未定の続き*
約束の日の朝、待ち合わせの場所に現れた二人は随分とぼろぼろだった。
「あやうく猪に追いかけられそうになって、逃げたら斜面を転がり落ちちゃった」
「……」
照れ笑いをするいよの頬には泥を拭った跡と、小さな擦り傷がある。
とめはいよの横ですでに疲弊した顔をしていた。右腕、右脹脛から足首にかけて包帯が巻かれている。わずかに血が滲んでいる。
「あんな獣道通ろうとするから……」
沈んだ声のとめに対して、いよは気まずげな様子で肩をすぼめた。
「ごめんよ、でも陀羅尼助が作りたかったんだよぅ、ついでに取っていこうと思って」
近所の子供たちにひどい下痢が流行ってるんだよ、といよは憂慮の相を浮かべる。
「とめだってこの間下痢がひどくて困ってたって、」
「やめろ!!」
とめは頬をかっと朱にして遮った。その怒りの勢いで、二人の様子を唖然と見ていた文次郎を睨んだかと思うとすぐに顔を逸らして俯く。
排泄の具合をばらされるのが恥ずかしいのはわかるが、どう考えても今のは文次郎は悪くない。八つ当たりである。
手代に冷やかされ、まさかそんなはずがあるかと悶々としていた文次郎だったが、二度めの邂逅でやはりとめは可愛げがない、嫁だのなんだのありえない話だと胸の内で鼻白む。
「……さっさと移動するぞ」
「はーい」
文次郎が歩き出すといよが素直な返事と共についてきて、とめがそれに倣う。
足音にまぎれて二人のこそこそとした囁きが文次郎の耳に届いた。
「ごめんね、痛む?」
「……大丈夫だよ、気にするな」
申し訳なさそうに肘の包帯に触れる手を宥めるとめの声は聞いたことのないくらい優しく、文次郎の胸を不意にざわつかせた。
柿の木のある家、特に海に近いところに立っている家に先立って葉をゆずってもらえないかと打診しておいた。
前もって枝を落としておいてくれるという家もあれば、勝手に木に登って取っていけという家、自分や隣近所でも使うから譲れないという家、剪定を手伝うのなら構わないという家、様々であった。
文次郎がそれぞれの家の位置や特徴と共にそれらをまとめて記しておいた。こういった記録は文次郎の得意分野だ。
いよたちはその地図を貰い受け、道案内をしてもらったら文次郎と別れるつもりだったらしい。家の仕事は休みだし、乗りかかった船なのだから手伝うと申し出た文次郎にいよは飛び上がって喜んだ。一人増えればそれだけ効率も上がる。
手分けした方がいいだろうと地図を囲んでそれぞれの割り当てを決めた。
とめは最後までいよを一人で行かせるのを心配して渋っていたが、時間が惜しい、できる限りたくさん回ってたくさんもらいたい、心配しなくても大丈夫だといういよに根負けした。
いよが幾つなのかは知らないが、文次郎やとめとそう変わらない年だろうに何をそこまで幼子のように心配するのだろうと内心不思議で仕方がない。文次郎からすればそれよりも怪我を負っているとめ自身を心配すべきだろう、と思う。
剪定や木に登る作業のある家は文次郎が行こうと申し出たが、とめに断られた。その程度はいつもやっているから問題ないと、相変わらずすげない物言いだった。
「無理すると傷が広がるよ、文次郎にやってもらいなよ」
「……大丈夫だって言ってるだろ」
いよの進言にもそっぽを向いて、とめは籠を背負ってさっさと走って行ってしまった。
文次郎といよは目的地までの道が途中まで同じだったので、しばらく二人きりで進む。
「とめは本当に意地っ張りだよ」
どことなくふくれっ面のいよが足元に転がる小石を蹴る。
「化膿したら危ないっていつも言ってるのに! 文次郎のことだって、悪い子じゃないって何回も言ってるのにさぁ」
