一
「しばらく家を空ける」
父からの思いがけない言葉にしばらく瞬きを繰り返した。
いつもと変わらない日だと思っていた。まだ暗いうちに身支度を整え、家の雨戸を開け、朝餉の準備をする。空が白み始めた頃に門を開ける。兄の無事を願いながら、淡く兄からの便りはないかとしばし空を見上げてから門前の掃き掃除をする。終われば、米を炊き、野菜を切り、味噌を溶かす。出来上がった朝食を膳に乗せ、父に襖の外から声をかける。返事がない日もあるが、概ねは何かしらの反応がある。起床が分かれば、膳を運んで部屋の前に置いて、下がる。そして、自分の膳を持って床の間に行く。毎朝、そうやって始まっていく。今日のそのつもりでいた。
「運ばなくていい。そちらで食べる」
毎朝の挨拶共に、朝餉をお運びしてもよろしいでしょうか、と声をかける。大抵は、ああ、だの短い返事があるだけだ。承知しました、と条件反射で返事をしてからようやく父の返事の中身を理解した。驚きはしたが嬉しくはあった。まともに食事を取らない日も多いので、食べてくれるだけで安心するのだが、今日に限っては共にしてくれると言うのだ。きっと会話はないだろうが、そばにいるだけで十分だった。
しかし、予想外のことだった。静かな食卓であったことは確かだが、父からの言葉はおよそ理解が難しかった。正直に言えば、一日や二日程度であれば父がいないことは稀にあった。何処かで飲んで帰れなくなくなってしまうのか、それとも思い出深い家にいるのが辛い日もあるのか。父の辛さを共感するのは千寿郎には難しく、心配や不安がないわけではないが柱までになった御人だ。今でも凡人の自分よりはよっぽど頑丈で強いはずだ。そう思えば、出歩くのも容認することしかできなかった。だが、わざわざ不在を宣言するのは珍しい。よっぽどの用事なのだろうかと言葉に詰まってしまった。
「頼まれ事でな。断れなかった」
息子の疑問を読み取ったのだろう。はっきりと内容を言わないのは鬼殺隊に関係することか、あるいは父母の親戚筋からの依頼だろう。それであれば千寿郎は、これ以上追求することはできない。
「分かりました。どれほどでしょうか?」
「三ヶ月…四ヶ月になるかもしれないな」
「そんなに長くですか?」
自分で思っていたよりも素っ頓狂な声が出た。それは確かに伝えておかないと行けない期間だった。幼い頃、まだ父が炎柱であった頃には長期間の不在もあったが、兄が家を出るようになってからは引退したこともあって、何ヶ月どころか三日を超える不在はなかった。保おけている千寿郎に、畳み掛けるように意外な言葉続いた。
「その間、杏寿郎のところにいろ」
「兄上の、御屋敷ですか?」
炎柱に就任してから、兄は専用の御屋敷を与えられた。数度、千寿郎も訪れた事がある。稽古場が併設されており継子が入れば共に住み、時に隊士の臨時の宿泊施設にもなるそうで想像よりもずっと大きかった。だが兄には継子がおらず、誰もいない柱の屋敷に隊士が出入りすることは滅多になく、広くて綺麗ではあったがたった一人で滞在するには些か寂しい印象を受けてしまった。滞在人数だけで言えば生家ともそれ程変わりないが、母や家族の残像があるだけ、やはり生家には温かみがあるように千寿郎にも感じられた。
「ですが、兄上もお忙しいのでは」
「今は鬼が静かな時期だ。毎日は屋敷にいないだろうが、ここにいるよりはましだろう。あいつも了承している」
そんな時期があるのかは千寿郎にはわからなかったが元柱の父が言うのだから、きっとそうなのだろう。それよりも何時の間に兄と文のやりとりをしていたのか。
知らない間に二人で自分の処遇を決められていたことが気にならないかと言えば嘘になるが、理由はなんであれ兄を遠ざけがちの父が自ら兄に連絡をしていたことは喜ばしいことだと思えた。
「出立は三日後だ。準備をしておけ」
「準備ですか。ええと……」
急な話の数々に、千寿郎の頭は上手く回ってくれなかった。兄の屋敷に赴くこともまだ消化できていないが、さらに三日後は些か性急な日程だった。
