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    milk04coffee

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    milk04coffee

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    お題:君が沈んだ海に告ぐ
    ひなまつり後1回目の誕生日前くらいの話。捏造しかない
    2021-6-10

    透明な海を抱きしめて やけに眠気が遠いな、と、眠りに落ちることを諦めて目を開く。ごろりと寝返りを打って、思いつきを口に出してみた。

    「……セカイを散歩してみようかな」

     言葉にしてみればとてもいい思いつきのように感じられた。
     司くんの想いでできたワンダーランドのセカイは、笑顔と驚きで満ちている。ショーに繋がるインスピレーションが貰えるかもしれない。真夜中のセカイにはあまり訪れたことがないし、ちょうどいい。充電を終えていたスマホを片手にセカイへと入る。

     ──そこは、まるで海の底だった。

    「え……?」

     思わず声を上げて辺りを見回す。
     夜の帳を下ろした空を、魚のぬいぐるみが群れをなして泳いでいる。全てが薄青く彩られて、見慣れた景色のはずがまったく違うもののように見えた。今が夜だからなのか、常とは違って静寂があたりに満ちていることも、原因の一つかもしれない。
     あちこちにあるアトラクションの数々だって明るいのに、満天の星が煌々と見えるのが不思議だ。そんな星あかりの数々は、透明なベールを通すかのように遠く揺らめいて輝きを散らしている。
     光に手を伸ばしてみようとすると、水の中にいるような抵抗が生まれた。試しに地を蹴れば、ゆっくりと体が浮き上がる。宙を掻き分けると浮いたまま進めるようだった。息もできれば泳げもするらしい。ここは元から夢の中みたいな場所だけれど、いつにも増して夢のようだ。
     これはいったい、どういうことだろう。
     浮かんだままであたりを見回していると、下の方から声をかけられた。

    「あらぁ、類くん?」

     声の方を見ると、長い髪をゆらゆらと靡かせたルカさんが、こちらに向かって手を振っている。そのまま軽く地を蹴って、ルカさんは僕の近くまで泳いできた。

    「ルカさん、こんばんは」
    「うふふ、こんばんは。遊びに来てくれたの?」
    「うまく眠れなくてね。散歩を、しに来たんだけど……」

     ……ルカさんの声は眠たげにのんびりとしているが、瞳はぱっちりと開いている。話の途中でそれに気がついて、僕は言葉を止めた。
     メイコさん曰く、ルカさんが眠くなるのは、周りが笑顔に溢れているときだ。逆に誰かが困っているときなどはその目を覚ましているという。
     セカイの変化と、ルカさんの様子。そこから一つの可能性を導き出して、眉を顰める。

    「ルカさん、もしかしてこのセカイ……いや。司くんに、何かあったのかな」

     違っていてくれればそれでいい。むしろ、そうであってほしい。そんな思いを抱えながら疑問を投げかけた。

    「うーん、そうねぇ。わたしが来る前からたまにこうなるそうだから」

     ルカさんはひとつ、ふたつと瞬いて、静かな声で曖昧に言う。
     しばらく前から。それも、ルカさんが来る前からだって?
     そんなのは知らない。セカイには何度も出入りしていたはずなのに、ずっと司くんの近くに居たはずなのに、何も気が付かなかった。こんなに大規模な異変が起きていたのに、僕らは何も。

    「ルカさん、それって」
    「ねえ、類くんはこのセカイが好きかしらー?」
    「そんなことより、司くんは」
    「そんなことだなんて。大切なことだから、わたし、聞かせてほしいわ」
    「なにも今じゃなくたって──」
    「いいえ。遮ってしまってごめんなさい、でも、今じゃなきゃだめなのよー」

     こうも遮られ続けるとも、そしてそれを素直に謝られるとも思っていなかった僕は、言葉に詰まってしまった。これ以上問い詰めても結果は同じだと察してしまったせいだ。
     ルカさんは少し眉を下げていたけれど、口元は穏やかに笑んでいた。焦りに塗れた僕とは対照的に、ゆったりとした雰囲気のまま。

    「ね?」

     試されているのかもしれない。なんとなく、そう感じた。溜息を吐いて頭を振る。それどころじゃない、と頭の中で呟いた。そんな当たり前のことについて問答しているような場合じゃない。
     とはいえ、わざわざ今聞きたいと言われるからには『今』答えることが大切なのだろうか。すんなりと納得はできないが。なんにせよ、答えを示さなければルカさんは穏やかに笑んだまま行く先を塞いでくるのだろうと思われたから、焦りを極力鎮めながら考えを巡らせるよりほかなかった。
     このセカイが好きかどうかということについて聞きたいのだと、ルカさんは言う。
     考えるまでもない。僕は最初からこのセカイをとても好ましく思っているのだから。この場所をもっとよく知りたいし、ここに居ることは心地がいい。
     今となっては、このセカイを作り上げた想いの持ち主である司くんに対しても、同様のことを感じている。彼のことをもっと知りたい。彼のそばに居たい。彼に何かあれば心配になるし、助けになりたいと思う。
     司くんは、大切な仲間なのだから。

    「……。ここはいつも笑顔に溢れた、素敵な場所だ。不思議で、興味深くて、とても好ましいと思っているよ。こうやって散歩に来ようと思うくらいにね」

     何を言うか少し迷って、結局思うままを素直に述べる。ルカさんは僕の答えを聞いてどこかほっとしたように息を吐き、満足そうな笑みを浮かべた。

    「わたしもまだここに来たばかりだけど、このセカイがだーいすきだわ。おんなじね」

     ルカさんはそう言って、さらにもう一つ質問を続けた。

    「類くんは、今日ここに来てどう思ったかしら?」
    「どう思ったか……? いきなり様子が変わっていたから心配になった、かな。それから……」

     言っていいものだろうかと、僅かに迷いが生まれた。心配になったのは本当だ。でも、それよりも先に浮かんだ感情がある。それは悪いことではないはずなのに、なぜだか言葉に出しづらい。
     ルカさんが「それから?」と不思議そうに首を傾げて、こちらを伺うようにじっと見た。喉の奥に留めていた言葉が、その柔らかな声に後押しされるようにして、小さく零れ落ちる。

    「綺麗だと、思ったよ」

     普段のセカイが大好きだ。本当に。ただ、今のセカイもとても美しいと思う。
     息も止めないまま、どこまでだって泳いでいける自由さがある。透明な水底に光が揺らめきながら散る様は幻想的で、思わず手を伸ばしたくなるほどだ。そして、水の中のようだというのに、冷たさを少しも感じない。のびやかで、美しく、あたたかなセカイだ。
     ……でも。
     見上げた空はいつもより遠い。星々は地上に光を注ぎながら、自らの姿を曖昧に隠してしまっているようだ。水中に居るような感覚も、自由であると同時にとても不自由だった。こんな抵抗の中ではうまく動けやしない。そして、あたたかさを感じるセカイであるはずなのに、今この場所に満ちる静けさがどこか寂しい。
     らしくない、なんて傲慢な言葉が頭に浮かぶ。もしかすると、そんなことを思っていたからこのセカイを『綺麗』と称することに抵抗を覚えてしまったのかもしれない。

    「綺麗……そうよね、綺麗よね。ここはとっても綺麗な場所だわぁ」

     ルカさんは、そう言いながら柔らかく笑んだ。そしてそのまま僕の後ろを指さして、言う。

    「ねえ、類くん。もしもこのセカイが綺麗だと思うなら……このセカイを本当に知りたいと思ってくれるなら。あっちに泳いで行ってみて?」
    「あっちに? 一体何が……」
    「今はまだひみつ。本当は教えたらダメなんだけど、わたしはこうした方がいいと思ったからー」
    「それは……、……。ありがとう、ルカさん」

     言いたいことも、聞きたいことも、余るほどたくさんある。でもきっと、これ以上は何も答えてくれない。最大限の譲歩がこれなのだろうと感じ取れてしまうような雰囲気だった。
     お礼だけを伝えて宙を蹴る。進み始めた僕に向かって、ルカさんは嬉しそうな顔で手を振り続けていた。


    ゜*。+ ☆゜+。*゜


     あれから少し時間が経った。いつの間にかそばにいた魚のぬいぐるみたちと一緒に泳ぎながら、寂しい気がするのにやっぱり寂しくない場所だな、なんて矛盾したことを考える。
     しばらく泳いでいると、魚たちは向きを変え、どこかへ泳ぎ去っていってしまった。入れ替わるようにして遠くにふたつの人影を見つける。向こうもこちらに気がついたようで、大袈裟に肩を跳ねさせるのが見えた。

