2年後の船 山桜の花言葉を知っていますか――。ふと、過った言葉は、松下村塾の縁側で涼んでいた時に、敷地内にある新緑の香りが漂う樹木を眺めながら師が問いかけたものだった。たしか「分かりません」と素直に答えた気がする。桜の季節なんてとうに過ぎていて、青々とした木が雨上がりの湿った風に吹かれながらザアザアと音を立てていたものだから、随分と季節外れだと首を傾げた記憶がある。だからこそ、素直に分かりませんと答えたのかもしれない。
松陽はこちらを見詰める双眸に、にこりと嫋やかな笑みを浮かべると「山桜の花言葉は、」と続けたはずだ。不明瞭な瞼の裏で口許がぱくぱくと開閉するが、生憎音は聞こえない。
(なんて、言っていたか……)
師の言葉を一言一句忘れたつもりは無かったが、意外にも頭から滑り落ちているものはあるらしい。答えはなんだか不気味で身を凍らせた記憶こそあるが。高杉は自身を窘めるように嘲弄すると身体を起こして窓の外を眺めた。真っ黒い海の上を航行するこの船は江戸へと向かっている。船の中とは思えないほど静かでゆったりとしたこの空間を照らしているのは、水平線のはるか上にある月明かりだけだった。鬼兵隊の船の甲板や自室で飽きるほど月を見たが、それとはまた違った景色である。もうすぐで満月だ。
隣の、こちらに背を向けて眠りこける銀時を眺める。自身の腕をまくらにし、僅かに口を開けて喉の奥からがーがーと鼾をかく姿は暢気なもの。間抜け面しやがって――と高杉は鼻で笑った。
昔からそうだった。やる気のない双眸とひょうひょうとした性格が相俟って無頓着に見えるが、根本は物事を背負いやすく責任感が強い。ただ、底にある正義感の強さは本人に自覚がなく、背負わなくてもいい余計なものでさえ抱えてしまう。損も得もしやすい。
「てめェはアホなんだよ……銀時」
身を乗り出し、肩からずり落ちている掛布団を首元まで引っ張ってやる。一瞬鼾が止んだが、またもやがーがーとまるで地を這う怪物のような音が響いた。
世の中には適材適所という言葉がある。一度死んだ師を奪還或いは復活を阻止だなんて、同じく亡霊のやるべきことだ。銀時にこれを背負わせるのはまだ早い。だからこそ、巻き込むつもりは無かった。誰しも、抱える両の手には、懐には、背中には、相応の似合いのものがあるのだ。銀時が背負うべきものはこれじゃない。
「なのにてめェは……」
どうして、いつも抱えようとする。
高杉は奥歯をギリっと鳴らし、寝息に沿って上下する銀時の肩へと頭を重ねた。布団を握った掌が次第に皺を作っていく。泳げないくせにわざわざ死体で橋を作り乗船した銀時はまるで火中に飛び込む獅子のようだった。そして、高杉が心臓(中身は違ったが)を奪ったとはいえ、銀時が自身を追ってきたことに驚愕と怒りを抱きながらも、どこか安堵した自分が情けなかった。いつの間にこんなにも未練垂らしくなったのか。銀時が指摘したことはあながち間違いではないかもしれない。悔しいことに。
銀時と高杉がこの二年間それぞれ調べていたこと、感じていたこと、見たこと、得たこと。それらを併せた時、やるべきことは決まった。銀時が共に行動をする理由も正当であるし、きっともう退くことはないだろう。それでも、切なそうに思い詰めたように心臓を見据える銀時に、後ろ髪を引かれる思いもあった。銀時がここにいることは本当に正しいのか。
(先生……)
二人の枕元の間に置かれた心臓を指の腹で撫でながら師へと訊ねる。
もう少し生きるために朧の骨を体内へと取り入れたことを話した時の、あの瞳の奥に虚無と絶望を写し顔色を真っ白にして絶句していた銀時の顔が頭から離れなかった。吐血をするたびにこちらへと腕が伸ばし肩を抱き寄せ、高杉が咳き込むのを終わるまでジッと鳴りを潜めていた時の、眉間に皺を寄せ下唇を白くなるまで噛んで耐えているあの顔が離れなかった。
気でも違ったか、吐血した高杉の手を掴み血液ごと背負うように唇を重ねようとした銀時を突き飛ばした時の、泣き出してしまいそうな子供のような顔が離れなかった。
「これ以上、そんな顔を俺の目に映すんじゃねェよ……」
ただでさえ、左目は泣き顔に埋め尽くされている。絶望やら泣き顔やらは腹いっぱいだ。十二年も泣き続けたのだから、もうそろそろ晴れてもいいんじゃないのか。
「なァ、銀時」
眠る銀時の首筋に指を滑らせ、温かさと鼓動に息を零す。十数年抱いてきた片想いはここで終止符を打たなければいけない。銀時が大切にしているものを護るために。
着流しの袖を指の先まで引っ張ると、そのまま布越しに銀時の唇に自身のそれを重ねた。自分勝手だということは十分わかっている。銀時にだって絶対に言えない。万が一血液が銀時の体内に入ってしまったら意味がない。だから布越しに。
時間にしたらたったの三秒。どうやら気が違ったのは自分の方だったらしい。ただでさえ墓場まで持っていく荷物が多いのに、此れまでも増えることに苦笑しながらも、今度はゆっくりと離した。高杉の顔は、慈愛と憂いに満ちていた。
しかし、
「高杉」
「っ、」
離れていく顔を阻止するように後頭部へと温かい掌が回されて、気づけば再度唇が重なっていた。いつの間にやら銀時の体勢は仰向けになっており、筋肉質の腹の上で高杉を抱きかかえている。
今度は布越しどころか舌まで交わらせている始末だ。今は吐血していないとはいえ唾液からも銀時の身体に害を及ぼす危険性は皆無ではない。舌小帯を突く銀時に息を漏らしながらもグッと胸板を押して抵抗すれば、
「もう少しこのままで……」
と、吐息交じりに銀時が言った。銀時の顔は憂いに満ちていた。スッと身体の力が抜け、銀時へと身を預ける。高杉は諦観したように目を閉じた。高杉の左目に映る銀時は泣いている。
**
橙色と紺色が混ざる夕焼け空は相変わらず綺麗である。
高杉を抱きかかえている銀時の顔は憂いに染まっており今にも泣いてしまいそうだった。ただ、見たいのはその顔ではない。銀時の泣き顔はしっかりと地獄へと連れていくから、だからもう――。
「地獄で首洗って待ってな」
やっと伝わったのか、銀時は下手くそな笑顔をこちらへと向けて笑っている。それは高杉がずっと追い求めていた顔だった。
ふと過るは師の言葉。
『山桜の花言葉を知っていますか』
(あァ、先生。やっと咲いたよ)
・山桜の花言葉……あなたに微笑む。