静かだけれど、どこか賑わいを見せる雨の街。僕がこの街に降り立ったのは両の手で数えられるぐらいしかない。
僕は今日からこの街で暮らす。新たな生活に心を揺らしながらも、街中を歩いた。
角を数回曲がれば、路地に小さな立て看板が出てくる。シンプルなそれには見覚えがある。僕は一度立ち止まってカバンを握り直して、そのドアを開けた。
小さなレストランだった。個人が経営しているその場は幼い頃から変わらない。
「いらっしゃ……ああ、久しぶりだな」
キッチンの奥から顔を覗かせた店主は、僕の顔を見て表情を緩ませた。
店主は両親の知り合いだった。父はよく店主と酒を飲んでいたと言っているし、母も『あの人の作るご飯はどれも美味しい』と嬉しそうに思い出を語っていた。
「お久しぶりです、ネロさん。今日からお世話になります」
「空き部屋で悪いけど、準備はしてあるよ。確かあの名門校に通うんだろ、すごいな」
ネロさんは瞳を細めた。まるで父に見守られている時のようなくすぐったさがあった。僕は頷く。
「卒業までの期間だけですが、よろしくお願いします。これ両親からネロさんにって」
鞄の中からいくつかの袋を取り出す。嵐の谷で収穫したハーブだった。
世話になるんだから持っていきなさい。そう父に渡されたものだった。
そんな袋を受け取りながらネロさんは笑う。
「相変わらず先生たちは律儀だな」
ネロさんは父のことを先生と呼ぶ。昔二人は先生と生徒という関係性だったらしく、僕は『どうしてネロさんの方が年上なのに父さんが先生なの?』と幼心に尋ねて困らせたことがある。
大人には色々あるんだよ、と今と変わらない笑顔でネロさんは幼い僕の頭を撫でてくれた。少しゴツゴツしてて、固い手。ほんのりパンのいい香りがして、好きだった。
「ネロさん」
「うん?」
ネロさんがハーブを吟味しながら返事をした。視線をよこさない彼の横顔を見ながら、僕は大きな声を出した。
「よろしくお願いします!」
ネロさんが顔をあげた。僕の大声に驚いたように目を瞬かせて、吹き出した。
「お前さんのその声量は父親似だな」
昔のように僕の頭を撫でる。その手は幼い頃から変わらない。懐かしさと、ほのかに香るパンの香りに、僕は微笑んだ。