想い結べば呆気ないもの 伸ばそうとした指や腕が固まるようになったのは、一週間ほど前からだ。なんの気なく相手を呼び止めようとした体の一部が不思議と固まって、なぜだろうと首を傾げているうちに治る、そんなことを繰り返していた。
何か病気ではあるまいな、などと考えていたものの、よく注意してみればその症状が現れるのはたった一人の前にいるときだけ。どうやら病気ではないらしいが、それなら何かというのが、ずっとわからずにいる。
「やあ、司くん! この間言っていたことについて話したいんだけど、お昼の後に時間を貰ってもいいかい?」
「っああ、あれか。あいにく委員会でな、放課後でもいいか? 今日は昼も一緒にはとれそうにないんだが……」
思い浮かべていた『たった一人』に声をかけられて思わず息を詰めた。気取られないように言葉を続け、何気なさを装いながら様子を窺う。
気づかれていませんように。自分でも何が何だかわからないことに突っ込まれてはかなわない。最近なぜかお前にだけうまく接することができないでいるんだなんて、そんなことを言いたくはなかった。優しい男だから言えば助力してくれるのだろうが、それでも、それだからこその話だ。自分でも理由がわからないままそんなことを言って、万一にもそこに悪感情が混ざっているなどと思わせてしまったら、悔やんでも悔やみ切れない。
「そっか……残念だけど、それなら放課後にセカイで話そうか。迎えに行くから逃げたりしないで待っていてね」
「おい待て、逃げる必要のあるようなことをする予定があるのか」
「フフ、それは後のお楽しみさ!」
にんまりと笑った類は、上機嫌のまま身を翻した。オレが動揺していたことについては気がつかないでいてくれたらしい。
最近の類は溌剌としたやる気に満ち満ちていて、眩しくてならないくらいだった。オレとて当然負けてはいないが、大人びた顔に無邪気な笑みを浮かべて生き生きとした振る舞いをする様は、正直に言って魅力的だ。
つい目で追ってしまうような存在感。高い背丈と整った面差しは元より人目を惹くものだが、近頃は尚更だ。類がどんな人物か実は気になっていたのだと、オレに類の趣味やら何やらを聞きにきた人間もちらほらといる。好意的に思われるようになってきた証だろうと答えてもよさそうなことは答えたが、あれからどうなっただろうか。類はあまり人付き合いの多い方ではないし、相当の変わり者ではあるが、それと同じくらいにいいあつでもある。これを機に交友関係が広がるというなら、いいことなのだろう……と、綺麗に纏めてこそみたが、そればかりではない。オレにとっても、最近の類が魅力的だという話は他人事ではなくなっている。
そうというのも、オレもまた、類に惹きつけられる一人になってしまっているからだ。
気がついたのはクラスメイトに「お前よく神代のこと見てるよな」と呆れたように言われてのことだったが、そのとき感じた衝撃と悔しさといったらなかった。たしかに最近よく目が合うと思っていたが、そのせいか。オレが、類を見ていたのか。思い返せば、最近はいつも類が振り向く姿を見ている気がする。つまりオレの方が先に類を見つめているというわけだ。類がオレを見ていて目が合ったのではなく、その逆!
──悔しい。
オレが見ているのだからお前もオレをもっと見ろ。こっちばかりが見ているなんて、オレにとっての類の魅力と類にとってのオレの魅力なら、前者の方が強いみたいだろうが。オレだって、見ずにはいられないくらいの魅力を常々放っていると思うのだが。
「お前やっぱ変なヤツだよな」
「何を言う、失礼なやつめ」
「今の話神代が聞いたらぜってー俺と同じこと言……いやわかんねーわ、神代だし」
感じたところを正直に言えば、件のクラスメイトはますます呆れたような顔をして会話を打ち切ってしまった。何が変だというのだろう。色々なことが不服に思えて唇を尖らせながら、それでも見るのはやめられないのだろうなと、そう思った。
……そしてその予想の通り、オレの視線は今も類を追っている。長身を軽く屈めて教室に入り込む背をぼうっと眺めて、その姿が見えなくなった数秒後、はあ、と溢れかけたため息を慌てて飲み込んだ。
心情も振る舞いも普段のオレらしさとは程遠い。胸の内にモヤモヤとした違和感を凝らせながらも、まったく別の小さな気づきに意識は向けられていく。
(今日は、振り向かなかったな)
以前観察した時には、気がついて話しかけてきたというのに。
──ああ、やっぱり、あのときとは何かが違う。自分の想いに、行動に、違和感がある。
あのときは、振り向いてほしいだなんて思わなかった。気がついてほしい、こちらを見てほしいなどと、思うことはなかった。ただ類のことを案じる一心で、こんなことに意識を割かれて自分の中の違和感から目を逸らすようなことは無かったというのに。
(最近のオレは、オレじゃないみたいだ)
自分でも制御できないところで、自分でもよくわからない何かを、求めている。それだけは理解できるのにそれ以上が掴めないものだから、ひとまず置いておくしかない。もどかしかった。
放課後が待ち遠しいような、類を目にすればまたおかしな思いに支配されそうで恐ろしいような。複雑な感情を抱えたまま自分の教室へと入り、席に着く。
放課後に話をするというのならこちらも相応の案や意見は持っていきたいものだ。アイデアを書き留めているノートを開けば、悩みは自然と遠く過ぎ去っていく。次は何をしようかと思考に沈めば、浮かび上がるのは舞台上の景色。抱いた懸念はいっとき忘れて、時間はどうやらあっという間に消費されてしまいそうだ……と、そう、思っていたのだが。
「そううまくはいかんか……」
「何がだ天馬ー。委員会中だぞ、集中しろー」
「はっ、すっ、すみません!」
先輩に軽く注意され、ハッとして背筋を伸ばす。
舞台に意識を馳せることができなくなった途端、悩みは勢いよく帰ってきてしまった。そのままどこかへと出かけてくれていればよかったものを。
普段は共に過ごす昼休み、僅かな時間を離れて過ごすだけで、体がむずむずとしてならない。時が経つのがやけに長く感じて何度も時計の方を見てしまうし、話にも集中ができないでいる。