「……」
何回も言って、あの態度なのか。序列で冷遇されるのには慣れているし、今更性別で嫌われたくらいで、と自分に言い聞かせるもののやはり胸に苦いものはこみ上げる。
それが表情に出ていたのか、いよが慌てて文次郎を揺さぶった。
「ごめん、とめのこと、誤解しないで欲しいんだ。本当に優しいんだよ。あの怪我だって落ちる時に私を庇ってくれて、」
そうしているうちに二人が分かれるべき分岐点が近づいてきた。いよはまだ言い足りないというようにまごついては唸り声をあげていたが、やがて目に強い意志が宿る。
「よし! 文次郎ともっと仲良くするように、とめにも言っておくからね!」
そう言い残して遠ざかる背中に、逆効果だろ、と文次郎はこぼした。
付け入られないように冷たく澄ましておくのも身を守る術なのだと、手代は言っていた。弱みを見せたくないのだろう。
その気持ちは何となく理解できた。自分が弱っている姿を兄や母に見せたくないと意地を張って、高熱を隠して家の仕事をした経験が文次郎にもある。そういう時に兄や母と仲良くするよう諫められたら絶対に頷いてやるものかと余計に壁を作るにちがいない。
しかし文次郎にはとめを害するつもりはないのに、というすっきりしない引っかかりと、負けず嫌いへの共感とで心を行ったり来たりさせながら、文次郎は一軒目の家へと辿り着いた。
籠は持ち出せなかったので、余っていた麻袋を持ってきた。目星をつけていた家を何軒も周り、そこへありったけ切り取った葉を詰め込む。
根気と集中力のいる作業だ。ずっと鋏を使っていると手もくたびれてくる。帳簿とにらみ合うのとはまた違う疲労があった。
その日は天気がよかったので、軒下を借りて落とした枝から葉を切り取る作業をしていても汗が後から後からふき出す。
やはり無理にでもとめを止めるべきだったかもしれないと手ぬぐいで首筋を拭う。
手の痺れを無視して急ぎ最後の家での作業を終わらせる。家主の妻の気遣いで水をもらって喉を潤すと、丁寧に頭を下げて道へと飛び出した。
地図を見ながらとめが請け負っていた方角へ走り、まず最初に目に入った家を訪ねた。
少し前にとめを送り出したばかりだと言う。
「うちで最後だって言うから、よかったらこの知り合いの家にも行ってくれないかってお願いしたのよ。そこの奥さんが暑さにやられて動けないらしくってね。あそこは旦那さんも息子さんも忙しいし。少しでいいから庭の掃除をしてやってくれないかって頼んだの。裏には柿の木はないけど桃の木があるから、その葉ならもらえるだろうからってね。そうしたらあの子、気前よく引き受けてくれてね。まだ小さいのに働き者で、すごくいい子ねぇ。うちの娘のこともあやしてくれてねぇ」
恰幅のいい女が乳飲み子を背負ってにこにこと笑う。
家の場所を聞きだすまでに文次郎はたっぷりととめの仕事ぶりの良さと優しくて明るくていい子であったという評価を繰り返された。
優しい、明るい、どちらも文次郎の目に映るとめにはこれぽっちも存在しない態様である。
みんな自分とは違うなにかを見ているのか。幹から切り落とされた枝を見た時にそれが柿の枝であるとわからなかったように、文次郎にはとめという存在の一部、切り落とされた枝しか見えていないのだろうか。
首を捻りながらとめの足取りを追った。
教わった家は少し離れた場所にあった。海を望む小高い丘のあたりに立っており、作りもこれまでの家より多少立派だ。
入り口そばの壁へ手をつき、荒い呼吸と弾む心臓を落ち着かせる。
全力で走ったせいかもう喉が渇いてしまった。あんな生意気な女のために自分は何をしているのだろうと、汗が伝う額を手の甲でごしごし拭う。本人が大丈夫だと突っぱねているのだから放っておけばいいものを。
