連星 天体観測をしに行こう、と言い出したのは行秋の方だった。
「ええと、こっちのツマミを回して……」
「行秋、その望遠鏡の準備にはまだかかるのか」
「もう少し待ってくれ。最新式だから色々と機構が複雑でね」
行秋がいじっているのは望遠鏡、のはずだ。フォンテーヌから取り寄せたものらしい。ぼくが知っているそれよりも随分と複雑で、様々な部品を取り付けたり、細かい操作をしなければならないようだった。迂闊に手を出すこともできず、その様子を横目で見ながらぼくは周りを警戒していた。
雲ひとつないよく晴れた夜で、こんな小高い丘の上からでは望遠鏡なんて無くても月や星がはっきりと見える。空気は冷たく澄んでいて、深呼吸をすればちくちくと胸に刺さるようだ。日に日に寒さが増し、ぼくにとっては動きやすい季節になってきた。惜しむらくはここが宝盗団の出没情報が多い場所だということくらいか。
あれこれとレンズを付け替え、レバーを上げ下げし、行秋はようやく天体観測の準備を終えた。方位磁針片手に望遠鏡を覗き込んでは満足げに頷いている。何がそんなに面白いのかと思ってぼくも夜空に目を向けてみたが、名もない星たちはただ一様に輝くばかりだ。
「重雲、重雲。君も見てごらんよ」
付近に怪しい気配が無いことを確認してから、行秋と場所を代わる。少し中腰になって覗き口に目を当ててみた。
レンズ越しに夜空を眺めてみれば、なるほど、一つ一つの星の様子がはっきりと濃紺の背景に浮かび上がって見える。倍率は適度に調節されていて、数個の明るい星のまとまりと、その後ろにきらめく無数の星が視界に入っていた。
「すごい……手に取るように見えるな」
「だろう? 本当はもう少し倍率を上げることもできるけど、今夜は星座を見たかったんだ」
ぴたり、とぼくの肩に肩をくっつけ、行秋は望遠鏡の向いている先を指さした。布越しに体が触れた瞬間、不快ではないのに肌が粟立って、星空に集中しようとしていた心がばらばらになってしまう。
「ほら、あれが君の星座、乾坤鋒座だよ」
「あ、ああ……」
「あの中でいっとう明るい星を結べば、剣のような形に見えるだろ」
「お前の星座は、ええと、どの辺りにあるんだ?」
「錦織座かい? ちょっと待ってくれ、あっちの方角だから……」
行秋はぼくの求めに応じて角度や向き、ピントの再調節を始めた。その隣でぎこちないため息をつき、あてもなく夜空を見上げる。一度目を離してしまうと、ぼく自身の運命を映す星座――乾坤鋒座は星の海に紛れてしまった。
最近はどうしてか、行秋がそばに来ると妙に緊張してしまうのだ。さっきも観測に集中できていなかったが、気付かれてはいないだろうか。……いや、聡い彼のことだから、きっと全て理解した上で黙ってくれているのだろう。ぼくの知らないことも全部知っているはずだけれど、それを直接聞いてしまうのは少しもったいないような気がした。
錦織座は乾坤鋒座より西にあったようだ。星図のようなものと望遠鏡からの眺めを見比べて行秋は確かめる。何度目かの往復を経てから、ぼくも錦織座の観察を許された。
「左下から時計周りに明るい星を六つ結んだのが、錦織座だ」
「……あれ、か。確かに織物のように見えなくもないな」
ひときわ強い光を放ち、青白く輝く六個の星たち。あれが行秋の星座。彼の運命を示すもの。織物のよう、とは言ったものの、じっと観察してみれば、閉じた本のようにも見える。後者であればいいと願った。彼の行きつく先が、絹織物とモラのみで閉ざされてしまわないように。
望遠鏡から顔を離し、己の目で星を見上げてみる。今度は広大な空の中でも錦織座の場所がはっきり分かった。そのままぼう、と眺め続けていると、ぼくと入れ替わりに望遠鏡を使っていた行秋があっと声を上げた。
「どうした?」
「いいものを見つけたよ。ほら、あの右下の」
倍率を調整した望遠鏡を覗くように促される。
「よく観察すると、二つの星が連なっているように見えるんだ」
「一つの星じゃなかったんだな」
「うん、双子星だね。これは望遠鏡が無かったら気付かなかった」