「学校を休むことになるし…お前は近所付き合いもしているんだろ」
ぶっきらぼうな口調ではあったが、さきほどから己の思考を読み取って発せられる言葉に、無意識のうちに感嘆で口が開いていまった。そうだ。三月も四月も不在になるのであれば、日頃から千寿郎を気にかけてくれている周囲の人たちに事情を話しておかなければいけない。いつの間にか父は膳を空にしており、もう話すことはないと伝えるように立ち上がって部屋を出ていってしまった。ぼんやりと父が座ってた場所を眺めながら、ふつふつと喜びがわいてきた。だが、まずは朝食を食べなくてはと気づき、慌てて米を掻きこんでいった。
そんな大事な話を突然話すなんて、という苛立ちはほんの少しだけあった。しかし、それよりも日頃は存在を無視されているかのように接されている父が、兄と連絡を取りきちんと向き合って話してくれたことの方が嬉しかった。それに、兄の側に何ヵ月もいられることに、本当は飛び上がってしまいたかった。鬼殺隊入隊後、徐々に会えない日が増え、柱に就任してからは年に片手で数えるほどしか顔も見ていない。今だって前に会ったのは何時だったか。それが三ヶ月以上も一緒に住めるというのだ。皿洗いをしていても学校に行く準備をしていても、口元が緩んでしまうのが止められなかった。文字通りに跳ねるように学校まで駆け出していた。
先生に事情を話せば、普段から煉獄家の複雑な家業をそれとなく理解しているため、すぐに快諾され課題まで用意してくれるという。これは学ぶことが好きな千寿郎には有り難いことだった。帰り道に商店街の顔馴染みの店主さんたちにも同じように暫くの不在を告げた。一瞬、心配をされたが、兄の元へ行くことを言うとみんなに、だから嬉しそうなのか良かったな、等と言われて急に恥ずかしくなってしまった。つい喜んでしまっている自覚はあったが、ばれてしまう程態度に出ているのは大いに反省すべきことだ。そんな風に自分は浮かれてしまっているが、はたして兄はどうだろうか?優しい兄が断ることはないだろうが、長期間の滞在は邪魔ではないだろうかと突然不安が襲ってきた。行きとうって変わって重くなった足取りで門をくぐれば、千寿郎の帰宅を見計らったように兄の鴉が舞い降りてきた。足にくくりつけられた文を読めば、不安が霧散していった。
丁寧に綴られた文には、父と勝手に予定を決めたことの詫びから始まっていた。しばらくは長期任務の予定もなく、鬼の活動も穏やかなので帰宅できる日も多いだろう、と父が言っていたことと同じことがかかれていた。そして、共に過ごせることを嬉しく思うという文字に、また口元が上がっていく。出迎えができないが翌日の朝は戻れるので芋の味噌汁を楽しみにしている、と細やかな我儘につい笑ってしまった。道中気を付けるように、と結ばれた文を閉じて一度胸で抱いた後、傍らでじっと読み終わるのを待っていた要を見た。
「すぐにお返事を書くから少しだけ待ってもらえる?」
承諾の意で羽を広げたので、急いで家に入り、要用の水と果物を縁側に置いてから筆を取った。いつもなら近況も綴るが、直接話ができるのだから、今日は必要がない。そんなことすら嬉しかった。世話になることの謝罪と礼、少し迷ったが自分も嬉しいことを続けて書いた。そして、朝食を作って待っていると締め、自分の手紙も抱き締めてから縁側に出た。じ止まり木で待っていた兄の相棒が飛んでくると、じろじろと千寿郎の顔を覗き込んできた。
「なに?」
「兄上モ、千寿郎ミタイニ嬉シソウダッタヨー」
言葉の意味に気づいて、ぽんと頬が熱くなる。賢い鴉からのあけすけな言葉は恥ずかしいが、兄と同じと言われて悪い気はしなかった。飛んでいく鴉を見送った後、寺へ向かった。
母の墓に花を供えた後、不在の間の母の月命日の墓参りをお願いしに和尚を訪ねた。慎寿郎の様子を気にかけてくれてる和尚も、慎寿郎が頼まれ事を承諾したことを喜んでくれた。花と線香代を渡す千寿郎の様子に目を細めながら、御母上に似てきましたね、とぽつりと言葉をこぼした。
