初恋が実った日だるい任務を終えて高専に戻ってきた五条は寮の談話室から聞こえてきた声に思わず足を止めた。
「七海も素直にならなきゃ!」
「灰原、声が大きい!」
はきはきした明るい声に、慌てたような低い声が重なる。灰原と七海だ。明るくて元気な灰原とクールで静かな七海はお互いが唯一の同期であるせいかタイプは違うものの仲が良い。先輩である五条たちが一緒のときより少しだけ砕けた様子で話す七海に、ちょっとだけ灰原が羨ましくなる。なぜなら、五条は七海が好きだったので。
談話室には家入と夏油はいない。一年生二人で一体何の話をしているのか。気配を消して二人の会話に耳を傾ける。灰原と七海は話に夢中になっているのか、息をひそめる五条に気づかないまま会話を続けた。
「ごめんごめん。でもさ、好きなんでしょ?」
「………まあ」
短い沈黙のあとの七海の返事に五条は思わず悲鳴を上げそうになった。七海に好きな人がいるなんて初耳である。灰原は相手が分かった上で話しているようで、いつものあの明るさで七海を鼓舞する。
「ならさ、七海からもアプローチしなきゃ!」
「別に、私はあの人と付き合いたいわけじゃ…」
「えーじゃあ他の人と付き合ってもいいの?」
「……いやですね」
「なら頑張らなきゃ!」
おい灰原それ以上はやめろ。七海がその気になって好きな人とやらにアプローチし始めたらと思うと気が気じゃない。いつだか男四人で話をしていたときに、七海は今まで誰かと付き合った経験はないと言っていた。七海のハジメテはこれから全部自分がもらうつもりでいるため、七海の好きな人は五条にとって邪魔な存在でしかない。どこの誰だかは知らないが、五条の方が金も見た目も強さだって格上に違いないのだ。七海が好きな人とどうにかなる前に、自分に惚れさせてやる。五条は談話室へ足を踏み出した。
「何話してんの?」
「あ、五条さん」
「き、聞いてたんですか?」
突然の五条の登場に灰原は目を輝かせ、七海は顔を青くした。
出会ったばかりで恋を自覚していなかった頃、七海と少しでも話をしたくてからかいまくった結果、七海の五条に対する態度はこんなもんだ(夏油には自業自得だと笑われた)。今更気にしたりしないが、好きな子にこうもあからさまに嫌がられるとやはり傷つく。悔しいから顔には絶対出さないが。
「あ?なにが?」
聞いていたが、もちろん正直に答えるわけがない。すっとぼけた返事をする五条に、七海は鋭い視線を向ける。しかし、七海が口を開く前に灰原が勢い良く立ち上がった。
「あー!僕夜蛾先生に呼ばれてるんだった!行かなきゃ!」
「あ、は、灰原?!」
「じゃあね、七海!がんばって!」
「なっ、」
途端、顔を赤く染めた七海は好きな人を思い浮かべたのだろうか。五条には見せない表情にむっとする。
「五条さんはここ座ってください!それじゃあ失礼します!」
礼儀正しく一礼して灰原が談話室を出ていく。七海と二人きりになった五条は、灰原が座っていた七海の隣へと腰を下ろした。
肩が触れるぐらい近い距離にどきまぎする。七海の口は閉じたまま、気まずそうに下を向いて俯いていた。灰原がいたときとは随分違うその態度が気に食わない。
「……なぁ」
「……なんですか」
「お前、好きなやついんの」
瞬間、七海の白い頬が朱に染まる。五条の勘違いかもしれない、という期待はあっさり崩れて、胸がざわざわと落ち着かなくなった。
(こいつ、結構わかりやすいよな……)
本人はあまり感情の起伏が表情に出ないと思っているようだが、いつも笑っている灰原よりずっと分かりやすい。五条には聞かれたくなかったのだろう。チッと舌を打つ音が聞こえる。
「は、話聞いてたんですか?!」
「全部じゃねーけど。で、好きなやつって誰」
「貴方には関係ないでしょう」
ツン、と顔を背ける七海はとりつく島もない。思わず、相変わらず可愛くねーな!と悪態をつきたくなるが、以前同じようなことを言って七海にしばらく口を聞いてもらえなかったのを思い出し、ぐっと我慢した。
「っ……関係なくねーし」
「え?」
きょとん、と首を傾げる七海もかわいい。五条が考えていることなんてなにひとつ分かっていないような顔がいとしくて、同時に憎らしかった。
七海にとっては自分の好きな人の存在など五条には無関係だと思うだろうが、五条は七海が好きなのだ。好きな人の好きな人ほど気になる存在はない。
『悟が素直になれば、七海も素直になるよ』
以前七海と喧嘩をしたあとに親友に言われた言葉を唐突に思い出して、五条ははぁ、と小さく息を吐いた。
「なんでもない。なぁ、相手誰?俺が知ってるやつ?」
「……貴方に言う必要ありますか」
(灰原は知ってるのに俺には教えてくれねーのかよ!)
