書きかけ 晩夏の青 さわさわと、蓮の葉が風に揺れる音がする。花の盛りが終わり、今は大きく育った葉だけが悠然と揺れていた。それに蛙や虫の声、遠くからはふくろうの声も聞こえる。夜空にぽっかりと浮かぶ正円の月を見上げ、江晩吟は手に持った盃を唇に寄せて傾けた。
いい夜だ。口の中に流し込んだ酒もまたまろやかで、舌の上でゆったりと味わってからこくりと飲み下した。
蓮花湖に臨む四阿で、欄干にゆったりと身を預けるようにして、髪を下ろし寝衣の上から薄手の羽織を肩にかけた江晩吟はひとり酒の味を楽しんでいた。この頃は忙しく私的な時間を設けることもできずにいたが、しばらくぶりに余裕ができて、息抜きにと夜の空気を楽しむことにしたのだ。
真ん丸の月は静かに、それでいて煌々と、辺りにあるはずの星々の光を飲み込んで輝いている。その薄くも鋭い黄金色を見ていると、ひとりの男の瞳を思い出すのだ。藍家の宗主、藍曦臣――かつての江晩吟の恋人だった男。今は何の縁もない男。
江晩吟はまた一口酒を呷ると、はあと息をついた。
別れを告げたのは自分の方からだった。もうやめにしよう、と口にしたときの彼の表情を思い出す。揺れる満月の瞳は動揺を隠せていなかったが、それでも彼はわかったと言ったのだ。
彼、藍曦臣とはたしかに恋仲にあったとはいえ、江晩吟は未だにそれが本当にそう呼べるものだったのかわからない。
一番初めに思いを告げたのは藍曦臣の方だった。彼の住まう雲深不知処に、江晩吟が座学のために訪れていたときのことだ。
魏無羨が雲夢へと送り返された後。ひとりでいることの多かった江晩吟を気遣ってか、藍曦臣に声をかけられることが多くなった。
相手は天下の澤蕪君である。数多くの仙師の憧れの的だ。当然江晩吟も彼に憧憬の念を抱いていた。始めこそは畏れ多く思ったものだが、そうして声をかけられるたびに次第に彼と話すことにも慣れていった。
雲深不知処は広く、豊かな土地だ。散歩がてら、どこになんの植物があって、それは薬にするにはどんな効能があって、などたくさんの知識を授けてくれるのも嬉しかった。
ある日、そうしてさくさくと足音を立てながらふたりで緑の中を歩きながら他愛のない話をしては小さく笑い合っていたとき。藍曦臣がふと足を止めた。
どうしたのかと彼の顔を見ると、藍曦臣はやわらかに微笑んだ。
「……江公子、あなたを、お慕いしています」
どうか私のそばにいて。そう突然告げられて、江晩吟はそれはそれは驚き混乱した。声も出せず、目を見開いて彼の顔を見ることしかできずにいたが、どうにかこうにか首を縦に動かした。
うれしい、と小さく声がして、藍曦臣が江晩吟の両手を握る。どうにも顔が熱くて仕方なくて、笑みを深くする彼の顔をまっすぐに見ることができなくなって、江晩吟は俯いた。
視線の先にはそっと包み込むように握られた手があって、彼の手はとてもあたたかくて。なにがなんだかわからなくて、どうしていいのかもわからなかったが、どうしたことかそうしてふたりは恋人同士になったのであった。
座学の間はそうして時折ふたりで山を歩いてはまた話をして、ただ手を握っては互いに照れくさくなって笑い合っていたが、江晩吟が雲夢に戻ってしまえばそう顔を合わせる機会もない。
次はいつ会えるのだろう。そのときを楽しみに待って、時折文のやりとりをして。それだけの関わりだったが、江晩吟は十分嬉しかった。そうしてささやかなやりとりを続け、日々を過ごしているうちに、藍家に温氏の魔の手が伸びた。
山が焼かれ、藍曦臣が失踪したと聞いたときは江晩吟の胸の内はざわめいて、落ち着かなくて仕方がなかった。彼は今どこにいるのだろう、無事でいるのだろうか。心配する気持ちは日ごとに強くなっていく一方だったが、すぐにそれどころではなくなった。今度はその魔の手が江家に及んだからだ。
それからは本当に、本当にいろんなことがあって。思い出すこともしたくないのに、忘れることなど絶対にできない日々が訪れた。
それから。必死で逃げて、身を隠して。その最中、彼、藍曦臣に見つけられたのだ。
