苦味も酸味も消えちゃうくらい 可愛く塗装されたドローンが窓の外をゆったり飛んでいたので、ああ、今日も神代先輩が何かやらかしているんだなあ、と思った。思った後で、何を自然に見送ろうとしているんだろう、と自分で自分の感性に困惑してしまった。
神山高校名物である変人ワンツーフィニッシュの奇行の噂は、他学年である私の耳にも入りに入りまくるほどだ。なんなら噂だけじゃなく、爆発音や天馬先輩の悲鳴とツッコミ、神代先輩の愉快そうな笑い声くらいなら、直接聞いたこともある。入学から約一年、私の常識も相当に塗り替えられてしまっているように思うけど、よく考えなくてもうちの高校はおかしい。というか、変人ワンツーフィニッシュがおかしい。
斜め後ろの席に座る草薙さんが、窓の外を眺めながら小さく唇を動かした。……またやってる、とかかな。文化祭のときに初めて知ったことだけど、草薙さんと神代先輩は知り合いらしい。お互いに下の名前を呼びあっているみたいだったし、仲もいいんだろう。草薙さんは、普段はとても恥ずかしがりなようだから、知り合いの奇行には思うところもあるのかもしれない。
文化祭のときの草薙さんといえば、それはもう大活躍だった。綿あめ機が壊れてしまったときに神代先輩を呼んでくれたのもそうだし、綿あめ作りも青柳くんと並んでとても上手だった。それに、クラスでの担当時間が終わった後、ゲームの大会で優勝を掻っ攫っていたらしい。さらにその後は、神代先輩を探して回る天馬先輩と一緒に居たともいうから、草薙さんの交友関係はなかなか謎だ。あの変人ワンツーフィニッシュと長い時間一緒に居られるあたり、意外と胆力がある人なのかもしれなかった。
そんな草薙さんに、渡したい物がある。草薙さんだけじゃなくてクラスのみんなに渡したいものではあるけれど、今渡したいのは草薙さんだ。草薙さんは休み時間になるとイヤホンで耳を塞いで動画を見始めるかゲームをし始めてしまう。私はあまり度胸がない方だから、そうなってしまうと声をかけにくい。既に休み時間のいくつかを声をかけられずに終えていた私は、ドローンに気を取られてる場合じゃないな、と、急いで声をかけた。
「ねえ」
「ひゃっ……な、何?」
「これ、あげる!」
パウンドケーキが入ったタッパーを、草薙さんの目の前に差し出した。仲のいい子には先に配ってしまったから、中身は半分くらいに減っている。
草薙さんは、きょとんとした顔で数回瞬きをした。クール系かと思ってたけど、案外かわいいとこあるよね、なんてこっそり考える。
「お菓子作りが好きだからさ。なんとなく、みんなに配ろうかな〜と思って作ってきたんだよね」
「え……い、いいの? わたし、何も返せるもの持ってないんだけど……」
「いいのいいの」
「あっ……ありがと」
淡く頬を染めた草薙さんが、ケーキに手を伸ばした、そのとき。
ドォン! とどこからか派手な音がして、「類────ッ!」という絶叫が遠くから聞こえてきた。ついでに、とんでもなく楽しそうな笑い声も。
私と草薙さんは、二人して肩を跳ねさせた。そして、動揺のおさまらない私を他所に、草薙さんは「あーあ……」と溜息を漏らして、何事も無かったかのようにケーキに手を伸ばし直した。さすが神代先輩の知り合い。反応が明らかに慣れている。
「何があったんだろうね」
もぐもぐ、こくん。草薙さんの細い喉がケーキを飲み込んでしまったのを見届けて、そんなことを聞いてみる。
教室の中は、未だにさっきの爆発音にざわめいている。今日はどれくらいで天馬先輩が先生に捕まるんだろうとか、失礼な話題で男子が盛り上がっていた。そんな中、草薙さんは、周りの騒ぎに紛れてしまうくらいのトーンで、私の何の身にもならない質問に答える。
「つ……天馬先輩で何か実験してたんだと思う」
そして「アイツと出会ってから、ほんとに楽しそう」と付け加えた。たぶん独り言だ。私が聞いてよかったんだろうか。呆れたようで、でも、どこか優しげで……私の友達には弟のいる子がいるけれど、その子が弟のことを「しょうがないんだから」なんて話すときに似た声だ。
そういえば文化祭のときの神代先輩も、優しいお兄さんみたいな顔をしていたな。あのときの態度を見て、実のところ私はあらぬ疑惑というか、不躾な勘繰りを抱いていた。でも、今の草薙さんの態度を見ていると、なんとなくそれは違うようにも思えた。
「草薙さん、神代先輩と付き合ってるんじゃなかったんだね」
ただの直感だけど。
考え事に気を取られた私の真ん前で、草薙さんの目が大きく見開かれる。そして。
「……は」
爆発音のときの倍くらい驚いてるんじゃないかって声を出した。聞いたことのないくらい大きな声だ。教室中の目がいっせいに草薙さんに向けられて、草薙さんは恥ずかしげに縮こまる。