    「えーっ、類くん! なんでなんで!?」
    「類くん、なんでここにいるの!?」

     リンくんとレンくんだ。二人は大慌てのまま僕の目の前まで泳いできて、戸惑ったような視線を向けてくる。

    「眠れなくて、ちょっと散歩にね」
    「そうだけど、そうじゃなくって〜!」

     リンくんが、ぎゅっと目を閉じてパタパタと足を動かす。ここが地面なら地団駄を踏んでいたことだろう。

    「ボク達、セカイに誰かが来たことは知ってたんだ。でも、こっちにまで来るなんて思ってなかったから」
    「おや? 僕やえむくんなら好奇心であちこち見て回ると認識されている、と思ったのだけど」
    「うん。でも、先にルカが探しに行くって言ってたし……」

     レンくんの口ぶりでは、ルカさんは僕がここに来るのを止めるつもりだったようにも聞こえる。そういえばルカさんは、行き先を示しながら、教えたらダメだと言っていたっけ。どこか試すようにも聞こえた問いは、本当に僕を試すためのものだったのかもしれない。
     何を試されたのかさえわからないけど、あれで正解だったらしいことだけはなんとなくわかる。あやふやな箇所が多すぎて奇妙な心地だった。
     リンくんとレンくんは顔を見合わせて何やら考え込んでいる。彼らと出会ったのも、ルカさんの指示があったからだ。ルカさんは何を思って、こっちに泳ぐように言ったんだろう。

    「泳いでてすれ違っちゃったのかなぁ?」
    「いいや、ルカさんとはさっき会ったよ。こっちに泳いでくるように言ったのもルカさんだ」
    「ええっ、そうなの!?」

     揃って目を丸くする二人に、ひとつ頷いてみせる。レンくんは「うーん」と困ったような声をあげて、腕組みをしながら首を捻った。

    「ルカが言ったのかぁ。ねえ類くん、ルカは他に何か言ってた?」
    「このセカイをどう思うか、今日このセカイに来てどう思ったか、と聞かれたね。僕が答えたら、なんだか嬉しそうだったように見えたけど……」

     たぶん、と心の中で小さく付け加える。レンくんは僕の答えを聞いて、もう一度「うーん」と唸った。

    「そっか……でも、今は……。どうしたらいいんだろう」

     そう呟くレンくんの横で、リンくんも、右の人差し指を頬に当てたまま何やら考え込んでいる。

    「あっ、そうだ!」

     何やら思いついたらしい。リンくんは弾んだ声で言って、ぱちりと両手を合わせた。

    「ねえレン、聞いて聞いて」
    「どうしたの、リン?」
    「あのね、………………」

     リンくんは、レンくんの耳元に口を寄せ、何かを囁いている。話の合間にこちらに向けられる二人の目はあまりにも透明で、何を考えているのかさっぱりわからないくらいだ。

    「なるほど。いいね」
    「でしょー?」

     秘密の相談は終わったらしい。互いに笑顔を見せた二人は、くるりと僕の方へ向き直った。

    「ボクが先でもいい?」
    「うん。リンはもうちょっと考えてようかな〜」
    「それじゃ、ボクから。ボク達、類くんに聞きたいことがあるんだ」

     レンくんの言葉に思わず身構える。ルカさんのときとは違って、今から試されるのだということが明確にわかってしまったからだ。
     ルカさんは通してくれた。でも、レンくんやリンくんもそうしてくれるかは未知数だ。普段であれば誰もに対してどこまでも優しい彼らだが、レンくんが先ほど見せた迷いを見るに、優しいまま拒絶されたとしてもおかしくはないように思えた。

    「緊張してる?」
    「どうやらそうみたいだ。フフ、お手柔らかに頼むよ」

     じりつく焦燥を押し隠し、いつもの自分を取り繕って微笑む。こちらの表情を伺うように見たレンくんは、少しの沈黙の後、口を開いた。

    「類くんはさ、この先に進みたい?」
    「えっ?」

     まったく予想していなかった質問に間の抜けた声が漏れた。この先に進みたいかどうか。当然答えは決まっていて、言うまでもなく伝わっていると思っていたのだけど。
     レンくんはなぜこんなことを聞いてきたんだろう。疑問が浮上すると同時に、さっき聞いたばかりの、ルカさんのやわらかな声を思い出す。
     もしもこのセカイが綺麗だと思うなら……このセカイを知りたいと思ってくれるなら。
     その仮定もまた、僕にとっては当然のことで。
     繰り返し『当然』を問われるということは、それを言葉にする意味が、どこかにあるのかもしれない。

    「進みたいよ」

     口から発せられたのは、思うよりも断定的な響きを持つ声だった。自分自身の声が持つ強さに驚くと共に、どこか納得も覚える。ルカさんやレンくんの意図はわからないままだが、少なくとも僕にとって『当然』を口にすることは意味があったようだ。
     進みたい。このセカイを、セカイに現れた変化の理由を、知りたい。その想いはどうやら自分で思っていたよりも強かったらしい。
     僕の答えを聞いたレンくんは、軽く眉を顰めて、言葉を続けた。

    「もしも……もしもだよ。司くんが、それを望まなかったとしても?」

     その言葉はやけに重たく響いた。どこかでわかっていたことを突きつけられるような問いに、思わず息を詰める。ここが水底であったことを思い出させるような重みが胸を圧迫する。

    「実は今、司くんもセカイに来てるんだ」
    「なんだって?」
    「司くんもセカイに来てる。色々あって、ボク達は近くには居てあげられないんだけど」
    「……司くんも、ここに」

     困惑することしかできなかった。知りたいという強烈な、けれどどこか漠然とした思いが持つ意味を、明確な輪郭をもって突きつけられた気分だった。
     僕が知りたいと望んでも、司くんはそれを望んでいないかもしれない。それは察していた。彼のセカイの住人であるバーチャルシンガーたちがこうも僕を試そうとする理由として、十分想定できたことだ。
     望まれなくても進むべきなのか。知りたいという衝動に、手を伸ばしたいという願いに、しがみつくのは正しいのだろうか。進みたいと強く願ったくせに、いざ拒まれるかもしれないと明確に示されれば竦んでしまう。
     ……でも、もうしばらく前からセカイは異変を抱えていて、僕らはそれに気が付けなかった。
     隠し通されているのか司くん本人も無自覚なのか、その推察もできないくらいに何も知らない。今この時を逃せば、何もわからないまま日常に戻ることになってしまうかもしれない。
     普段は起こらない異変が今まさに目の前で起きている。司くんの心でたった今何かが起きているんじゃないかとわかるのに、ただセカイを漂うだけでいるなんて……嫌だ、と、思う。

     ──だからもう一度、オレと一緒にショーをやってくれないか?

     逡巡の中で思い出したのは、他ならぬ司くんの声だった。
     三人がかりでセカイまで連れてこられたあの日のことは、一生忘れられはしないだろう。あの時の僕は、彼らと共にあることを望んでなんかいなかった。だから拒絶して、遠ざけた。それでも諦めてなんてくれなかった。
     思えば出会った時からそうだ。人との間に置いた距離を、閉じた孤独を踏み越えて、幾度も手を伸ばされた。彼は諦めることに慣れきってしまっていた僕の手を取って……そうか。
     暴き立てるのではなく、一歩踏み込むこと。諦めずに手を取ろうとすること。
     その先にあったのが今だというなら、やりたいことは決まっているじゃないか。

    「司くんはこの先に居るんだろう? なら、まずは会って、話してみたい。その先どうなるかわからなくても……僕がすべきことは、それだと思う」

     出した結論は僕らしくないものだった。常ならば待つことを選んだだろうが、今回取ろうとしている行動はそれとは真逆だ。行き当たりばったりで何も策なんてない。
     でも、今はそうすべきだと思った。例えば僕が司くんからそうされたように。えむくんが寧々にやってみせたように。えむくんと一緒にみんなで観覧車に乗ったときのように。今は。
     せめて司くんみたいに言葉に力を持たせられたらよかったのだろうが、あいにく自分では自分の言葉が相手にどう響いたかなんてわかりやしない。
     だから、レンくんの目をただ真っ直ぐに見つめた。想いが伝わるようにと願いながら。
     レンくんは表情を変えないまま、僕の目を見つめ返す。そして突然その目をぎゅっと閉じて、「わーっ!」と声をあげた。

