それは二人で決めること「気の合うやつとルームシェアか、憧れるなー。あ、でも、どっちかに恋人とかできたら気ぃ遣うか……?」
高校時代からの友人とルームシェアをしている。そう話したところ、返ってきたのがこの言葉だった。コイビト。司が目を見開いていると、友人は苦笑した。
「いや、お前はあんまそういうのキョーミないかもしんないし、お前の友達のこともよく知らないからわかんないけど」
俺だったらそうなるかもってだけの話な。そう注釈を入れたのは、司があまりに呆然としていたせいだろうか。
何度も反省文を書かされながらも無事高校を卒業した司と類は、類の提案でルームシェアをしている。もうこの生活も数ヶ月目になり、互いの習慣の違いに折り合いをつけながら暮らすのにも段々と慣れてきた頃合いだ。
そんなときに降って沸いた『コイビト』の話題に、司は大いに頭を悩ませていた。
「恋人か……」
鍋を見下ろしながらの呟きは思いの外憂鬱そうな響きを纏っている。鍋蓋を取った先、カレールーがどろりと溶けて、ほとんどペースト状にされた野菜たちが段々と見えなくなるのを眺めながらため息をひとつ。
司は、類が好きだ。それはもう、この世で一等……かどうかには審議が入るものの(なにせ司には最愛の妹が存在するので)、生涯を共にしたいと考えるくらいには好きだ。類の演出が好きで、ショーに向ける想いが好きだ。今後離れることがあっても、ふとしたときに同じ場所に帰ってこられたらと思う。なんでもないことを話す時間が心地いいし、共に暮らしている実感がわくと嬉しくなる。共有スペースであるダイニングでうつらうつらしているのを見かけたり、朝一番に寝起きの眠たげな顔で「おはよう」と言われたりすると、ああ幸せだなとぼんやり考えてしまうくらいには。だが……。
(もしや……ぼんやり考えているだけではよくないな、これは)
別に、司は類と恋人になりたいわけではないのだ。世間では恋人としかしないようなことだって類とならできるだろうが、できるだろうというだけで、そんなもの無くたって構わない。愛の言葉も口づけも触れる手も、必要かと問われればそうではない。ショーを介してそれ以上の繋がりを既に有しているのだし、それこそが唯一で、いっとうの関係性なのだ。好きだな、とか、特別だな、とか、そんなことは思うけれど、無理に恋と名づけるには違和感があった。
ただ、たとえば類に自分の知らないところで恋人ができたとして。
その人と過ごすから少し家を空けてほしいだとか、逆に今日は帰ってこないかもだとか、そんなことを言われたら。
「……寂しいだろうな」
「どうしたんだい、司くん」
「うおっ」
ふいに掛けられた声にびくりと肩を跳ねさせる。ガタンと鍋が揺れたが、幸い中身は溢さずに済んだ。ほっと息を吐き振り返れば、いつのまに帰ってきたのやら、キッチンに顔だけを覗かせた類が、三角コーナーに残された野菜の皮を見て僅かに顔を顰めている。
「…………。何か悩み事かい?」
嫌悪感に心配が勝ったらしい。自分の方に気遣わし気な顔を向け、しかしシンクから微妙に距離を取りつつ近寄ってきた類の姿に、司は堪えきれずに小さく笑いを溢した。
「司くん、ちょっと」
「すまん、つい。手は洗ったか?」
「したよ。言いつけ通りに三十秒きちんと洗ったし、うがいもした。野菜の皮にだって何にも言わなかったっていうのに」
不貞腐れたように言って、類は司の頭に軽く頭突きをしてきた。大きな図体で子どものような拗ね方をする。そうか、えらいな、と返してやれば「ん」とこれまた幼く頷きながら、司の顔を覗き込んできた。
「で、司くん。何を考え込んでいたんだい」
「お前とルームシェアをして数ヶ月になるだろう。今日、友人とその話をしてな」
「うん……」
類の目が一瞬泳ぐ。司が誰かと同居の件を話したと聞くと時折する仕草だった。なにやら己の生活態度に関する相談なのではないかと思ってしまうときがあるらしく、自分で自分の生活に自信が持てるまでは動揺するかもとは本人の言である。
「……食育に関する相談とか?」
案の定放たれたよくわからない質問に、司は肩を竦めた。育てられているつもりだったのか、こいつは。
「それならお前の親御さんにしてる」
「えっ」