ちょうどよくとでも言えばいいのか、外から天馬先輩の「どこに逃げたんだ類! 置いていくなーッ!」という怒声が聞こえてきたので、数秒後には先程までと同じ騒めきが教室の中にも外にも戻ってきて、草薙さんに向けられた視線はあちこち散り散りになっていった。
「……ごめん。今の口に出てた?」
「で、出てた……」
「ほんっとにごめん」
タッパーを机に置いて、頭を下げて謝ると、草薙さんは「えっ」と絶句して、いよいよ混乱してしまったみたいだった。目の中に渦巻きでも見えてしまいそうなくらいそわそわして、胸の前まで持ち上げられた両手がもじもじと動く。
「う、ううん。類、あっ、えっと、神代先輩……とは、何もないし。類は、」
類は、の、その先を、草薙さんは言わなかった。はっとしたように口元を覆って、斜め下を向いてしまう。それは、ただの友達だからとか、そういう言葉が続きそうな態度じゃなかった。
神代先輩、好きな人いたんだ。草薙さんは、相手を知ってるんだ。
今の一瞬で、そこまで全部わかってしまった。草薙さんもそれに気がついてしまったのか、顔をだんだんと青く染めている。
私は慌てて、噂好きの人間が近くで話を聞いてはいないかと教室の様子を探った。なにせ神代先輩の話題は噂話の種になる。そうなってしまったら、草薙さんは心を痛めてしまうだろう。私が変なことを聞いてしまったせいでそんなことになったら、嫌だ。
……噂好きの人間どころか、ほとんどの人が教室に居ない。騒ぎにつられたのか、いつの間にやら教室を出て行ってしまったらしい。そして、私たちの一番近くに居るのは、次の授業の準備をしている青柳くんだ。これは幸いだった。もしも聞かれていたとしても、青柳くんなら滅多なことはなさそうだ──天然が炸裂しなければ。
私の視線に気が付いたらしい青柳くんと目が合う。青柳くんは、いつもの通り表情を変えないまま、私と草薙さんを交互に見やった。
「どうかしたか。……草薙は具合でも悪いのか?」
「なんでもない。このパウンドケーキが苦手な味だったのかも」
自分の机に置きっぱなしだったタッパーを指差せば、青柳くんは納得したように頷いた。
「そうか、好みがあるからな。大丈夫か草薙」
話を振られた草薙さんは、こくこくと頷いた。やめてやってほしい。いや、青柳くんの対応は人としては正しいのだろうけど。
これ以上草薙さんに話が振られてしまう前にと、私は口を挟んだ。
「青柳くんも、ビターな味いけそうなら後であげるよ」
「いいのか?」
「いいよ。クラスみんなのぶんあるし」
「ありがとう。……それにしても、司先輩は大丈夫だろうか……」
青柳くんはそんなことを言いながら、ぼんやりし始めてしまった。青柳くんも青柳くんで、天馬先輩絡みになるとちょっとヤバい気がするので、これ以上関わるまいと私は目を背けた。
大丈夫そうだ。たぶん何も聞いていない。というか、天馬先輩が大騒ぎの片棒担いでるのによく教室を出ていかなかったな、青柳くんは。
草薙さんの方に視線を戻せば、青柳くんの何も聞いていなさそうな様子からか、顔の青さは少し和らいでいた。しかし、目がなんだか潤んでしまっているように見える。罪悪感がすごい。本当に申し訳ないことをしてしまった。
「草薙さん、ほんと重ね重ねごめんね」
「ううん。悪いのはわたしだし……あ、でも」
「大丈夫。これ以上聞かないし、誰にも言わない。約束ね」
「…………ありがと」
小指を差し出せば、草薙さんは躊躇いながらも小指を差し出し返してくれた。細く白い小指に自分の小指を絡めて、「約束するから」と、真剣に念押しする。「うん」と草薙さんが少し不安げに頷いた、その瞬間だ。
窓の外を、可愛く塗装されたドローンが、さっきとは逆方向に、とんでもない速度で横切っていった。
そのあんまりな勢いに、私と草薙さんは思わず顔を見合わせて、お互いに目をぱちぱちとさせてしまう。小指は、いつのまにか解けていた。
「あ〜……っと。い、色々ごめんね! 次の授業の準備しよっか!」
「う、うん。……あ、そうだ」
草薙さんが私の名前を呼ぶ。いつの間にか、草薙さんの目から、涙の影は消えていた。
「どうしたの?」
「さっきのパウンドケーキ、ありがとう。美味しかったから……えっと、それだけ……」
「……! ありがとう、草薙さん!」
向けられたのは、優しくて、あたたかい言葉だった。
お詫びとお礼に、また何か作ってもいいかな。それは調子に乗りすぎだろうか。草薙さんとあまり関わりもないまま年度末を迎えてしまったのは、とても惜しいことだったのかも。
取り留めなく考え事をしていた私は、変人ワンツーフィニッシュのうち片方だけが捕獲される様を見届けたクラスメイトが教室に帰るまでの間、ノートの隅にいくつかのお菓子を落書きしてしまった。
*