家の中へ声をかけようとしたところ、奥から笑い声が聞こえてきたのではたと止まる。とめと初めて会った時に聞いた、高くて楽しそうな笑い声である。
あの無愛想なとめが笑っている。自分以外には明るくて優しく見えるらしい、あのとめが。
どんな顔で笑っているのか見てやりたい。初対面の時もとめは文次郎の気配を感じた途端に笑みを消してしまっていたので、一度も笑った顔を見ていない。
手入れを頼まれたらしいので、庭にいるのだろう。足音を忍ばせて壁づたいに裏手へそろそろと近づいた。
とめは桃の木の上にいた。花はとっくに散り、新緑の季節も終わって青々と隆盛を誇る葉、色づいた果実がたっぷりとぶら下がった桃の木の、一番低いところの太い枝に座っている。
すらりとした左腕を伸ばし、頭の上の細い枝を掴んでいる。包帯が巻かれている右手には鉈を持ち、それで掴んだ枝を根本から切り落とす。とめのしなやかな手から離された枝がばさりと地面に落下する音がする。
潮風が吹いて、桃の葉が揺れる。時折葉の隙間から木漏れ日が差して、木の影の中にいるとめの顔や髪を一瞬だけ照らした。
とめは笑っていた。地面に落ちた枝を見て。目は楽しそうに細められて、目尻が下がっている。
それがどうしようもなくきらきらして見えた。
暑さで顔を真っ赤にして、汗で前髪は額や頬にはりつき、袖どころか裾まで割り開いてたくし上げ、太ももまで肌を晒して、はしたなくて乱れた姿のはずなのにやたらに綺麗で、文次郎の胸を刺した。
文次郎は詩に堪能ではない。自分の感情を文として形にするのも不得手である。
とめのきらきらと輝いて見える様を整然とした言葉では表現できなかった。
ただなんとなく、生きている、と感じた。
ごく当たり前のことであるはずなのに、それがひどく綺麗に見えた。
息をしているというだけではない。何かを採り、血を流し、汗に濡れて、針仕事をし、陽の光を浴びて、生活をしている。
生きるために働く肢体からあふれる生命力が眩く、瑞々しい。
汗水たらして働く女など毎日目にしてきているのに、その中にとめよりたくましい女だっていたはずなのに、とめの身の内に脈うつそれは文次郎の目には燃えたつように輝いて見えた。
とめは空を仰いだ。またも腕を伸ばして頭上の枝を物色している。緑の海の中を泳いでいるようにも見えた。
ふと、とめは熟した実をひとつ掴んで、それを自分の鼻先へ引き寄せた。
斜め下から見上げる形で目にしたその鼻筋はおろしたての筆先のように整っていた。
その鼻先で可憐な色の実の輪郭をなぞるように顔を寄せて、すぅっと香りを吸い込む。
「いい匂い、」
夏の熱で色づいた唇から甘やかな笑い混じりの声がこぼれた。
それを耳にした瞬間にさぁっと風が吹き、文次郎の鼻先にも桃の香りが舞う。とめが手にして口を寄せている桃の香りが。
二人の体は離れていたのに、その瞬間たしかに同じ桃の香りに包まれた。
芳香で頭がふわふわと浮かされる。
この瞬間から文次郎の中で生涯ずっと桃はこの少女の香りになった。
「すみません、よかったら実もいくつかもらってもいいですか? 薬になるって聞いたので……」
「少しなら構わないわよ。桃の種よね。うちの息子が薬売りだから、あの子もよくとってるわ」
「ありがとうございます!」
ぱあっととめの顔に花が咲く。
さっそく桃の実をもぎとって、しかし枝のように地面に次々と落とすと実が潰れてしまうことに気付いたらしく、少し思案してから懐にぐいぐいと押しこんだ。襟元が乱れて肌が露わになる。
「あらあら、手伝いましょうか?」
