③夏の終わりからはじまった五条とのお付き合いは、校庭の木々が青々とした緑から色鮮やかな紅葉へと変わっても穏やかに続いていた。時折喧嘩はするものの、周囲を巻き込みながらなんだかんだですぐに仲直りできている。ついこの間も共用の冷蔵庫に入れていた七海のプリンを食べた食べないで喧嘩をしたが、翌日には仲直りしていた(ちなみにプリンを食べたのは家入だった)。
初デートの最後にキスをして以降、人目を盗んでは五条と唇を重ねている。はじめはキスをした回数を数えていたが、カウントが両手足の数では足りなくなってきた頃に数えるのを諦めた。お互い任務でなかなか時間が合わないが、わずかに空いた時間を埋めるように二人で過ごす日々は充実していた。
「悟とは最近どうなの?」
任務がない日は寮内にある談話室に自然と集まるようになっていた。その日も例に漏れず、灰原と七海、そして先程任務を終えたらしい夏油が集まっていた。五条は実家の用事で、家入は京都にいる庵のところへ遊びに行っており不在であるため、今日は三人だけだった。
「別に普通ですよ」
たまにするくだらない喧嘩もそのほとんどを夏油達に知られているため、今更わざわざ話すこともない。我ながら面白くもなんともない返事を返す程度には穏やかなお付き合いを続けている。
「じゃあ、五条さんとのお付き合いは順調なんだ!」
「まあ……そうですね」
「良かったね、七海」
順調、だと思う。しかし、それを他人から言われるとなんだか恥ずかしい。屈託のない無邪気な笑顔の灰原が眩しくて、七海は目を細めた。
「で、悟とはどこまでいったの?」
良かった、で終わらないのが五条の親友の夏油らしい。目を細めてニヤニヤと笑うその顔に、七海はむっと眉を寄せた。
「五条さんから何か言われたんですか?」
「やだなぁ。純粋に親友と後輩の恋を応援してるだけだよ」
「どうせ五条さんから聞いてるんでしょう」
七海が入学したばかりの頃は、やれこの間ヤった女がどうだったああだったと家入がいる前でも平気で下世話な会話を繰り返していた二人である。五条のことだ。七海とのことも夏油に逐一報告しているに違いないと思っていた。しかし、夏油はつまらなそうに口を開く。
「それが全然聞いてないんだよねえ」
「えっ」
「あ!僕この間食堂でキスしてたのは見ました!」
「なっ?!灰原!!!」
完全にノーマークだった灰原にまさか爆弾を投下されるとは思わなかった。
食堂でキス。確かに覚えがある。数日前、夜遅くに任務が終わったせいで夕食を食べ損ねた七海は、食堂にある生徒共用の冷蔵庫に何か残ってないか探しに行った。そこで風呂上がりにアイスを食べる五条と出会したのだ。
「今帰ってきたの?」
「はい」
「お疲れ、アイス食う?」
「それよりもっとお腹に溜まるもの食べたいです」
「コンビニ行く?」
「もう出かけたくないです」
「わがままだな〜」
「疲れてるんですよ」
「ふうん…七海、こっち向いて」
顔を上げた途端、あ、キスされる。そう思ったときにはもう唇が触れていた。二度目のキス以降、お伺いを立てずにキスを仕掛けてくる五条にすっかり慣れてしまっていた七海は、そのキスもふわふわと浮き足立つまま受け入れた。
深夜に近い時間だったし食堂に人の気配はないと思っていたのに、まさか灰原に見られていたなんて。
唇を震わせて羞恥に耐える七海に、夏油が追い討ちをかける。
「へえ。私は校庭の隅でキスしてるのは見たけど」
「は?!」
付き合うようになってからも体術訓練のときは五条とペアになることが多く、二人で休憩しているときに何度かキスをした。授業中ですよ、と咎めるも、傑と灰原は組み手中だし誰もみてねーよ、なんて言いくるめられてしまっていたが、夏油にはしっかり見られていたらしい。
「あ、あと家入さんは医務室で七海たちがキスしてるの見たって言ってたよ!」
「灰原、もうやめてください……」
もう勘弁してくれ、と頭を抱える。五条が戻ったらお互いの部屋以外では絶対にキスはしないと強く主張しなければ。
「うまくいってるようで安心したよ。エッチは?もうしたの?」
「なっ、ななな」
キスを見られていただけでも七海にとっては処理しきれないことなのに、さらにその先のことに触れられ絶句する。
「その反応はしてないのか」
「五条さんって意外と奥手なんですね」
