光つかサンプル 梅雨明けの空はより濃く色を増した青を携え、刺すような日差しを地上まで届けている。微かに聞こえる蝉の声に夏の到来を感じながら、類は花壇の雑草をせっせと抜いてやっていた。
軍手やシャツが肌に張り付く。前髪の先から汗が滴り落ちて、帽子を被り忘れていたことに気がついた。ちょうどキリのいいところでもあるし、休息を取るべきだろうか。軍手を外して立ち上がり、脇に置いていたスポーツドリンクの中身を半分ほど一気に飲み干す。
「やあ、お疲れさま」
「先輩? お疲れ様です」
作業に戻ろうとした類に、背後から声がかけられた。緑化委員の先輩だ。作業に戻ることはやめて、声の方に向き直る。
この先輩は自分と同じ日の活動ではなかったはずだが、どうしてここに居るのだろう。首を傾げる類を他所に、先輩は花を見ながら話し始める。
「綺麗に咲いてんじゃん。意外と熱心だよね」
その言葉に、類は今まさに手入れをしていた花を見た。咲き誇る花々が最高のショーを届けられるよう、花壇というステージを整えるのが緑化委員の仕事である。熱心と言われるほど手をかけたくもなるというものだ。
「彼らはこうして咲いているだけで、人々を笑顔にしてくれますから」
ふうん。興味のひとつもなさそうに相槌を打った先輩は、軽く肩を竦めた。
「人の笑顔が好きってやつ? なら例えば、怖い話とかは逆に苦手だったりするの」
「いえ、そういうわけでは……」
いったい何なのだろう。そう話したこともない相手から振られた唐突な話題に、類は疑念を滲ませた。
しかし、先輩は現れてから今までと同じく、類の態度を気にする様子もないままに話を続ける。
「そう。ちょうどいいや。あのさ、この学校の七不思議って知ってる?」
問いかけながら、先輩は振り返いた。その顔を見た類は思わず目を見開く。
……誰だ、これは?
委員会の先輩だと思っていた。その確信を持って接していた。それなのに目の前の人間が誰だかわからない。
それも、ただわからないだけではなかった。顔の、どころか個人を判別するに足る特徴が一切捉えられない。表情のみが曖昧に伝わってくるばかりで、顔立ちも髪の長さも体格も何一つ認識することができない。持つ特徴は、人の形をしていること。ただそれだけの、人間とはとても思えない、ただのヒトガタとしか言いようのないモノがそこに立っている。
「あなたは……誰、なんですか」
「どうでもいいよそんなこと。ねえ、聞いてよ。聞いてくれるよね」
喉の奥で息が詰まる。うだるほどの熱気の中で作業をしていたはずなのに、鳥肌が立つほどの寒気がする。
異様だった。何もかもが。
これを〈誰〉だと思っていたのだろう。これは一体〈何〉だというのだろう。なぜ今まで気がつかずにいられたのだろう?
数多の疑問と違和感が類の脳内を掻き回し、怖気と吐き気を齎した。識るべきではないと本能が警鐘を鳴らしている。有り余る好奇心を捩じ伏せるほどの危機感に、急速に血の気が引いていく。逃げなければ。そう思うのに、足が竦んで動けない。汗が背を伝う感覚だけが、妙に鮮明だった。
顔を青くし、身を固くする類の前で、〈先輩〉は笑顔の形に口を開く。
「──七つ全部を知らないと、■■■から出られなくなるんだって」
アハハハハッ!