文次郎には見えないところから慌てた女の声がする。この家の奥方だろう。
「だ、大丈夫です。座っててください! 後で友達と一緒に取りにきてもいいですか?」
「友達って、潮江さんのところの文次郎くんのこと?」
「えっ、」
自分の名が聞こえてふわふわしていた意識が引き戻される。
町から少し離れた海の方では母らの影響で文次郎を白眼視する人間は減るが、物を売り買いしている家なら文次郎を知っている者がいてもおかしくない。
「いい子よねぇ、働き者でまじめで賢くて、家族思いで。あそこの女将さんももっと褒めてあげればいいのにと思うのよ」
「ああ、ええと、」
とめが口にした友達とは間違いなくいよのことだが、口を挟みづらいのか曖昧に相槌をうつ。
「ねぇあなた、文次郎くんのことどう思う?」
口から心の臓が飛びだすかと思った。口を押さえて飲みこむ。
ちくしょう、海のそばの奥方たちはみんなおおらかで豪快だが、どうしてこう揃いも揃って口数が多くてお節介なんだ、と叫びたいのを喉で留める。
とめも見るからにうろたえている。
なんと答えるのだろう。聞きたくない。聞きたい。
何を期待しているのか。どうせ嫌われているに決まっている。奥方の手前、茶を濁してごまかすのが関の山だ。
文次郎の中で季節はずれの嵐が吹き荒れた。
「その……そう、ですね、」
いいやつだと、思います。とても。字もうまくて。
目を伏せてそう答えたとめの耳は真っ赤だった。
「やっぱりそうよねぇ。この間訪ねてきた時にはじめてお話ししたけど、私はあの子好きだわぁ。あなたもそう?」
「そ、れは……」
「あら、顔に好きって書いてあるじゃない? ほほほ、仲良くしてあげてね」
「……」
桃の実に隠れるようにして恥ずかしそうに俯いている顔を見て、文次郎の顔に熱がともった。風呂でのぼせた時だってこんなに熱くなったことはない。こめかみで脈うつ血流が耳の奥に響く。
いいやつだって。奥方の言葉をそのまま横流ししただけの社交辞令じゃないのか。それならあの真っ赤な耳はなんだ。いやしかしそう思っているようにはとても見えないじゃないか。
思考がぐちゃぐちゃになる。徹夜明けに書いた字だってこんなにならないだろうというくらいに、頭も心の臓もぐちゃぐちゃだ。
とめがふたたび枝を切り落とす音がする。
文次郎はその姿をなんとなく見られなくなって、俯いたまま立ち尽くしていた。
しかし背後から近づいてきた足音にさえ気付かずにいたのは不覚だった。
「おや、どちらさま?」
「うわぁッ!?」
突然の呼びかけに、腹の底からの喚声がわいて出る。文次郎はよく走りこんで肺を鍛えているので、その声はよく通る。
しまったと思い、見上げるとぽかんとしたとめと目が合う。
今ちょうど来たばかりなのだというふりをしなければ。だが文次郎は嘘や不正が嫌いで、すぐに思ったことを顔や言葉に出す子どもだった。
そんな文次郎の態度にとめも察して、桃をとおりこして林檎のような顔色になった。
「いっ……いたんなら、言えよッ!! ばか文次郎!!」
「はぁっ!? 誰がばかだ! 大体おまえが、」
あんな誘導尋問みたいな会話に引っかかりやがったんじゃないか。あんなのは男と女を冷やかすための常套句だ。手代の物言いに慣れている文次郎にはすぐにぴんときた。とめが気づかなかっただけじゃないか。
そう怒鳴ろうとしたところ、とめが文次郎の視界から逃れたかったのか枝から飛び降りようとした。
「あっ、」
「……!!」
ぐら、ととめの体が均衡を失った。立ち眩みか、怪我のせいか、単純なドジか、とめの体が後ろへ傾き、文次郎や奥方が悲鳴をあげると同時にまっさかさまに落下した。