思わず飛び出しそうになった言葉をぐっと我慢して、五条はあくまで頼りになる先輩を目指してアピールした。
「し、知ってるやつなら協力できるかもしれねーし!俺、顔は広いからさぁ。灰原が知ってるなら俺も知ってるやつだろ?あ、硝子?」
「ち、違います!」
「あ?じゃあ誰だよ。歌姫?まさか冥さんじゃねーよな?」
七海の周りにいる女の名前を片っ端から出していくが七海は首を振るばかりだ。他に思いつかねーな、と頭を悩ませていると、それまでかたく口を噤んでいた七海が言いづらそうに口を開く。
「………男性なんです」
「あ?」
「私の好きな人は男性なんです!」
五条の性的嗜好は基本的に女性である。男を好きになったのは七海がはじめてだ。七海を好きだと自覚する前は男四人で猥談をしたことだってある。七海はあまり話に加わらず聞くに徹していたが、性的嗜好が男だなんて初耳だった。
「はあ?!男……って、まさか傑じゃねーよな?!」
七海の爆弾発言を聞いて一番に思い浮かんだのは、いつも自分の隣にいる親友の顔だった。なんたって夏油は五条よりモテる男である。灰原はもちろん、七海だって夏油に随分懐いていて、五条が任務でいない日は灰原を交えて三人、灰原がいない日は二人でだって食事に行くことがあるそうだ。五条は任務以外で七海と二人でどこかに行ったことなんてないのに。
一度夏油に対して嫉妬をあらわにしたら、悟から誘えば七海も喜ぶと思うよ、とさらりと言われた。しかし、普段五条が話しかけるだけでむっと顔を顰める男が五条と二人で食事に行くとは思えなくて、五条は今まで一度も七海を食事や遊びに誘ったことはなかった。
だから、七海の好きな人は夏油以外思い浮かばなかった。しかし、七海は慌てて首を振る。
「ち、違います!夏油さんは頼りになる先輩で…」
「じゃあ誰だよ」
「い、言いません。貴方には絶対」
キッと鋭い視線で睨まれる。なにがなんでも口を割る気がないその態度に、五条はますます焦れた。そんなに言いたくない相手なのか。
「は?なんでだよ。教えろよ」
「言いません」
「灰原は知ってるんだろ?!俺にも教えろよ!」
「嫌です!」
「先輩命令!」
「職権濫用ですよ!」
「うるせー!いいから教えろよ!」
「言いません。貴方にだけは、絶対に言いません!」
それから何度もしつこく尋ねたが、七海は結局口を割らなかった。お互い譲らない膠着状態にあわや取っ組み合いの喧嘩になりそうだったが、ちょうど任務から戻ってきた夏油に見つかってその場は解散となった。夏油は七海の好きな相手を知ってるのか、ニヤニヤと意味ありげな視線を送ってきたが、夏油も灰原も知っているのに五条にだけ教えてくれない事実は思ってたより堪えてしまい、それ以上追求することはできなかった。
(二人には教えて俺には言わないって…)
七海に幼稚な態度をとって今までさんざん怒らせたのは五条自身の責だが、まさかそこまで信用されていないとは思わなかった。
七海に想われている誰かが羨ましくて、嫉妬で狂いそうだった。望みのない恋だとわかっていながらそれからも七海のことを諦められず、五条なりにアプローチを続けたものの全て空振りに終わった。
そのうち、灰原がいなくなって、夏油がいなくなって。恋に浮かれる暇もないぐらいがむしゃらに日々を過ごすうちに七海との距離もどんどん遠くなって。芽を出したばかりの五条の恋は花開くことなく枯れていった。
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.