次の日は念入りに家中を掃除した。仏間でふと母の遺影を見つめた。父の背に向かって母も連れていっていいかときけば、好きにしろと言われた。
「母上、一緒に兄上の御屋敷に参りましょう」
出る直前に包もうと母のお気に入りだったという淡い藤色の物入れを引き出しから出すと、同じ色の数珠が出てきた。なんとなく戻さずに仏壇に並べて置いておくことにした。
さて出立の朝、父を見送るつもりでいたが、それは許されなかった。杏寿郎がうるさいと兄のせいにしていたが、親心もあるのだろう。母の遺影を荷物に入れた後、最後にもう一度仏壇に挨拶しようと座すると、母の数珠が無くなっていた。父が持ち出したのだろう。そのことが、とても千寿郎を安心させてくれた。
「行って参ります」
見送られることに慣れておらず、緊張をしながら頭を下げた。
「道中気を付けろ」
ありきたりの言葉がこんなに嬉しいものだったのか。笑って千寿郎は生家を後にした。
兄への土産を買い求め、車も使い、道中をゆっくりと進んだ。いつもながら学友と机を並べて授業を受けている時間だ。忙しなく行き交う人々を観察するように眺めた。都会を抜け、また郊外を進む。手前で車を降り、残りは徒歩で向かうことにした。屋敷から一番近い商店街を抜ける。こじんまりとしているが、一通りの店が揃っていた。ここに買い物にくるのかもしれない、と考える途端に心が浮き足立ってきた。商店街を抜け、緑が増えてくる。大きなお屋敷が並ぶ静かな場所だ。千寿郎は詳しくはないが、きっとこの辺りは全て産屋敷家の所有物なのだろう。遠目に見覚えのある屋根を見つけ、ほっとした。顔を半分隠した人が門前にたっている。千寿郎に気づくと会釈をされたので、慌てて会釈を返した。額に浮かぶ汗を袖で拭いながら、小走りに近づいた。
残暑が弱まり、季節は秋になろうとしていた。
中略
一月が過ぎた頃、長雨が降った。朝からやむことはなく、一日中どんよりと薄暗かった。杏寿郎は昼過ぎには帰宅すると聞いていたが、戻ってはきていなかった。要からの知らせもなかったが、予定が変更になるのは鬼殺隊にはよくあることだ。兄の屋敷にきてから予定通りに戻ってくることがほとんどだったので、千寿郎も慣れてしまっていたが、本来の姿はこうなのだ。それでも、いつ帰宅をしても良いようにと湯は沸かしていた。雨で身体も冷えていることだろう。しかし、夕刻が迫る頃になれば、今日は続けて任務に行ったのではなかと考えるようになった。もういい加減火を落とそうかと迷いながらも、自分も入れるのだからと、薪を足した。何故か胸騒ぎがした。夜が目の前の雨の中、外に出るのは兄が良い顔をしないと分かっていても戸締まりのためだから、と言い訳をして玄関を開けて、ぎょっとしてしまった。
杏寿郎がぼんやりと空を見上げながら、雨に打たれて佇んでいた。髪も羽織もすっかり濡れそぼり、移動中だけで濡れたとは思えなかった。
「兄上!風邪を引いてしまいます!」
叫べば、杏寿郎が目線を寄越した。まだぼんやりとしていたが、千寿郎を認めると不釣り合いなほど穏やかな顔で笑った。
「ああ、千寿郎。戻ったぞ」
「早く中に入ってください!」
動こうとしない杏寿郎に痺れを切らして、雨に構わず飛び出して手を引いた。抵抗が全くなかったので、杏寿郎はあっさりと玄関に引きずりこまれた。
「少しお待ちください。手拭いを取って参ります」
慌てて洗濯盥と手拭いを持って玄関に戻れば、兄は緩慢な動作で羽織を肩から外していた。開けっぱなしにしていた戸口で水を絞ったので、盥を置いた。こんな時でも羽織を律儀にたたみ、静かに盥に置いた。張り付いて脱ぎづらそうな上着は背中から手助けをした。ぽたりと髪から滴が垂れ、床に落ちていく。
「湯を張ってあります。廊下は拭きますから、そのまま風呂で暖まってください」