別々に行動するだなんて今までだって何度もあったことのはずなのに、なぜなのだろう。委員会の面々と一緒にいるはずが、彼らとの間に奇妙なほど距離を感じる。自分がいる場所だけ空間が切り離されたようですらあった。進行を務める委員の話がどこか上滑りしていくのを感じながら、手元のプリントに視線を落とす。
本来ならこの時間にはもっと近くに、あのきらきらとした声と笑顔があったはずだ。……オレがいつも居るあの場所は今、他の誰かで埋まっているのだろうか。
考えているうちに胸が苦しくなるような心地になって、落ち着かなさを宥めるために、握っていたシャーペンの先を意味もなく宙に彷徨わせた。
(なぜ苦しくなる必要がある。類がどう過ごしていても、類の勝手だろう)
類が他の誰かと過ごすことを喜ばしく思う理由はあっても、苦しくなる理由はどこにもない。それに元から約束していたわけでもないのだから、どう過ごしているかを気にするのもなんだかおかしな話だった。
誰かを誘っているかもしれないし、一人で何かを作ったり、新しい思いつきを煮詰めているかもしれない。それはオレには関係のないことだ。もしもオレが居ないことで予定が空いて退屈していたなどと言われれば申し訳ない気にもなるだろうが、委員会活動に関しては仕方がないし、向こうも緑化委員の活動で空けることがあるのでお互い様である。……それだけ、の、はずなのだが。
モヤモヤと嫌な気持ちが胸の中に生まれて、心臓を圧迫している。もしも類が誰かと過ごすのなら、そこにオレも居られたらいいのに。あの笑顔が向けられる先に、他の誰かだけではなくて、オレも居たい。そんな思いが嫉妬に似た感情と共に膨らんで、どうにも治まってくれない。
誰かと過ごすときはオレとも一緒に過ごせだなんて、到底現実的ではない。よくよく考えてみれば束縛もいいところだ。
これではまるで、類に、オレ以上に仲のいい人間ができてほしくないようではないか。
(──なんてことだ)
類は、人が好きだ。彼が次第に人から好意的な関心を返されつつあることは、心の底からいいことだと思える。類が人の笑顔に囲まれる様を思うと、自然と嬉しくなるくらいだ。あの優しい男が他者にも想いを返してもらえることは、オレの望むところでもある。そのはずだ。
それに、寧々や暁山とは旧知の間柄で、自分の入り込めない独自の関係性があることもわかっている。冬弥や彰人、白石とも話しているのを見かけるし、えむとだってとても仲がいい。各々が大切にしているのだろうその関係性をオレも見守っていたいと、そう思っていたつもりだ。
……つもりだけ、だったのだろうか。ただ会いたいと思うだけであれば、これまでに幾らでも機会はあった。授業中にとんでもなく面白い思いつきをしたとき。今回のように、話すことがあると聞かされているのに、学校行事などの都合で先送りにされてしまうとき。時間が進むのが遅く感じられて、まだかまだかと落ち着きもなく待って、そんな時間には思い出そうとせずとも思い浮かぶほどに覚えがある。
だが、今のは、違った。隣を譲りたくはないという傲慢。旧知の間柄よりもなお近くへと身を寄せたいという不遜。たったひとつ救いなのは、自分が思い浮かべた後輩たちの姿が類の近くにあることそのものに対して妬み嫉みを抱いているのではなく、そこに自分がいないこと──そして彼の視界に一番先に入れないことへの悔しさが感情の中核にありそうだ、ということだった。
類の周りには笑顔が溢れていればいいと、それだけは思ったままでいられている。けれど類がオレではない誰かに囲まれる様を思い浮かべ続けているうち、納得のいかないような感情が生じてくる。
誰かが邪魔だなどとは思わない。けれど、そこに自分が居ないことだけがどうにも受け入れ難くてたまらなかった。
(おかしいだろう、そんなのは)
そんなのは、仲間に対して抱いていい感情の域を、とうに超えているんじゃないのか。友人にも家族にも、他の誰にだって、そんなわけのわからない感情など抱いたことはない。
仲間外れにされたようで悲しいだとか、そんな話ならばよかったのに、そうではないのが問題なのだ。今オレが抱いた感情は、そんな素朴で澄んだものではなくて。
「先輩? 天馬せんぱーい、聞いてます?」
「……うおっ す、すまん、またぼうっとしていた」
「本当に大丈夫か? 体調とか悪いなら言うんだぞ、めちゃくちゃ大事な話ってわけでもないし」
「そうですよ。天馬先輩がだんまりでぼけっとしてるなんて、さすがに心配っていうか」
「大丈夫だ、少し考え事に意識を取られてしまってな。先輩も、話し合い中にすみませんでした」
後輩と先輩が、それぞれ案ずるように声をかけてくる。隣のクラスの学級委員は口パクで何かを伝えてきた。よくわからないが心配しているらしいことだけは伝わって、苦笑いを返す。
……さすがに妙だ。度を越している。理由も定かでないままこんな想いを抱えているのは、実は考えていたよりもずっとまずいことなんじゃないか。類を目にすればおかしくなってしまうかも、なんて思っていたが、目にしなくてもとうにおかしかったというわけだ。
呻きたくなるのを堪えて平静を装う。あっという間に過ぎ去った午前の授業に比べ、動揺の中で過ごす昼休みはやけに長く感じた。次の授業を休みカイトにでも相談しに行きたいくらいではあったが、さすがにそうはいかない。放課後には類との話し合いもあるから、今日中に悩みを誰かに打ち明けることはどうにも困難そうだった。
(隠すのは不誠実な気もするが、さすがにこんな訳の分からないまま本人に色々と曝け出す気にもなれんしな……)
せめてもう少しばかり想いが言葉に乗せられようになってから話したい。ただ戸惑いと執着じみた何かだけが胸の内を渦巻いている現状では、何をしたところで上手く伝えられる気もしなかった。
類であればこの感情を解いて並べてくれそうな気もするが、普段であればともかく、こればかりは頼りたくない。こんな重苦しくて訳の分からない感情を、よりにもよって本人にぶつけるなど、さすがに気が引けるというものだ。
(うまく、隠しておけるだろうか)
類は、人をよく見ているやつだ。オレが表面的に取り繕うばかりでは内心が露呈してしまいそうに思えて、それも気掛かりだった。己がいつの間にか抱えていたものの異常さは薄らと理解しているし、だからこそ、こんなに曖昧なまま知られたくなどない。