わざわざ取り寄せた甲斐があったよ、などと行秋は弾む声で言う。ぼくは内心気が気でなく、独り言じみたそれにあいまいな相槌を打つことしかできなかった。なにしろ後ろから肩に手を置かれ、ほとんど抱きしめられているような格好になっているのだ。眼前の連星も、彼の言葉も、何も頭に入ってこない。
喉に食べ物を詰まらせたように胸が熱く、苦しい。意識していないと息の吸い方を忘れてしまう。外気との温度差が痛いくらいに熱いのに、陽気が度を越えて膨れ上がることはなく、行き場のない熱に押しつぶされそうになる。
「――重雲、ねえ、聞いてる?」
軽く肩を叩かれて我に返る。振り返ってみれば、星よりも強い光で金色に輝く二つの瞳と目が合った。
「……すまない。途中からあまりよく分からなかった」
「まあ、そういうところだと思ったよ」
苦笑しながら行秋はぼくの手を取り、例の双子星の方向を示した。触れているのは手の甲だから、手汗をかいていることはばれていないはずだ。
「とにかく、あれは二重星で、僕の星座は実は七つの星で構成されていたということさ」
そうか。行秋がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
◇ ◇ ◇
「そりゃ恋だな」
「恋だよ」
「恋ですね」
ぼくの話を聞き、辛炎、香菱、雲菫の三人は口を揃えてこう言った。呆れたような視線を投げかけてくる三対の目は圧迫感がある。
ぼくはキャベツを刻む手をいったん止めた。いつもアイスを作ってくれているお礼に、今日は香菱の料理の下準備を手伝っているのだ。包丁を置いて顔を上げれば、三人の圧を直に受けることになり、ますます肩身が狭くなっていく。
「そう、だろうか」
「そうじゃなきゃ説明付かないよ!」
「ええ。その人の隣にいると体が熱くなって、緊張してしまうんでしょう? 彼のことが嫌いでないのなら、間違いなく恋です」
辛炎も雲菫の言葉に同意したように頷いている。
「恋……」
「まさか知らないってわけじゃないよな?」
その問いかけには首を横に振って答えておいた。ぼくもそのくらいは知っている。行秋にせがまれ、恋愛小説を朗読させられたことも一度や二度ではない。けれど自分のこととして口にするその言葉は、まるでスメールの学術用語のように、今までの人生で聞いたこともない奇妙な響きがした。
彼女たちの話を聞く限り、どうやらぼくは、行秋に恋をしているらしい。
「あれが恋なのは分かったが、これからどうすればいいんだ?」
「うーん、そうだね……まずは行秋の気持ちを確かめてみるとか?」
「アタイもそれでうまく行くと思うぜ! きっとあいつも同じ気持ちだ」
「それで恋人になってしまえばいいんです」
優雅に茶を飲みながら、雲菫がにこりと笑って締める。恋愛感情を素直に認めた途端、三人は先ほどとは打って変わって優しい表情になっていた。と、言うより生ぬるく見守っているような、どこか面白がっているような様子だ。これはこれでまた居心地が悪い。
恋という概念そのものも、恋人になるということも、まだ漠然としていてつかみどころがないように感じる。けれどそれは決して不快なものではなく、分からないなりに希望が持てるものだった。行秋と寄り添って、声を潜めて笑い合い、手を繋ぎ、肩を抱き合ったなら……。そこまで考えたところで頬が熱くなってくるのを感じ、体質に差し障りないように無理やり想像を中断した。
「そう上手く恋人になれるものだろうか」
「きっと大丈夫だと思いますよ。行秋さんだって満更でもない様子ですし」
「バレバレだよな」
「そ、そうなのか?」
「……君たち」
三人との会話に、層岩巨淵の底から響くような、ドスの効いた声が割り込んできた。振り返ってみると、藍色の影がふるふると震えているように見える。ああ、そんなに力を込めて握りしめていたら、お前の大事な本が傷んでしまうじゃないか。
「そういう話はせめて、本人がいないところでやってくれるかい!?」
「あら、聞いていらっしゃったんですね。てっきり読書に集中しているものかと」