虚ろに笑う男のような女のような幼く老成した若々しい真っ直ぐにひずんだ声が、耳を頭を反響する。目の前のヒトガタが揺れる。ヒトとしての特徴どころか景色との境目すら曖昧にして、ゲラゲラと笑う。笑う。笑う。
その奇怪な哄笑は、類の浅い呼吸を塗り潰すように響く。思考全てを侵されるような感覚に視界はみるみると歪んでいき──気がつくと、類は真っ暗闇の中で固い椅子に座っていた。
「…………ッ」
動揺に息を詰め、周囲を見回す。視界は闇に包まれているが、目の機能に異常があるわけではないらしい。類自身の手をはじめ、近場のものは朧げに見えている。遠くの物の判別はつかないが、座った椅子のよく知る感触と目の前に置かれた机の存在から、学校内のどこかの教室であることだけがわかった。
ついさっきまで中庭に居たはずなのに。まるでセカイにでも入ったかのような非常識な移動だ。そう思考した類は、汗に濡れたシャツの胸元を掴んで首を横に振った。類の知るセカイは、あんな悍ましいモノと結びつくような場所ではない。
なら、この現象はいったい何だというのだろう。
徐々に闇に慣れてきた目を凝らす。周囲の様子を把握できもしないまま移動する気にはなれない。整然と並んだ机と椅子は部屋の前方中央側に向かうように僅かに弧を描いて並んでいるようで、その配置に類はハッとした。……音楽室だ。
そうとわかると、曖昧だった遠くの物の輪郭も先程よりはっきりと見えてくる。机と椅子の向いた先、小さな舞台の上に堂々と置かれた物体はグランドピアノだ。明るい中で見る艶やかな姿とは異なり、一切の光を吸い込むように重い存在感を放っている。その姿がどうにも不気味に感じられて、類は眉を顰めた。
何の部屋かわかれば後は出るだけだ。奇妙な現象を探りたい気持ちがないと言えば嘘になるが、〈先輩〉の件の後ということもあってこれ以上関わりを持ちたくない思いの方が強い。類は静かに席を立ち、扉がある方へと足先を向けた。
扉は部屋の前方、舞台の脇にある。扉に近づくにつれ、ピアノにもまた近づく。
その存在感を無視しきれずに視線を向けた類は、ふと違和感を覚えた。グランドピアノの大きな蓋、正確には屋根といっただろうか、それが開いている。こういうものは、使わない時は閉じてカバーを掛けておくものではなかったか。
生じた違和感に誘われるように目を凝らすと、さらに不思議なものが見えた。ピアノの向こう側、奏者の席に、人影が顔を俯けて座っている。真っ暗な部屋に佇む様は不気味であるはずなのに、〈先輩〉に対して感じた異様さのようなものは感じ取れない。伸びた背筋に親しみすら覚えるのはその姿勢の良さに思い浮かぶ顔があるからだろうか。
いいや。類は胸中で呟く。〈先輩〉も最初は何も違和感を抱かせなかった。抱いた印象など、今は信じる気も起きない。あれが顔を上げて類の存在を認識すれば、どうなるかわかったものじゃない。類は息を潜めて人影から視線を外し──その瞬間、ガン、と叩きつけるような轟音が音楽室に響き渡った。
鼓膜を破らんばかりの音は、不意打ちで殴りつけるかのような衝撃を齎した。耳と頭に走る痛みと前触れなく響いた轟音に対する動揺に、類は思わずたたらを踏む。その足は着地する先を見失い、一脚の椅子を蹴飛ばした。不協和音のかたちを残した残響に椅子が倒れ込む音が鈍く重なる。
(しまった……!)
手足の末端から血の気が引いていくのを感じながら、類は弾かれるように顔を上げた。類の視界の中で、人影はピアノの前に腰掛けたまま大きく手を上に振り上げている。
──ガン!