    「ボクもう無理だよー! ごめんね類くん、意地悪しちゃって」
    「えっ?」

     突然の態度の変化に着いて行けず、思わず疑問の声をあげる。呆気に取られる僕を他所に、レンくんはリンくんに対しても謝罪の言葉をかけ始めた。

    「リンもごめん。まだ何も聞いてなかったのに」
    「リンはお願いごとをするつもりだったから大丈夫!リンこそごめんね、レンにばっかりやらせちゃって」
    「ううん、聞きたかったのはホントだし、ボクがやるって言ったことだから」
    「ええと」

     戸惑いながら口を開く。

    「さっきまでのって、レンくんの演技だったのかい?」

     困惑混じりに呟いた問いに、レンくんは眉を下げたまま答えた。

    「あんな言い方はよくないんじゃないかとも、思ったんだけど……」
    「言い方以外は本当だった、と受け取ってもいいのかな」
    「あれがボクの聞きたいことだった、っていうのは本当。あっ、あんなこと言ったけど、類くんのこと信じてないわけじゃないんだよ!?」

     言い訳みたいになっちゃってるね、と苦く笑うレンくんは優しい。罪悪感を抱くようなことじゃないのに。
     謝ることなんて何もない。それどころか、僕は彼にお礼を言わなければならないくらいだった。向けられた言葉の数々は、確かに必要なものだと思うから。

    「ありがとう、レンくん」

     僕の言葉にレンくんはきょとんとしてから、ゆっくりと口元を綻ばせた。

    「うん」
    「よかったね、レン」

     リンくんの言葉を合図に二人は微笑み合った。レンくんの笑みはどこか晴れやかに、リンくんの笑みは心なしか大人びて見える。
     こちらに向け直された二人の視線は透明に澄んでいたけれど、もう、何を考えているのかわからないなんてことはなかった。

    「あのね、類くん。リンからはお願いがあるの」
    「なんだい?」
    「司くんのこと、見ててあげて」

     笑みを浮かべたまま発されたその『お願い』に、どうにも取り繕えずに表情が強張ってしまう。
     それができていたかどうか、自信がなくなってしまったからだ。変化があったかもしれないにもかかわらず、気がつくこともなく見逃して、いつも通りに過ごしていた。今日ここに来るまで。

    「……そう、だね。僕が……僕らがもっと見ていれば」
    「ううん」

     強張る僕の手にリンくんの手が重ねられる。少し遅れて、逆側の手にレンくんの手も。

    「類くんは司くんのこと見ててくれるって思ったから、お願いしたかったの」
    「リンくん」
    「司くん、なんでも頑張ろうとするから、類くんはそんな司くんがムリしないようにーっていつも見てるでしょ?」

     それにね、と、リンくんは戯れ遊ぶように僕の指に触れた。

    「今だって、司くんに会いに行って──司くんのこと、見ようとしてる」

     二人の手が僕の手を握る。まっすぐで透明な緑色がこちらを見据えている。

    「だからリン、類くんにお願いしたくて言ったんだよ。司くんのこと、見ててほしいの。お願い!」

     その真摯な視線は、言葉は、温もりを保ったまま胸を貫くようだった。
     ……少し、違うか。貫かれたと錯覚するほど、嬉しかったのかもしれない。司くんのセカイの住人から、司くんを任されるような言葉をかけてもらったことが。

    「ボクからもお願い、類くん。きっとボクらだけじゃ難しいことだから」
    「うんうん。あっ、でも、類くんもムリしちゃダメだよ。リンたちは類くんのこともとーっても大切なんだから!」

     二人が笑っている。確信を持ったように、大切なものを預けるように。

    「心得たよ」

     笑い返して頷けば、二人は握った手をぱっと離した。そしてそのまま、僕の背を押す。

    「進む先は向こうだよ!」
    「類くん、行ってらっしゃーい!」

     僕は押されるままに泳ぎだした。元気な声を背に受けて、一度だけ振り返る。

    「行ってくるよ、リンくん、レンくん!」

     よく似た顔に満面の笑みを浮かべて、二人は両腕を大きく大きく振っていた。


    ゜*。+ ☆゜+。*゜


     泳ぎ続ける。速度を上げて、先へ先へと進むように。早く司くんに会いたい。彼の姿を視界に入れたくて、自分でも気が逸っているのがわかる。落ち着かなければと思うのに、焦燥と高揚が体を衝き動かしてならない。
     真っ直ぐ泳ぎ続けていると、大きなイルカのぬいぐるみが近くまで泳いできた。

    「急イデルノ?」
    「そうだね、とっても」
    「ボクに乗ッテイイヨ。運ンデアゲル!」
    「いいのかい?それじゃあ、あっちに向かって運んでもらおうかな」
    「マカセテ!」
    「ありがとう、イルカくん」

     誘われるがままイルカくんの体を抱える。イクヨー、とどこか間の抜けた声がしたかと思えば、ぐんと周囲の景色が過ぎ去っていく。イルミネーションの光が尾を引いて、流星のようだ。
     声を出せば舌を噛んでしまいそうで口を噤んでいたけれど、そのスピードと視界に映る景色に、感嘆の声が上がりそうになるくらいだった。
     ……これをショーで再現するとしたら、どうすればいいだろう。観客にこれを伝えるには。
     そんな思考が頭に浮かんで、いやいや今はそうじゃないだろう、と頭を振る。それは後でいい。それよりも、司くんを探さないと。
     僕がイルカくんにしがみつき直したところで、イルカくんは不意に速度を緩めた。

    「イルカくん?」
    「メイコサンがイル! ボクのトモダチモ!」

     嬉しそうに声をあげたイルカくんの視線を辿れば、言葉の通り、メイコさんが地面に立っていた。その周りにはイルカくんより少し小柄なぬいぐるみが数匹泳いでいる。
     イルカくんの声に反応したのかこちらを振り仰いだメイコさんが、口の横に手を当てて言う。

    「イルカくん、類くん、こんばんは。こっちに来て少しお話ししていかない?」
    「ルイクン、行コウヨ!」
    「うーん……」

     正直なところ早く司くんに会いたい思いでいっぱいだった僕は、少しの間迷ってしまった。結局、

    「ルイクン、行カナイノ……?」

     というイルカくんのねだるような声に負けて、わかったと答えることになったのだけど。
     それに、リンくんもレンくんも、司くんがどこに居るのか、明確な場所は教えてくれなかった。これまでの経緯を考えるに、メイコさんとも話す必要があるかもしれない。
     地面に近づいたイルカくんの背から降りる。お礼を言えば、イルカくんは嬉しそうに頷いて、友達と一緒に泳ぎ回り始めた。

    「こんなに遅い時間に、珍しいわね?」

     メイコさんから声をかけられて肩を竦める。似た問いかけがもうこれで三度目だ。

    「少し散歩に来るつもりだったんだ。今は人探しの途中だけどね」
    「今はセカイが水の中だから、遠くまで探すのなら探しやすいかもしれないわね! うーん、でも景色がぼんやりして見えにくいから、逆に探しにくいのかしら?」

     セカイが水の中。メイコさんは異変をさらりと口に出して、そのまま何事もないように振る舞う。僕はそれに驚いてしまって、ぽかんとメイコさんの顔を見つめた。

    「メイコさんは、なんというか、いつもと変わりないんだね」
    「様子が違っても、このセカイの根っこは同じままだもの。……もちろん私も、心配はしているんだけどね」

     わかるような、わからないような。
     曖昧なことをハキハキと口にしたメイコさんは、泳ぎ回るイルカくんたちに向かって呼びかけた。

    「みんなー! 私、類くんと一緒にちょっと歩いてくるわねー」
    「ワカッタヨー」
    「行ッテラッシャイ、メイコサン、ルイクン!」

     行ってきますと返事をして、先に歩き出していたメイコさんの後を追う。

    「どこへ向かってるんだい?」
    「向かうべきところの近くへ、かしらね?」

     悪戯な笑みを浮かべたメイコさんは、そのままトンと地を蹴って、軽く浮かびながら先へと進んだ。そのまま浮かび続けるでも泳ぐでもなく、トン、トン、と定期的に地面に降りては蹴って、進む。
     一人先へ行くわけにもいかず、二人でトントンと地を蹴り続けた。スキップのようなリズムがもどかしい。向かうべき場所がわかるのなら、すぐにでも向かってしまいたかった。

