、仲間たちの間では希望を持ち続けたい。ふと、視線を感じてそちらを向くと、リリーベルが様子を窺うように部屋の端から顔を覗かせていた。真っ先に見つけたミチルがリリーベルに駆け寄る。立ち上がったルチルが濡れタオルを手に戻り、レノックスがリリーベルを気遣うように声を掛けた。南の魔法使いたちにとってリリーベルは家族のように親しい相手で、大切に思っているのが伝わってくる。彼らに囲まれたリリーベルも控えめではあるけれど小さく笑みを浮かべていた。
    「すみません、皆さん。大切なお仕事の前にご迷惑とご心配をお掛けして……」
    「まあ、それぞれ事情はあるだろ。まずはこれ食って一段落しな」
     ネロの並べた食事に恐縮しながらお礼を言ってリリーベルは手をつけた。一口一口、噛み締めるように味わうリリーベルの周りを南の魔法使いたちが囲む。先程のシノとのやり取りを誇らしそうに話すミチルにリリーベルが微笑む。
    「話し合うことで分かり合えることもあるんだって思いました。リリーさんはファウストさんと話すことは出来ないんですか?」
     純粋なミチルの質問にリリーベルの眉が下がる。
    「まず話し合うって雰囲気でもなかっただろ。そもそもなんで揉めたんだ」
    「確かにあんなに声を荒らげるファウスト先生は見たことがないような……」
     シノとヒースクリフの質問にリリーベルは困ったように曖昧な笑みを浮かべた。考えを纏めるように少し間を置いてからリリーベルは口を開いた。
    「かつてビアンカ達と共にいた頃……」
     故郷に戦火が及ぶのを恐れて自分に何か出来ることはないかと戦いに身を投じた。同じく家族のために戦うビアンカさんとはそこで出会い、志を同じくする者としてすぐに意気投合したらしい。話をする内にお互いが花を好きなこと、いつか平和になったら故郷の花畑をお互いに案内したいと話していたこと。
    「ビアンカの故郷はレンゲがたくさん咲いているのだと……私がお邪魔する時には花冠を作ってくれると言っていました」
     でもその約束は叶わなかった。人間と決別する直前にリリーベルはその身に負った重責に耐えきれず、仲間の元から姿を消した。
    「……何度も同じ兵士の治癒を短期間にさせられていました。彼らは重要な要だから戦線から離脱させるわけにはいかないと……」
     何度も繰り返し治癒を繰り返す内にそれが正しいことか分からなくなった。兵士たちを際限なく戦場に送り込む自分の存在に悩むようになった。周りを固めていたお偉方の誰にも打ち明けられず、独りで抱え、溜め込んでいる内に魔法の力はどんどん弱くなり、そのことを隠すため人間の護衛が周りを固めるようになった。益々孤立したリリーベルは残る力を振り絞って逃亡した。
    「辿り着いたのは東の国の外れの村でした。運良く優しいご夫婦に助けられた私はそこで療養し、その後は薬屋として東の国を転々としました」