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(なーんてこともあったな〜)
十代の頃の自分に言ってあげたい。
十年後、お前七海と付き合ってるよ、と。
花開く前に終わったはずの恋が再び芽を出したのは、七海が呪術界に復帰したときだった。久しぶりに再会した七海は疲れた表情をしていたものの昔とちっとも変わらず可愛いままで、萎んでいたはずの恋心が再び膨れ上がるのを止められなかった。付き合っている人はいない、と聞いたときにはもうなりふり構わず今度は絶対に自分のものにしようと決めた。
「七海〜。今フリーならさ、僕と付き合ってみない?僕、お金持ちだし顔は良いしなんたって最強だし!七海より先に死んだりしないから安心でしょ?結構優良物件だと思うんだけど」
アレは最低な口説き文句でした。
付き合うきっかけとなった五条の言葉を思い返すとき、七海は決まってそう言うが、その最低な口説き文句を了承したのは七海自身である。五条の最低な口説き文句に、七海はしばらく怪訝な顔をして黙り込んだあと、いいですよ、と頷いた。正直長期戦を覚悟していたため、了承の返事をもらったときは嬉しさのあまり文字通り飛び上がってしまった。
十代の苦い経験を繰り返さないよう、付き合い出してからはひたすら七海に愛情を示した。たくさん好きだと伝えて、任務の合間のわずかな時間でも土産持参で七海に会いに行った。五条の熱心な求愛行動にそのうち七海も絆されたのか、七海からも好きだと言われた時は思わず泣いてしまった。一度枯れた恋が奇跡的に花開いた瞬間の幸福を五条は決して忘れないだろう。
そんなわけで、なんだかんだ紆余曲折乗り越えた五条と七海は現在はラブラブ♡カップルに落ち着いている。セックスを終えたあと、色気だだ漏れの七海を腕の中に抱いている時間は、五条の好きな時間のひとつだ。
「ねえ」
「なんですか?」
まだ余韻が抜けない七海の声は普段より角がとれてまるい。五条を見つめる瞳は、目元がほのかに赤く染まっていた。下ろされた前髪は高専時代を思い出して、だから思わず口に出た。
「高専のときさ、七海が好きだったのって結局誰だったの?」
五条が何度聞いても決して口を割らなかった七海の好きな人。七海と付き合うようになってからも実はずっと気になっていた。
七海に愛されている自覚だってある。たとえば七海が学生時代好きだった人が今の七海に好きだと言ったって七海はきっと五条を選んでくれる。それぐらい自信を持てる程度には七海とのお付き合いは確固たるものになっていた。それでもわざわざ学生時代の恋を掘り返してしまうのは、ただの独占欲。今はもちろん、本当は七海の過去も未来もぜんぶぜんぶ五条のものにしたかったけど、過去はどうしても手に入らないから。せめて七海の心を奪った相手だけでも把握しておきたかった。
「……何年前の話をしてるんですか」
ピロートークにはふさわしくない話題だったかもしれない。怪訝そうに眉をひそめる七海は徐々に正気に戻りつつあるのか口調がしっかりしてきた。指通りの良い前髪を梳きながら、五条はマイペースに続ける。
「お前、教えてくれなかったじゃん。僕が何回もお願いしたのにさ」
「アレがお願いですか…」
「ねえねえ、誰だったの?もう今更時効じゃん。教えてくれても良くない?」
「言いたくありません」
む、と口を噤む七海の表情は見覚えがある。あの日、談話室で五条に好きな人について尋ねられたときと同じ表情だ。
(ああ、これは教えてくれないやつだな)
これ以上しつこく聞いても教えてくれないだろう。離れていた期間もあるが、十年近く七海を見てきた経験から、五条は質問を変えた。
「その相手とさ、結局付き合えたの?」
「はぁ……まあ、そうですね」
目を逸らしながら答える七海に、ガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。あのやりとりのあと七海が誰かと付き合っていた様子はなかった。だから、あのときの恋の行方を気にしつつも、七海の恋も五条と同じようにうまくいかずに終わったんだろうな、とタカを括っていたのだ。相手はもちろん知らない。いつからいつまで付き合っていたのか、どんな付き合い方をしていたのか。キスはしたのか。セックスは?今目の前で五条に晒しているような姿をその相手にも見せたりしたのだろうか。