久々に見た顔は以前のように穏やかな笑みを浮かべてはいなかった。それでも、ああ生きていてくれてよかったと心の底から安堵し、再会を喜び合ったのだ。
その後は同じく温氏から身を隠す彼と共に過ごし、反旗を翻すその日のために奔走した。そんな日々の中の、ある夜のことだった。今日の夜空と同じように、満月が静かに辺りを照らす夜があった。
江晩吟は愕然としたのだ。家が焼かれ、両親が殺され、門弟たちもすべて討たれ、姉とも離れ義兄は行方知れずで。それなのに月は眩しいほどに輝き、それを囲むように浮かんだ薄い雲は七色に照らされ、草木のさざめく音は優しく、空気は澄んで冴え渡っていて。とてもとても、美しい夜だったのだ。
世界は自分のことなど知ったことではないというように、相も変わらずに回る。自身や家族、仲間たちに降りかかった災厄などどこにもなかったかのように。まるで自分だけが世界とは切り離されてしまったように。
静かで、穏やかで、優しく美しい月夜だった。その美しさが冷たくて、おそろしくて、胸の中がめちゃくちゃになって。涙が止まらなくて。どうしていいのかもわからず、波立つ感情をどうすることもできず、叫び出しそうになる自分を必死で抑えていたとき。藍曦臣が江晩吟を抱き締めた。
そっと静かに、触れるのを恐れるように、そうして肩に添えられた手が背に回り、きゅうと包み込まれた。その腕にこめられた力が少しずつ強くなり、苦しいほどに抱かれると、江晩吟も堪えきれず声を上げて泣いた。しゃくりあげて、喚いて、藍曦臣の胸を拳でどんと数度打つようにして、そうしているうちに立っていられなくなって、くずおれると藍曦臣は土で己の衣服が汚れるのも構わず膝をついて江晩吟を抱き留めてくれた。
江晩吟はこみあげる気持ちのままに涙を落とし続けた。ぼやける視界の中で見た藍曦臣の顔は、頬に涙こそ伝ってはいなかったが、瞳は濡れて今にも雫がこぼれ落ちそうだった。それでも強い意志のこもるその瞳は力強く燃えていた。
その満月の如き輝きを見ていると、そっと藍曦臣の手が江晩吟の頬に添えられた。あたたかな指が涙を拭っていく。だが拭った先からまた新たに伝い落ち、彼の指を濡らしてしまう。
彼を汚してはいけないと、涙を止めようとするがうまくいかない。ごしごしと力づくで目をこすっていると、彼の手がそっとそれを制止した。
互いにしとどに濡れた瞳を向け合い視線が重なると、藍曦臣はゆっくりと顔を近付けた。再び頬に手が添えられる。鼻先同士が触れ合うほど近付くと、江晩吟は目を閉じた。それから、己の唇に彼のそれが重ねられるのを受け入れた。
それが、最初で最後の口付けだった。
彼が姑蘇に戻り、温氏を討つためにと声を上げて、それから激しい戦乱の日々が始まった。
そして。温氏との戦いを終え、その後も数々の波乱を乗り越えて、幾月、幾年もの時間が過ぎ去っていって。その間も時々、ほんの少しの時間だけだったが互いに顔を合わせて話をして、手を握り合わせて笑い合った。そうして共に過ごす時間は江晩吟に安らぎを与えてくれた。
しかし。恋人同士というにはあまりにも共に過ごす時間は少なく、互いのことを知ることもできず、触れ合うことも少なくて。これの何が恋だというのだろう。多感な時期と、辛く苦しい日々をほんの少し共有しただけだ。
藍曦臣が江晩吟に気持ちを告げたのは本当に一番最初、交際を始めることになったそのきっかけの一言だけである。あれから二十年近くが経過するだろうか。改めて考えてみると、とてつもなく長い時間が我々の間にはあったというのに、それ以来、彼から好きだのなんだのと言われたことはない。
江晩吟も彼に気持ちを言葉にして伝えることはなかった。というのも自分の気持ちが本当に彼に向いているのか、これが恋心であるのかわからなかったからだ。
彼のことは好ましく思うしそばにいたいとは思うが、強く焦がれて夜も眠れないなどということは一度もなかった。彼に抱く好意として、ほわりとあたたかな気持ちはあるがそれだけだ。何よりも誰よりも強く求め、何を犠牲にしても彼を選ぶほどの熱意や覚悟もない。
果たしてこれは恋と呼べるのだろうか。このまま彼と恋仲という名の関係を続けていてもいいのだろうか。