振り下ろされた手が、鍵盤に叩きつけられた。奏者の指もピアノの鍵盤も壊れてしまうのではないかというほど乱暴に。先の轟音の正体は、この狂ったような行いであったらしい。人影は鍵盤から指先を離して、先程よりも小刻みに、しかし壊れそうな乱暴さはそのままに、何度も何度もその手を鍵盤に叩きつけた。最初に比べて僅かに大きさを下げたピアノの音が、明確に不協和音の形を取って波のように襲い来る。
「……だ、……や……、まれ……」
波の隙間に声が混ざる。ピアノから遠ざかろうとしていた類は、その声を聞き取り、足を止めることになった。
まさか。
焦燥に駆られながらピアノの──人影の方を見る。人影は狂ったような演奏を続けながらも嫌がるように激しく首を横に振り、不協和音を掻き消すように叫んだ。
「ぃ、やだ、止まれ、嫌だ……!」
恐怖に引き攣った声だった。その姿勢の良さから連想した人の、僅かに聞こえた音から予想していた通りの、とてもよく知る声だった。
「──司くん[#「」は縦中横]」
「る、るい? あ、あぁ、あ、類、類っ[#「」は縦中横]」
それしか言葉を知らないような絶叫に、類は舞台に駆け寄り飛び乗った。途中で机や椅子を蹴散らしたような気もするが、構ってなどいられない。
「司くん、いったい何が……」
「止まらないんだ! 止められない!」
類の目の前で、司の手が鍵盤に打ち付けられる。美しく整えられた指先がひどく乱暴に扱われる様に類は息を浅くした。
どうすればいい。近づいて辺りを見渡しても手掛かりひとつ見当たらない。止められないというのなら何かに拘束されているのかもしれないと思ったのに、そういう様子も一切ない。ならどうして。朧げな視界に歯噛みしながら走らせた視線の先で、鍵盤蓋がガクガクと揺れている。
徐々に振れ幅を大きくするその揺れ方に、類はあるものを連想した。暴走した獅子舞ロボの、目の前のものを噛みたくて噛みたくて仕方がないといった動きだ。あれには人を怪我させないような設計を施していたから見守れたけれど、このピアノは違う。揺れる蓋が閉じてしまえば、司の手はきっと容赦なく壊されてしまうだろう。みるみる大きくなる揺れに、もはや迷う時間などなかった。
類は司の背後へと回り、腰に腕を回してピアノから剥がすように思い切り引っ張った。椅子を巻き込んで倒しながらも、思いの外あっさりとその体は類の方へと倒れ込む。
最後まで鍵盤に伸ばされていた指もまたピアノを離れて宙を掻いて。
──その指先を掠めるように、鍵盤蓋が勢いよく閉じた。
ガタガタと不機嫌そうにピアノが揺れる。鍵盤蓋はゆっくりと開閉し、その下で白鍵と黒鍵がデタラメに蠢いては音を鳴らしている。逃した獲物を惜しがるように、そして次こそはと身構えるように。倒れたはずの椅子はひとりでに起き上がり、静かに佇みながら奏者を待っている。
「いやだ……ひ、弾きたくない……」
類の腕の中で、司は未だその手をピアノの方に伸ばしていた。常の自信に満ちた様子からは考えられないほど憔悴した声が、震える唇からこぼれ落ちる。その体がピアノの方に向けて傾ぎ、一歩を踏み出そうとするのを感じて、類は司を抱える腕に力を込めた。どうなっているのかはわからないが、司は自らの体の動きが制御できないでいるらしい。この様子では類が手を離したが最後、本人の意思とは関係なくピアノに引き寄せられていってしまうに違いなかった。
そんなことをさせてたまるものか。類は落ち着かない心臓を宥めるように深く息をした。
「……司くん、君は自分で自分の体を制御できていない。あっているかい」
耳に口を寄せるようにして発された問いかけに、司はがくがくと首を縦に振る。
「う、腕と脚がまだ言うことを聞かない。離さないでくれ、いま離されたらオレは」
「わかった。なら、抱えていくから」
「は?」
「逃げるよ、司くん」
「今なんて……どわあ!」
返事を待たず、類は司の体を肩の上に抱え上げた。ステージに立つために鍛えられた体は相応に重く、抱えながら動くことは難しい。それでも、これ以外に方法はない。もがこうとする司の脚を抑え込みながら立ち上がった類は、勢いよく身を翻し、扉に向かって駆け出した。
「……っ! おい類、ピアノが追いかけてきてる!」
「なんだって」
「ピアノが追いかけてきて……ああくそっ、類を蹴るな、止まれ! オレの脚のくせになぜオレの言うことを聞かんのだ!」
重量のあるものが這い寄るような音と、デタラメに鳴らされる鍵盤の音が混ざりながら近づいてくる。司の脚は類の腕から逃れようと暴れて背後を振り返る隙など与えてくれないから、類が実際に何が起きているかを把握することはできない。しかし、類の行動にふたりの命運が懸かっている、それだけは理解できた。
散乱した机や椅子と幾度かぶつかったが、転びさえしなければなんでもよかった。痛みなど感じる余裕もないまま、類は扉に向かって足を振り上げる。司を抑え込んでいる手は使えない。けれども幸いなことに、この部屋の扉は外側に向かって開くはずだった。
(ここから離れないと。あの音に追いつかれる前に。司くんが連れて行かれてしまう前に……!)
