喧嘩をするほど【治北】(RTS36頒布 無配SS) 喧嘩をするほど仲が良い、は結局分からず仕舞だ。
俺が信介さんに怒られて喧嘩にすらならないだろうと思っていたのは若い頃のほんの短い間だけで、案外信介さんは頑固でムキになる。年々それは増してきたように思うけど、自分の意見が強引だと気づくとすぐに訂正して謝る柔軟さも年を重ねるごとに増していったと思う。だから結局、喧嘩になることは少ない。
これからたくさんある二人の時間をどうしようか、と話をして、やりたいことがいっぱいあったはずなのにどちらも思い出せず、なんだったっけと笑ってしまった。お互い仕事と日常が切り離せない仕事だったから、こういう日々を楽しみにしていたのに。
とは言え、一応二人ともまだ現役ではある。俺は店に立つ日数を減らして、信介さんも田んぼをやる時間を短くした。どちらも、もう自分でないと、という仕事の仕方ではなくなっただけだ。
「明日の朝食って、何時からやったっけ?」
信介さんが聞く。
「十時までに行けばええんやって」
「十時かぁ……ほんなら早起きして朝風呂してから行こうかな」
「あ、俺もそうしたい」
結局目新しい案は出ずとりあえず温泉にでも行こうかと、前にも来たことがある旅館に来た。ただ、今回はあの頃はできなかった連泊をしてみている。
「…なに」
「ふふっ。たまにはええでしょ? 久しぶりに」
布団を整えてる信介さんを後ろから抱き締めた。昔と抱き心地は変わった。筋肉が減って弾力が落ちたことが浴衣の上からでも分かるけど、それでも肌の温かさは変わらない。
「久しぶりって、別にそんなんでもないやろ」
「えー、そうやったっけ?」
「そうやん。だってこないだは、えっと……先週か?」
「ええって。そんな細いことは」
「何言うてん。お前が呆けたのかと思ったわ」
「したらどうするの?」
「別にどうも。そうなんやって、わかってた方がええやん」
「うん……せやね」
「もう寝ようや。俺眠い」
「よぉお酒飲んでましたね」
「若い頃に比べたらもう全然あかん」
「いや、昔とおんなじくらいやったらほんまに怖いですって。肝臓どうなってんのって」
「はいはい。そんで明日は? 何時に起きる?」
「八時?」
「俺は七時に起きる」
「えぇ、早いー」
「別に合わせんでええよ。お前はゆっくりしたら」
「いやや。せっかくの連泊なんやから、信介さんと一緒がええ」
「あっそ」
ほなもう寝よ、と言った信介さんに続いて布団に潜る。その中で手を繋いでくれた。薬指の指輪が当たるのをなんとなく意識してしまうことは言わないまま、もう何年も経ってしまった。
「キスしてもええ?」
「ん」
少しかさついた唇同士がちゅ、と音を立てて触れた。信介さんからも同じようにしてくれて、顔が離れていった。もう昔のように欲を燃やすような深いキスをすることは減ったけれど、これで十分。何年経っても変わらない、愛しい人からの愛しいキスだ。
「ね、信介さん」
「ん?」
「ぎゅってしてもええ?」
「さっきしたやん」
「布団の中でもしたい」
「……せえへんよ」
「うん。それでも」
信介さんがもぞ、と動いて俺の肩に頭を乗せた。その下から腕を回して肩を抱いた。同時に俺の胸に信介さんの手が置かれる。
「ぬくい」
「暑い?」
「ううん。ちょうどええ」
「よかった。明日の朝飯、なんでしょうね……あれ、信介さん?」
一呼吸、スーっと聞こえたかと思ったら、あっという間に寝てしまったらしい。
「はや」
視界の中で膨らんで元に戻る薄い胸、やや艶がなくなった髪と丸い頭。じんわりと伝わってくる信介さんの体温。変わったものと、変わらないもの。気持ち良くて、だんだんと瞼が重くなってくる。
こういうとき昔は、先に寝ないでくださいよって駄々を捏ねたこともあったし、外泊という非日常に燥いで無茶苦茶に抱いて、強制的に寝かせてしまったこともあった。そういう翌朝は大抵怒られていたことが今となっては懐かしい。
この歳になって、信介さんの体への負担がますます大きいし自分も体力的に無理できなくなったから、そんなことはもうしない。というか、できない。
「……ふぁ……」
信介さんのおでこに唇を当てて、自分もそろそろ寝ようかと思う。朝起きて温泉に入るとき、部屋付き露天なのだからまた一緒に入りたいって言ったらどんな顔をするだろう。いや、俺が気付かないうちに信介さんは先に起きてさっさと一人で入ってそう。
朝食はどんなおかずが出るかな。信介さんは朝ご飯にお味噌汁があると喜ぶから、出汁が利いた美味しいお味噌汁が出るといいな。
食べ終わって身支度をしたらどうしようか。何も決めないまま、ガイドブックも買わないまま来てしまった。昔みたいに一泊しかできないから効率よく楽しむ、みたいな考え方はしなくても良いことが今更少し擽ったく思う。のんびり街を歩きながら、温泉まんじゅうを食べたり……あ、酒まんじゅうはあるかな。あったら信介さんに買ってあげよう。そうして、登山鉄道に乗ってもいいかもしれない。
露天風呂のお湯が細く注がれる音がわずかに聞こえる。あとは信介さんの安らかな寝息。いいお湯に入って、美味しいものを食べて飲んで。そうしながら仕事のことを思い出して少しの緊張もしなくていい。きっと良い心地で寝ているのだと思う。
頭を撫でてみる。触り心地は少し変わったけれど、この髪に触れると落ち着くのは今も変わらない。いい夢を見れているかな。一緒に見たいな。
「……治、寝れんの?」
「あれ、起こした?」
「ううん。寝ぇへんの?」
「寝る。明日、どうしようかなって考えてた」
「ん。おやすみ」
信介さんが俺の浴衣をきゅっと握った。
「……おやすみなさい」
幸せいっぱいなこの瞬間を、この先ずっと忘れないでいたい。
そう思うことはこれまでもたくさんあったけど、そう、信介さんとのどの思い出も忘れないでいたいと思うけど、いつか少しずつ忘れてしまう時が来るのかもしれない。でも、幸せな気持ちになる思い出が増えて、それらを抱えてまたこれからも生きていけるのだと思うと、信介さんの隣にいることができてやっぱり幸せだと思う。
天井を見つめていた目を閉じて、温かい暗闇が満ちる。
結局、喧嘩をするほど、は分からないままだけど、幸せだなと思う気持ちが独りよがりではないのだから、喧嘩の数で測らなくても、俺らは今までもこれからも仲が良いのだと思う。