Special dinner お忍びだね、と隣の席から声がした。彼女は思わず耳を澄ませる。空腹に耐えかね適当に入った湾岸の商業施設のカフェだった。
入り口より中一階くらいは低い店内は、大きな洞窟の底にも見えた。抑えられた照明に黒と木目が落ち着いていて、暖色の明かりがたゆたう薄闇のところどころに緑が葉っぱを広げている。案内された席に座ると、森の深くに隠れた気もした。テーブルで、キャンドルの炎が揺れている。
居心地のよい隠れ家だった。席も適度に離れていて、好奇と集中がない限り、余所の話はただの音だ。だから彼女は聴覚にすべての意識をこらす。お忍びって、あのお忍び――?
久しぶりだね、個室じゃないのは――。楽しげに、やわらにひそめくその声は、耳にとても心地いい。海の底でゆったりくつろぐ気分になれる。あるいは山奥、秘密の別荘の暖炉の前か。どちらも行ったことはないし、言っていることは凄いのだけれど。
芸能人? 声優とか――こんなやわらかな発声をする人、誰かいたっけ。メニューをとんとん揃えて持ち上げ、彼女はちらと横を見る。動きのついで程度に一瞬と思ったが――ついつい五秒は凝視した。
うわ、綺麗。細。いや綺麗。二度言った。それは言う、と彼女はきっぱり自己弁護する。世界一美しい線と色を集めて描いても、こんな姿にはなれない、みたいな。繊細な、だけれど優しい楽しさを浮かべた横顔に、店の明かりが触れては揺れる。ええ、やっぱり業界の人じゃない? あと、お連れさまもめちゃくちゃかっこいいですね――?
二人席の向かいに座っている彼は、雰囲気がまた全然違った。鋭利な美貌というやつだろう。体躯もがっしり、神話の英雄のようだった。現代ならばスポーツ選手か。店の明かりも寄せ付けず、反射したそれは影とともに男に付き従っている。
多分どこかで見たことある――けれどもそこから進めない。有名人と聞けばテンションは上がるが、個々に確たる印象はなかった。格別な好きがあるわけではなく、ネットニュースの小さい画像をいちいちクリックしたりもしない。こちとら残業続きの普通の人なのだ。
けっきょく正体不明のままのふたりは、店のメニューを覗きはじめた。テーブルの真ん中辺りで開き、端と端を持っている。席ごとに一部ずつ置かれていたが、片方を仲良く共有したのだ。綺麗な子がなにかくすくす笑い、かっこいい男がそれに両目を細めている。
恋人かな。大丈夫? その辺にパパラッチとかひそんでない――? ついつい辺りを見回すが、当の本人たちはさっぱり、お互い以外は気にしていない。細い指がメニューをたどり、メガネ越しの瞳に見つめられている。
「ね、リンゴジュース、有機だって」
「果汁百パーセントだな」
「だよね。とりあえずこれがいいな」
「軽食は」
「あ、そうだね。キミは――ふふ、大変だったね」
「会食も仕事だ。仕事だが、お前が来てくれてよかった」
「ふふふ、お忍びしたくもなるよね。食べなおす?」
「そうだな。――まずはブレンドコーヒーを。それで軽食は、不二」
「うん、ええと。……え」
「どうした」
「カリフラワーとリンゴのスープだって。ええ、気になる」
「頼めばいい。足りなければサイドメニューもあるぞ。――不二?」
「……――ね、手塚」
とん、とメニューを立てて体をかがめたので、綺麗なその子の顔は半分近く隠された。不二、で、相手が手塚――やっぱり聞いたことがある。自分に聞いた記憶があるなら、相当有名人のはずだ。これ、めちゃくちゃに決定的なシーンじゃない? ええ、本当に大丈夫――?
店内に怪しい影はなく、ふたりは変わらず警戒している様子もない。ただの可愛い仕草で隠れたその子の口もとから、笑みを含んだ声がする。「キミ」とどこか生真面目さのある呼びかけは、それでもなおもふんわりとした耳触りだ。
「最初からメニュー、知っていた? もしかしてリピーター?」
「……」
「ビネガーの瓶もさ、FUJI mineral waterとか」
「瓶は俺も驚いた。――とてもいい店だ」
メガネの位置を一度直した男前が、「いや、リピーターではないが」とさらに言葉を続ける。
「ホテル近くの飲食店で調べたときに、メニューが」
彼はふっと言葉を切った。まるで活路を見いだしたという表情を、ぐいと相手に近づけた。きらきらと光がはぜる面持ちだ。
「そもそも、不二。今日は六月十九日だぞ」
どうやら彼らの大切な日付であるらしい。ふたりの顔はメニューの黒に半ば隠され、会話はさらに途切れ途切れに、「そうだよ、今日くらいキミの好きな」「だからだ、今日はと言ったろう」と、それでもなんとか聞き取れる。なおも澄ませた彼女の耳に、きっぱり明瞭な声が響いた。
「お前が喜ぶ顔を見たい。俺はそれが一番好きだ」
「……――」
――……うわあ。
綺麗な子と一緒に絶句して、ねめつける目ではにかんだその可愛さに、今度は彼女だけ絶句する。男前、これ、平気なの? あ、指を握った。平気じゃないか。うんうん、分かる。あ、手を包んだ。うん、分かる――。
分かるから、彼女はさすがに目をそらした。ここから先は見てはいけない。配慮というか、普通の人の矜持というか、――そうだ、注文もしなければ。
いつの間にか置いていたメニューを彼女は取り上げた。店の光が自分の爪の先にも小さく宿っている。なんだか暖炉のともしびをうつしてもらったような気がした。あるいはやはり深海の、きらめく水の流れだろうか。
光はぽうっと胸の中におさまって、彼女は深く息を吐き出す。おいしいものを食べるのだ。今月も――今日もわたしは、とっても偉い。しっかり平らげ元気を出したら、今日は仕事のことは忘れる。明日になったら上に苦言を呈してやる。おかげさまで決定的なシーンを見たかも確信できやしない、最近の弊社の分担おかしくないです――?
うん、決めた。決めたから、今日は自分も記念の夜だ。ごちそうだ、と、彼女はメニューを確認しなおす。控えめに輝き続ける照明に流麗な文字がくっきりと、パスタ――ううん、食べ切れるかなあ。なんだかお腹いっぱいだ。ダークチェリーのパンケーキ? うんこれ、これなら大丈夫。ダークチェリーっていうのがまた、ひと味違っておしゃれだし。
それにしてもと、彼女は隣の席の代わりに、高い天井を見てしみじみと考える。海面のように、夜空のように、ゆらゆらきらきら――。わたし、ここに来たときは、あんなにも空腹だったはずなんだけれど、――これがいわゆる、ご馳走様ってやつかなあ。
(以上1~3枚目、4枚目には、夜色のカフェの一席で、手塚くんが不二くんの手を取り包んだそのときのふたりのイラストを、夜明さんが描いてくださいました。是非ともXの方でご覧ください!)