踵にドアノブを引っ掛けるように足を振り下ろし、勢いを殺さないまま外に蹴り出す。鈍く激しい音と共に、重たい防音扉が勢いよく開いた。やったこともないような動きだったがどうにか成功したらしい。一瞬バランスを崩しかけた類は、どうにか体勢を立て直しながら廊下へと飛び出して──二歩。
司の体がすべて音楽室から廊下へと運ばれたちょうどそのタイミングで、司の脚は類を蹴ることをやめた。
「っ、司くん、いきなり止まったけど、まさかまた何か……」
唐突な変化に、類は走り続けながら問いかける。本人の意思を離れて暴れる様も恐ろしいが、それがいきなり消え失せるのも恐ろしい。問いかけに反応があるようにと祈りながら司の体を抱え直した。
「いや、逆だ。体も動くようになったし、追いかけられてもいない……みたいだ」
どこか呆然とした声が返る。言葉に紛れるように、二人の背後で扉の閉まる音がした。
「……。類、下ろしてくれるか?」
背後の狂騒は途絶え、類の足音だけが突如訪れた静けさを乱している。それに気がついて速度を落とした類の背を、司の手が優しく叩いた。もう大丈夫だ、と穏やかに繰り返しながら。
一番恐ろしい目に遭っていたひとが、宥めるように声をかけてくる。
類は声に導かれるように足を止め、司の体をそっと地面に下ろした。そのまま体を離しかけて、しかし再度距離を詰める。立ったまま近づき、さらに背と腰に腕を回したものだから、まるで恋人のような距離感だ。近すぎるほどの距離だったが、今は色々な理由でその距離に居たかった。
演出に用いる装置の取り付けや演技の中で近づくことはあっても平時からこのような密着の仕方をする間柄ではない。そのせいか、司は困惑した様子で類を見上げる。
「類、どうした?」
「もう少しの間このままでいてもいいかい? 君がまた……ああなって、いきなり走り出しでもしたら、今度こそ止められる気がしない」
「なるほどな。すまん、正直助かる」
先程までのあの暴れようだ、すぐに油断することは不可能だった。類の言い分に司はあっさりと頷き、所在なさげに彷徨わせていた腕を類の背中側に緩く回してきた。
他に置き場がなかったのだろうけど、それはどうなのだろう。一瞬強い戸惑いを覚えた類だったが、腕の中と背に感じる温もりに、戸惑いなどすぐ消え失せてしまった。
生きている。
どちらともなく深く息を吐く。腕の中にある体から少しずつ力が抜けていくのがわかる。状況のせいもあるだろうが、抱きしめあうというのはこうも安堵をもたらす行為だったのか。何か大きな発見をしたような気になって、類は思いつくまま口を開いた。
「……こうしていると安心するものだね。世の恋人がくっつきたがるのもわかる気がするよ」
「ああ、……ん、んんっ?」
類の言葉に同意した司の声が、数秒の沈黙を挟んで困惑を纏い裏返る。
類が気がつかないうちに、司の身に何かあったのだろうか。今は些細なことでも気がかりで、類は腕に込めた力を少しばかり強めながら司の顔を覗き込んだ。
「司くん?」
「いや、なんでもない」
「本当に?」
「ほっ……本当に、だ! 気にするな!」
動揺もあらわに言い切る様子に、類は首を傾げる。異常があったという反応ではなさそうだ。どころか、これは、もしかして。
「司くん、もしや君、照れてるのかい」
「気にするなと言っただろうが」
叱り飛ばす言葉はへたな肯定よりもよほどわかりやすい。類はにんまりと笑い、へーえ、とわざとらしい声をあげた。
「恋人なんて例えを挙げたものだから、照れてしまったというわけだ」
なんとも初で可愛らしいことだった。くすくすと笑いながら類は続ける。