「いや、本命には手を出せないタイプとみた」
「本命って」
七海にはいまいちピンとこない単語だった。しかし、夏油は大真面目に続ける。
「本命だろ。大本命。悟のヤツ、最近世界を七海と七海以外で見てるところあるよ」
「なんですか、それ」
「あはは、なんかわかるかも」
「灰原まで」
五条と付き合うようになって数か月。キスは何度も交わして少しずつ慣れてきた。つい先日ははじめて舌を絡めるキスをした。七海は翻弄されるばかりだったが、五条はとても嬉しそうだった。しかし、そこまでだ。七海はそれ以上の触れ合いは五条としたことがなかった。
お付き合い自体はじめての七海は、一般的なカップルが付き合って何か月でキス以上に進むかわからない。しかし、夏油と灰原の反応を見て確信した。数か月付き合っていれば、キス以上に進んでいてもおかしくないのだ。
七海の相手はあの五条である。七海と付き合う前は夏油と大声でゲラゲラ笑いながら下世話な会話をして家入にゴミのような目で見られていた、あの五条である。後輩として断言できる。五条は本命には手を出せないような殊勝な男ではない。七海と違って女性経験もある五条が、七海とキス以上に進まない理由。
(私が男だから……)
キスの合間にかわいい、と言われることはあるが、七海は正真正銘男だ。背丈だって五条には及ばないが同世代の平均より高いし、血筋的に更に伸びると思う。身体はまだ薄いが、術式の特性上これからもっと筋肉をつけるつもりで筋トレだって頑張っているところだ。
五条とキスするだけでふわふわと心が浮ついて幸せな気持ちになれた。唇同士が触れ合うだけでこんな気持ちになるなんて知らなかった。
キスのその先に興味がないわけではないが、骨張った、どこからどう見ても男の身体である七海を五条が抱く気になるかわからなかった。
五条とのお付き合いは順調だと思っていた。しかし、そう思っているのは七海だけで、五条はやはり女性が良いと思っているのではないだろうか。
灰原と夏油と解散したあと、部屋で一人悶々と考えていた七海は五条から届いたメールに気づかなかった。今から帰る、からはじまって何してる?今日何してた?帰ったら部屋行ってもいい?寝てんの?何通も届いていたメールに気づいたのは、帰宅した五条が七海の部屋を訪れたときだった。
「なんだ、部屋にいんじゃん。なんでメール無視すんの」
そこで数時間ぶりに携帯を見た七海は、五条から何通もメールが届いていることにようやく気づいた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて…」
「ふぅん…部屋、入っていい?」
「あ、はい、どうぞ」
まさか五条のことを考えていたとは言えず曖昧に濁す。五条は特に追求もせずに七海の部屋に入ると、いつも定位置となっているベッドに腰掛けた。普段は特に何も感じないのに、昼間の夏油たちとの会話を思い出してどきどきしてしまう。入口に突っ立ったまま固まる七海に、五条は首を傾げた。
「七海?」
「あ、いえ」
五条に促され、七海もその隣へ腰掛ける。肩を並べた瞬間、五条が頭をもたれるように七海の肩へ乗せた。五条の髪の毛先が頬に触れてくすぐったい。
「疲れた」
「実家に帰って疲れるんですか?」
「色々あんだよ」
色々。そこに含まれた意味は、ごくごく一般的な家庭で生まれ育った七海には知り得ない。
五条家の次期当主である五条は、実家の用事で帰省することが度々あった。由緒正しいお家柄は無駄な行事が多いんだよ、とは五条自身から聞いたことだ。今回もきっと実家の行事に参加するために帰省していたのだろう。
普段、二人で過ごしているときは気にならないが、ふとした拍子に思い知らされる。五条とはやはり住む世界が違う人間なのだ。
後ろ暗い気持ちから抜け出せない。せっかく五条と共にいるのだ、切り替えなければ。
「オマエは今日何してたの?」
「今日は任務もなかったので…授業以外は特に。一日寮にいましたけど」
灰原と授業を受けたあと、二人で寮に戻り談話室で話をしていたところに夏油がやってきて三人で話をした。会話の内容を除けば、七海にとってはごくごくありふれた一日だった。
「マジかよ!じゃあ実家帰ってなかったらデートできたじゃん」
「授業はあったんですけど…」