いつも通りを装うべく、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。落ち着け。類が関わらなければ今も普段と変わらないはずの『天馬司』を、類の前でも繰り返すだけだ。自分とかけ離れた役を演じるより、よほど簡単なことじゃないか。
「よしっ」
気を持ち直して顔を上げたときにはもう、教室はもぬけの空だった。机の端に貼られたふせんに、「あんまり調子が悪いようなら保健室に行くんだよ」という誰からともわからないメッセージが残されていて、バツの悪い気持ちになる。
微妙な気分で見上げた時計の針は授業時間まで大した猶予を示しておらず、おわあ、と思わず大きな声で驚いてしまったオレは、慌てて教室へと戻る羽目になった。焦ったおかげで一時だけでも悩みはどこかへ飛んでいってしまったから、よかったのか悪かったのか。
間違いなく悪い方だろうなと、息を荒げて自分の席に座りながら、そう思った。
*
毎日が楽しくて仕方がない。こんなことになるとは、昔の僕では想像すらできなかった。
司くんと、えむくんと、寧々と……みんなとするショーが、過ごす毎日が大切で、途方もなく幸せだ。これ以上ないほどに。
頭の中幾度も繰り返しては、ふわふわと浮き立つような気持ちになる。今こそが夢の中、人生の絶頂と言っても過言ではないだろう。
──ただ、目に見える気がかりが、ひとつ。
黒板の向こうをじっと見る。書いてある内容に興味はない。その壁の先、隣のクラスで今も授業を受けているはずの彼に思いを馳せた。近頃なぜだかじっとこちらを見つめてくることの増えた、彼のことを。
(僕がずっと見ていたのがバレた、というわけでもなさそうだったしなあ……)
司くんは役者でこそあるけれど、日常においては驚くほどに素直な人間だ。気づいていたとするならば、言ってくるなり態度に出るなりしていてもおかしくはない。
そう、先に見ていたのは僕の方だったのだ。
はじめはただの興味だった。変人と呼ばれているらしい、ショーが好きなのだという彼のことを、なんともなしに気にしていた。声が大きく交友関係も広い彼だったから、向こうから声をかけられるよりも前から存在だけは知っていたし、意識の端には掛かっていたのだ。
共に舞台を作り上げることになってからもずっと見ていたけれど、また彼が想いを見失ってしまわないかという危惧や、本当に期待に応えてくれるのかという値踏みの部分も大きかったように思う。あの頃は彼自身よりも、彼が創り上げた広大なセカイの方が気になっていた──そう、あの頃は、だ。
大きなきっかけはきっと、ハロウィンショーの時のこと。危険に身を曝されておきながら僕自身にも自覚のなかった遠慮を指摘し、応えようとしてくれた、あの出来事。だけれどあれは、それ以前の積み重ねあってこその『きっかけ』だった。
向けられた信頼と期待、そして彼が取り戻した想いの大きさと直向きさ。それを日々共にショーを作り上げる中で感じていたから、司くん自身のことも彼と過ごす時間も大切になっていたし、彼の言葉を信じることもできたのだと思う。
彼のことが、知りたいと思った。自分は司くんの持つセカイだけではなく彼自身に関心があるのだと、自覚した。
きらきらと輝く未来のスター。未だ荒削りな部分こそあるけれど、そこに居るだけで誰かを笑顔にする様は好ましく、気がつけば惹きつけられて目が離せない有様である。
彼に向けて抱く感情の一部に恋と名付けるのが相応しいと気がついたときには、いかに普段と変わらず接するか気を揉んだ。彼とは学校でもバイト先でも一緒に過ごしている。お昼もいつの間にか一緒に食べるようになっていたし、これは本当に困ったことだけど、日々の着替えだって同じ場所だ。邪な思いを隠しながらもほとんどいつも行動を共にしているわけで、バレやしないかとヒヤヒヤしたものだった。
ただ、近頃は本当に楽しくて堪らないものだから、彼と一緒にショーができるのならばそれこそが一等幸せなことだと心から思えるようになっていた。
楽しい。これ以上などないとすら思えてしまうほどに、幸せだ。告げられなくても、触れられなくても、この時間が続くのならばそんなのどうだってよかった。これなら抱えた恋心にもそのうち折り合いを付けられそうだと、そう思っていたのに。
(それなのに、これだ)
もう、とっくに幸福なのだ。これ以上を望めば罰が当たるのではないかというほどに、今このときが愛おしくてたまらない。だというのにあんなふうに見られては、折り合いをつけようとしていたはずの想いまでもが往生際悪く主張を始めてしまう。たとえば彼の隣を、生家の家族とは違うたったひとつの特別を独占したいだとか、……そんな想いが。
珍しくも感情の読めない、それでも彼らしい真っ直ぐな目。一挙一動をその瞳の中に収めようとするような、どこか熱を感じさえもする視線。
君は何を思って僕を見ているの。その心の奥に、どんな感情を抱いているの。
直接問うには重すぎる問い掛けがぐるぐると頭の中を巡る。こちらに下心のひとつも無ければ投げかけられていたのかもしれないそれは、邪な期待のおかげでいつまで経っても伏せられたままだ。
向けられるのはひどく真っ直ぐな視線だし、本当ならば心配は要らないのかもしれないが、どうにも気がかりでならないのは確かだった。あまり視線が合っては訝しまれるかもしれないから、近頃はあまりこちらからは見ないようにしているけれど、それだっていつかは我慢できなくなってしまいそうだし。
……思い悩む暇もそうはない。
学校での時間の大半を別のアイデアを詰めたり創出したりすることに費やすことにして迎えた放課後、僕は再度頭を抱えることになった。
司くんの様子がおかしい。
確信を持ったのは二人でセカイに移動するために人目を避けた場所に行く、その道中だ。合流した直後の司くんはあまりにもいつも通りで、最近の変化なんてなかったかのように振る舞うものだから、おかしいと勘付くまではむしろ調子がいいくらいだと思わされてしまっていた。
応えがほんの僅か遅れるだとか、その程度のことが積み重なっていって、徐々に違和感が増していく。小さな歯車が狂ってしまったかのようだ。会話そのものをしてくれないなどということはないし、やりとりの内容自体は自然なものだ。毎日のように話し、彼の様子をつぶさに見ているからこその違和感。
(僕がいない間に、何かあったのかな。それとも最近の不可解な振る舞いと関係している?)