「抱きしめあうような距離感の間柄ならなんでもよかったのだけど、親子か恋人くらいしか浮かばなくてね。でも、親子は明らかに違うだろう?」
「いや恋人も違うだろ」
「どちらかと言えばどちらに近いかという話さ。僕らは対等な立場なのだから、恋人の方が近いと思ったんだ」
機嫌よく話を締め括った類に、司はどこか不服そうな目を向けた。ゆるゆると首を振り、疲れたようなため息を吐く。
「言葉選びより、むしろ……」
そう言いかけた司はちらりと類の表情を窺って、結局「なんでもない」とどこか拗ねるように話を打ち切ってしまった。なんでもないわけはないだろうが、今はその先を話してくれそうな雰囲気でもない。
少しからかいすぎてしまっただろうか。類が内心反省したところで、司は先ほどとは打って変わった真剣な表情で口を開いた。
「それよりも、だ。類、オレが蹴ってしまった場所は大丈夫か」
「今のところ大した痛みはないよ。司くんこそ、手は大丈夫かい? ひどく打ち付けていただろう。それにお腹のあたりも……肩に強く抑えつけてしまったから」
「ああ、手は多少痛む気もするが大きな怪我ではないと思う。腹も平気だ。しかし……なんだったんだ、あれは」
ぼやく声はいつも通りのようで、どこか揺らぎが混ざっている。体の制御が効かなくなり、自らを傷つける行動を勝手に取らされるだなんて、どれほど恐ろしかったことだろう。
類にはわからない。わからないけれど、音楽室で聞いた叫び声が答えなのだろうと思う。
「君に気がつけてよかった」
ぽつりと落とした自分の言葉が耳に入って、類はゾッとした。そうできなかった可能性を、改めて明確に想像してしまったからだ。
類がピアノに視線を向けずに去っていたら、もしくは最初に轟音がしたときすぐに逃げていたら、司の声に気がつくよりも前に音楽室を出てしまっていたはずだ。たったひとつ違う行動をしていれば、そうとも知らないままで司を見捨てることになってしまっていただろう。
最悪を想像した類の耳に、硬い声が届く。
「最初は声すら出なかったんだ。出たとしても、思ったようには」
「そう、だったんだね。司くんにしては声が小さいと思ったら」
はじめに聞こえた声を思い出す。ピアノの音に紛れて消えそうになっていた悲鳴は、必死に絞り出したものだったのだろうか。
少しでも司の声の強張りを解きたくて──ついでに己の想像からも逃れたくて、僅かばかりの茶々を入れる。それを聞いた司の口元は淡く緩み、「一言余計だ、まったく」と類を嗜めた。
一度司の顔に浮かべられた柔らかな表情は、けれど、長く続いてくれはしなかった。声の途切れたその直後から徐々に緊張が舞い戻り、唇が薄く開閉を繰り返す。
「……お前が気がついてくれて、本当に助かった。類がいなかったら今頃オレは……」
しばらくの沈黙を挟んで、司はそう呟いた。背に回ったままになっていた司の手が類のシャツを軽く握る。布越しに触れた感触で、その手が軽く震えていたことを知った。
司がこうも怯え弱る様など、類は見たことがない。いつもは大きく見える司の姿がひどく小さく見えて、胸の内がぎゅうと引き絞られるように痛む。
彼は、それほどの目に遭っていたのだ。
類は片方の腕を持ち上げて司の肩や背を撫で摩った。手の震えが止まるまで、そっと、優しく、何度も。そう時間もかけずに司の震えは落ち着き、彼の手は静かに類の背から離れていく。
「……すまん。情けないところを見せてしまったな」
ため息を吐くようにこぼされた言葉はそれでも、先程よりは芯を持った、いつもの司に近い音をしていた。
