胸に隠したそれは 再会してからずっと気になっていることがある。レノックスのリリーに対する呼び方だった。昔は敬称付けでリリーベル様と読んでいたが、今はリリーと愛称で呼んでいる。ここに至るまでどんな経緯があったのかは知らないが、共に南の国から魔法舎にやってきて親交もあったというから僕の知らない間に親しくなったのだろうということは考えなくても分かる。分かるけれど、レノックスとリリー、時にはフィガロを加えた三人の様子を見ていると胸の奥がざわりと騒ぐのを抑えることができなかった。
ある日の昼下がりだった。東の魔法使いたちの午前の実地訓練を終えて食堂で皆で昼食を取った後だった。図書室で今後のカリキュラムを考えようと足を向けた時だった。廊下の向こうから歩いてくる人影を認識した瞬間、口を引き結んだ。レノックスとリリーだった。和やかに会話をする姿は親しみに溢れていて信頼に満ち満ちていた。未だここにいる魔法使い全員に慣れていない様子が窺えるリリーの朗らかな笑顔が向けられているのは微笑を浮かべたレノックスだった。何となく彼らから視線を逸らして黙ってそのまま歩を進める。
「ファウスト様」
「ファウスト様、お疲れ様です」
二人からかけられた声に短く返事をしてすぐに視線を外す。あまり会話をする気にはなれなかった。ランズベルグ領での任務を経て多少なりとも距離を縮められたような気もしたが、それもわずかだ。僕はあまりリリー達と交友を深めようとはしなかったし、二人とも……特にリリーベルは遠慮をしていた。そうさせる原因は自分にあると分かっていても、態度を軟化させることは中々できずにいた。リリーがここにいることは認めたが、その先どう接したらいいのかが分からなかった。今でもこんな危ない戦いに首を突っ込むのは勧める気にならないし、危険に身を晒すくらいなら南の国に帰った方がいいとさえ思っている。それを伝えたところで素直にそうですかと頷く娘でないことは分かっているから口にしないだけで。
レノックスもフィガロもリリーがここで僕たちの補佐をすることは受け入れているようだった。それどころか他の魔法使いたちに馴染めるように手助けをする様子さえある。無関係なあの子を巻き込んだところでなんの益もない気がするが……無言の間の後、僕はそのまま図書室へと足を向けた。背後でリリーが自分に何か落ち度があったのではないかとレノックスに問いかける声がしていた。
同じ魔法舎で生活しているのだから、完全に遭遇を避けることはできない。朝の食事や日中の洗濯や掃除の時間、空き時間の談話室……どこかでリリーベルとレノックス、或いはフィガロの姿が見える度、笑顔を交わすのを目にした時、胸の中で渦が巻くのを感じた。どこか居心地の悪いような気分の悪さがあった。彼らの姿があるからと行き先を変えることもままあった。そんな中、廊下で行きあったレノックスに声をかけられた。何か迷惑をかけたのではないかと気にしているようだった。
「何もないよ」
そう、何もない。ただどこか虫の居所が悪いだけ。だけどそれは誰がどうこうすれば解決するという話でもないし、レノックスに話す話でもない。レノックスを避けて自室へと向かおうとすると躊躇うような声がする。
「リリーも随分と心配していました。何か粗相があったのではないかと」
また「リリー」だ。仲良しの友人に当たり前に世話を焼く。そのことがひどく堪らなかった。
「随分と仲がいいんだな」
「最初はリリーベル様と呼んでいたのですが、呼び方を改めてほしいと頼まれて……ただの魔女になりたいと言っていました」
その言葉は鋭く胸に刺さった。かつての仲間たちの輪の中にあって皆を癒し慕われる聖女でいたくないという意思表示だった。その過去を知られたくないと、その姿を認識されたくないとあの子が言った。ある日突然革命軍から姿を消したリリーベルはその時に聖女である何もかもを捨て去ったのかもしれない。きっとそれほどまでに苦しんで、傷付いて全てを投げ出したくなるほど追い詰められていたのだ。あの時、リリーが苦しんでいることに気付きながら手を差し伸べなかった。声をかけることすらしなかった。自分が傷付きたくないから見ない振りをした。その僕が自らの意思を示して前に進もうとするあの子の道を塞ぐのはきっと身勝手で傲慢だ。
「ですから彼女とは同志でなく友人になることにしました」
フィガロの弟子でレノックスの友人。そうなることできっとリリーベルは救われたのだろうと何となく察しがついた。だからレノックスは「リリー」とあの子のことを呼ぶのだ。
「……そうか」
思ったよりもずっと頼りなげな声が出てピタリと口を結んだ。これ以上何かを口にしたら言い訳じみたことを言ってしまいそうだった。僕の幼い感情で生じた不機嫌がこれ以上レノックスたちを傷つけるようなことをしたくなかった。
(ああ、そうか)
レノックスとフィガロとリリーベル。あの顔触れが揃って笑い合っている場に自分がいないことに疎外感を感じていた。事ある毎に気を遣われるのがいたたまれなかった。彼らの輪の外側にいることが自分の無力を現しているようで。分かってしまえばなんて子供じみた理由だったんだろう。
「すまなかった。君にも……リリーにも。……そう、ただ虫の居所が悪かったんだ」
寂しかったなんて、誰にも言えない。