     その間にレノックスやビアンカさん達は人間達と決裂し、魔法使い達は人間達に追われるようになったんだという。仲間が次々に人間に倒されていく現状を知って尚、中央の国には戻れなかった。逃げ出して運良く生き残ってしまった自分の罪深さに苦悩しながら今日まで生きてきたとリリーベルは語った。
    「アーサーやリケは私を聖女と呼びます。……ですが実際の私なんてこんなものです。聖女と呼ばれる資格なんてないんです」
     誰も何も言わなかった。誰にも優しく、穏やかに接するリリーベルに思いもよらない暗い過去があったなんて誰も想像しなかっただろう。わたしもあまりの衝撃に口を開くことが出来なかった。
    「……だが、あの時リリーが姿を消したのは正しかったと思う」
     しばらくの沈黙の後、レノックスがそう言った。痛みを耐えるように言葉を紡ぐ彼に皆の視線が向けられる。
    「人間との決別の原因の一つにリリーを隠した、というものがあった。当然誰も身に覚えがなかったが、人間達は血眼になってリリーを探していた。『生かして連れ戻し、アレク様に献上しろ』と」
    「献上って……」
    「そんな!リリーさんは物じゃないんですよ!?」
    「人として扱われてないってことだろ」
    「ひどい……」
     若い魔法使い達の反応にレノックスは目を伏せ、リリーベルは膝の上に置いた手を握り合わせる。
    「俺達は結託して知らぬ存ぜぬを貫き通した。探索魔法も碌に使わなかった。連れ戻されたリリーがどんな目に遭わされるか分からなかったから……」
     レノックスの話にリリーベルは白い顔をして俯いたままだ。南の国で穏やかな日々を送り、心を癒そうとしているリリーベルには今まで言えなかったのだと。仲間を見捨てて自分だけ助かったことに対する罪悪感をここまで深く抱き続けていることに気付けなかったことを悔やむように、レノックスは拳を握り締めた。
    「俺も、フィガロ先生もリリーベルが無事に生きてくれていてよかったと思っている。それに……、……皆君がここにいてくれてよかったと思っている」
    「そうですよ、リリーさん。私もリリーさんと出会えてよかったって思います。困った時、たくさん力になってもらいました」
    「僕もです!リリーさんには薬草のことをたくさん教えてもらいました。まだまだこれからもたくさん教えてほしいです」
     ルチルとミチルの言葉にリリーベルが涙ぐむ。ヒースクリフもシノも、ネロもそれぞれリリーベルに温かな言葉を掛けていく。目の端からポロポロと涙をこぼすリリーベルに笑いかける。
    「わたしは嬉しいことも悲しいこともリリーベルとも共に分かち合いたいです。リリーベルは賢者の魔法使いではないけれど、わたし達の仲間だと思っているので……」
    「……ありがとうございます、皆さん。ありがとうございます、賢者様……」
     涙ながらにリリーベルはそう言った。泣きたくなるくらいの淡く儚い微笑を浮かべて。