    「ねえメイコさん、ペースを上げてもらえるかい。それか、司くんの居場所を教えてもらうのでもいい。君たちは知っているんだろう?」
    「うーん、そうしてもいいんだけど……。いつもの通りなら司くんはしばらくここに居るはずよ。だから、よければ私に付き合ってくれない?」
    「いつもはそうでも今日は違うかもしれない。みすみす機会を逃したくはないのだけどね」
    「でも、焦ってるままじゃ見えるものも見えないわ。そうでしょ?」

     一歩分先にいたメイコさんが振り返って、ウインクを飛ばしてくる。茶目っ気のある仕草にざらりと心を撫で上げられるような感覚がして、ああ、確かに焦っているな、と唇を噛んだ。もとより理解していたことではあるが。
     大きく息を吐く。このままでは司くんに会っても焦りに呑まれて妙な問い詰め方をしかねない。リンくんとレンくんから、任されたばかりだっていうのに。
     気を宥めるべく呼吸を深くすると、メイコさんは小さく頷いた。……これじゃ癇癪を起こして宥められる子どもみたいだ。ばつが悪くなって、軽く目を伏せる。

    「メイコさん、その……」
    「いいのよ」

     ふふ、と優しく笑ったメイコさんは、また歩を進め始めた。跳ねるようにゆっくりと進みながら、いつもの調子で話しだす。

    「私も最初見た時はとっても驚いちゃったわ。そのときはカイトが落ち着かせてくれたのよね」
    「ということは、もしかしてこれはメイコさんが来る前から?」
    「ええ、そうみたい。だから私は詳しいことは何も言えないんだけど……そうね、類くん。歩きながらでいいから、周りを見てみてちょうだい!」

     足元には気をつけてね。そんな注意を聞きながら、視線を周囲へと向ける。そうしてみて初めて、メイコさんと話している間、周りの景色を気に留めもしていなかったことに気がついた。
     揺らめく水で景色はぼやけているけれど、ここはたぶん訪れたことのない場所だ。いつのまにやら、いつも活動している場所からかなり離れたところまで来ていたらしい。
     一つ地を蹴ると、遠くに見える灯りがふわりと揺らめく。芝生に足をつけば、草は素足を包むように優しくくすぐる。独特の浮遊感をもった、泳ぐのとはまた異なる感覚たちは、常であれば決して感じることのないようなものだ。
     面白いな。と、素朴にそう感じた。
     水底の街というモチーフは見かけることがあるけれど、実際にそこを歩いた人はそう居ないだろう。それも魔法みたいに、自由に息ができる状態で、だなんて。
     ……そういえば僕は、寝る前の散歩がてらインスピレーションを貰いに来ていたのだった。
     水底に沈むセカイに対してそういう目を向けることに、どこか気が引けてしまっていのだろう。今のセカイも綺麗だと言葉に出しにくかったのと同じだ。湧きあがるイメージから目を背けて、自ら焦燥を掻き立てて。事実としてそれどころじゃないわけだから、間違いだとも思えないけれど。

    「ここ、本当に不思議で面白いセカイよね。こんな体験、ここに来なければすること無かったんじゃないかしら」
    「そうだね。……司くんの想いのセカイ、驚きと笑顔のワンダーランドのセカイ、か」

     メイコさんは変わらず、いつも通りの調子で話しかけてくる。メイコさん自身がさっき言っていた理由もあるのだろうが、あえてそうしてくれている部分もありそうだ。そう察して、僕もあえていつも通りに返事をした。いつもの僕に戻れたのだということを示すために。
     煌めいて、揺らめいて、目覚めているのに夢の中みたいな不思議なセカイ。彼と出会わなければ一生訪れることもなかった場所。
     出会わなければ、なんて、今となってはあまり考えたくない話だ。

    「そうだ。類くん、セカイがいつもの通りに戻るとき、どうなるかって誰かから聞いたかしら?」
    「いいや。どうなるんだい?」
    「どこかから泡が立ち上って、大きな空気のドームになって水を押しやって……最後にセカイを覆う泡がゆっくり弾けて、カケラが地面に降ってくるの」
    「それは……」

     なんだかまた少し、心配になるような。
     そんな僕の考えを見透かしたみたいに、メイコさんは「なんて言えばいいのかしら」と目を閉じた。その間も地を蹴って進むものだから、さっき足元に気をつけてと言われたばかりの僕は、メイコさんの足元が気になって仕方がない。

    「そうねえ、壊れるって感じじゃないのよ」

     声が聞こえて、足元から顔へと視線を移す。メイコさんはとっくにその目を開いて、口に淡く笑みを乗せ、まっすぐ前を見ていた。

    「微睡みから目覚めるみたいな……。星がゆっくり降ってくるみたいに、キラキラしてるのよ。思わず笑顔になっちゃうような、歓声をあげたくなるような、素敵な光景なの」

     メイコさんの言葉を聞きながら、その光景を思い浮かべる。
     小さな泡はみるみる大きくなって、それに包まれた場所が、いつもの賑々しく楽しげな様子を取り戻していく。眠りから目を覚まして、動き出す。このどこか寂しい静けさなんて、どこにも無かったみたいに。
     そうしてみんなが目を覚ましたころ、セカイを覆うほどに大きくなった泡が弾けて、崩れる。崩れた泡の向こうには鮮やかな空が見えるだろう。泡のカケラは煌めきながら地上に降りて、すっかり目覚めたセカイを、今度ははしゃいだ笑い声が包むのだ。

    「そうか。……きっと、その光景はとても美しいんだろうね」

     地面を少しだけ強く蹴って、高く浮かぶ。見上げた空はやはり揺らめいて、水底から見上げる星の光は遠い。それでも、いつものセカイに戻ったときには、こうやって近づくこともできなくなるのだろう。
     メイコさんもいつのまにか同じ高さに浮かんでいて、「それじゃ、ここから先は少し泳ぐことにしましょっか」とウインクを一つ飛ばしてきた。

    「私、このセカイの根っこは同じだって言ったでしょう」

     水の中を進みながら、メイコさんは言う。話しながらくるりと上を向いて、背泳ぎのような姿勢をとっている。きっと今までもそうやって、余すところなくこのセカイを見てきたのだろう。

    「そうだったね。今の話を聞いていても、それはなんだか伝わる気がするよ」
    「ふふ、よかった」

     夢の中のような場所。驚きと不思議、笑顔と温もりに満ちた、優しい場所。
     メイコさんの話に、改めて感じたセカイの姿に、それを実感してどこか安堵する。しかし、それと同時に疑念と不安を抱き続けていることもまた事実だった。

    「……。実は、さっきレンくんに会ったんだけど」
    「レンに?」

     メイコさんの問いに頷く。そしてそのまま、レンくんとの間に交わされたやりとりを、不安ごと吐き出すように口に出した。
     この先に進みたいかと聞かれたこと。即答したら、もしも司くんが望まなかったとしてもかと問われたこと。それでも進みたい、司くんと話したいと答えたこと。……望まないという言葉は普段の彼からはあまり想像がつかなくて、今のセカイの様子と相まって、心配が募っていることも。
     メイコさんは静かに話を聞いて、そうだったの、と静かに頷いた。

    「私、こういう時の司くんに、直接会ったことがあるの。今日じゃないんだけどね」
    「そう、なんだ?」
    「今だけは誰にも顔を見せたくないって言われて、謝られてしまったわ」

     告げられた言葉に目を見開く。望まれないかもしれない、どころの話ではない。明確に他者と距離を取る言葉だ。想像だにしなかった言葉に呆然としながら、意識の外で言葉を紡ぐ。

    「司くんがそんなことを?」
    「ええ。私が知っていることは、残念だけどそれでおしまい。ほとんどみんなそうなんじゃないかしら」
    「そう……なんだ。道理で……」

     ルカさんやレンくんが僕を引き留めるような問いかけをしたり、リンくんがあんな頼み事をするわけだった。
     それにしても、いつも人々の笑顔の中心に居る彼が、そんなことを言うなんて。ついそう考えて、いやいやと思い直す。
     ハロウィンショーで、僕が無自覚なまま本当にしたいことをできなくなっていた時のこと。激昂した彼は直後、頭を冷やすために一人どこかへ行ってしまったのではなかったか。それに、ついこの間のひな祭りの時だって──