放課後。無事にクラスメイトにパウンドケーキを配り終えた私は、財布だけを手にして自動販売機へと足を向けていた。目的の自動販売機は、校内でも一番分かりづらい場所にあるものだ。
校内にはいくつか自動販売機があって、それぞれ少しだけラインナップが違う。ちょっと奥まった場所にあるその自動販売機には、私好みの飲み物が揃っていた。今日はちょっとすっぱいオレンジジュースの気分だな、でも途中で気が変わるかもしれないし……。財布の中の小銭を数えながら校舎を回り込もうとすると、ちょうど壁の向こうの奥まったところから、何やら声が聞こえてきた。ここに人が居るのはそこそこ珍しいな、と思いながら、一歩踏み出す。
「……いかな」
「類、お前な。ここは学校だぞ」
「ダメかい?」
まずい。踏み出そうとした足を、私はそのままそっと戻した。
神代先輩と天馬先輩だ。両方と関わりがある様子の草薙さんには悪いけど、私には彼らと関わり合いになる勇気はない。しかも今の私は、神代先輩に対してなんとも言い難い罪悪感を持っているから、余計に顔を合わせたくなかった。
……でも、わざわざここまで来たしなあ。
私が今いる場所は、自分の教室からはずいぶん離れている。このまま戻ってしまうのはもったいなかった。会話に区切りがついたあたりで、顔を合わせずに、ささっとすれ違ってしまうくらいなら大丈夫だろうか。
「オレを置き去りにしておいて言うことか?」
「あれは……悪かったよ」
どうやら神代先輩は、天馬先輩に何かしらのわがままを言っているらしい。草薙さんの、お姉さんみたいな声を思い出す。普段からこの調子なんだったらあんな話し方になるのも頷けるかも、なんて、先輩に対して少し失礼なことを考えてしまった。
「ごめんなさい、司くん……。ね、お願い、少しだけで我慢するから」
「……仕方ないな。本当に少しだけだぞ」
「ありがとう!」
神代先輩のしょんぼりとした声に天馬先輩が絆されて、会話は一区切りついたようだ。天馬先輩は本当にそれでいいのか疑問に思ったけど、私には関係ない。通っても大丈夫そうだろうかと、顔だけを壁の向こうに覗かせる。
「すきだよ、司くん」
壁の向こうでは、神代先輩が天馬先輩を優しく抱きしめて、どろどろに甘い声で、そんなことを囁いていた。
選択肢を間違えたな。
頭に浮かんだのは、正直な感想だった。変人ワンツーフィニッシュが居るとわかった時点で、迷わずUターンして教室に帰っておけばよかった。せっかく草薙さんに「聞かない」とか言ったのに、現場に居合わせてしまったんだからもうどうしようもない。いや、そもそもだ。神代先輩の好きな人って、天馬先輩だったの? 爆発するような実験とかしておいて、あんな声出すくらい好きだったの?
溶かしたミルクチョコレートだって、あんなに甘ったるくない。目と耳から入ってきた情報で、なぜか舌の上がとんでもなく甘い。
あんまり驚いたせいで、私の体はすっかり固まってしまった。目を逸らすこともできずにいる私には気が付かないまま、天馬先輩は、神代先輩の背に腕を回す。
「ん。……オレも、すきだ」
それは普段聞く声からでは考えられないくらい、小さな囁きだった。それでも、ほかに人の気配のないこの場所では、遠くまで響く。響いてしまう。綿あめみたいに甘くてふわふわした声は、部外者の私が聞いていいものでは決してなかった。
あの天馬先輩が、こんな声、出すなんて。
私の視線の先で、ふたりは一際強くぎゅっと抱きしめあって、ゆっくりと身を離した。神代先輩の手がゆるりと動いて、天馬先輩の顎を捉える。
──ダメだ!
頭の中に警告が鳴り、突然、体に自由が戻った。顔を引っ込めて、耳を塞いで、できる限り静かにその場を離れる。
あれ以上は見ちゃいけないし、聞いちゃいけない。だんだんと早足になっていく。自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。だって、予想してもいなかったのだ。昼間から馬鹿みたいな大騒ぎを起こしていた二人が、あんな……あんなこと!
こんなに顔が赤いままじゃ、教室には戻れない。跳ね回る心臓を宥める術もわからないままで、私はさっき行こうとしていたのとは別の自動販売機まで歩いた。やけくそ気味に小銭を放り込んでボタンを連打する。ガコン! と音を立てて落ちてきた缶を、取り出し口から引ったくった。
手が妙に震えていたせいでプルタブに爪がかけられなくて、もどかしくなりながら呼吸を落ち着ける。四回目でようやく開いた。勢いよく中身を煽って、一気に飲み干す。
「あっま…………」
私は、手に持ったブラックコーヒーの缶をゴミ箱に放り込んだ。
草薙さんにはやっぱりお菓子を作ってあげよう。ちょっと苦かったり、すっぱかったりするやつを。
甘いのは、彼らでお腹いっぱいだろうから。