『その健やかなるときも』「I know」より抜粋 一
夜の麓ともまた違う、薄闇に手塚は立っていた。視界はうっすら墨色で、その暗がりのどこかから、まっかだな、と歌声がした。誰のものともしれない声が繰り返す。まっかだな、まっかだな――……。
小学校で、秋になるとよく歌わされた童謡だ。そうだ、俺にはこの歌がよく分からなかった――。手塚は今さらそんなことを思い出す。もう十何年、いや、何十年は前の話だ。
幼い疑問が闇の中、無音で首をかしげている。あちこち真っ赤で、きみとぼくもほっぺたが赤くて、だからどうしたというのだろう。紅葉、夕日、秋なら当たり前のことだ。
綺麗な秋をきみと過ごせてしあわせなのだと困ったように笑ったのは、何年生の教師だったか。音楽を習った教師は多くない。その内の誰かであるのだろうが、顔はそれこそ闇のようにぽっかりと暗い口を開けていた。ぎこちなく笑みを作った唇が、はくはく動いて手塚に言う。手塚くんには、むずかしいかな――?
自分がなんと返事をしたか、手塚はまったく覚えていない。おおかた「はい」といったところか。真っ赤な秋――実際当時の自分には、理解しがたい感慨だった。
夢うつつ、閉じていた目を手塚は開ける。飛行機のかすかなエンジン音がした。日本上空の天候は良好、揺れはほとんど感じない。
ドイツから日本へのフライトは、航路に複数選択肢がある。このたびは一番よく選ぶフランクフルトからの直行便だった。夜から夕方へと移動する。
ファーストクラスがない便で、十三時間強の道中はビジネスクラスを利用した。エージェントにはどこへ行くにもファーストクラスを勧められがちな手塚だが、自身は特にこだわりはない。なによりファーストクラスは完全個室がまだ多く、今回のような旅では最適解とは言えない――。考え、手塚の目元はほころぶ。
手塚の隣、手が届く場所――パーティションを下ろし繋がった窓際で、パシャとシャッター音がする。もちろん不二だ。名前を呼びたいとふと思う。彼の痩躯をなぞるにも似た衝動を、手塚は腹の中でなだめた。飛行機は大回りに高度を下げはじめ、窓から日本の山河が見えているのだろう。久しぶりの帰国は秋、山が彩られるころだった。夕暮れに映える佳景を眼下に、不二は写真に集中している。シャッターを切るのにあわせて時折くっと凝らされる、息の気配が愛らしい。勝手な欲で彼の邪魔をしたくはなかった。
だから手塚は、ただ待った。穏やかな間がエンジン音に静かに震えること少し、ほうと不二が身を起こし、手塚の方に向き直る。たちまち交わる視線に彼はくすぐったげな顔をして、「空から」と手塚にささやく。
「紅葉がよく見えるよ」
「そうか。――秋だな」