    「やっほ〜〜〜! ふたりとも〜〜〜っ!」

     思考を遮るように、高く明るい声が上から降ってきた。視界に突然鮮やかなエメラルドグリーンが飛び込んで、縦に数回転して静止する。

    「こんばんわんだほーいっ!」

     姿も声もカラフルなバーチャルシンガー、ミクくんが、両手をパッと開いて嬉しそうに笑った。


    ゜*。+ ☆゜+。*゜

     こんばんわんだほーい。
     どこか間の抜けたあいさつを反射のように繰り返す。えむくんから広まっていった独特の掛け声は、それを発したミクくん自身の雰囲気と相まって、和やかで元気な空気を纏っていた。こちらもついつられてしまうほどに。

    「あっ! もしかしてお話しの途中だった?ミク、お邪魔しちゃったかなあ」
    「いいや、大丈夫だよ」
    「ええ。一区切りついたところ……で、よかった?」
    「かまわないよ」
    「よかった〜」

     ほっとした様子のミクくんがわかりやすく胸を撫で下ろす。そんなミクくんを見て、メイコさんはくすくすと笑った。

    「そっか、ミクはここに居たのね。そしたらこの先の道案内はミクにお願いしちゃおうかしら」
    「司くんのところ? メイコは来ないの?」
    「行きたい気持ちもあるんだけど、ぬいぐるみのみんなにちょっと歩いてくるって伝えちゃったから、そろそろ戻らなくちゃ」
    「そっかあ。そしたら、ミクが類くんのこと案内するね!」

     さらりと交わされた会話に口を挟めないまま、僕の案内役の交代が決定していた。話に一区切りはついていたけれど、まだ考えたいこともあったし、どこか消化不良なのだが。

    「大丈夫よ、類くん」

     それが表情に出ていたのだろうか。メイコさんは僕にそう声をかけると、繰り返して続けた。

    「今の類くんなら、きっと大丈夫!」

     励まされるような、託されるような、力強い声音だった。僕はその声に自然と頷いていて、そんな僕を見てメイコさんもまた頷き返してくる。

    「それじゃ、またね」
    「またね、メイコさん」
    「メイコ、またあとでね〜」

     いつもと違うセカイで、いつものようなやり取りをして別れる。ミクくんは、よーし、と声を上げて僕の顔を覗き込んだ。

    「近くにカイトも居るから、そこまで一緒に行こーう!」

     少し先を泳いでこっちだよー、と声をかけてくるミクくんの後を追いかける。追いついて横に並ぶと、あっち、と指先で示してくれた。

    「メイコさんもミクくんもすんなり案内してくれるけど、よかったのかい?」

     泳ぎながら素朴な疑問を口に出す。さっきメイコさんから聞いた司くんの様子を聞くに、躊躇なく案内されてしまうのもどこか気が引けるような心地がしていたからだ。
     司くんに早く会いたい、話したい、それは変わらないから、すぐさま案内してもらえることそれ自体はとてもありがたいのだけど。

    「うーん、だって類くん、王子様みたいなお顔してたから」
    「王子様」
    「うん!」

     思いもよらない単語が出てきて、思わず復唱してしまった。王子様、か。

    「誰かのために……今回の場合は司くんかな。覚悟を決めたような顔、ってことかい?」
    「そう! 類くん、とーってもかっこいい顔してたから、大丈夫って思ったんだよ。たぶんメイコもそうだったんだと思うな」
    「……ありがとう、ミクくん」
    「ううん。でも、どういたしまして!」

     僕の表情を見て、それだけで信じてくれたということなのだろう。えむくんと一緒に司くんを振り回すことも多いミクくんだが、司くんのことを本当に大切に思っているのだと知っている。
     彼の想いのセカイに初めから存在した、セカイの住人。そんな彼女に認めてもらったことは、安堵と緊張を同時に齎すようだった。
     それにしたって、王子様か。僕の表情を例えるための言葉だったのだろうが、司くんはお姫様なんて柄じゃないだろうにと思うと、なんだか可笑しくもなってくる。囚われの身であったはずなのにいつの間にやら抜け出して、高笑いしながら登場する。そんなシーンが頭に浮かんでくるようだ。
     ただ、彼を閉じ込めているのが彼自身となってしまえば、話は別になるのだろうけど。

    「だんだん減ってるんだよ。セカイがこうやって、ふわふわ、しーん、ってなること」

     泳ぎながら、ぽつりとミクくんが呟く。

    「最初はもっと近くまでしか見えなかったんだ。きらきらあわあわがたくさんで、もっともっと、夢みたいだったの」

     消えちゃいそうなくらい。ミクくんは、それこそ消えてしまいそうな声で言った。そして、泳ぎ続けながら、ぱっと勢いよく僕の方に顔を向ける。その顔には、消え入りそうな声なんて無かったかのような、キラキラとした笑顔が浮かんでいた。

    「司くんが類くん達と会って、時間が経って……だんだん遠くまで見えるようになって、遠くまで行けるようになったんだよ」

     それはきっと、このセカイに最初から居たからこそ知る変化だったのだろう。僕達と会ってという言葉から察するに、それこそ僕らが出会う前からセカイは度々水底に沈んでいたのかもしれない。こうなっていることにも、気がつけないはずだった。

    「だんだんいつものセカイに近づいてるんだね」
    「うん。……あっ、でも司くんね、ここが水の中になってる間のことほとんど忘れちゃってるみたいなの」
    「セカイに来ている間のことも?」
    「うん。来たような来てないようなーって言ってたよ」
    「それは……本当なら忘れん坊が過ぎるんじゃないかな、司くん」

     このセカイを形作った想いも忘れてしまっていた彼だから、セカイごと覆うような想いを忘れてしまっても、たしかにおかしくはないのかもしれない。けれど、それにしたって色々と忘れすぎなんじゃないだろうか。メイコさん曰く、ここに来て、直接誰かと話しているっていうのに。

    「忘れてしまったからセカイが水の中にあるときの様子も変わってしまった、というわけではないのかな」
    「うーん……忘れちゃってたし、それは心配だなーって思うけど、忘れちゃっただけじゃ想いは消えないから」
    「それもそうだね」

     だからこそ彼は、自分の想いを見つけられたのだから。

    「このままでもたぶん、セカイがふわふわ、しーん、ってなることはいつか無くなると思うんだ」
    「……でも司くんが一人でそれだけの想いを抱えて、しかも忘れてしまっているという事実は変わらない、か」
    「うん。だから、類くんがここに来てくれてよかったって、ミクは思うな」

     司くん本人も忘れ去ってしまう、消えゆく想い。忘れてしまう上に誰にも知られたがらないというのだから、誰かに伝えるにも難しいことだろう。
     でも、今日たまたま僕がここに来たことで、それを知る人間が現れた。
     それが司くんにとって吉と出るか凶と出るかは未だわからない。けれど、託された通り、期待された通り、何より僕が望む通りに、司くんのことを支えられるような結果になればいいと思う。
     彼はきっと一人でも立ててしまう人だから、尚更だ。

    「あっ、類くん見て見て。あそこだよー!」

     ミクくんがそう言って指をさす。その先で、カイトさんがこちらに向かって手を振っている。

    「ミク、類くん。こっちだよー!」

     二人の言い方がどこか似ていて微笑ましいな、と思考の隅で思いながら、僕の視線はある一点に引きつけられていた。思考の方はいっそ現実逃避じみていたかもしれない。
     『それ』は、一点、なんて可愛らしい大きさではなかった。なぜこんなに大きなものに今の今まで気がつかなかったのだろうというくらいだ。さっきまでミクくんと話していたとはいえ、ある程度周りの景色は目に入っていた。それにもかかわらず、カイトさんの声を聞くまで僕の目には映らなかったもの。
     淡い色の硝子で彩られた塔が、カイトさんの背後に建っていた。


    ゜*。+ ☆゜+。*゜


    「こんばんは、類くん」
    「こんばんは、カイトさん」

     挨拶を返しながらも意識は塔へと引き寄せられてしまう。そんな僕に対して少し困ったような笑みを見せて、カイトさんはミクくんに話しかけた。

    「ミクが連れてきてくれたのかい?」
    「メイコとバトンタッチしたんだよ〜」
    「そうかい。ありがとう、ミク」
    「えっへへ〜」

     得意げにするミクくんと、ミクくんを褒めるカイトさんは、どこか兄と妹のようだ。
     塔から意識を剥がし、カイトさんとミクくんの方を見る。よく見ればカイトさんの足元では、誰かによく似たイヌとネコのぬいぐるみが、寄り添い合ってすやすやと眠っていた。カイトさんと一緒にここまで来たのだろうか。

