Full bloom,Be happy 自分じゃない、来たかったのは自分じゃない。大声で叫びたいのを我慢して、彼はおとなしく姉の後をついて行く。辺りは一面紫色で、香水みたいな匂いばかりで、もうろうとした夢みたいだ。
ラベンダー摘みができるのだという。こちらのバケツにご自由に。花束にしてお持ち帰りいただいて――ドライフラワーにしてもいいし、さ? なんとかも素敵ですよ――。
彼は花には詳しくない。正直興味も特にない。花より団子、団子よりポテトとバーガーだ。求む、青春台駅の近くのファストフードのセット。しかし姉が、花をたくさん欲しいと言った。ならば着いていくしかない。少なくとも、彼の家では姉は絶対――クラスメイトの菊丸もそんなことを言っていたから、自分がことさら弱っちいわけではないと思う。
菊丸は、わりと心が強いタイプだ。なにせ不二と仲がいい。あんな触ればどうかしそうなやつのほっそい背中でも、ばしばし叩いて揺らして笑う。あの菊丸が姉ちゃんが言ったらおしまいだ、なんて頭を抱えるのだ。姉というのは、本当に強い。
だからこれは不可抗力だ。今から花でいっぱいになる――ならねばならないバケツを下げて、彼はしぶしぶ先へと進み、――ほっそい背中を前方に見た。
え、――不二? 見間違い? いや、あんなやつは他にはいない。やわらかいくせに細工みたいな品のよさ――後ろ姿だけでも分かる。そしてたしかに不二なら花がよく似合う。なんなら本人が近くを通るといい香りがして花みたいで、……ん?
急に背筋が冷たくなった。つらぬく刀にその場に縫い止められたみたいに、彼の足は無意識にかたまる。いや、刀じゃない。これは視線だ。不二の向こうに誰かいる。背が高く、顔が逆光でよく見えないが、――え、まさか、手塚国光……?
生徒会長、テニス部の長。直接話したことはないが、青春学園の有名人だ。一方的によく知っている。たしかにこう、厳格というか遊び心がないというか、だけれどこんなに明確な警戒と敵意が混ざったまなざしは――。
ごくりと息をひとつのむ。動く喉元を鋭い視線がひとなでし、切られた、と思った途端、「手塚、見て」と不二の声が弾んでかすかに聞こえてきた。急に辺りがふわりとくつろぐ。
確定手塚は、彼から不二に目を向けた。それはたちまち穏やかに、多分不二の手元に触れ、それから顔の辺りに触れて、「似合うな、不二」とうなずいた。今度はくっきり彼にも聞こえた。生徒会長の声は響くが、さっき不二が笑ったときに、風が吹いたような気がする。花の香りもよくするし、なんだか辺りが明るくなって、風向きとかが変わったのかも。
その不二の声は微笑んで、「ありがとう」と手塚に応えた。「ね」と呼びかけ、体の影のなにかを示した。先ほど手塚が見たものだろう。
「こういう風にまとめて、ブローチとかもいいかも。キミも作らない?」
「そうだな。ならばそれくらいの丈がいいか」
「ふふ、とっておいてね」
「分かった」
分かるのか。ここで分かるんだ。ええ、なんだこれ、幻覚? 花の匂いにあてられた? 手塚ってこんなにうなずくタイプだったか? 絶対違う。しかもめちゃくちゃ穏やかじゃん。キャラ変? まさか。――あ、もしかして、相手が不二だからこうなる、とか、……なんだよ、呼ぶなよ、しつこいな。今考えるのに忙しい、――え? うわ、姉貴!
なにをぼんやりしてるのと真正面から姉に問われて、彼はあわてて歩き出す。仲良くかがんで顔を近づけ、不二と手塚は花を見繕っているようだ。ふたりの横を通りすぎ、畑の向こうに進んでいく。姉の見立てに寄れば奥は手つかずで、きっといい花があるらしい。
そのまた奥にはなにかのハウスが見えていた。光をキラキラ反射していて、そういえば梅雨なのによく晴れたなと、彼は今さら空を見上げる。姉が帰りにバーガーセットの一番高いのおごってくれるはずだけれど、こんなに天気がいいならば、テラスに出てもいいかもしれない。
「バシッて決まる感じじゃん、外の席にするのって」
まあなんだ、きっと悪いことばかりじゃない。なんだかめちゃくちゃめずらしいものも見たような、いや、なんか当たり前のものだったような、……え、やっぱりこれなにか、ラベンダーの匂いの夢でも見てたりするのか――?
「しないわよ」と姉に言われた。多分それはテラス席での食事の話だ。日に焼けるとか、そういうの。けれども彼は、やはり夢ではないのかと思う。光に向けてバケツをぐるりと振り回し、――たちまち姉に怒られた。