繰り返すが授業はあったのだ。五条が言うデートはできたかわからない。しかし、五条が実家に帰省していなければ二人で過ごす時間はもう少し長く確保できたのは間違いなかった。クソ〜と不機嫌そうに悪態をついた五条は、そうだ、と続ける。
「なあ。今度はさ、七海も一緒に行こうぜ。俺の実家」
「えっ」
まさか五条がそんなことを言い出すなんて思わなかった。困惑する七海をよそに五条は楽しげに続ける。
「京都、任務では行ってるけどさ、ちゃんとまわったことないだろ?俺案内するし!あ、京都はパン屋も多いんだって。東京よりごちゃついてないから歩きやすいよ。歩きたくなかったらうちのやつに車出させるし」
「…え、あの、いいんですか?」
五条が実家へ帰省する際に七海を連れて行ったら大騒ぎになるんじゃないだろうか。遠回しに尋ねるが、五条は全く意味を理解していないのか首を傾げるばかりだった。
「なにが?一年のときは傑と硝子も泊まりに来たし、気にすんなよ」
あ、あのときは歌姫もいてさ〜、とそのときの話をはじめる五条に、ななみはそこでようやくあぁ、と納得した。夏油たちを招いたときと同じように、五条の後輩としてなら、いくらでも五条家の門を潜れるだろう。間違っても五条の恋人だと紹介されるわけもないのに勘違いして驚いてしまった。
五条との関係は学生の間だけの刹那的なものだ。どんなに遅くとも五条が卒業するまでにはこの浮ついた関係も終わるだろう。
はじめからそのつもりで五条と付き合うことを決めた。五条の人生の一瞬だけでも七海の影を残すことができたら。そう思っていた。なのに、五条と過ごすうちにどんどん欲張りになってしまう。
「七海、聞いてる?」
「あ、はい。いいですね、京都」
「12月だったらさ、クリスマス近いからイルミネーションも綺麗だし。どう?」
まだハロウィンも終わっていないのにクリスマスの話なんて。先のことなんてわからないのに、当たり前のように未来の話をする五条が眩しかった。今の七海は2か月先も五条とお付き合いをしている自信すらないのに。
しかし、七海の口からイエス以外の返事が出てくるなんて微塵も思っていないだろう五条の期待を裏切ることもしたくなかった。
「そうですね」
「約束な」
「はい」
「楽しみだな」
ご機嫌に笑いながらキスをしてくる五条を受け入れる。ちゅ、ちゅと何度もキスを交わしながら、やはり五条は七海の身体には触れようとしない。恋人なのに、五条の考えていることがさっぱりわからなくて、七海の心の靄はますます濃くなるばかりだった。
⬜︎⬛︎⬜︎
五条の考えていることがわからない。
風船が萎んだように浮ついた心はぺしゃんこになって、七海の気持ちを暗くさせていた。しかし、七海の都合なんて関係なく任務の要請はやってくる。気が乗らないまま任務に赴いた七海は、正直集中力に欠けていた。三級程度の呪霊なら難なく祓えるようになっていたため、心のどこかで自分の力を慢心していたのかもしれない。
任務中に怪我をした。七海の攻撃スタイルは基本的に打撃だ。そのため、怪我自体は珍しくないが、いつもはせいぜい打撲か小さな切り傷を作る程度だった。
呪霊に吹っ飛ばされて意識を失った七海は、自分がどんな攻撃を受けたかも覚えていなかった。治療にあたった家入から討伐対象の呪霊に吹っ飛ばされて頭を強く打ったせいで意識を失ったこと。呪霊に脇腹をえぐられて、一時は出血多量で目を覚さない可能性もあったこと。呪霊は同行していた三級呪術師の方が祓ったこと。その呪術師に怪我はないことを簡潔に教えてくれた。私がいなかったらアンタ死んでたよ、と笑いながら冗談のように口にした家入も随分疲れた顔をしていて申し訳なくなった。呪術師になってから、ここまで大きな怪我ははじめてだった。
「……すみませんでした」
「別に謝んなくてもいいよ。私は治すことしかできないし」
頭はまだふらふらするが、呪霊にえぐられたという脇腹に痛みはない。家入が治してくれたのだろう。家入がいなかったらどうなっていたかわからない。もしかしたら、死んでいたかもしれない。考えた途端にぞっとして、七海は身体を縮こませた。