これでは本題に入ろうにも入れない。他愛のない雑談ですら──雑談だからこそかもしれないけれど──まともにやり取りできていないのだから、中身のある話をしようという気にもなれない。時間をしっかりと取って見せたいくらいのアイデアだったから、それにきちんと向き合った状態での意見を貰いたいのが本音だ。司くんの方だってそれはわかっているだろうに、僕に劣らぬショーバカであるはずの彼がこうなってしまうなど、よほど調子が悪いのに違いなかった。
顔色は悪くない。足取りもしっかりしている。それが普段の司くんを演じているからという可能性もどうにも捨てきれないが、それ以上に気になるのは、こちらから視線が逸らされる回数が普段よりも多いことだった。いつも通りの中に垣間見える彼らしくない振る舞いが心配で、だんだんと自分の表情が強張ってきているのがわかる。
「よし、ここならば大丈夫そうだな。行こうではないか!」
痺れを切らして声をかけようとした矢先、司くんは元気よくそう口にした。
ひとたび違和感に気がついてしまえば、空元気としかうつらない態度は不安を煽る。そのおかしさに言及するには放課後に入ったばかりの学校はどうにも騒がしい気がして、何も気がつかないふりをしたままスマホから溢れる光と音に身を任せた。
セカイに行って、落ち着いて話のできる場所へと移動してから、きちんと話そう。僕にとって都合の悪い事実──例えば司くんのことをちょっと尋常じゃないくらいに見ていたことや、その原因である想いが露呈してしまう可能性があるのだとしても、向き合うべきだ。現状を放置している方がよほど悪い。
視界すべてをキラキラとした光が覆い、何も見えなくなる。次に目を開いたとき、
「……はっ?」
「これは……」
──目の前のセカイは、紫色に染まっていた。
「空も地面も、アトラクションも紫色……?」
「そ、のようだな」
いつもはもっと色とりどりだったはずのその場所は、見渡す限りやわらかな紫色だらけだ。己の立っている場所をどうにか見失わないでいられるのは、色の濃淡に差があることと、時折異なる色が入り混じっているからだろうか。例えば遠くには彩鮮やかな花が咲いているし、床にはところどころ黄色と水色が刷かれている。
色以外はそのままかに思えたが、よく見てみれば、アトラクションたちや空飛ぶ汽車はいつもと異なり滑らかとはいえない動きをしている。内部機構が錆びてしまったかのようなぎこちなさだ。
「ミクくんたちは近くには居ないようだね」
「ああ」
「ぬいぐるみくんたちも姿を見せないし、どこかに集まっていたりするのかな」
「そうかもしれんな。……本当に、なんだというんだ」
司くんの声は動揺しきっていて、この状況に困惑しているのは僕と同じらしいと知れた。司くんの想いから成るセカイだが、その異変に関しては彼の知るところではないらしい。
ただ、たぶん、知らないだけなのだろう。まだセカイに慣れない頃、彼は僕らの誰よりもセカイに警戒していた。今もまだきっと、僕やえむくんの方がこのセカイのあちらこちらを探索しているぶん、セカイにある物については詳しいように思う。それでも、セカイについて真の意味で最も詳しく知っているのは、司くん自身であるはずなのだ。僕らがいくらセカイにあるものに対して詳しくったって、それを作り上げたのは司くんの心に他ならないのだから。
だからきっと、今も。
「……司くん、何か心当たりがあるんじゃないかい?」
でき得る限りのやわらかな声で、僕はそう口にした。司くんはびくりと身を震わせたかと思うと、あちらこちらへと視線を彷徨わせ、うう、と不明瞭に呻く。
「思い違いでなければ、近頃の君は僕の方を見ていることが多かっただろう。さっきだって何だか無理に元気に振る舞っているようだったし、そこにこの紫色のセカイだ」
紫に水色、そして黄色。これが淡い紫色だけだというなら幼馴染の瞳も候補だったけれど、差し込むように入り混じる色まで数えれば、それは鏡の中で毎日見ている色彩だ。
「その……何か僕に対して気になることだったり、言いたいことなんかがあるんじゃないかな」
考えたくはないことだが、こちらの想いになんとなく勘づいてしまって、それが気掛かりになってしまっている……とか。
万一にも僕の想いが司くんの悩みの種となってしまっているようであれば、それを解消するすべを考えなければならない。そうではないのだとしても、彼の力になりたかった。
司くんから、返事はない。どうにもおかしいとその表情を覗き込めば、司くんは顔色を真っ青にして、はくはくと口を動かしている。
「司くん……?」
あ、あ、と声にならない声が聞こえた。常の大声をすっかり忘れてしまったかのような有様で、彼は纏まりのない言葉を発し始める。
「だ、ダメだ……」
「司くん、落ち着いて」
「ダメなんだ、……このままでは」
「大丈夫だから、いったん落ち着こう。ね」
「このままでは、オレは、オレは──」
こちらの言葉も耳に入らない様子で、司くんは捲し立てた。ふいにそれが途切れたかと思えば、大きな瞳がさらに大きく見開かれて。
そして。
*
