夕刻の冷たい風が江澄の頬をなでた。隣にあるはずのぬくもりを求めて、手がパタパタと敷布の上をさまよう。
「らん、ふぁん?」
かすれ声が出た。しかし、いつもなら応えてくれるやさしい声はない。何にも触れなかった指先を引っ込めて、江澄は目を開けた。
帳子が風に揺れている。
その向こう、露台に白い背中があった。何を考えているのか、真剣な面持ちで蓮花湖を見下ろしている。
江澄は素肌の上に掛布を羽織って、「藍渙」と名を呼んだ。
「阿澄」
振り返った藍曦臣はいつもの笑顔を浮かべて、素早く牀榻へと戻ってきた。
「なにをしていたんだ」
「湖を見ていました」
彼は牀榻に腰かけると、江澄の頬をなでた。手のひらはあたたかく、冷えた風の感触を消していく。
「江澄、お願いがあります」
一転、藍曦臣の声がかたくなった。
江澄は目を瞬いた。急に異質なものが転げ込んできたかのように、胃の腑が縮んだ。
「正月が明けたら、雲深不知処に来てください」
「それは、構わないが」
「私と一緒に、祠堂に参っていただけませんか」
静かに、熱が引いていく。
頭からつま先まで、血の流れが凍りついていくかのようだった。
「それから、こちらの祠堂にも」
「無理だ」
江澄は胸を押し返して身を引いた。
続く言葉は聞きたくなかった。
「そんなこと、できるわけないだろう。あなたもわかっているはずだ」
江澄は江家宗主であり、藍曦臣は藍家宗主である。自分たちがどうなろうとそれは変えようのないことであり、変えたいとも思っていない。だからこそ、望めることには限りがあった。
「私は、無理だとは思っていません」
藍曦臣は江澄の両肩をつかんで、のぞきこむようにして視線を合わせた。
「制限はあるでしょう。でも、私は」
「聞きたくない」
江澄はさえぎって、藍曦臣の手から逃れた。牀榻から降りて、床に落ちた衣を拾おうと身をかがめたが、指先がふるえてつかみそこねた。
その手を横からさらわれた。江澄は藍曦臣の腕にとらえられていた。両手で頬をおさえられて、むりやりに目を合わせられた。
「江澄、私の話を聞いて」
「うるさいっ」
聞いたところで応えられないとわかっている。わざわざ言わせる気かとにらみつけると、藍曦臣は思わぬ強い視線を返してきた。
「私はあなたを雲深不知処に連れて帰るつもりはありません。宗主としての立場もわかっています」
「わかっているなら無理だと」
「何故です。方法はあるはずです。私はこの先もあなたと一緒にいたい」
「だから、そんなことは!」
無理だろう。どんなに願ったとしても、手の届く範囲でしかかなえられない。言葉をつづけられずにいると、藍曦臣がその後を引き取るかのように口を開いた。
「無理、ですか」
江澄は下唇をかんだ。
藍曦臣の目から怒りの火が消えていく。
(知っている)
この色を。
風のない日の湖面のように凪いだ表層の下にあるのは、きっと諦めに違いない。
「あなたは、私との先を考えていないと?」
「……そうじゃない」
江澄はようやく藍曦臣がそのことを考えていないのだと気が付いた。跡継ぎについて、同じような立場だと思っていたのは自分だけだった。
凍りついたと思っていた指先がさらに、痛みを伴うほどに冷たくなった。
「では、何故」
江澄は答えなかった。口に出したくない。いつかは妻を迎えなければいけない、などということはそのときが来るまで忘れていたかった。
「私はあなたに気持ちを伝えたときから、いつかは道侶に、と思っていました。もし、あなたがそうでないのだとしたら」
「俺と、あなたに、先があるとは思っていなかった」
藍曦臣ははっきりと傷ついた顔をした。
手のひらが離れていって、また、頬が冷える。
江澄は敷布をかき合わせて、藍曦臣に背を向けた
「客坊で待っていてくれないか。着替えたら行くから」
「江澄……」
しばらくして、帳子がすれる音がした。足音が遠ざかるのを聞きながら、しだいに江澄の胸は黒雲がかかるようにふさいでいく。
江澄には譲れないものがある。
蓮花塢が第一であるし、その次はと問われれば金凌の名を出すだろう。だからこそ、藍曦臣とのかかわりに今以上を求めていなかった。
肩から掛布がすべり落ちた。床に丸まった白い絹を拾い上げる者はなく、素肌の肩を包み込んでくれる手のひらもない。
先に話をするべきだった。
ぜんぶ預けてしまう前に、応えられる範囲を確認しておくべきだった。
求められて、浮かれて、予想していなかった自分が悪いのだ。
江澄はのろのろと衣を身に着けた。
その間に、赤かった空は群青色に変わってしまった。
風も冷たさが増している。
藍曦臣とは、この上ないほど気まずい雰囲気の中で夕食を取った。藍氏の黙食にならうかのように、一言も口をきかなかった。
亥の刻の前に江澄は客坊を辞した。
別れ際に藍曦臣が言った。
「明日は、朝のうちに出発します」
「そうか」
「しばらく、こちらには来られません」
「わかった」
「しばらく……、会わないほうがいいのでしょうね」
「そう、だな」
江澄はひとりで自室へと戻った。
牀榻の内に入って、整えられた敷布の上に寝転ぶ。
夕方までたしかにここにいた人は、もう二度と戻らないかもしれない。
江澄は顔を敷布に押し付けた。
明日が永遠に来なければいい。彼を蓮花塢に引き止めたまま、また同じ日をくり返して過ごしたい。
早々に昇った月は、もう西の空をくだっている。
光の入らない房室で江澄はひとりきりだった。