よかった。安堵に表情を緩めながら、類は首を横に振る。情けないだなんてとんでもない話だった。
「落ち着いたのならよかったよ」
「ああ。まったく恐ろしい目に遭った……。わけのわからんやつに話しかけられたと思えば今度はピアノに食われそうになるし、散々だ」
「わけのわからんやつ?」
どうにも引っかかる言葉が聞こえて、思わずそれを繰り返す。類が音楽室に移動したのは、正体不明の〈先輩〉──司の言葉を借りるのなら〈わけのわからんやつ〉に話しかけられた直後のことだ。
「詳しく聞かせてもらってもいいかい?」
「それはいいが」
司は自分の足を小さく動かして、類の腕を見、最後にちらりと音楽室の方を窺った。
「ずっとこうしているのもなんだ、移動しながらにしないか? 何も起きる様子もないし、今のうちに」
「……それもそうだね。ずっとこのままでいても埒があかないか」
「ああ。ありがとう、類」
音楽室のある方向からは、相変わらず何の音も聞こえない。司の体が不随意に動く様子もない。それを改めて確認して、類は恐る恐る司の体から腕を離す。
類が腕を離しても、司は類の前から動かずにいた。類の強張る腕をそっと撫でた司は、ありがとう、ともう一度繰り返す。
「どうやらもう大丈夫らしい。お前のおかげだ」
「そっ、か」
落ち着いた声を耳にした途端、類の身に襲い来たのは極度の疲労と安堵だった。蹴られた胸と腹がじわりと滲むように鈍い痛みを放つ。膝が軋み、力が抜ける。先ほどは司と類ふたりぶんの重さを支えきっていたはずの足が、類ひとりを支えることすら放棄しようとしている。
ここで油断しきってはだめだ、手を離してしまった今だからこそ気をつけていないと。そんな思考がカラカラと頭の中を転がり回るが、一度脱力してしまった体はどうにも言うことを聞いてくれそうにない。焦りを他所に、類はその場にへなへなと崩れるように膝をついてしまった。
「おい、類 どうした」
「あ、はは……。すまない司くん、なんだか力が抜けてしまったみたいだ。こんなところでこうしていても仕方ないんだけど、どうにも動けそうになくて」
慌てたように自らも屈んだ司に向かって、類は眉を下げて苦笑した。先ほどの司よりも今の自分の方がよほど情けない。
司は元々大きな目をさらに大きく開いて、パチパチと音まで聞こえそうなくらいの瞬きをした。その瞳をほんの数秒思案するように細めたかと思えば、地面に膝をつき、類の方に両手を伸ばす。
「なあ、類。思いついたことがあるんだが、移動する前に聞いてくれるか」
言いながら、司は自分の肩に類の頭を引き寄せた。温もりを伝えるように抱きしめたかと思えば片手を類の背まで下ろし、宥めるように優しく叩く。
「え、っと……?」
「別の話をしたら伝えることを忘れてしまいそうだったからな。なにせ咲希曰く、オレは忘れん坊らしい」
その手つきがどこか手慣れた様子に見えるのは、彼が兄であるからだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、類は司の手を受け入れた。ただでさえ脱力した体から緊張が抜け、いよいよもって立ち上がれない。それならと僅かに動かせる腕を司の背に回し、類は言った。
「……。なら、聞かせてもらえるかい?」
「ああ!」
落ち着かせるために選んだ言葉をかけられているのだろう。そう予想していた類は、司が声音を明るくしたことに驚いて目を瞬かせた。本当に何かいい思いつきがあるらしい。
「さっき、類はオレを担いだままここまで走ってきただろう」
「そう、だね?」