その光景を見てから少しの間は、ただ戸惑うばかりでいられた。あまりにも突拍子のない光景に、現実をきちんと認識しきることができなかったからだ。
しかし、よく辺りを見渡してみれば、それは明らかにオレの想いを映し出した光景だった。賑やかで楽しげなセカイの概観はそのままに、色合いだけが隣に立つ人間を思い起こすものになっている。自分の想いが類の存在に彩られて満たされて、そればかりになってしまったのだと知らしめているように。よく見ればアトラクションや空飛ぶ汽車もやけにぎこちなく動いていて、上手く振る舞えもしない現状を突きつけられるような心地になる。
なんだというんだ。
今までに、セカイがこんな風になったことなど無かった。それがこれほどまでの変化を見せているだなんて、どう考えても異常事態だ。類に向けている想いを異様なものだと理解してしまった今、それをより一層明確に示すような今のセカイの有り様を類に見せてしまうことが、ひどく恐ろしいことのように思えてならなかった。
ふと隣の様子を窺えば、類は何やら考え込んでいる。天才の名をほしいままにする彼のことだから、もうじきこのセカイの変化が、オレが類に向ける感情に由来するものであることにも気がついてしまうはずだ。
「……司くん、何か心当たりがあるんじゃないかい?」
掛けられた声に驚いて、大袈裟なほどに身を強張らせる。しまった、と思うものの、どう返せばいいものかもわからない。視線を彷徨わせていると、類は控えめに続けた。
「思い違いでなければ、近頃の君は僕の方を見ていることが多かっただろう。さっきだって何だか無理に元気に振る舞っているようだったし、そこにこの紫色のセカイだ」
さっきまでの空元気も見抜かれていたと知り、思わず肩が跳ねた。これでは本当に空元気だったのだと知らせるも同然だ。
色々とバレている。わかってはいたが、ちょっと待ってくれと思わずにはいられない。
「その……何か僕に対して気になることだったり、言いたいことなんかがあるんじゃないかな」
類は眉を下げ、どこか不安そうに訊ねてくる。このまま全て暴かれてしまうのではとすら思ったが、さすがにそこまでは辿り着かなかったらしい。
勘付かれないようにと振る舞ったことで、たぶん、余計な心配をかけてしまっている。類は何も悪くなどないのに、だんだん思い詰めたようになる表情からは、自分のせいではないかという考えが感じ取れるようだった。
(言わなければ)
まだ言葉にもならない、それなのに目に見えるようになってしまった、あまりに強い想いのことを。
言葉を探しながら口を開く。何から言えばいい。己がいよいよおかしいと気がついたのは今日のことだが、思えば少し前からおかしかった。声をかけようとしてもそうできないことが増えて、近づきたいのに自ら遠ざかっていた。
「司くん……?」
心配そうな声に、どっ、どっ、と心臓が胸の内側を叩く。あんなにこっちを見てほしいと思っていたはずなのに、今は目を合わせることすらも難しい。喉の奥に言葉がつっかえて出てこないまま、はくはくと唇を開閉することしかできなかった。
動けもせず、話せもせず、こんなのは生まれてはじめてのことだ。ぐるぐると渦巻く思考の中、ふと、ひとつの答えが浮かび上がる。
──今のオレは、類の想いに応えられなくなっている。
彼の向けてくる期待、友情、真っ直ぐな想いに、同じく真っ直ぐな気持ちを返すことができなくなってしまったのだ。
「だ、ダメだ」
ダメだ、そんなのは。
でも、そう言って抑え込めるようなら、こんなことにはならなかったはずだ。
わかっていても制御の利かない感情と体に、目の前がぐらりと揺れる。すまない、と意味のない謝罪が口からこぼれ落ちた。いま謝ったところで何にもならない。己の異常を伝えることすらできていないのに突然様子もおかしく謝られて、類だってさぞ混乱することだろう。
こんなことではいかん、と、自分が自分を糾弾している。わかっている。わかっているが、無理なんだ。どこまでがただの考えごとで、どこまでを口に出しているのかも曖昧になって、思考も言葉も自分の手を離れて止まらない。
落ち着いて、と困惑した声がかかる。普段であれば素直に宥められていたはずだが、今は。
「ダメなんだ、……このままでは」
ボタンを掛け違えたような小さな違和感がいよいよ大きく膨らんでいる。必要のない言葉と焦りだけが頭の中に溢れて、立っている地面すらも見失いそうだ。
こんなことは、生まれて初めてだった。己の人生に、想いに、隠すところなどない。そう思いながら生きてきたはずなのに、見つめられただけで足元が崩れ去りそうな不安に襲われている。
感情を表に出すことに恐怖するなど、自分には無縁だと思っていた。世の中には自分の想いだけではどうにもならないことがあるという事実も、思ったことを素直に表すことで起きる失敗も知っている。それでも、悩むことはあっても、恐ろしいと思うことはなかったのに。
「このままでは、オレは、オレは──」
──スターにはなれない。
いつか見た失望の色が頭を過ぎる。それをいま己に向けるのは、あのときとは違って。
(オレは、オレを許せない……!)