     ◆◇


     明日の一通りの手順をフィガロとおさらいをして、そのまま雑談にもならない雑談を挟んでかつての話をした。戦いの最中に何も告げずに姿を消したフィガロの本心を探りたかったけれど、相変わらず真面目なのかふざけたのか分からないままだった。いつも、いつだってフィガロのことはよく分からない。目の前にしてもこいつの考えていることは何も読み取れない。大事に思ってくれていたということも、共に生きたいと思っていてくれていたということも本音なのかどうかを測りかねていた。分かろうとしてはぐらかされて、知ろうとしてあしらわれて、近寄ろうとして煙に撒かれて。どうしたらいいのかがまるで分からない。歩み寄ろうとしても距離を取られているようにしか思えない。
     レノックスもリリーもよくこんな男と長く付き合っていられるものだなと呆れを通り越して感心してしまう。そういえばリリーはフィガロを頼って南の国にやってきたのだったか。
    「……共に生きてくれるならリリーだって……」
    「君、本気で言ってる?」
     大袈裟に驚いた風な態度装ってフィガロが口元を歪める。
    「君が信用していない、適当でふざけてる俺だよ?それ以前に君はそれ、堪えられるの?」
    「……………」
     切り返されて口を噤む。リリーが頼りにしているならフィガロが頼めばリリーはその通りにするんじゃないのか。昔から義理堅い、誠実な子だ。そう思ってのことだったけれど、隣に並び立つ二人の姿を思い浮かべようとすると、それだけでモヤりとした何かに呑み込まれそうだった。振り払おうとしても絡みついてくるそれに口を引き結ぶ。
    「ほらぁ、また出来もしないことを言うから」
     呆れたような、茶化すような声にギっと睨み付ける。フィガロはやれやれと降参のポーズを取ると、一人掛けのソファに体を沈めた。
    「リリーは駄目だ。あの子の一番大事な相手は昔からずっと決まっているからね。君もよく分かっているだろう?」
     その言葉に返す言葉がなかった。魔法舎で再会した瞬間、気付いた。何百年も経って、遙か彼方の記憶だったはずなのに一目で分かってしまった。リリーの髪に留められている髪飾りはかつて僕が彼女に贈ったものだった。いつか晴れやかに笑ってそれを身に付けるリリーを見たいと思っていた。もう叶わないと思っていたそれが目の前にあるのに、僕にはそれに応える資格すらない。
    「……応えてあげればいいのに」
    「今のこの僕が?冗談はよしてくれ」
    「でも大事なんだろ?さっきそう聞こえたけど」
     さっき。リリーベルを怒鳴りつけたあの時。リリーには伝わらなかったのにフィガロに読み取られていたのだと思うと忌々しくて仕方がない。
    「リリーはさ、本当はずっと誰かに責めてほしかったんじゃないかな」
     その口振りに思わず眉が寄る。あからさまな不快を現した僕にフィガロは困ったように頬を掻く。
    「お前がリリーを語るなって?しょうがないだろ、君なんかよりずっと長い間リリーを見てきたんだから。そりゃあ君よりあの子のことを知ってるさ」
     尤もな意見だ。僕がリリーと過ごしたのは革命軍で共に過ごしたほんの僅かな間だけで、フィガロはその何十倍も、下手をしたら何百倍もリリーと過ごしている。けれどそれを素直に認めるのが癪だった。
    「ずっと逃げ続けてきたリリーを俺は責めなかった。レノックスもだ。怒りもしなかったし、詰りもしなかった。ただあの子の無事を喜んだ。さっきの君もそうだ。リリーのことを叱ったけど生き残ったことを責めなかったし、罰を与えようともしなかった。自ら進んで罰を受けようとするのを止めただけだ」
     生きていてほしかった。自分を大事にしてほしかった。リリーは心の優しい、思いやりに溢れる女性だ。僕と違ってたくさんの人に好かれる素質を持った子だ。わざわざ賢者の魔法使いの補佐なんて死に近い場所になんかいなくたって、幸せに暮らしていける。なのにここに留まる選択をしたせいで、依頼になんて関わったせいで傷付いて塞ぎ込んでしまった。これから先もそんな思いをさせるのなら。
    「……リリーは君が思うよりずっと強い子だよ。今は周りに仲間もいる。きっと明日には立ち直って俺達の仕事を見届けるだろう」
     考え込む僕にフィガロは頬杖をつきながら微笑した。
    「だから明日は君のカッコいい所を見せないとね?」