「あれだけ動けるのなら、次のショーではお前の役にももっとアクションを割り振るのも面白そうだと思ってな」
続けられた提案に、類はいよいよ呆気に取られてしまった。脳内にショーバカの五文字が燦然と主張している。
「残念ながら扉を蹴り開けたときの動きがオレからは見えなかったんだが、後でもう一回できないか?」
「それはいいけど、さっきのは火事場の馬鹿力というやつだったからねえ。普段からあれだけ動けるかと言われると」
「む……類は背丈もあるし手足も長いから、きっと映えるだろうと思ったのだが」
「司くんがどの程度の動きを想定しているかにもよるけど、次の練習のときにでも試してみようか」
「おお、本当か?」
「客席からどう見えるか、僕自身がどの程度動けるのか。体力や集中力にどの程度影響が出るか……うん、一回確認しておこう」
話す中でいつのまにやら互いの体は離れていた。地面に膝をついていること以外はすっかりいつも通りに、顔を見合わせながら会話をしている。それに気がついて、類はその顔に笑みを浮かべた。まったく類と司らしいことだった。
いつのまにやら類の全身を覆っていた脱力や途方もない疲労感は拭われて、かわりにどこか浮き立つような高揚が体を満たしている。
「……ありがとう、もう大丈夫そうだ。うちの座長は頼もしいね」
「ふふん、当然だな。立てそうか?」
問いかけに頷いた類が立ち上がろうと身じろぐと、カツン、と足元に何かが落ちる音がした。二人してビクリと身を震わせ、落下した物を注視する。
「な、んだ。類のスマホか」
「どうやらそのようだね。……委員会活動の前に、教室に置いてきたと思うんだけど」
「はあ? なら、なんでここにあるんだ」
「さあ……。僕が置いてきたと思い込んでいただけで実際にはずっと持っていたか、それとも」
さっきから起きているような、超常的な現象なのか。
類はそれを言葉にはしなかった。だが、鍵盤を叩くように軽く指を動かして握り込んだ司を見れば、言わずとも伝わったことは明白だった。
「中身、確認してみようか」
「本気か?」
「あの曲が入ってるんだ。もしも本当に僕のものなら、こんなところには置いていきたくない」
あの曲──セカイに繋がる楽曲は、司が創り出したワンダーランドのセカイは、そこに住まう存在は、類にとってひどく大切なものだ。だからこそ、リスクを取ってでも、の話だった。
類にも一応のところ考えはある。類に話しかけてきた〈先輩〉は、この学校の〈七不思議〉とやらに執着しているようだった。七不思議といえば学校にまつわる何某かであろうことは想像に容易いし、実際に今のところ生じた怪奇現象も、怪異らしきものを生徒と誤認する、音楽室のピアノに操られるといったいかにも七不思議らしいものだ。個人の所有物である文明の利器──つまり落下した類のスマホを触るのは、たとえばどこかの教室に入っていくよりはよほど安全であるように思える。
……神山高校に落とし物にまつわる七不思議があるのなら、話は別になるかもしれないけれど。
「……。わかった。ちょっと待ってろ」
司はそう言うと自分のポケットの中を探った。そこからスマホを取り出して、ライトを点ける。
「ほら、何かするなら手元が見えた方がいいだろう。あと」
言いながら、司は類の片手を握った。
「念のため、だ。何かあれば引き寄せてやる」
その振る舞いがあまりにも頼もしく格好よく見えて、類はくすくすと笑ってしまった。こういうところが好きだなあ、としみじみ思ったからだ。
何を笑われたのかもわからずに眉を顰める司を見ながら、類は繋がれた片手をやわらかに握り返す。