    「じゃあ、ミクはカイトとバトンタッチ! まっかせたよ〜!」

     ミクくんは明るくそう言って、カイトさんとハイタッチした。そして、くるりとこちらに向き直る。

    「ミク達だけじゃできなかったことも、類くんならきっとできるよ。想いの中でも外でも一緒の、類くんなら」

     いつもとは雰囲気の少し違った淡い笑みを唇に乗せて、ミクくんはそんなことを言った。もしかするとミクくんは司くんの抱えたものを知っているか、当たりをつけているのかもしれない。
     もう少し話を聞きたい気持ちもあるけれど、ミクくんからそれを聞き出すのはあまりにも無粋だろうと判じる。

    「任されたよ、ミクくん」
    「うん! 任せたよ〜!」

     ぱっと表情を明るくしたミクくんが、両手をぱっと上げる。なるほど。僕も両手を胸の辺りまで上げて、前に軽く押し出す。
     ぺちん。
     水中であるせいか音は鳴らなかったが、綺麗にハイタッチが決まった。

    「それじゃあ、ミクはあそこで待ってるね」

     少し離れた場所を指して、ミクくんが言う。バイバイと手を振って泳いでいったミクくんは、その先で眠りについている花を眺めているようだった。

    「……さて、類くん。よく来てくれたね」

     ミクくんの姿を見送って、カイトさんが声をかけてくる。

    「ここまで来るのは大変じゃなかったかい?」
    「そんなこと、考えてなかったな」

     結局これまでの道程で、セカイのバーチャルシンガー全員と会って話している。特にルカさんやレンくんとの間のやりとりはどこか試されるようでもあったし、ある意味では大変だったと言えるかもしれない。
     それに、気がついたら見覚えのない景色の中に居たあたり、途中でイルカくんに乗せてもらった分を差し引いてもかなりの距離を泳いで移動してきたことになるだろう。今考えると、一日の疲れを抱えた体でする運動量じゃない気もする。
     でも、そんなこと、今の今まで考えもしなかった。

    「……うん。僕はどうやら司くんのこととこのセカイのことで頭がいっぱいで、それどころじゃなかったみたいだ」
    「類くんは司くんのこと、大切に思ってくれているんだね」

     カイトさんは優しげな、そしてとても嬉しそうな声で言った。
     それは、今となってはあまりにも当然のことだった。
     このセカイが好きだ。司くんのことも。
     その司くんが心配だから、先に進みたかった。
     だって彼が、大切だから。かけがえのない存在だから。
     思いはいつのまにか溢れんばかりの大きさになっていて、言葉にすることは難しい。思考の中を転がった単純な言葉ではどうにも収まりきらないような気がして、結局ただ頷くに留めた。

    「今回はたまたま僕だっただけだよ。他の二人でもきっと、同じようにここまで来たはずだから」

     それだけ、付け加える。誰が来たとしても、きっとここまで辿り着いた。三人ともが彼を大切に思っていることは、互いに言わないだけでわかっている。本当にたまたま、訪れたのが僕だったというだけなのだろう。

    「きっとそうだろうね。司くんが君達と出会えて、本当によかった」

     そう言って、カイトさんは背後に聳える塔を振り仰いだ。その視線を追って、僕も塔に視線を移す。塔を彩る硝子は、不揃いな切り口を合わせて模様を描いているように見えた。モザイクタイルが近いだろうか。

    「司くんはこの中に居る。……入り口までは僕が案内するけど、類くん、その前に少しだけ話を聞いてくれるかい?」

     その問いに、頷く。逸る気持ちはあるが、それだけで突き進むことはよくないと、先程思い直したばかりだ。
     ありがとう、とこちらに視線を向けて言ったカイトさんは、もう一度塔を見上げて話し出す。

    「この塔の硝子が色づいたのは、ここ一年のことなんだ」

     そう言われて、もう一度硝子をよく見てみる。ピンクに緑、黄色、それから紫。他の色も混ざっているものの、基調となっているのはどこか見覚えのある、四つの色だった。
     えむくんに寧々、司くん、それから僕の色だ。

    「司くん……」

     頬に熱が灯る。目の奥と喉が絞られるように痛む。有り体に言えば、泣いてしまいそうだった。なんだか気恥ずかしいようで、でも、どうしようもなく嬉しくて。
     司くんの居場所に、僕らの色が宿されている。誰にも言わず、一人で抱えて、そんな彼に気がつくことすらできなかった。それでも、それぞれが宿す色だけでも、近くに寄り添えていたらしい。

    「ここはもう司くん一人のセカイじゃない。類くん達と出会って、関わって、セカイにも君達からの影響が出るようになっているんだ。覚えはあるんじゃないかな?」

     カイトさんの言葉に、思わず彼の足元を見た。寄り添って眠る、どこか僕と司くんに似たぬいぐるみたちを。
     思えば他にも思い当たる節はあった。観覧車のミニチュア、ネネロボそっくりな歌うロボット、ドローン入りのショー道具。いつのまにかセカイに現れていたそれは、誰に聞いても覚えがないのに、どこか親しみを覚える存在だった。特に僕のショー道具は、中身までそっくりそのまま、複製したかのようにそこにあった。あの中身を詳しく知っているのなんて、僕だけであるにも関わらず。
     僕達の想いが、司くんのセカイに影響している。
     ……思い違いでないのなら。
     僕達の存在は、想いが影響し合うほど、司くんにとって大きなものになっていたのかな。
     ひとつ、深く呼吸をする。涙の気配を遠くに押しやって、改めてカイトさんの方を見る。カイトさんは、見守るような眼差しで、僕の方を見つめていた。

    「あの硝子も、僕達の影響なのかな」

     司くんの傍にいたい。寄り添っていたい。そんな想いが僕の中には確かにあって、それがここに影響しているのかも。そう思って、僕は疑問を小さく口に出した。

    「どうだろう。君達かもしれないし、司くんかもしれない。それは僕にもわからないけど、僕は、どちらもだったらいいなと思っているよ」
    「……それは、素敵だね」

     自然と塔に視線が移る。そんな僕に対して、カイトさんは静かに言った。

    「それじゃあ行こうか、類くん」


    ゜*。+ ☆゜+。*゜


     がらんどうの家に一人、暗い部屋でぼんやりと、天窓から差し込む月光を見ている。
     両親も咲希もそれぞれ別の用事でたまたま今日は居ないというだけだ。そしてなんとなく、今日は眠りの気配が遠いだけ。階下から冷蔵庫の駆動音が小さく聞こえる気がするほどの静けさが耳に痛い。春先の空気は夜になると未だ冷たく、布団の隙間から入り込む空気に身を縮めた。
     ──寒い。
     類やえむ、寧々と過ごしている時も肌寒かったはずだが、こんな風に胸の内まですうすうとするような寒さを感じることはなかった。まだまだ寒いから互いに風邪には気をつけようと念押ししあって、だんだん話がズレていつも通りの騒がしいやり取りになった、あの時は。
     こんなことはもう、ほとんどなくなっていたのに。充実した一日を過ごし、両親も笑顔で、咲希もすっかり元気になって、どこにも不安なんてない。そのはずなのに。
     夜の静けさはほんの、ほんの時折、オレの心のいちばん幼い場所に影を落とす。普段は気にすることもないはずの暗闇に呑み込まれて、昼の賑やかさとの落差で苦しくなってしまう。
     ……昔、両親だけが見舞いに行った先で咲希の容態が悪くなってしまったことがある。その時のどうしようもない不安が、時を経てなお忍び寄ってきているのだろう。もう随分と昔のことだというのに、理由もわかっているというのに、どうしても抗えない。
     もし、この一年間が全て都合の良い夢だったら?
     そんな馬鹿げた思いに足を取られて、寒さが増していく。そんなはずはないといくら言い聞かせても、今日この日の静寂はオレを逃してくれそうになかった。
     咲希は元気に一歌の家まで赴いていて、風呂上がりにツーショットをオレに送ってきていた。見て見てお兄ちゃん、お揃いの髪留めしてみたんだ。いっちゃんの髪はアタシが結んだんだよ。弾んだ声まで聞こえそうなメッセージに頬を緩ませたのはつい数時間前のことだというのに、寒くて寒くてたまらない。
     ワンダーランズ×ショウタイムは結束を増し、今日も充実した練習時間を過ごしていた。その後だってみんなでどうでもいいようなことを話して、騒がしく帰路についたのに、それは紛れもなく現実なのに、どこか夢のように思えてしまう。