「一人暮らしだったかと聞かれただけだ。お前がこれを食べるのを嫌がったところで、……まあ少しはムッとするかもしれんが」
「この前めちゃくちゃ怒ってたじゃないか。……僕、ついさっき入っているものを知ってしまったんだけど」
「少しなら頑張れそうか?」
「頑張るよ、頑張ってみるけど、アレが入ってるんだよね?」
野菜の皮と洗われたフードプロセッサをチラリと見て、類がおずおずと聞いてくる。表情を露骨に歪めなくなったのは、つい最近司と大喧嘩をしてからだ。
その日、野菜入りの料理を二人分作った司とそれを拒否した類は、たいそうな喧嘩をした。結論から言えば、双方相互に非があったことを認め、妥協点を探っている最中である。
実際どこまで頑張れるのかは未知数とはいえ、類も今回ばかりは妥協をよしとした。餓死寸前になろうと野菜を口にする気はないと断言した彼にとって、司との大喧嘩──すなわち同居解消の危機は、餓死より重い出来事であるらしい。司にとっても野菜を選り分けられるようにするか、類でも食べられるようなやり方を探るかの判断が未だつけ難く、スマホは食育に関するブックマークや類の親に聞いた類の好みやレシピのメモでいっぱいだ。
「食感も味も極力わからないようにしたんだが、さすがにカレーならどうにかならんか? 癖が強い野菜は避けたつもりだぞ、これでも」
小皿とスプーンを取り出して味見を促すと、ひとくちぶんも無さそうな量をふうふうと吹いて舐めるように食べている。なんだかドキドキとしながら眺めていれば、類はしばし考え込んでから口を開いた。
「これならたぶん……わからない、かも」
「かもって、お前」
「野菜の残骸を見ながらだとどうにも意識してしまっていけないよね……。うん、……うん」
「皮のこと残骸って言うな。……食べられるのならよかった、これならいけるんだな」
「大丈夫、だと思う。食感も皆無だし」
小皿の中身を綺麗に食べ切って、けれど受け答えはふわふわとしている。はっきりとしないが、きっとこれが今の類の精一杯なのだと司にもわかってきた。
カレーはご飯と分けて出してやろう。そうすれば、類が途中で食べられなくなったとしても、残されるのはルーだけで済む。司の食事は明日もカレー尽くしになるかもしれないが。
「そういえば、さっきの話だけど」
「うん?」
「司くんが友人としたっていう話。悩みのありそうな顔をしていたけど、なんの話をしたんだい?」
「ああ……。そいつが、気の合う相手とのルームシェアには憧れるが、どちらかに恋人ができたら気を遣うだろうかと言っていたんだ」
「コイビト」
初めて聞いた言葉でも繰り返すかのように、類は片言で繰り返した。
「コイビトって……あの恋人?」
「あの、がどれかはわからんが、まあ一般的に言う恋人の話だろうな」
「そう。恋人……」
困惑するような様子を見るに、類も司と同じく『考えてもみなかった』というところだろうか。
「司くんに恋人かあ。言われてみれば、考えたことなかったな」
「オレの方だけか?」
「えっ、僕には誰かと付き合う予定なんてないし」
「いやオレにもないが」
「だって……未来のことはわからないじゃないか」
「それを言えばお前もだろう」
「僕はいいんだよ。もういるし、好きな人」
「ふうん、そうか……って、はァ」
驚きのあまり鍋にお玉を引っ掛けてガタンと鳴らす。あまりにもさらりと話されたせいで一瞬聞き流しかけたが、そうしてはならない文言が聞こえた。絶対に聞こえた。
類はといえば、驚きのあまり固まってしまった司の手からお玉を剥がして、司を鍋の前から避けた。司も鍋など見ていられる心情ではなかったから、大人しくされるがままになる。
「これもう完成だよね? 火、止めるよ?」
「あ、ああ」
意図せず知ってしまった事実に混乱しながら、ぼうっとキッチンに立つ類の姿を見た。
「……好きな人、いるのか?」
「いるよ」
「それならなぜ、恋人ができる予定がないなんて言ったんだ。最初から諦めているとかじゃないだろうな」
「違う。僕はその人と恋人になりたいわけではないけれど、あえて言葉にするのなら『好きな人』になるし、彼以上の人とはきっと金輪際出会えない。そんなふうに思う相手が既にいるから恋人ができる予定もない、それだけ」