手が止まり、ふと考えこまれた。背を向かれているので表情は見えない。小上がりにいるので、普段は見上げる肩が視線の位置にある。湿ったシャツに浮き上がる背中が逞しい、と検討違いのことを考えた。
「ありがとう」
普段は座って脱ぐ草鞋を屈んで紐を解き、片足ずつ足袋脱いでいく。その間も表情は見えず、ぺたりとした足音共に去っていく兄の背中を見えなくなるまで見守った。こっそりと風呂場に行き、聞き耳をたてれば、ちゃんと水音が聞こえてきて安心した。
食事の時も様子は変わらなかった。味噌汁をじっと見つめて一口つけると、噛み締めるように「美味い」と呟いた。いつもより静かな食卓は決して居心地が悪いわけではなかった。ただ、何か心がざわざわとした。
濡れた隊服を干し、湯を浴びて寝床に向かえば兄が縁側に座し、降り続く雨を眺めていた。驚いて立ち止まれば、気配に気づいた兄がまた穏やかな目で千寿郎を見た。
「寝ていらっしゃらなかったのですか?」
「うん、お前を待っていたんだ」
聞きたいことはたくさんあったが、千寿郎も杏寿郎の横に座った。湿った千寿郎の髪を撫で肩にかけた手拭いを取られた。
「お前こそ風邪を引くぞ」
自分でできます、とは言わなかった。優しく丁寧に拭いてくれる兄の手が心地よかった。雨はやみそうになかった。あらかた吹き終わると、兄が頬を撫でた。
「何かご用事がありましたか?」
「一緒に寝ようか思ってな」
「一緒にですか?」
千寿郎は屋敷で兄の隣室を与えられていた。屋敷の主である炎柱の奥方や継子など、近しい者が使う部屋だ。当然、遠慮をしたが杏寿郎は笑ってお前より近しい者などいないだろうと千寿郎の申し出を一蹴した。限りなく他者よりは近い場所にいる。それでも、一緒に寝ることはなかった。そもそも夜半に活動する兄と寝る時間が同じになることは、ほとんどなかった。稀に一緒になる際も枕を並べることはなかった。
「嫌か?」
「そんなわけないです!じゃあ布団を運びます」
踵を変えそうとして、腕をとられた。
「一緒でいいだろ」
「え?」
戸惑ってる間に雨戸が閉められ、雨音が小さくなる。半ば無理矢理立ち上がらされると、手を引かれて兄の部屋に連れて行かれた。まだ戸惑う千寿郎に杏寿郎が微笑む。
「今日は肌寒いからな」
まるで逃げ出せぬように腕の中に閉じ込められ、そのまま布団に寝かされた。明かりを消えると、再び腕の中に囲われた。布団を並べて寝ることはあったが、さすがに抱え込まれて寝るなんて何年ぶりだろうか。兄を呼ぼうと首を動かしかけたところ、兄の顎がつむじに触れた。
「苦しくないか?」
「いいえ」
首をふると兄がほっと息をはいた。どうしたと訊ねたいことは山ほどあるのに、背中を撫でる手の温かさに何も言えなくなった。
「お前は、温かいな」
独り言のような兄の言葉に、鼻の奥がつんとしてきた。おそるおそる杏寿郎の背に手を伸ばして、千寿郎も抱き締めた。頭の上で小さく笑いが零れ、さらに強く抱き締められた。
「兄上も、あったかいです」
「そうか」
ぐりぐりと兄の胸元に額を擦り付けると、痛めるぞと楽しげな声が聞こえた。温かさと とゆるゆると撫でられる背中の感触に瞼が落ちてくる。
「兄上、任務おつかれさまでした」
「うん」
意識が遠のきかける中、ぎゅうと杏寿郎の背中をつかんだ。
「無事のお戻り、千寿郎はとても嬉しいです」
これだけは、と伝えれば遠いところで、兄のうんという声が聞こえて気がした。
「おやすみなさいませ、兄上」
「千寿郎のおかげで、今日は良く眠れそうだ」
ありがとうと言う言葉と共に感じた柔らかい感触が唇だと気づく頃には意識はもうほとんどなかった。眠れない夜があるのですか、聞きたかったが、それももちろん叶わなかった。
翌朝、目の前に杏寿郎の顔があって、千寿郎は慌ててしまった。寝起きの顔を隠そうとして、元気よく朝の挨拶をされた。兄の様子はいつもと変わらず、朝餉はまた大声で「美味い」を連呼していた。そして夜には、また猛々しい鬼狩りへと戻っていった。千寿郎は、いつもよりも力を込めて送り出した。
サンプルここまで。