「ありがとう、司くん」
微笑んだまま礼を言って、類はスマホに向き直った。
すぐに拾うことはせず、まずは画面をタップする。ロックの認証も問題なく、壁紙も変わりはない。時刻は十五時台の終わり──この真っ暗闇にはそぐわないが、類が最後に確認した時刻からそう経ってはいない様子だ。入っているアプリや画像、映像も同一。圏外表示が出ておりネットには繋げない様子だが、それ以外には特に問題ないように見えた。
──セカイに繋がる楽曲が、文字化けと通常の表記をランダムに繰り返していることを除けば。
「なんだこれは……?」
「司くん、君の方ではどうなってる?」
類の問いかけに、司は慌てたようにスマホを確認した。プレイリストの最もわかりやすい場所に入れられたそれを見て、司の顔が青くなる。
「っ、オレの方でも同じだ。他は変わりがないのに、想いの曲だけが……」
「同じ、か」
返答を聞いて、類は床に向かって手を伸ばす。その手がスマホを拾い上げようとした、そのときのことだ。
『──かさくん! 司くん、聞……る〜』
『──りとも、大丈……、無事……かい』
ひどいノイズと共にホログラムが展開し、聞き慣れた声がふたつ、二台のスマホから重なるように響いた。司のスマホからはミクが、類のスマホからはカイトが飛び出して、必死な顔で何かを叫んでいる。
「み、ミク 一体どうなって……そっちこそ大丈夫なのか」
「カイトさん! セカイは、みんなは無事なのかい」
焦りのあまり言葉を被せ合うようにして二人はセカイの住民に問いかける。しかし、聞こえていないのか他の理由があるのか、問いに対する答えが返されることはなかった。
『い……かい、絶対に想いを……しちゃダ……だ! 仲間…………なら、君達な……りこ……から!』
『……たりとも、無事で……ね! 絶対ぜっ……想……を、……な人を、離さ……でいてね!』
必死な呼びかけが辺りに響いている。
響いているのに、届かない。
何を言ったのかと聞き返すよりも前に、激しいノイズに呑まれるようにして、音声と映像は途絶えてしまった。
静寂が辺りを満たしている。繋ぎあったままの手はどちらのものとも知れない汗に濡れていたが、類から離す気にはなれなかった。
叩き切られるように沈黙したスマホを今度こそ拾い上げ、類はライトを点けた。音楽室のある階は校舎の中でも高い場所にある。校舎を出るためには階段を降らねばならないから、足元は見えた方がいい。
「なん、だったんだ。オレ達はいったいどうすればいい……?」
呆然とした独り言が聞こえる。ミクのいた場所を見据えたまま、司は瞳の中に困惑を渦巻かせていた。
司はワンツーフィニッシュの冠をつけられるほどの変人でこそあるが、同時にとても現実的な視点を持つ人間だ。意味のわからない出来事の連続に、そろそろ頭が追いつかなくなってしまったのかもしれない。
(それなら、僕が頭の中を整えてあげないとね)
繋いだ手を軽く引くと、司は目を大きく見開いて類の顔を見た。
「状況を整理しようか。君が会ったという〈わけのわからんやつ〉のことも含めて」
穏やかに提案すれば、それだけでも脳内が随分と落ち着いたらしい。「この状況で言うのもなんだが」と前置きをして、司は軽く息を吐いた。
「……一緒にいるのがお前でよかった」
「それは光栄だね。さて、当初の予定通り移動しながら話すことにしようじゃないか」
「ああ。そうするか」
いつもの調子を互いに取り戻しあいながら、二人は階下に向かうべく足を踏み出す。
揃って無事に帰れるだろうかという不安をひっそりと抱えながら、ひとまず今は、笑顔のままで。