    「……朝になれば」

     呟いた声の細さに情けなくなる。もうじきまた一つ歳を重ねるというのに、幼い子どものような声。誰にも聞かせたくないと思ってしまうようなみっともなさ。こんな頼りない自分は、誰の目にも映したくない。
     あたたかさが恋しかった。誰にも会いたくないのに誰かに会いたくてたまらない。夢のように輪郭を曖昧にした現実をなぞり直して、本物だと確信したかった。
     朝になれば。そうすれば、こんな思いは消えるはずだ。いつものオレに戻れるはずだ。どうしてあんなに寒かったのかと首を傾げて、日常のあたたかさに溶けるように、周りの笑顔に掬われるように、震える夜は忘れ去られていく。次に捕らわれる日まで、思い出されることもなく。
     寝返りを打ってスマホに手を伸ばす。夢の中のようなあの場所はこの一年を象徴するような現実で……ここより少しは、あたたかいはずだった。


    ゜*。+ ☆゜+。*゜


     カイトさんに連れてこられた先。少し上まで泳がなければ辿り着けないような半端な場所に、それはあった。

    「ここがこの塔の入り口だよ」

     声に促されるように、扉と呼ぶにはなんだか奇妙なそれを見る。いくつもの歯車が連なるように並び、扉の形を作っていた。よく見れば歯車のうちいくつかにハンドルがついていて、仕掛けを解かなければ開けないように見える。
     ……正直、司くんが一番入れなさそうだ。
     そんな感想を抱きながら、カイトさんの方を見る。カイトさんは何も言わず、ただ頷いた。

    「ありがとう、カイトさん」

     それだけ告げて、扉に向き直る。初めて見るはずのその仕掛けがどう動くのか、なぜだかもう既に、知っている気がした。
     ハンドルに手をかけて動かす。止める。また動かす。何度か繰り返すと、そこにはひと一人分の隙間が生まれる。扉の奥には眩い結晶のようなものが見える。あれもまた、何かの想いに繋がるものなのだろうか。

    「行こう」

     自分自身を鼓舞するように宣言して、僕は一歩踏み出した。
     塔の中のあまりの眩さに一瞬目を閉じる。そして、再度目を開いた時に目にした光景は、眩さとは無縁の暗がりだった。

    「ここはいったい……?」

     眩い場所を通ったはずなのに。そんな疑問を抱きながら辺りを見渡す。……通ってきたはずの扉が見当たらない。
     だんだんと暗さに慣れてきた目で見れば、星を象るやわらかなオレンジ色の照明がいくつも吊り下げられていて、どうやらほんのりと明るい場所のようだった。暗いと感じたのは、眩さとの落差のせいであったらしい。

    「ルイクン」
    「うわっ」

     背後からの呼びかけに、驚いて思わず声が出た。
     誰もいないと思っていたものだから完全に不意打ちで、心臓がばくばくと音を立てている。
     振り返るとそこには、お腹に括り付けた風船でふわふわと浮かぶうさぎのぬいぐるみ。

    「君は……」
    「ルイクン、来テクレタンダネ」
    「ずっと、ここに居たのかい?」
    「ウン。ツカサクンとイッショにイタノ。ワタシ、ヌイグルミダカラ」
    「そうなんだ」

     うさぎのぬいぐるみは、小さな声で、でも少し誇らしげにそう言った。咲希くんのぬいぐるみだったのだと聞いたけれど、今は司くんに寄り添っていたらしい。
     セカイのぬいぐるみ達は元気に動き回るからつい忘れてしまいそうになるが、ぬいぐるみ本来の役割はきっとそういうものなのかもしれない。寄り添って、一緒に居ること。
     ……僕にもそれが、できるだろうか。

    「司くんは、どこに?」
    「コッチダヨー」

     ふわりと高度を上げたうさぎのぬいぐるみが、小さな手をぴょこぴょこと振る。手招きのつもりなのだろうか。僕が上に向かって進むと合わせて高度を上げて、ぴょこぴょこ、とまた手を振ってくる。ぴょこぴょこ、ぴょこぴょこ。何度もそれを繰り返して着いた先は、天井にほど近い場所に吊り下がった、大きな三日月の下だった。
     コノ上ダヨと教えてくれたうさぎのぬいぐるみは、それ以上、昇って行こうとはしなかった。もじもじとしながら僕の顔を見つめている。

    「ルイクン、ツカサクンのコト……」

     どこか不安そうに囁かれた言葉に手を差し伸べる。小さくやわらかな手をそっとつまむように握って、できる限り優しく聞こえるように声をかけた。

    「大丈夫。言われなくとも」
    「……ウン!」

     水を掻き分けて上へと進む。三日月は思いの外大きく、直径も幅も僕の体の倍はありそうだった。そこに司くんが居るのだというのなら、確かにそれくらいは必要かもしれない。
     これまで泳いできたよりもずっと短い距離を泳いで三日月の凹みの部分に辿り着く。そこに彼が居るはずと緊張しながら覗き込んだ僕は、思わず口元を抑えた。

    「なんというか、これは……っフフ」

     漏れ出す笑いをどうにか抑えようとして、それでも抑えきれなかった。
     司くんは、眠っていた。割と豪快な姿勢で。
     三日月の凹んだ部分、その上はベッドのようになっていた。ふかふかとしていそうなマットレスと枕に体を沈めて、なぜだか片腕を大きく上げた姿勢で、司くんはすやすやと眠っている。掛け布団の盛り上がり方から見るに、もう片腕は自分の体を抱き締めるみたいな格好かもしれない。
     僕はこの格好に近いものを見たことがあった。彼がたびたび取っている格好いいポーズの中に、これに近いものがあったはずだ。
     ……ものすごく動揺して、心配して、色々なものを託されてここに来たはずだったのに!
     ああ、よく見たら薄く開いた口元から、軽く涎まで垂らしている。それに気がついたらもうダメだった。

    「フフ、あはっ、あははっ……!」

     緊張していたぶんの反動か、笑いが全然おさまらない。この三日月が大きいのももしかして、司くんの寝相が悪いせいなんだろうか。
     声を堪えると腹筋が痛い。視界が滲んできた。笑いすぎで涙が出ているのかもしれない。ああもう、これだから司くんは!
     目元を拭って呼吸を整えながら、眠る司くんの隣に膝をつく。肩に手を置いて、優しく揺さぶった。

    「司くん、起きて」
    「ん、んん……」

     むずがるような声を上げて、司くんは腕を下ろして布団に潜り込もうとしてしまう。眠いのだろう。今日の練習もハードだったし、演出の関係もあって司くんにかかる負担は大きい。
     起こすのはかわいそうだという気持ちもあるが、ミクくんの言うように朝には忘れてしまうのだとすれば、どうしても今話がしたかった。

    「起きてくれるかい、司くん」
    「んあ……? うーん……」
    「おーい、司くーん」
    「るい……?」
    「うん」
    「あさか……?」
    「夜だよ」
    「はあ? よふかしするな……おまえもねろ……」
    「後でね。起きて、司くん。話したいことがあるんだ」

     んー、と不満げな声をあげた司くんは、目元を擦りながら顔だけをこちらに向けてきた。薄く開いたオレンジが、数度の瞬きを挟んで、ぱっちりと見開かれる。

    「…………、……は、え、類?」
    「おはよう、司くん」
    「夢か?」
    「今起きたのに? それにしてもさっきまで大変な寝相だったよ。何の夢見てたんだい」
    「寝相はいつものことだが夢は知らん!」

     垂れてるよ、と自分の口元を指して指摘すれば、司くんは「おわっ」と大袈裟に声をあげて口元を拭った。そのままむくりと身を起こして、辺りを見回している。

    「ここは……」
    「セカイにある建物の中。司くん、セカイに来たことは覚えてる?」
    「セカイに? ……そうだ、オレは」

     ぼんやりとした目で、司くんは考え込みだしてしまった。その表情は徐々に強張り、暗いせいでわかりにくいものの、顔色もなんだか悪くなっているように見える。

    「大丈夫かい」
    「ああ。寝起きで驚いただけだ」

     声の掛け方を間違えてしまったことを察して眉を顰める。大丈夫か、なんて聞き方をすれば大丈夫だと答えられてしまうのは明白だったのに。やってしまった。
     答えると同時に笑みを浮かべてみせた司くんは、今度は少し困ったような表情と言い含めるような声音で続けた。