今までずるずるとこの曖昧な距離を保ち続けて来てしまったが、それにも何の意味があるのだろうか。一番初めにそばにいてと言われたその言葉に流されてここまで来てしまっただけではないか。
藍曦臣も、手を握る以外こちらに距離を詰めるつもりもないようだ。あの晩、唇を重ねたのだって江晩吟に向けての恋心からの行動かと言われるとどうもそうは言い切れない。あれはただの傷のなめ合いのようなものだった。自分はひとりではないのだと、互いに安心するためだけの触れ合いだった。
まだ互いに子どもだった頃からずっと、ずっとこの関係は続いているのに、口付けはただの一度だけ。もういい大人で、それよりももっと深い交わり方だってできるというのに、藍曦臣はそうはしない。江晩吟もそうはしなかった。
そもそも、彼が一体何をきっかけに自分に惚れたのかわからない。あの人が、自分の何を、どんなところを好いているのかも知らない。本当に自分のことが好きなのか、それもわからなくなっていた。
両者とも大世家の宗主として忙しくしている身で、逢瀬らしい逢瀬の時間も取れていない。文でのやりとりは続けていたが、直接顔を合わせないまま数ヶ月が過ぎることもざらだった。そしてそれを特に気にも留めなかった。次に会う日の約束も何も取り付けず、会えたとて別れ際もあっさりとしていて引き止めもしない。
これは恋人同士とは呼べないだろう。ただいたずらに彼に時間を使わせ、気も遣わせてしまっているだけではないか。
一度そう思ってしまうともうだめだった。今まで過ごした時間も、これから過ごすであろう時間も、価値のあるものなのかわからなくなってしまったのだ。
「もう、やめにしよう」
春の終わりの頃、所用で雲深不知処を訪れたその帰り際、藍曦臣に手を握られて山門まで見送られたそのときに。木漏れ日の中で彼の手を離してそう言った。
あれから数ヶ月が経つ。彼からの連絡はなく、江晩吟からも連絡はしていない。清談会など顔を合わせる機会も未だない。本当に何の繋がりもなくなってしまったのだな、と今更ながらに思った。
私室にはまだ彼からもらった文が保管されている。蓮花塢が炎に包まれたそれ以前のものはなくなってしまっていたが、それでも、その後からもらったものはすべてだいじにしていた。
彼の笑みのように穏やかで美しい、流麗な字で綴られるそれは、ふたりきりで話をするときのように他愛のないものが多かった。こちらではこの花が咲いた、だとか、雪が降った、だとか、今年も座学の生徒たちがやってきた、だとか。ささやかな近況報告が多いそれが届くのを、いつも心待ちにしていた。
その文ももう、届くことはないのだ。
ふと手を見る。いつも彼が握ってくれた手だ。彼の手は白く、肌は肌理細やかで、すらりと長い指に形のいい爪にとまるで作りもののように綺麗だった。しかしその手で握り込まれるとわかるのだが、その手の内側は想像よりも硬くしっかりとしている。剣を握る男の手だ。琴を弾くこともあるからか、指の先も硬く、見た目よりもずっとずっと逞しい触れ心地をしているのだ。
その手を互いに握り合わせることも、もう二度とない。
煌々と天高く輝く月のような彼の瞳がやわらかくこちらを見つめて微笑むこともない。
こうして満月を見て、唇を重ねたあの夜のことや、彼のことを想うことも、もうするべきではない。
もう、藍曦臣とは縁を切ってしまったのだから。もう、彼とは恋人同士ではないのだから。
江晩吟は四阿の卓に盃を置き、代わりに小さな酒の甕を掴むとぐいっと一気に酒を呷った。
せっかくのいい夜だ。今は楽しい気分に浸っていたい。自分から手を離した男のことなど、考えるべきではない。そうだ、今は楽しいことだけ考えていたい。またぐっと酒を飲み下す。今ここにいない男のぬくもりなど、忘れてしまえばいいのだ。もう一度、ごくごくと喉を鳴らして酒を飲んだ。口の端からあふれることも気にせず、顎や首を伝い落ちようとも構わずに浴びるように飲んだ。