過去は変えられない。それは五条自身、嫌と言うほど分かっている。今の七海は五条のものだ。もう離すつもりはないし、誰にも渡さない。過去に嫉妬したって不毛だ。今、七海が腕の中にいるだけで十分なはずなのに。しかし、七海の中にいつまでも残り続けるであろう昔の男が羨ましくて、憎らしくてたまらなかった。
「ふぅん」
頭の回転は早いはずなのに、七海のことになると途端に鈍くなる。もっと気の利いた言葉を言いたかったのに、五条の口から出たのは相槌だけだった。拗ねたような言い方を七海はどう受け取ったのか、五条をじっと見つめて数度瞬きをしたあと、沸点を越えたみたいに突然笑い出した。
「ふ、ふふ」
「え、なに。なんで笑ってんの」
「だって、あなた…ふふ、」
「なになに、なんなの?」
ツボに入ったのか、七海は笑いっぱなしだ。笑った顔もかわいいな、と思ってしまうあたり五条はどこまでも七海にぞっこんである。肩を震わせて笑う七海に首を傾げていると、しばらく経ってようやく落ち着いた七海が控えめに口を開いた。
「貴方ですよ」
「………え?」
「貴方です。私、五条悟さんのことが好きだったんです」
「五条悟って…僕?」
とぼけたことを口にする五条の頭を撫でながら、七海はゆるく微笑んで頷いた。
「五条悟は貴方以外にいませんよね」
「……うっそだろ、僕?!」
ずっとずっとずっと気になって仕方がなかった七海の好きな人。何度聞いても教えてくれなくて、それが悲しくて切なかった。当時の気持ちが走馬灯のように蘇る。あの頃ははじめてできた好きな子との距離の詰め方がわからなくて、結果的に七海を怒らせてばかりいた。七海には嫌われてはいても、好かれてはいないだろうと思っていたのに、まさか。
「ええ、そうです。だからアナタにだけは絶対に教えられませんでした」
「なんで言ってくれなかったの」
「……言えるわけないでしょう。あの頃のアナタ、私をからかうのが生きがいみたいでしたし。告白なんてしたら格好のネタじゃないですか」
からかっていたわけじゃない。当時の五条なりにアプローチしていたつもりだったのに、そんな風に思われていたなんて。
たしかに五条が話しかけても七海はいつもしかめ面だったし、夏油からはさんざん七海に意地悪するな、と嗜められていたけれど。夏油のアドバイスをもっと早く受け入れていれば、あの頃やきもきすることもなかったのだろうか。
「あ〜〜〜!僕の馬鹿ぁ〜〜〜」
頭を抱える。しかし、過去を後悔しても仕方ない。大事なのは今だ。五条は起き上がるとベッドの上に正座した。突然改まる五条に首を傾げながら、つられて七海も起き上がった。真面目だなぁ、そんなところも好き、なんて思いながらゆっくりと口を開く。
「……あのね、七海。僕、七海のこと好き」
「はぁ、知ってますけど」
五条に愛されている自覚がある七海がいとしい。自然とこの言葉が出てくるぐらい、何度も何度も何度も好きだと、愛してると伝えて本当に良かった。でも、まだ伝えていないことがある。
「高専のときから、ずっと好きだったよ」
七海に好きな人がいると聞いたときは、こんな結末になるなんて思わなかった。あの頃から気づいていないだけで五条の初恋は実っていたのだ。想定外だったのか、七海は呆然としていた。五条の言葉を噛み締めるように唇を震わせる姿に、学生のときは本当にこれっぽっちも気づいてなかったんだなぁとちょっとだけ切なくなる。
「……初耳なんですけど」
「うん、今言ったからね」
「五条さん、私のこと好きだったんですか」
「うん、気づかなかった?」
「まったく。嫌われてるものだとばかり…」
「嫌いな子にいちいち話しかけたりしないよ」
七海だから、何度も話しかけた。灰原といるときみたいに笑って欲しくて、夏油といるときみたいに頼られたくて、何度も何度も話しかけたのだ。
「……わかりにくい」
「あはは、でもそれは七海もでしょ」
お互い照れくさくて素直になれなかった。あの頃、どちらかが素直に気持ちを伝えていたら、自分たちは今頃どうしていただろう。考えようとして、やっぱりやめた。過去はどうしたって変えられない。大事なのは今だ。
「七海、今までも、これからもずっとずっとずぅっと愛してるよ」
誓いのキスなんて仰々しいものではないけれど、軽い気持ちで言ったわけじゃないと分かってもらえるようにキスをする。触れた唇はやわらかい。ずっと好きだった子にキスできる幸福を噛み締めながら、もう一度キスをする。
まるでプロポーズみたいな台詞だって気づいたのは、何度目かのキスが終わって唇が離れたとき。顔を真っ赤にした七海の姿に、次の休みは指輪を買いに行きたいな、と浮かれたことを考えた。