    「類、お前こそどうしてこんなところまで来たんだ。もういい時間だろう? そろそろ帰ってきちんと寝た方がいいぞ」

     いつも通り、だった。僕が徹夜で作業をしてしまった日、それを知った時と同じ表情に同じ声音。普段であれば何も気にせず、そうだね、ごめんよ、なんて返していただろう。
     これ以上踏み込ませない。そんな意思を感じるような態度だった。そうなるだろうと予想していたとはいえ、……少し、堪える。

    「まだ帰るつもりはないよ」

     ゆっくり首を振って静かに告げる。司くんは、訝しげに僕の方を見た。

    「僕は君を探してここまで来たんだ。だから、まだ帰るつもりはない」
    「オレを探して? セカイに居るのかもわからないのにか」
    「セカイに来た理由じゃないよ、そっちはただの偶然だからね。セカイに入った後、このセカイが海の底にでもなってしまったかのような光景を見て、ここまで来たんだ」

     驚いたように目を瞠って、司くんは僕の言葉を聞いていた。そして少しの沈黙を挟み、ため息混じりの独り言を呟く。

    「…………。そうか、あれも現実か。ここに居るんだから、当然見てるよな」
    「覚えてるのかい?」
    「思い出した。半分夢だと思っていたし、いつもなら朝には忘れてるんだ。……なあ、類」

     司くんは眉を下げて、困ったように笑った。聞き分けのない子どもを見る大人のような、そんな顔で。

    「朝にはいつものオレに戻る。だから、帰ってくれないか」
    「嫌だね」

     反射的に突っぱねる。駄々を捏ねる子どものような返しになってしまったが、このまま帰るよりはマシだ。
     司くんは一瞬ぎょっとした顔をして、けれどすぐにまた困ったような顔に戻ってしまった。

    「……くだらないことなんだ。心配をかけたのかもしれんし、それは悪いと思う。ただ、聞かせるようなことでもないからな」
    「本当にくだらないことなら、セカイが沈むようなことになるはずが──」

     宥めるような声に反論しかけて、はっとする。違う。僕がここに来たのは、司くんを問い詰めるためじゃない。拒否されることはわかっていたはずだ。それでもここに来たのは、彼の内心を無理に暴いて傷つけるためなんかじゃない。

    「違う。君が言いたくないのなら無理に暴くつもりはないんだ」

     息を吸う。纏まらない内心を、息と一緒に吐き出した。

    「ただ、君が……司くんのことが、大切だから。だから、たとえ本当にくだらない話でも、知りたいと思うんだ」

     目を見つめて、真剣に。想いの全てが伝わってほしいと願いながら、ひとつひとつ言葉を紡ぐ。
     司くんの纏っていた、大人のような雰囲気が消えていく。どこか呆然としたような表情で、ゆっくりと瞬きをしながら、僕の話に耳を傾けてくれているようだった。

    「大切なひとのことだから、知りたい。それが叶わなくても、せめて一緒に居たいんだ」
    「…………」

     司くん。
     最後に呼んだ名前は、どこか縋るような響きを帯びてしまった。
     結局また困らせてしまったんじゃないか。そう思いながら司くんの顔をじっと見る。司くんは軽く目を伏せて、小さく首を横に振った。

    「本当に、くだらない話なんだ。朝になったら馬鹿馬鹿しいと自分でも忘れてしまうような、そんな話だ。今だってもう忘れかけて、そのまま寝ていたくらいだぞ」
    「くだらなくていい。何も知らないより、ずっといいよ」
    「……情けないところを、見られたくない」
    「情けないところなら、今までだって散々見ているじゃないか」
    「お前が言ってるのはアレだろう。虫を見た時とか、実験の時とかの話だろ。そうじゃなくてだな」
    「理解してるよ。僕が、君が優しいのに甘えて、今とてつもない我儘を言っていることも」

     その言葉を聞いた司くんは押し黙って、唇をわななかせた。目を逸らしたまま、掛け布団を握りしめて、浅い呼吸を繰り返して。

    「…………。怖く、なるんだ」

     ぽつり、と。言葉を零した。

    「この一年が全て夢だったんじゃないか、って。馬鹿馬鹿しくてくだらないだろう。でも、あまりにも楽しくて、あまりにも幸せで、だから、夢なんじゃないかと思ってしまった」
    「……そうだったんだね」

     普段の自信満々な声からは考えられないほど、不安げで小さな声だった。司くんは話しながら膝を立て、そこに顔を埋めてしまう。

    「目を覚ましたら、お前達とオレは知り合いでもなんでもなくて……咲希の病気も、治ってなくて。そんな朝が来たら、と、思うと……っ!?」

     思わずその腕を掴んでいた。
     どんどん涙に濡れていく声を聞いて、どうしようもない不安が彼の身に忍び寄っているのを感じて、そうせずにはいられなかった。
     そのまま引き寄せて、司くんの体を腕の中に閉じ込める。

    「い、いきなりなんだ!?」
    「夢じゃない」

     耳元で発された大声に僅かに眉を顰めて、でも、腕を外すことはしない。

    「夢じゃないよ、司くん」
    「……、…………類?」
    「ここに居るから。……ちゃんと、居るから」

     静かに繰り返して、抱き寄せる腕に力を込めた。腕の中の体は熱を持ち、緊張に強張っている。聞こえる呼吸は相変わらず浅いままだ。
     少しばかりの沈黙の後、司くんはゆっくりと、僕の背に腕を回し返してきた。

    「類だ」
    「うん」
    「ここに居るんだな、オレもお前も」
    「うん。全部現実だよ、司くん」

     ぐす、と鼻をすする音が聞こえる。僕の背に回った腕に力がこもり、さっきとは逆に僕の方が引き寄せられた。

    「……ははっ、そうか。現実か!」

     雲ひとつない青空みたいな声だった。
     腕の中の温もりが大切で手放し難いのに、背に回る腕が愛おしくなるのに、その笑顔が見えない場所にあることが惜しい。そんな声だ。

    「ああ、本当にくだらない悩みだったな。お前は現実に……ここに居るのに」
    「そんなことないよ。僕だって似たことを思う瞬間はあるからね」
    「類もか?」
    「そうだとも」

     あまりにも幸せで、これは本当に現実だろうかと怖くなる。それは僕も何度も感じていた不安だった。咲希くんのことがあるぶん、司くんの感じる不安は桁違いだっただろうけれど。
     はじめからお互いに話していればよかったのかもしれない。そうすれば夢だなんてあり得ないと告げあって、互いに互いの存在を確かめあって、不安を拭いあえたはずだ。

    「そうか。……そうか、これでよかったんだな」
    「そうだね。これでよかったんだ、きっと」

     どちらともなく布団に倒れ込んで、幼い子どものようにくすくすと笑いあった。そのまま微睡みの中に落ちていく。僕も司くんもそろそろ体の方が限界だったらしい。
     現実から、本物の夢の中へ。
     二人の間のどこにも、もう、不安なんてなかった。

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    milk04coffee

    DONEセカイの少し不思議な話(リクエスト)
    セカイの不思議な、キラキラ綺麗な存在に囲まれて現実にいるときより少しまったりしている二人

    まったりしすぎて寝てしまいました。
    大変遅くなったもの。申し訳ありませんでした…!
    2021-11-07
    その想いはまだ、曖昧なまま 想いの曲を再生してセカイへと訪れたのは、夕飯時を少し過ぎ、そろそろ眠る準備でもしようかという時刻だった。特に誰かと何か約束していたわけでもなければ、相談があるわけでもない。少し落ち着いて考え事をしたかったというだけだ。リビングの音が筒抜けの自室はひっそりと思考に耽るにはあまり向かないものだから、セカイの隅でも借りようと考えたのである。
     考え事というのは、ほんのちょっとしたことだ。最近心の内側を擽られるような、なんだかそわそわと落ち着かなくなる感じがすることがあって──そしてそれが落ち着かないだけではなくて奇妙な心地よさを伴っているのが不思議で、その感覚をゆっくり見つめてみたくなったのだ。
     静かな自室から賑やかなセカイへと移動して辺りを見渡すと、はしゃぎながら戯れるぬいぐるみたちが遠目に見えて、思わず頬を緩める。現実世界は夜を迎えていても、ここの住民はまだまだ元気らしい。
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