ぷは、とようやく甕から口を離して空気を吸い込む。それでも、思い出すのはやはりあの男だった。彼を私室に招いた夜、久方ぶりの逢瀬に気分が上がった江晩吟が少々多めに酒を口にすると、飲み過ぎはよくないよ、とやさしく声をかけてそっと江晩吟の手から盃をすくい取っていったその手を思い出す。
どこまでもやさしくて美しくて、あたたかでやわらかで。そんな彼の声と笑みを、誰よりも近くで見ていたのに。触れていたのに。もう、そんな日が戻ることはない。もう二度と、彼と笑い合う日は来ないのだ。
江晩吟は己の手の甲で酒がこぼれた口元や顎を拭く。そのまま首も適当に拭う。しかし、なぜだかいつまでも濡れているように思うのだ。ぐいぐいと拭くが、拭いているその手の上にも雫が落ちる。
雨でも降り始めたのかと天を見上げるが、雲もなくぽっかりと月だけが浮かんだ空からは一滴も雨など降ってはいないようだった。なんだ、と思うがそれでも濡れる感覚は続き、不思議に思いぱちりとまばたきをするとその睫毛からはたりと雫が落ちた。
え、と思い頬を拭い、それから目もこする。どうやら雨でもなんでもなく、こぼれているのは己の涙のようだった。
泣いている自覚などまったくなかった。だがぱちりぱちりとまばたきをするたびに眦からは絶えず涙がこぼれ落ち、拭いても拭いても追い付かない。
泣くときというものは喉の奥が熱くなったり鼻がつんとしたりなどしないものだろうか。それらの兆候もなくただひたすらに涙がじわりと沁み出しては頬の上を流れていく。あまりに止まらないのでむしろおかしくなってきて、江晩吟はひとり小さく笑った。それを共に笑ってくれる人も、代わりに涙を拭いたり、止めてくれたり、抱き締めてくれる人ももういない。自分から切り捨ててしまった。
――会いたい。彼に、藍曦臣に会いたい。そうしたらきっとこの涙は止まるのだ。
なんと自分勝手なことだろう。なんと馬鹿馬鹿しいことだろう。江晩吟はもう一度笑った。すべては己のせいなのだ。だらだら、ずるずる、ただ惰性だけで続く関係であったとしても、それでもあの白くて逞しい手は放してはいけなかったのかもしれない。そのことに気付くのも遅すぎて、また笑った。
「……俺はちゃんとあの人のことが好きだったんだなあ」
涙声で、それもおかしくて少し笑い混じりのそのつぶやきは、風に溶けて消えてしまった。
止まらない涙はもう諦めて、ぼんやり月を眺めていると、次第にくらりくらりと視界が揺らめいてきた。酒が回ったのだ。強く風が吹くとそれに体が押され、ふらりと足元もおぼつかなくよろめいた。なんと情けないことだろう。それもなんだかおかしくて笑ってしまう。くらくら、ふらふら。風は次第に冷たくなって江晩吟の体を冷やす。こんなときに彼がいてくれたら、寄り添い合ってさむいなと笑い合えるのに。ああ。あーあ。こんなこと、考えたくはないのに。全部忘れてしまわねば。そう思って、また酒をぐっと呷った。
そうしてどれほどの時間が経っただろう。蛙の声も虫の声も風の音もわんわんと頭の中でうるさく響いて騒がしい。少しばかり多めに持ってきたはずの甕もすべて空けてしまった。
うるさいうるさい。こんなにうるさくてはたまらない。耳をふさぐ手が必要だ。そうだあの手がいい。大きくてあたたかい彼の手がいい。それなのにその手の持ち主はここにはいない。ああ。会いたい。会いたいなあ。
江晩吟はゆるゆると重たい手を持ち上げてはその手の平の上に霊力を集め、小さな蝶を作った。なあ、おまえもあのひとに会いたいよな。あのひとのところに行ってくれよ。なんて思いながら、その気持ちのまま蝶に会いたい、とだけ声を吹き込んだ。それから、江晩吟は吹き出して笑った。こんな蝶を作ったところで飛ばせるはずがない。どの面下げて、自ら別れを告げた男に会いたいなどと言えるものか。まったく本当にどうしようもない。ひとしきり笑って、ほのかに紫色に輝く蝶を見た。蝶は迷うように江晩吟のまわりを飛んでは、結局はどこにも行かずに肩に止まった。
そうだそれでいい。おまえは彼に届いてはいけないのだから。はたりとゆっくり翅を動かす蝶を指の先で撫でて、江晩吟は四阿に備え付けられた椅子に腰をおろし、しのび寄る眠気に身を任せて卓に頬杖をついて目を閉じた。