わざとらしい笑みの雲菫を睨みつける行秋の顔は、心なしか頬が紅潮しているような気がした。珍しく照れているのだろうか。その困ったような表情をぼんやりと眺めていると、ぼくの方にも鋭い視線が飛んできた。
「そもそも重雲……! 君が変な話を始めたのがいけないんだ!」
「変な話とは何だ。真面目な相談だっただろう」
「本人の前で恋愛相談を始めるやつがいるか!?」
「あれが恋だとは知らなかった」
「だけど――」
段々と行秋の語気が荒々しくなっていく中、ぱん、と乾いた音が響いて、ぼくたちは一瞬怯んだ。間に割り込んだ香菱が勢いよく手を叩いたのだ。彼女は腰に手を当ててぼくたちの顔を見比べた。
「もう! 二人とも喧嘩しないの!」
「喧嘩なんて、」
「少なくとも行秋は喧嘩腰だったな」
外野の辛炎からもそう冷静に指摘され、行秋はどこか悔しそうに口をつぐんだ。自覚はあったようだ。
「こうしたらどうでしょう? 香菱さんのお手伝いはまた別の機会にするとして、お二人でよく話し合ってみるというのは?」
「この調子じゃ、ここのキャベツを全部千切りにするまでに一ヶ月はかかりそうだしな」
「うんうん。二人で仲直りしてからまた来てよ!」
「え? ちょ、ちょっと、押さないでくれよ……!」
外野その二、雲菫の提案に同調した女子二人に押され、あっという間にぼくと行秋は万民堂から締め出されてしまった。香菱も辛炎もにやにや顔で入口に仁王立ちになり、ぼくたちを中に入れてくれるつもりはないらしい。彼女たちもこう見えて力が強いのだ。強行突破しようとすれば各々の武器を持ち出す大惨事になるだろうと考え、ぼくたちは仕方なくその場を離れることにした。
空には薄く雲がかかり、涼しい風が吹いていて、散歩するには最適の天気だった。せっかくなら街の外に出よう、という話になり、橋を渡って街道の方へ歩いていく。いつもよりもずっと、お互いに口数が少ないのが気恥ずかしい。行秋は歩きながら、適当に道端の小石を蹴飛ばしていた。
しばらく進んだところで座るのにちょうどいい岩を見つけ、そこに腰を落ち着けた。隣同士、肩が触れるか触れないか、という距離が、ぼくたちの関係のむず痒さを表しているような気がした。
「行秋、」
「あのさ、重雲、」
口を開いたのはほぼ同時だった。お互いにつんのめってしまった会話を間に挟んで顔を見合わせ……そして、また同じようなタイミングではにかみながら頬を緩める。
「……ふ、ははっ……」
「はは……」
「……ねえ。僕たち、話すタイミングも一緒なら、何を話そうとしているかも同じなんだろう?」
「ああ。多分」
行秋は断りもなく手の甲に触れてきた。すりすりと指先で慈しむように撫でられると、触れ合いを想像していた時よりもずっと、痺れるように熱くなる。その指が微かに震えているのを感じ取り、彼もぼくと同じように緊張しているのだと知った。これもまた、二人同じだ。
小さく頷いて続きを促す。決定的な言葉を言う役目は、行秋に譲ってあげた。
「僕は、君のことを……友達以上に思っている。勿論、無二の親友だとも。……君は、どうだい?」
「お前はぼくに道を示してくれた特別な友人だ。恋い慕っている、のだと思う」
そう素直な気持ちを口に出せば、行秋の金の瞳に宿る光が一段と強くなった。蕩けた蜂蜜のように熱っぽく輝く。
「……こういう時、気の利いた詩の一つでも詠めればよかったんだけどさ。頭が真っ白で、何も思いつかない」
「お前にもそういう時があるんだな」
「どういう意味だよ、それは」
周りに誰もいないのに、二人で声を潜めて密やかに笑う。草葉を巻き上げる風が吹いても、粘つくような甘ったるい雰囲気は吹き飛びそうになかった。触れ合わせていた手をどちらからともなく絡め合わせ、亀の歩みよりも遅い速度で距離を詰めていく。浅い呼吸を繰り返す行秋の吐息がかかり、反射的に目を閉じた。
「ん……」
「……、っ」
予定調和的に唇と唇が、触れる。
……その柔らかさ以外、熱も、高揚感も、何も感じなかった。