類がいくら案じてくれても、自分が自分を許せないでいる。それが薄々わかっていたからこそ、オレの言葉や手は固まり続けていたのだろう。類に妙な心配をかけたくないだなんて今となっては手遅れにすぎないのに、それでもなお動けずにいるのがその証だ。
オレはオレを許せない。こんなぐちゃぐちゃの想いを他者に向けている、そのこと自体が恐ろしくて気持ち悪くてたまらない。真っ直ぐな想いを返せないでいる今の自分が、恥ずかしくて仕方がなかった。それに。
(自分ですら受け入れられないものを、受け入れてくれだなんて言えるわけがない……)
……恐怖の正体は、きっとそれだった。
類がもし、今のオレを受け入れてくれなかったら。仮に受け入れてくれたとして、オレが類の自由を奪うような振る舞いを繰り返してしまったら?
そんなのは嫌だ。類には自由でいてほしいのに、そう思っているはずのオレこそがそれを阻むのではないかと恐ろしい。その果てに否定が待つのだとしたら……当然のはずのそれも、怖くて仕方がない。
自分自身すら信用できないのに、なにを頼りに動けばいい。不安が膨らみ足が竦む。伸ばそうとした手は己の胸元へと引き戻され、発する言葉は要領を得ない。見つめられるほど己の醜さが際立つようで、身動きが取れなくなる。これではまるで──。
(石にでも、なってしまったみたいだ)
パキリ、と硬質な音が足元から響く。それに疑問を抱く間もなく、全ての感覚が遠ざかっていった。
*
「つかさ、くん…………?」
止める間もない出来事に、僕は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
──パキリ、と。
小さな音が響いた直後、司くんの足元から鈍く濁った灰色が這い上り、たちまち彼の全身を覆い尽くした。瞬きひとつの間に、未来に輝くはずのスターが、鈍く沈んだ色の石像のようなものに変わってしまったのである。
何が、起きたというのだろう。
目の前で起きた異変が飲み込めず、ただ目を瞠る。軋む腕をどうにか動かして目の前のそれに触れれば、ただ冷たく固い感触が指先に伝わった。
石の感触だ、と、事実を確認するように脳内で呟く。現実に人が石になってしまうだなんて、そんなことあり得るはずがないけれど……。
「……ここでは、あり得ないこと自体があり得ないのかもしれないな」
頭を振る。そもそもセカイ自体があり得ない事態の筆頭のようなものなのだから、深く仕組みを考えたところで徒労に終わりそうだ。
「司くん。司くん、聞こえるかい?」
ダメ元で声をかけてみる。触れても反応が返らなかったところを見るに望み薄だとは思っていたが、本当に声が返らないことを確認すると、いよいよ異変を実感して背筋が冷えた。氷の中にでも閉じ込められたかのような感覚に身を震わせる。
口元に掌を翳しても、呼気のひとつも感じられない。手を首元に移動させてみても、体温と脈のどちらも無かった。ひとつひとつ確かめるほど、そこに生命が感じ取れないことが明瞭になっていく。だんだん自分の体温が石の冷たさに近づいてくるようで、浅く息を吐いた。冷静に対処しているつもりで、きっとまったくそうではない。血の気の引いた指先を幾度か開いたり閉じたりしながら辺りを見渡す。
こんなときに限って、日々賑やかなセカイはしんと静まり返っている。助けを求めに行くべきかという思考が過ぎるも、混乱しきった司くんの様子を思い出すと、この場を離れてしまうのにも抵抗があった。
これほど不可思議な現象だ、やはり原因は司くんの心にあるのだと思っていいだろう。それなのに彼を一人にするのは、悪い方向に働くんじゃないのか。こちらに伸ばすのを躊躇うような位置で固まった彼の腕が、僕を引き止めているように思えてならなかった。
(ここで判断を誤ったら、いけない気がする)
顔を覗き込めば、苦しみを抱えたような表情が現れる。見ているだけでこちらまで苦しくなってしまいそうだった。
さっき、司くんは何を言いかけていたのだろう。セカイがこんな色になってしまった原因に関する問いかけは、たぶん図星だったのだろうけれど。
「こんなことではいけない、このままでは、か……。僕に対して言いたくないことや隠したいことがあったのかい?」
何かを抱え込んで、それを言えずにいた。言葉通りに受け取るならばそういった内容であるようにも思える。想いを隠し続け、気がつかれないようにと振る舞っていた身で言えたことでもないが、こうなる前に頼ってくれていればと考えずにはいられない。それかせめて、言いかけた言葉を、最後まで口にしてくれていたのなら。
……そうできないと、思わせてしまっていたのだろうか。
彼の様子を見れば見るほど、この場から離れることへの抵抗感が増していく。こんな不可思議な現象を前に不安にならないわけもないが、今この選択を、傍らにいることこそが正しいのだと、信じたくなっていた。
「ここに、居るから」
宣言するように口にして、らしくもなく引っ込められている手にそっと両手を伸ばし、包み込むように握った。
文字通り色を失い固まった指先が、ひとつの作品のように見えて、喉の奥が詰まるような心地がする。司くんが常日頃から身なりに気を遣っていることも、美しい指先は努力の証であることも知っている。けれどその美しさは、こんな風にひとところで固まり冷え切るようなものじゃないだろうに。
触れているうちに、冷たかったはずの石の温度が肌の温もりと混ざり合う。僕の手も血が通う感覚は薄れ、ひどく冷え切ってしまっていたけれど、それでも彼に移せるだけの温度は持っていたらしい。
(……あれ?)
