忘れ難き味 ドンドンと扉を叩く音に、眠りについていた厭離は起こされた。
「姉上……!」
扉の向こうの姉に向かって江澄は声を上げた。父にも母にも言ったら絶対に怒られるに決まっていて怖くて言えないから、江澄には姉に頼る以外の道は無かった。厭離は一体何があったのだろうと思ったのか、急いで扉を開けてくれた。
「阿澄どうしたの?」
「姉上……姉上、どうしよう!」
厭離の顔を見た瞬間、堪えきれなくなり江澄はわんわんと声を上げて泣き出してしまった。
今日、父は江澄が妃妃や小愛と名前をつけて可愛がっていた犬達を知らぬ間に他所へあげてしまっていた。江澄がそのことを知ったのは彼女達がもうずっと遠くに行ってしまってからだ。そんなの絶対に納得がいかないし、悲しくて苦しくてどうして良いか分からないまま夜になってしまい、江澄は部屋でずっと泣き喚いていた。
父が犬を他所にあげてしまったのは魏無羨が犬を怖がるからだ。彼が蓮花塢に連れられて来て、ずっと江澄だけのものだった部屋はこれから二人で使うようにと言われてしまった。魏無羨はずっと静かに縮こまっているばかりで、江澄とは性格が全然違う。江家の門弟達の元にも同い年くらいの子どもがいるが、こんな風に一緒に過ごす子どもはいなかったから、江澄は魏無羨とどうやって遊んで良いのかも分からなかった。
父が魏無羨にばかり優しくしているように感じるのも悲しさを強めていた。だから、犬に咬ませてやると言って彼を部屋から追い出してしまった。彼の足音が遠ざかり、ひとりきりの部屋は急に静かになった。
魏無羨なんかもう帰って来なければ良いのにと思いながら寝台に倒れ込んだ。急に静かになった部屋に部屋を見ると手当たり次第に投げ捨てた書などが散らばっている。静けさに段々不安になってそっと部屋の扉を開けてみたが、魏無羨の姿は見えなかった。思い切って部屋の外に出てみたけれど、彼の姿は見当たらない。魏無羨は本当に外に出ていってしまったのだろうか。建物の外の夜の暗さが不安を煽る。こんな夜遅くに外に出てしまったら、それこそ野犬に襲われてしまうかもしれない。
(どうしよう)
そう思った時には怖くなって姉上の部屋を目指して駆け出していた。
「阿澄、どうしたの? 魏無羨と喧嘩したの?」
「どうしよう、魏無羨が……」
厭離が腰をかがめ、江澄の肩に手を置いて落ち着かせようとする。
「魏無羨がどうしたの?」
「魏無羨がっ……どっか、いっちゃった。僕……僕のせいなんだ。布団を部屋の外に投げて僕が出てけって言ったから」
そこまで言うと不安でもう何も言えなくなってしまった。声を上げて泣き続ける江澄を分かった分かったと頭を撫でた厭離は、江澄の片手を握りながら立ち上がった。
「魏無羨はお姉ちゃんが探しに行くから、阿澄は布団をちゃんと拾って部屋にいなさい」
厭離はそう言うと灯りを手に、蓮花塢の外へと向かっていった。
厭離には待っていろと言われた江澄だったが、不安な気持ちのまま部屋でいる方がずっと心細かった。部屋の外に出した布団はちゃんと拾って魏無羨の寝台の上にきちんと戻した。
建物の外は暗くて怖い。怖かったけれど、江澄は思い切って外に飛び出した。今の江澄は魏無羨に謝らなければいけないこは分かる。けれどそれ以上に今は魏無羨もいなくなってしまったらどうしようと不安でいっぱいになった。
魏無羨の名前を一心不乱に叫びながら、森に入ったあたりだったろうか。木の根に躓いた江澄は大きく転んでしまった。足元が全く見えなかったので、額の痛み以上に驚きの方が大きくて、どうしてこんなことになっているのだろうと泣くことしかできなかった。そんな時に姉の声が聞こえてきた。
「阿澄?」
駆け寄って来たのは厭離だけでなく、魏無羨も一緒だった。厭離は手ぬぐいを取り出すと江澄の額を拭った。どうやら血が出ているらしかったけれど、心細かったのを自覚して余計に涙が溢れて来てしまう。そんな江澄の姿を魏無羨は横で見ていた。
「泣かないで。どうして一人で出て来たりしたの。阿羨に何か言うことは?」
厭離は江澄の性格をよく知っている。謝罪の言葉はもうずっと心の中で何回も言っていたから素直に口にでてきた。
「ごめんなさい~~!」
「気にしなくていいよ」
こんなに泣き喚いているのを見られているのは少し恥ずかしかったけれど、魏無羨が許してくれたのにホッとしてから江澄の涙はやっと止まった。
魏無羨は犬から逃げる為に木に登っていて落ちて足を痛めてしまったらしい。姉に背負われて蓮花塢に戻る最中、犬に咬ませると言ってしまったのは悪かったなと思いながら灯りを持って先導した。
二人の部屋に戻ってお互いに何と喋って良いのか悩んでいると、今日のことを父には言いつけないから安心して欲しいと言ってきたのは魏無羨だった。だから、江澄も言ったのだ。
「安心して。犬を見たら追い払ってやるから」
この師兄が犬に怯えることはもうきっと金輪際ないはずだ。だって僕が追い払ってやるんだから。そう約束したのだ。
その夜に飲んだ姉の蓮根と骨付き肉の汁物の味は格別に美味しかった。
だから、あの時の汁物の味を覚えているのはお前だけじゃない。俺だってそうだ。蓮花塢があんなことになって、江澄の金丹は無くなってしまったけれど、これからも三人で一緒にいたい。江澄だって永遠に絶対一緒にいるんだと思っているのだ。そのためにも俺は絶対に金丹を取り戻さないといけない。
涙は堪えきれず溢れるばかりだけれど、絶対にあの日のようにまた三人で笑顔で、あの忘れられない味を囲む日を迎えるのだと、江澄は決意を固めていた。