高さは五尺ほどだが、とめは鉈を持っている。
血の気が引いて考えるより先に駆けた。
受け止められるか。いいや、間に合わない。
視界の端、とめの手から離れた鉈が宙を舞ったのが映る。あのままではとめの体の上に鉈が落ちる。地面への衝突は防げなくともせめて鉈だけは。
ばき、ばき。切り落とされていた枝の上にとめが落ちる音がする。
最悪刃を握って文次郎の手が血まみれになってもいいと思い、精一杯腕を伸ばす。
紙一重、文次郎の指が鉈の持ち手に当たった。落ちる軌道をわずかに変え、仰向けにころがっているとめの頭のすぐそばに鉈がどすりと落ちて刺さる。ぞっとして体中から冷や汗がふき出した。
「おい、とめ! とめ! 大丈夫か!」
「揺らさないで! 俺が運ぶよ!」
文次郎に声をかけてきたのはこの家の息子だった。薬売りだという彼はとめの体を慎重に抱きあげて家の中へ運ぶ。
体をぶつけた衝撃で目をまわしかかっているとめは猫の子のようにおとなしい。
「頭から落ちたから……強く打ってないといいんだけど……」
濡らした手ぬぐいで額を冷やしながら、とめの体をあちこちを診察している。時折声をかけて朦朧としていないかも確認する。
幸いしばらくしてとめは意識を取り戻し、はっきりとした声でやりとりができるようになった。
折り重なっていた枝と、手入れが行き届かず伸びていた草のおかげで助かったようだ。
施される治療にとめはしきりに恐縮して、最後には膝をそろえて頭を下げていた。
「構わないよ、庭のことを頼んだのはうちだしね」
「ごめんねぇ、本当に……」
奥方は気の毒なくらい落ち込み、何度も手ぬぐいを絞ってはとめの額を拭っている。
「本当に大丈夫? あなたどこのおうちの子? 遠いならうちに一晩泊まっていかない?」
「そうだねぇ、一晩様子を見た方が安心なんだけど……」
「いえ、そんな……一緒に来ているもう一人の友達も薬に詳しいので、大丈夫です」
「……」
「無理はしないようにね。ああ、包帯がほどけかかってるから、巻き直そうか。血は、もう止まってるね」
脚の傷は臀部のそばまで達しているらしく、さすがにそれを見るのはよろしくないと文次郎は部屋から出されてしまった。
仕方なくとめの治療が終わるまでの間、桃の木にのぼって枝の伐採をすることにした。
いろんな気持ちが腹の底でぐるぐると煮詰まっている。それを発散するように枝をばっさばっさと切り落とした。桃の木の精がいたらなんて乱暴な小僧だと文句のひとつやふたつ言われることだろう。
治療が終わって庭に出てきた奥方と息子が木の上にいる文次郎に危ないからのぼってはいけないよと諌めた。
桃の実も息子が手の届く範囲のものをいくつか切り落としてくれた。
文次郎の麻袋に入れていた葉をとめの籠にうつし、空いた袋に桃の実を詰めた。
桃の葉も三人で切り取れば早かった。とめは怪我人だからと座らされ、居心地悪そうにしていた。
二人に別れの挨拶と礼をする間、文次郎は気力を振りしぼって笑顔を作った。おそらくとめも同じだっただろう。
家を離れて丘を下っていくうちに、みるみるとめが意気消沈していくのがわかった。
「……少し休んでからいくか」
「……いや、いい。いよを待たせちゃ悪いから」
必死におさえているが、とめは涙声だった。
文次郎の胸が握りつぶされたように苦しくなる。あの時、さっさと庭に入っていっていれば。せめてばれた時に言い返したりしなければ。
「早くしないと帰るまでに日が暮れちまう。そうしたらいよが叱られて、こっちに来るのを禁止されるかもしれないし……」
ふらつく足取りと頭に巻かれた包帯が痛々しい。そんな状態でも心配なのは自分でなく友人なのかと、訳のわからない憤りを覚える。