握った手に違和感を覚えて、ぎゅ、と握り直す。
未だ血の気が引いているせいで感覚がおかしくなっているのかと考えたが、違う。自分の手よりも、司くんの手の方が僅かに熱を持ちだしている。この温度には覚えがあった。
「司くんの、体温……」
司くんの体温は、僕よりもすこしあたたかだ。今感じた温度は、それに近い気がする。触れたばかりのときには尋常ではなく冷たかったはずなのにと、動揺しながら再度触れ直した。
やっぱり、あたたかい。
手の場所をずらしてみても、僕の手が触れていなかった場所は未だ冷たく固いままだ。握っていた側の手だけが他よりも熱を持ち、そして灰色が薄れてきているように見える。
(僕が触れた場所から元に戻りかけている、のか?)
先ほど握っていたのとは逆側の手をそっと握る。少しの間そのままでいると、ほんのりと温もりが宿った。硬直したままではあるが、他の部位よりは随分とマシである。
このまま触れていれば、もしかすると。そう判断した僕は恐る恐る腕を広げた。触れる面積が広くなれば効率もいい……はずだ。たぶん。
慣れないことに戸惑いながら、司くんの背に腕を回す。司くんは半端な格好で固まってしまっているから、胸元に彼の腕がゴリゴリと当たって若干痛い。片手を肩口まで持ち上げて、肩甲骨のあたりから背中までをゆっくりと摩った。
「戻ってきて。お願いだから」
呟く声は思っていたよりもずっと強く、恐怖と懇願の色を帯びている。ひどく情けない声だと自分でも思うくらいだけど、もう、なんだってよかった。
視線を逸らしたままの司くんの首筋に顔を埋める。仮にこれで司くんの自由や意識が戻ったとして、すごく戸惑わせてしまうとは思うけれど、その『仮に』が達成されるのであればいいじゃないか。
「……いなくならないで。僕に対して何を思っていたっていいから、こんなふうにいなくなったりはしないでくれ……」
彼に熱が戻りますように。自由を取り戻してくれますように。いつもの彼が、どうかきっと、戻ってきてくれますように。重ねた祈りを掌に乗せるようにして、なめらかな石の表面を幾度も摩った。こんなふうになってしまっても彼は綺麗だけれど、いつもの司くんの方がずっとずっと綺麗で、格好よくて、愛おしく、恋しかった。
頭を撫でて、頬を包み、すっと通った鼻筋をなぞる。開いたままの瞼の上にそっと片手を翳してみると、固まった睫毛が掌を押した。少しずつ温もりの宿る場所が広がるのを感じながら、無遠慮なほどあちこちに指先を滑らせる。
(……ここも必要、かな)
少しだけ躊躇ってから、親指の腹を薄く開いたままのくちびるに触れさせた。息をするにも話すにも、生きるためには使う場所。僕があちこち熱を移していった今では、そこは他よりも冷たく固い。
「こんな形で、触れたくはなかったなあ」
それならどんな形で触れたかったの、なんて、浅ましい自分が問うてくる。それを無視して、ただ額と額を合わせて目を閉じた。
「このままじゃショーができないよ。それは司くんだって望んでいないだろう?」
感触だけを頼りに指先を幾度も往復させる。
例えばこれがありきたりな童話なら、キスで魔法が解けたりするんだろうか。いくら僕が司くんを恋慕っているからといって、大切な仲間であり友人でもある彼に、そんな無体は働けないけれど。
「君の、くるくる変わる表情が見たい。舞台の上から客席の向こうまで届く大きな声が聞きたい。ねえ、」
触れる先に少しずつ熱が灯っていく。それでもまだ、指先に感じる呼気は僕ひとりのものだ。
「……好きだよ」
寂しくて苦しくて、口からこぼれたのは、どうしようもない本音だった。
好きだ。仲間としての信頼、友人としての親愛、演出家としての期待、その上恋慕の情まで、すべてを彼にむけている。とても言い表しきれない感情を抱いているくせに、いざ言葉にしてしまえばあまりにも簡素でちっぽけだ。
小さな小さなため息を一つ落として、最後にひとつ唇をなぞる。
指先を離そうとしたその瞬間。
僕のものではない息が、確かな熱をもって、皮膚を掠めていった。
*
青空の下、ひとりで弁当をつつく。今日のランチは途中までひとり、途中からはふたりでとる予定だ。屋上の扉を眺めながら一足先に食事を味わっていると、慌てたような足音と共に、類が息を切らして現れた。
「そんなに急がなくともよかったんだぞ?」
「ぼ、くが、一緒に過ごしたかったからね」
君が空いた時間を僕以外と過ごしていないとも限らないし。荒れた息を整えながら、類は少し拗ねたように言った。
「それはいいんだ。いいんだけど、僕だって司くんの隣に少しでも長く居たいんだよ」
うーむ、と首を傾げる。これでは以前思っていたのと逆だ。こういう駄々を捏ねてしまいそうなのは自分の方だと思っていたが、言われる側になっている。しかも、こんなことを思うのはおかしいと考えていたことも、いざ言われてみれば悪い気はしない。むしろちょっと嬉しいくらいだった。
「司くんはあのとき以来、全然こういうことを言わないけれど……また何か考え込んでしまっているとかじゃないよね?」
「ん? ああ、そういうわけじゃない。良くないことと思い込んでいたが、言われてみれば存外嬉しいものだなと思いはしたがな」
「……それなら、いいんだけど」
類の言う『あのとき』──オレが石になってしまい、類の活躍によって元に戻ることができた事件の後、オレたちは実にさまざまなことを話すことになった。オレの想いのことも、類の想いのこともすべてだ。オレにとっては、類が呼び戻してくれた事実がなんとなく感じ取れていたからこそできた決断だった。
冷たく固くなってしまった体に、心地のいい温もりがじんわりと伝わってきたこと。寂しそうな、苦しそうな声が自分に呼びかけ続けていたこと。それら全てが朧げながら感じ取れたから、戻ってくることができたし、向き合うことができたのだと思う。
遠ざかり靄がかる意識の中、誰が言えたことかという話だが、オレは確かに類を笑顔にしてやらねばと思ったのだ。そしてそれは想いを話し、通じ合わせる中でしっかりと果たされた──と思っていたのだが。
(オレの迷いが晴れたのだと、類はまだ実感していないのか?)