呪術師になってから、人の死に触れる機会は何度もあった。任務先で呪霊に襲われ既に亡くなっている人を目の当たりにしたことだってある。入学したばかりの頃、呪術師になればまともな死に方はまずできないだろう、と教えられたとき、とんでもないところに足を踏み入れてしまった、と後悔したはずなのに。つい一年前まで呪術なんて知らなくて、死とは無縁の世界にいた。自分が死ぬかもしれない、なんて考えたことはなかった。考える必要もなかった。頭のどこかで自分は大丈夫だと、死に対して軽んじて考えていた。
呪霊に吹っ飛ばされて意識を失ったあと、そのまま死んでしまっていたら。そう考えたら怖くてたまらず、身体の震えが止まらなかった。
「七海。とりあえず今日は休みな。明日も任務はなしになったから」
「はい。ありがとうございます」
「今回の呪霊はアンタと相性が悪かっただけだよ。怪我なら私がいくらでも治してやるからさ。安心して」
「……はい」
家入と話をしているうちに身体の震えが止まる。それに気づいたのか、家入が小さくほっと息を吐いた。気を遣わせてしまっていることが申し訳なかったが、同時に有り難かった。
気が抜けたのかタバコが吸いたい、七海買ってきて〜といつもの調子に戻った家入に、安静にしてろって言ったのは家入さんですよね、なんて軽口を返していると医務室の扉が勢いよく開いた。
「七海っ!!!」
「五条さん…」
息を切らしてやってきたのは五条だった。五条は昨日から東北の田舎へ出張に行っていた。数件まわってくるから数日は帰れない、とげんなりしていたのを確かに覚えている。七海が怪我をしたと聞いて、巻きに巻いて任務を終わらせて帰ってきたらしい。
「私が教えたの。万が一のこと考えて」
つまり、それだけななみの怪我は重傷だったということだ。命を繋げてくれた家入には改めて感謝しなければいけないな、と思っていると五条が七海のそばに駆け寄ってくる。
怪我をしたことは、できれば五条に知られたくなかった。呪術師として五条には遠く及ばないことは自覚しているが、五条に幻滅されたくなかった。
怪我するなんて弱っちいな〜。
その調子ならそのうち死ぬんじゃね?
やっぱりオマエ呪術師向いてねーよ。
五条に言われるだろう言葉を想像して身体が硬くなる。しかし、口を開いた五条に怯えてぎゅっと目を閉じた七海の耳に入ってきたのは、予想外の言葉だった。
「怪我は?」
「え…」
「怪我は?もう大丈夫なわけ?」
「あ、はい。もう大丈夫です。家入さんが治してくださったので」
「………良かった」
詰めていた息を吐いた五条に抱きしめられる。骨が軋むぐらいぎゅうぎゅうと抱きついてくる五条に、七海もおずおずと腕をまわした。五条の心臓の音が聞こえてほっとする。生きていることを実感して、涙が溢れそうになった。
「心配した」
「………」
「オマエが無事で本当に良かった…」
生まれた時から呪術界にいて、特級呪術師として強い呪霊の討伐をこなしてきた五条は、七海よりずっと死に触れてきた機会が多いはずだ。七海と付き合う前に夏油と任務にあたった星漿体の護衛任務も、結局護衛対象の少女は襲ってきた呪詛師の手によって亡くなってしまったとあとから聞いた。任務の結果を暗い表情で話す夏油とは違い、五条の様子は変わらなかった。
最強の五条にとって人の生死は最も身近にあるものの、自らには一番縁遠いことなのだ。
七海が死んでも五条にとってはただの日常の一部に過ぎない。たとえば植物が枯れた程度にしか感じないのだろう。そう思っていた。
五条は、思っていたよりずっと七海のことが好きなのかもしれない。発言や態度から度々感じていたそれが自惚れではないと確信を帯びてきて、どきどきと心臓が脈打つ。五条とのお付き合いは学生時代だけだと割り切っていたはずなのに、五条の愛情に触れるうちに彼を手放しがたくなっていく。せめて今だけは、と五条の肩に甘えるように顔を埋める。なかなか離れようとしない二人に苦言を呈したのは家入だった。
「おい、クズ。そこでおっ始めるなよ」
「なっ」
「ばっ、しねーよ!」
「七海は今日一日医務室で安静にするように。五条、間違っても七海に手出すなよ」
タバコ吸ってくる、と堂々と未成年喫煙の宣言をして家入は出て行った。二人きりになった室内で顔を見合わせてから、お互いに引き寄せられるようにキスをした。
「…家入さんに怒られちゃいますね」
「キスぐらいいいだろ」
なぁ、もう一回。強請る五条に七海から唇を寄せる。キスの合間に好きだよ、と何度も囁く五条がいとしくてたまらなかった。
つづく
次ぐらいからR指定になります。