     ◆◇


     部屋に備え付けられた鏡を覗き込む。目元はいくらか赤くなっているけれど、思ったよりは随分マシだった。
    「リリーベル、大丈夫そうですか?」
     心配そうに声を掛けてくれる賢者様に笑いかける。
    「一応見られる顔ではあります」
    「もう、そんなこと言って……」
     賢者様に向き直って指で示してみせるとホッと力の抜けた笑顔を向けられる。賢者様にも随分と心配を掛けてしまった。昨晩過去の話をした後、皆で魔法舎に来る前までの話をちょっとしてお開きになった。
     女の子は女の子同士でと部屋を振り分けられていたから賢者様とは同室だった。皆とまた明日と言葉を交わして部屋に入るのはなんだか新鮮で、そういえば魔法舎ではそんな気軽に接したりしていなかったなと思い至ってこっそり反省した。ヒースクリフもシノも色々と話をしてくれて、ちょっとだけネロのお手伝いもした。それまで距離の取り方が分からなくて上手く接することが出来ずにいたけれど、皆それぞれの優しさがあって新たな気付きを得られてよかったなと思う。
     賢者様とはそれぞれのベッドに腰掛けて向かい合いながら好きなお菓子とか、好きなこととかただの女の子がするような話をしてから眠りについた。突然喚ばれた世界で前向きに奮闘する賢者様にひっそりと尊敬の念を抱いた。分からないことだらけで、一癖も二癖もある賢者の魔法使い達の中に放り込まれて、それでも前向きにひたむきに頑張ろうとする賢者様はすごい人だ。自然と力になりたいという気持ちが湧いてくる。
    「困ったことがあったらリリーベルにも相談しますね」
    「私に出来ることなら喜んで」
    「ありがとうございます!もしかしたら愚痴を聞いてもらったりもするかもしれないですけど……」
    「まぁ……ふふ、その時はいくらでもお聞きしますよ」
     冗談めかして言う賢者様はお茶目で可愛らしかった。この方を好ましく思うのはそういう部分も含めてなのだろうなと思う。自分にないものを持っている賢者様は眩しい。そんな方に仲間だと認めてもらえるのは嬉しかった。ご厚意に甘えるだけでなく私もお役に立たなければ。
    「参りましょう、賢者様。皆さんをお待たせしてしまいますから」
    「はい!……あの、リリーベル」
     扉を開く私に賢者様が呼び掛ける。賢者様は何かを言おうとして口を閉じて、少ししてからもう一度口を開いた。
    「絶対ビアンカさんを助けてあげましょうね!」
     ……ああ、この方は。強くて優しい私達の救世主なのだと感じた。

     食事を終えてひまわり畑に向かう支度を整えている魔法使い達の準備を手伝い、一人ずつに清浄の祈りを捧げる。私の祝福なんてなくても変わらないと思うけれど、出来るだけのお手伝いをしたかった。
    「へえ、一人一人で祝福の言葉が違うのか」
    「すごい……とても体に馴染む感じがする」
    「これでないよりマシってのは随分な謙遜だな」
     東の魔法使い達の言葉にくすりと笑う。個人に合わせた祈りの言葉を用いているのは、ヒースクリフが言うように、その人その人に合わせた呪文の方が効果を発揮しやすいからだ。たくさんの人間に掛けるには非効率的で、聖女としてはあまり歓迎される手法ではなかった。でも、今私は聖女じゃない。賢者の魔法使い達が無事に浄化を遂行出来るよう手助けするのが私の仕事だ。
     最後に残したファウスト様への祈りに取り掛かろうと目の前に立つ。空気が張り詰めた気がしたけれど、跳ね除けるように顔を上げてファウスト様を見詰めた。
    「昨日は申し訳ありませんでした。これ以上ご心配、ご迷惑をお掛けしないよう誠心誠意賢者の魔法使い様方をお支えさせていただきます」
     そう言って深々と頭を下げた。ファウスト様は身動ぎせず、何も返さなかった。この後返ってくる言葉を想像して身を固くする。どんな責めもお叱りも受けるつもりだ。私はそれだけのことをした。すぐにでも帰れと言われても仕方のないことを。返事は儀式の邪魔をせず待機していろか、はたまた祈りなど必要ないか。早々挽回の機会などもらえないだろう。良くてせいぜい領民の後ろで儀式を見守っていろくらいのものだろう。
    「……リリーベル」
     静かに名前を呼ばれて緊張が走る。さて、次はどんな言葉が出てくるか……
    「顔を上げてくれ。僕も昨日はきつく言い過ぎた……今更ではあるが、謝らせてほしい」
     思いもかけない言葉にはっと顔を上げる。目の前に飛び込んできたファウスト様の瞳は優しくて、けれどどこか寂しそうだった。
    「間違ったことを言ったつもりはない。だが、君の気持ちを考えずに無闇に傷付けてしまった。……すまない」
    「とんでもありません。私の弱い心が招いた失態です。ファウスト様に謝っていただくことではありません」
     首を振り、頭を下げる私にファウスト様の声が降ってくる。その言葉に瞳を潤ませて返事を返した。
    「君の祈りを僕にもかけてもらえるだろうか」