今こうして泰然と構えていられるのも、感情をうまく言葉にできず迷うオレに、類が根気強く付き合って話をしてくれたおかげであるというのに。
これは改めて話した方がいいのだろうな。
隣に座った類の体に軽く身を寄せて、そこにある体温にほっと息を吐く。一度箸を置き、あのな、と口を開いた。
「オレに、好きだと言ってくれただろう」
類の手の中で菓子パンの袋が派手に音を立てた。色の白い肌が僅かに赤く染まるのを見て、喉の奥から笑い声が漏れる。愛おしさから溢れたそれを収め、一度咳払いをした。仕切り直しだ。
「あのとき話した通り、オレは自分の想いにさえも辿り着けていなかった。お前の友情に真っ直ぐ応えられていない、束縛しようとさえするかもしれない……そう考えると自分が許せなかった」
うん、という相槌と共に、類が軽く寄りかかってきた。さらりとした髪が頬に触れるのがくすぐったい。こちらからも体重を預け返すと、類はくすくすと笑った。
「誰より自分を見て、好きでいてほしい。片時も離れず一緒に居たい気さえする、だっけ。言葉にしてもらってみれば、随分と熱烈な告白だったねえ」
「だろう? いや、まあ、そんなこと思い当たりもしなかったし、そのせいでひどく迷惑をかけてしまったわけだが……」
すまなかった。改めて謝罪すれば、ううん、と幼い否定が返る。付け加えられた「次からは話してほしいけどね」という言葉に、深く頷いた。人生には一人で考えねばならないこともあろうが、今回のようになってしまってはさすがにまずい。
覚悟を決めて自分の想いを話したそのときのこと。元に戻ってよかったと、泣きそうな顔で縋りついてきた類の背を摩りながらも、今度は地の底にでも沈んでしまうのではないかというほど重い気分だったのを覚えている。
……それを引き上げてくれたのは類の言葉だったのだが、どうにも本人に自覚が足りないらしい。
「なあ類。あのとき、お前にも以前似た想いを抱えた覚えがあると、それはオレが好きだからだと言ってくれただろう」
「そうだね、ある程度割り切れるまでは。人を惹きつける在り方や、みんなに囲まれて笑顔でいるところが好きなのにって、随分悩んだものだよ」
「だから、もう大丈夫だ」
「うん?」
「オレの想いは類が好きだからこそ生じたもので、類も同じ想いを同じ大きさで返してくれている。類の言葉でそれがわかって、安心したからな」
あの事件からこっち、類は自分の想いを衒いなく示してくれている。今日ここに現れたときの態度も、たった今こうして寄り添ってくれている事実も、オレを想ってくれているからこそのものだ。それを感じ取ってしまえば、そして自分の抱えた想いがそれと同じものだったのだと知ってしまえば、もう迷うこともない。
好きという想いはもっと綺麗なものだと思っていたから意外でこそあったが、考えてみれば古来より恋は人を狂わせるものなのだ。わかってみれば、こういうことかと納得するような心地でさえあった。
「もう既に思い合っているというなら、これ以上悩む必要もあるまい。それに、変に束縛などせずとも、お前はこうして隣に帰ってきてくれるわけだし……」
続きを言うのは少し気恥ずかしくて、視線を弁当箱の中に落とす。すっかり野菜が無くなった弁当は、類が交換をせがんでくることを見越した食べ方をされていて、余計に恥ずかしくなってしまった。
「……もちろん類がさらにオレに夢中になって、オレの隣こそが居場所だと思い続けられるよう、恋人としても努力を重ねるつもりではあるが」
頬がかっかと熱を持っている。類はせっかく開いた菓子パンの袋の口をくるりと閉じて、ぎゅうぎゅうと身を寄せてきた。オレが膝に弁当箱を乗せていなければ、思い切り抱きついてさえいたかもしれない。
少しばかり惜しい気もしたが、昼休みの残りを考えれば、こうしてばかりもいられない。ちゃんと食べろと言ってはみたものの、自分でもそう感じるほど照れ隠しのような声になってしまった。
「フフ、そうだね。僕も司くんに負けないくらい頑張らないと」
「期待してるぞ。……あっ」
ふと、あることを思いついた。
類がどう思うかも知りたくて、凭れあうようにしていた体を起こし、勢いよく顔を覗き込む。
「どうしたんだい?」
「なあ、今のオレなら、恋に悩む男の役も上手く演じられるとは思わないか」
以前はあまり共感できずにいたが、今なら何か掴める気がする。類としては──我らが演出家としては、どう思うだろう。
わくわくしながら反応を待っていると、類は肩を震わせはじめた。
「あはっ、あはは……!」
「な……っ! 何がおかしい!」
「いいや、フフ、あのね」
好きだなあって思ったんだ。
そう言ってこちらを見る類の顔は、とびきりの笑顔に彩られていた。なんの懸念も憂いもない、愛しさや楽しさで満ち満ちた笑顔だ。
(……ああ、これが見たかったんだ)
石の中から願うほど、想いに形がつかない中でも求めるほど、焦がれてならない感情だった。
「ああ。オレもお前のその笑顔が、大好きだ」
言ってみれば、類はニッと笑った。さっきよりもすこし悪戯な顔で。
「ねえ、次は何をしようか?」
「類にも思いつきがあったんだろう? あんな事件で先延ばしにしてしまっていたのだから、そろそろ──」
思考は切り替わり、次のショーのことを考えている。
騒動は終わった。残した傷も重ねた悩みも、役を熟す上での、そして心情を表す演出を考えるにあたっての糧となった。
すべてをショーバカらしく、ショーに繋げて。
そして、この『かつて不可解だった感情』には、収まるところに収まってもらうこととするのだった。