一ヶ月後、ボストンバッグを持った恵が五条の住むマンションにやってきた。
今日から夫婦として同棲生活が本格的に始まるにも関わらず、夜になった今まで引っ越し業者の手配などもなかった。
まさかと思い、五条は恵から受け取ったボストンバッグをリビングへ置いて尋ねた。
「荷物これだけ?」
「はい」
年頃の女の子の荷物が、こんな小さなボストンバッグに収まる程度とは。
一泊二日の旅行でももう少し荷物があるのでは無いか。
「あのさ、君今日からここに住むんだよね?」
こんなので足りんの?と聞くと、恵はこくりと頷いた。
「元から物は少ない方なので。それに、」
「私の持ち物で部屋を狭くするわけにはいかないので」
暗にこの部屋が狭いと言っているのかと、思わず苦笑した。
「そりゃ、君のお家に比べたら狭いと思うけど…」
元はと言えば職場に近いという条件を第一に選んだマンションだ。
結婚を機に引っ越した方がいいと実家からは言われたが、職場に近いという好条件は譲れなかった。
(僕と一緒にならなければあの広いお家で優雅に暮らせただろうに)
まったく気の毒なお姫様だとため息をついた。
「今日はもう遅いしシャワー浴びて寝たら」
「分かりました」
そう言うと、恵はバッグのチャックを開けて、ごそごそと何かを取り出した。
化粧ポーチ、タオル、パジャマ…
そして水色の、レースがあしらわれた可愛らしい下着が視界に入って、慌てて目を逸らした。
(ちょっとは気遣えよ…)
下着を隠そうともしない恵の様子に心配になる。
夫婦とはいえほぼ初対面の男にここまで無防備なのはいかがなものか。
「シャワー借ります」
「…どーぞ、ドライヤーとか好きに使って」
「ありがとうございます」
当の本人は何食わぬ顔でトコトコと浴室へ向かっていった。
(…ああいう下着つけるんだ…)
シャワーの音を聞きながら不覚にもそんなことを考えてしまい、またため息をついた。
少しして、恵が浴室から戻ってきた。
「お風呂ありがとうございました」
風呂上がりの恵は、質の良さそうな生地のパジャマを身につけ、頬をほんのり赤くしながらぺこりと頭を下げた。
「いーえ。じゃあ、寝室はこっち、」
自分なりに綺麗に掃除した寝室に、恵を案内した。
「シーツとか全部洗っといたから安心して。僕は居間で寝るから、おやすみ」
「居間って、ソファーですか」
五条が部屋から出ようとすると、恵が見上げてきた。
「?、そうだけど?」
「明日もお仕事ですよね?そんなところで寝たら疲れがとれません。私がソファーで寝るので、五条さんがベッドで寝てください」
こんなに食い下がってくる姿を見るのは初めてで多少驚きつつも、五条は反論した。
「いや、仕事で慣れてるし平気だよ。それに女の子をソファーで寝かせといて自分がベッドで寝るなんてあり得ないから!」
恵はむ、と眉を寄せて、少し考えてから思いついたように口を開いた。
「じゃあ、一緒にベッドで寝ましょう」
考えた結果がそれか。というかそれでいいのか、と頭を抱えたくなる。
男と女が一緒に寝ることが何を意味するかなんて、きっとお家では教えてもらっていないんだろう。
いや、家で教わらなくとも常識的に考えて分かることだとは思うが。
「…とにかく、僕はまだ仕事が残ってるから先寝てて」
「分かりました。おやすみなさい」
「はいはい、おやすみ」
結局その日は自室で仕事をしているうちに寝てしまい、硬い机の上で朝を迎えたのだった。