     ◆◇


     領民達が取り囲んで眺める中、魔法使い達が浄化の儀式を執り行っていく。それぞれ決められた手順をこなし、呪文を唱えていく。何か声を上げようとした領民をリリーベルが穏やかな声で諭していた。魔法使い達の方に無闇に領民が踏み込まないよう、説得すると言ってくれたのは彼女だった。彼らのことは任せてほしい、わたしと賢者の魔法使い達には儀式に集中してほしい。そう言って微笑んだリリーベルに昨日の陰りはなかった。儀式が進むにつれ魔女の笑い声がしたり、絞首刑の縄が出現したけれども、その度リリーベルが領民に優しく声を掛け、落ち着かせていた。その声は不安を掻き立てられる心を優しく溶かし、温めてくれているようだった。リリーベルの声を聞くと不思議と心が穏やかになっていく気がした。
     魔法使い達が全員呪文を唱え終える頃には領民達も手を握り合わせ、皆一様に祈っていた。その先頭に立っているのはリリーベルだった。呪われた魔女の悲しい、やるせない笑い声が辺りに響く。やがて絞首刑の縄が消えて、代わりにわたし達の前に一本の黒ずんだひまわりが姿を現した。迷子のように佇むそのひまわりの名をレノックスが呟く。儀式の枠線を踏み越えてファウストがひまわりの傍に歩み寄っていく。ネロが静止の声をかけるけれど、ファウストは足を止めなかった。ひまわりの元まで辿り着くと、掻き抱くように抱き締め、噛み締めるように呪文を唱えた。黒いひまわりはファウストの腕の中で塵になって消える。ホッと皆が息をつく中、ファウストの小さな呟きが聞こえる。
    「リリー……」
     ハッとしてリリーベルの方を向くと、リリーベルは穏やかな顔をして前に進み出た。皆が視線を向ける中を迷いなく歩くリリーベルは今までに見たことのない穏やかで、落ち着いた別人のような顔をしていた。そのままファウストの元まで辿り着くと、見上げるファウストにゆったりと微笑みかけた。
    「お任せください、ファウスト様」
     膝を折ったリリーベルが両手を組み合わせ、目を閉じる。地面からぶわりと風が立ち上ってリリーベルの髪を揺らした。小さな光の粒子がリリーベルの周りを舞い踊り、明滅する。
    「親愛なるビアンカ。長い間貴女を縛っていた苦しみや憎しみから解き放たれ、安らかに眠れますように……お疲れ様、大好きよ」
     慈愛に満ちた囁きだった。心からの労りだった。ファウストは手元に残ったひまわりの花弁を憂いの眼差しで見詰めている。
    「『コーム・オリーヴァ』」
     光がファウストの手元に生まれ、ひまわりの花弁を包み込んだ。そのまま宙に浮き上がり、光の粒を撒きながら空高くに吸い込まれていってやがて見えなくなった。これがリリーベルの祝福というものだろうか。息を忘れて見入ってしまうほど神聖な光景だった。何者にも侵せない清浄さがあった。リリーベルは自身のことを聖女ではないと言うけれど、今この瞬間のリリーベルは誰よりも聖女に見えた。