淡々と告げられた言葉はどこか固い。覚えがあるな、と記憶を掘り返せば、出会った当初のことを思い出した。自分の言うことは受け入れられないものだと思い込んでしまっているような、頑なな物言いである。自分たちの関係性で今さら何をと思いはするものの、類にとってはそれだけ大切な事柄なのだろう。話してくれただけ僥倖といったところか。
たとえば司が今日話した友人が、もしあの場で「俺だったら」と口にせず思考を迫ったのなら、司とて話を打ち切っていたかもしれない。そう考えれば自然な反応であるのかもしれなかった。
「……オレと似ているな。オレにも好きな相手がいるが、別に恋人になりたいとかではないし、そいつ以上が見つかる気もしない」
「ふうん」
たしかに似てる。どこか不機嫌な声で、独り言のような相槌が返った。
「司くん、好きな人とかいたんだ」
「ああ」
「そいつ以上が見つからないって、熱烈だよね。君はこれから世界に羽ばたいていくんだろうに、そんな例えが出るなんてさ」
「そう思ってしまったものは仕方ないだろうが。それにお前だってさっき言っただろう、彼以上の人とは出会えないとかなんとか」
聞いた話を繰り返せば、類はしまったとでも言いたげに目を見開いた。その表情はすぐに消え失せてしまったけれど、誤魔化しきれていないのは類の方も承知していることだろう。司の発言の中に、たぶん、類にとっての失言があったのだ。
それが類の不機嫌に繋がるのなら、知りたいとは思う。しかし、司が言及したのは類の好きな人に関することだ。あまり詮索するのもよろしくないのではないか。
(類からあんな言葉を引き出す相手か。何者なんだ、その『彼』とやらは)
むむ、と考える。なんだか純粋に気になってきてしまって、けれども先ほどからの類の様子を鑑みると聞くに聞けない。最近聞いた話には正直なところ、類がそれほどまでに思い入れる人物は出てこなかったように思うのだが。
「…………司くんは、なんで僕と一緒に暮らしてくれてるの」
考え込む司に、類はどこか気落ちした声で問いかけた。
「好きな人、いるんだろう。一緒に暮らし始めてから聞いた話でそれっぽいものはないし、それなら、なんでその人じゃなくて僕と暮らすことを決めたんだろうと思って」
思わずぽかんと口が開く。自分の思考がそのまま類の口から出てきたかのような言葉だった。
ああ、そうか。そういうことか。
様々なことが腑に落ちた。だって、そんなことを話す類こそが司を同居に誘ってきた張本人なのだ。好きな人がいて、けれどそんな相手ができたのはきっとここ最近の話ではなくて、好きな人以外と同居することに疑問を抱いているらしい類が。
意を決めて、口を開く。
「……類、さっき言った好きな人の話だがな、オレはそいつの考える演出がすごく好きなんだ。とんでもない発想だし、無茶苦茶だと思うこともあるが、なにせ最高に面白い。ショーにも観客の笑顔にも真摯だ。それに、演者の笑顔にも」
特別こうして告げるつもりはなかった。似たことを日々伝えているつもりだし、類は司にとってとても特別な相手だけれど、司だけの演出家ではない。司だって類だけのスターではいられないし、そんな在り方をするつもりもない。この暮らしはとても大切だけれど、ずっと続くとも思っていない。司にも類にも夢があって、それぞれの歩みたい道があるのだから、その道は交わったり離れたりを繰り返すのだろう。
それでも、だからこそ、伝えるべきなのだ。
「恋と言うには違和感があるが、そうだな。ショーのことだけじゃない、オレはそいつのためなら、オレにできることは何だってしてやりたいと──」
「まって、ねえ、ちょっと待って司くん」
それって。慌てふためく類を見て、ハハ、と笑い声を上げる。
いつまでも共に在れるとは限らなくても、いつかの未来がどうなるか未だ見えなくても、帰る場所はここがいい。
「お前が好きだ。オレにはまだ、この『好き』に恋だとか愛だとかの明確な名前はつけられんが、受け取ってくれると嬉しい」
「……。名前なんてつけなくてもいいんじゃないのかな。僕らの関係性は、僕らにしか量れないんだ。それにいつか名前がつくのだとしても、そうならないままだとしてもね」
「なるほど、それもそうだ」
「ねえ、司くん」
ふわふわとした声で、類が言う。
「好きだよ」