姉 私が思い出せる限りの昔から、私の両親は不仲でした。夜中に厠へ行こうと起きたとき、両親が云い争いをしている声が扉から漏れていて、暗い廊下をそれ以上は進めずにうずくまってしまったことがあります。ただ、そのころはまだ、子どもの前では喧嘩をしないという意識は、両親にもあったようです。父と母、バラバラでちぐはぐながら、どちらもにかわいがられた記憶もあります。
待望の江氏の嫡男として弟が産まれ、子はかすがいどころか、それにより両親の仲は決定的にこじれました。
元々、雲夢江氏と異なり、母の実家である眉山虞氏は身分による規律と権威を重視し、家風も、個人の気質も相容れません。母にそっくりな風貌の弟は、成長するにつれて性格も母とよく似ていることがわかり、両親の喧嘩も増えていきました。このころには、もはや親の喧嘩を子どもに隠すということすらしなくなりました。
弟の阿澄は産まれたときから要求の多い気質で、抱っこされるまで火のついたように泣き叫ぶ赤子でした。幼児の年頃になっても、阿澄は自分の要求が通らなかったらすぐに癇癪を爆発させていたのが、だんだんと要求を口にしなくなりました。
阿澄が成長したのではありません。阿澄が願っているのはいつも、息子に厳しい父に褒められたい、笑顔を向けられたい、抱っこされたい。それを口に出してせがまなくても、父に察して欲しい。
そして阿澄の願いは叶わず、癇癪を起こしたり、恨みがましくいじけたりする弟を、父は江氏の家訓に沿っていないとより厳しく叱責するのが常でした。母はそんな父を権高に責め、母もまた弟を叱りました。私が弟にしてやれるのは、泣いている弟を慰めることだけでした。
嵐のように激しい母と弟、ふたりから距離を置いてなにも云わない父に囲まれ、私自身の慰めは、蓮花塢の蓮の実を採ること、蓮根と骨付き肉で汁物を作ることでした。具のたっぷり入った温かい汁物を飲めば、体が温まる。体が温まれば、腹の底からじんわりと元気が湧いてくる。母は私が料理をするのを、下働きのような真似をといい顔はしませんでしたが、弟や門弟たちが喜んでくれるのが励みになりました。
そんな日々のなかです、父が阿羨を連れて帰ったのは。阿羨――魏無羨の両親は父と親しい間柄で、風の噂にふたりとも亡くなったと聞いた父が、忘れ形見の阿羨を探し出したとか。
阿羨はひどく犬におびえる子で、阿澄が飼っていた三匹の子犬にも怖がり、来たばかりの蓮花塢から逃げ出そうとする始末。阿羨をなだめるためにガリガリに痩せた体を抱っこし、優しくほほえみながら穏やかな声で話しかける父の姿に、私でさえ胸がチリリと痛みました。
ましてや、父に抱っこして欲しくてたまらないのに、片手の指ほども抱っこされたことのない阿澄は、嫉妬に顔色が変わっていました。
父は家僕を呼んで子犬を三匹ともよそへやる算段をつけ、阿澄の部屋に阿羨の寝具を運び込ませ、阿澄と阿羨に仲良くするよう云いつけると、そのままいなくなってしまいました。
かわいがっていた犬を突然、取り上げられた阿澄は号泣していました。
阿羨は何事か理解できず、呆然としていました。
湖を渡る風に乗って、激怒して父を罵る母の叫び声と、感情を抑えきれなくなったのか父の怒鳴り声が聞こえてきます。私は幼いふたりにそれを聞かせまいと、扉を閉めました。
私もそのときまでは、いつかは両親が和解して、阿澄の姉、名門江氏の平凡な長女、あの紫蜘蛛の娘ではない私を見てくれるのではないかと、心のどこかで期待していました。
でも――冷たい手で心の臓をつかまれたかのように、小さく、硬く、胸の奥でなにかが縮こまっていくのを感じました。
私は、阿澄と阿羨のよい姉でなければならぬ。
ずしりと重く、伝え聞く藍氏家訓を彫り込んだ石碑のごとくそれは刻み込まれ、沈んでいきました。
……ああ、厨房の鍋に蓮藕排骨湯はまだ残っていたかしら。食べさせる人が増えたから、明日もまた作らないと。
夜の蓮花塢を吹く風が、蓮の大きな葉をさやがせていきました。