     ◆◇


     魔法舎に帰ってきて数日後、わたしは魔法舎の中庭で話をするリリーベルとファウストを見掛けた。何を話しているのか気になって身を隠しながら二人の方へと近づいていって聞き耳を立てる。
    「さっさと魔法舎から去れなんて勝手なことを言って悪かった。ここに残るのも去るのも君が決めることで、僕が口を出すことじゃなかった」
    「では、このままここにいてもよろしいですか?」
    「……君がそうしたいならそれでいいんじゃないか」
     帽子のつばを摘んで目深に被るファウストに拳を固めてクッと体を丸める。す、素直じゃない……!儀式の時にリリーベルの名前を呼んだ時は自然と出てきた感じだったのに、通常運転に戻ったらよそよそしいなんて。でもあの仕草って絶対照れてるやつなのに……!考えれば考えるほどに焦れったくて唇を噛み締めている時だった。
    「賢者、そこにいるんだろう。隠れたって無駄だ」
     呆れたような声に観念してすごすごと姿を現す。大きく溜め息を吐いてファウストは額に手をやっている。対してリリーベルは口元に手を当ててクスクスと笑っている。どうやら初めからバレていたみたいだった。そりゃ訓練も受けてないド素人だけど、さすがに恥ずかしい。
    「まったく、覗き見なんて趣味が悪いぞ」
    「すみません、お邪魔になるかと思って……」
    「いえ、聞かれて困る話でもなかったですし。お声を掛けてくださればよろしかったのに」
     声を掛けたら掛けたでものすごくファウストに嫌そうな顔をされる気がしたけどと思いつつ黙っておく。代わりに仲直り出来たんですねと声を掛けると二人はキョトンとした顔をしてお互いの顔を見る。
    「そもそも僕達のは喧嘩なんかじゃ……」
    「まぁでも喧嘩みたいと言われればそうなのかも……?」
     喧嘩と簡単に纏められたことにファウストは微妙な顔をしていたけど、リリーベルにそんな感じとふんわりと肯定されて押し黙った。それ以上の問答が面倒になったのかもしれない。
    「まったく、リリーは……」
     溜め息混じりに言いかけてハッと慌てたようにファウストは口を押さえた。これまで敢えて愛称で呼ばないようにしていたのだろう、やらかしたとばかりに額を押さえるファウストにニッコリと微笑みかける。
    「いいじゃないですか、古い知り合いだってのは皆分かってるんですから」
    「そういうことじゃ……いや、まあ……」
     口元に手を当てて考え込んでしまったファウストをそのままにしてわたしはリリーベルに話し掛けた。ビアンカさんを弔った日から気になっていることがあったからだ。
     ビアンカさんを浄化した後、ファウストの口から零れた縋るような呟きはわたしのいた距離で微かに聞こえる程度だった。けれどリリーベルは迷わずファウストの元へとやってきた。わたしより離れた位置にいたリリーベルには聞こえていたんだろうか。わたしの問いにリリーベルはキョトンとした後、柔らかに笑った。春の日差しのような、とても優しい微笑だった。

    「名前を呼ばれたような気がしたので」
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    mgn_t8

    DONE診断メーカー「三題噺」より
    「不機嫌」「言い訳」「昼下がり」
    フォロワーさんとワンドロ(+5分)

    リリーが魔法舎に来てすぐ後くらい。ファウスト語りで主にファウスト+レノックス。リリーはチラッとな革命軍組の話。
    胸に隠したそれは 再会してからずっと気になっていることがある。レノックスのリリーに対する呼び方だった。昔は敬称付けでリリーベル様と読んでいたが、今はリリーと愛称で呼んでいる。ここに至るまでどんな経緯があったのかは知らないが、共に南の国から魔法舎にやってきて親交もあったというから僕の知らない間に親しくなったのだろうということは考えなくても分かる。分かるけれど、レノックスとリリー、時にはフィガロを加えた三人の様子を見ていると胸の奥がざわりと騒ぐのを抑えることができなかった。

     ある日の昼下がりだった。東の魔法使いたちの午前の実地訓練を終えて食堂で皆で昼食を取った後だった。図書室で今後のカリキュラムを考えようと足を向けた時だった。廊下の向こうから歩いてくる人影を認識した瞬間、口を引き結んだ。レノックスとリリーだった。和やかに会話をする姿は親しみに溢れていて信頼に満ち満ちていた。未だここにいる魔法使い全員に慣れていない様子が窺えるリリーの朗らかな笑顔が向けられているのは微笑を浮かべたレノックスだった。何となく彼らから視線を逸らして黙ってそのまま歩を進める。
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