「……おばさんたちにも迷惑かけちゃったなぁ」
「それは……しょうがねぇだろ。だいたい、だから俺がやるって……いや、いい。……次からは、無理はするなよ」
「……次、あるのかなぁ」
とめの声が急に濡れて、はっとその顔を見ると、途端にその目からぼろぼろと涙が落ちる。
「木にのぼっちゃだめって言われたし、せっかく桃の葉くれる家だったのになぁ……いよが喜んだだろうになぁ……せっかく文次郎が案内してくれたのになぁ……このせいで、次から他の家にも断られたら……」
足取りが鈍くなって、やがてその場にしゃがみこみ、とめは膝に顔を埋めて肩を震わせた。
「……俺のことは気にしなくていい。それならまた他の家を探せばいいだろ。……桃の葉が欲しいなら探しといてやるから」
腕を引くととめは存外素直についてきて、道の端に二人並んで腰を下ろす。
しゃくりあげる背中を撫でたいと思ったけれど、どうしても触れられなかった。これが妹の背中であれば躊躇いなくそうしてやったのに、とめにはどうしてもできなかった。
ややあって、とめが袖で顔を拭った。上げられた顔は目と鼻が真っ赤だったが、涙は止まっていた。
「……あ〜……ごめん。もう行こう」
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
もういつもの無愛想なとめに戻っていた。目と鼻と、耳が真っ赤なのがいつもと少し違う点だった。
「文次郎、」
「……なんだ」
「麻袋、洗って返すから」
「……ん、」
「……礼も、その時するから。本当はできた柿の葉の茶を渡すつもりだったけど、他になにか欲しいものあるか」
「いらねぇよ、礼なんて。それに前にいよからお守りをもらってる」
「それは案内に対する礼だろ。手伝ってもらった分とはまた別だ。やってもらったんなら見合った礼をしないと」
なんだか他人行儀に感じた。自分は失態に泣くほど熱心にいよの手助けをしているくせに、文次郎とはそうではないと言われた気分になった。
「おまえだっていよのこと手伝ってるんだろ。それと同じだろうが」
「……タダじゃないぞ」
「なに、」
「手伝ってるけど、タダじゃない。ちゃんと手伝っただけの取り分はある」
曰く、完成した茶や薬のいくらかはとめの取り分であり、それを家族に使ったり、売ったりするのだそうだ。
「神社のお守りだって、……私、が縫ってる。それだってちゃんと金はもらってる。私はいよから仕事をさせてもらってるんだ。家の畑仕事の合間に、そうやって少しずつ稼いでる。金をもらわない仕事なんて、誰だってするもんか。そうしないとうちの家族なんて冬には飢え死にだ。……着物だって、長いこと姉ちゃんのお下がりしか着てねぇよ。それだって何度も繕ってる」
「……」
「……とにかく、礼はちゃんとする。貧乏だからって、おまえのことタダ働きさせるのはいやだ」
「……わかった」
「帰るまでに何か欲しいものがあるなら考えといてくれ。そんなに、あれこれはやれないけど」
籠を背負ったその後ろ姿が誇り高く見えた。
媚びずに冬を生き延びようとする気炎は、春がめぐる都度に変わらず花を咲かせる桃のようで、たくましいと思った。
文次郎も仕事をしている。けれどそれはあくまで家業の手伝いだ。あの家に生まれたからあの家の仕事をしているに過ぎない。決して自分の意志で決めたものではないのだ。
今、家から離れたとして、とめのように自分で金を稼いで生きていけるだろうかと自問する。
母や兄に反発しながらも、文次郎は親に庇護されている立場でしかない。
鳩尾を殴られたような心地がした。
*