「じゃあ付き合う?」
「え?」
思いも寄らない返答に、間抜けな声が出た。
「君風に言うならなんだろ、交際?なんでもいいけど、恋人になります?」
師と呼ぶ相手に対して、尊敬や心配や言葉にし難い多くの感情の中に恋慕が加わったのはいつの頃だったか正確には思い出せない。親しいと言い切れるは元級友たちで間違いないが、学校を卒業して次のステージに進んだ彼らとの連絡は頻繁でとは言い難い。そう考えれば、まだ自身が学生時代から今も定期的に連絡を取っている唯一の相手は師であるホークスだ。大戦後落ち着いたタイミングで引き続き教えを乞いたいと頼めば、もうヒーローじゃないよと笑いながらも受け入れてくれた。数多の相談事も、なんでもない雑談も、時には無理をする彼への小言も、二人の間で馴染んできた頃、自分の気持ちに気づいた。
だからといって何かが変わるわけではない。変わったとしたら、ある種ルーティンのように連絡をしていたのを、関係を途切れさせないように意識して約束を取り付けるようになったくらいだ。単なる意識の問題でも、効果は絶大だった。日に日に募る思いが瓦解すると自覚し、ならばその前に思いを告げてしまえとなった。考え抜いて、最終的にはシンプルに『お慕いしている』という言葉にした。返答は望まず、これからも師と仰ぐ許しを得ようとしていたのだ。
「あれ?慕うってそういう意味じゃなかった?」
固まっている俺に、ホークスがポケットに手を突っ込んだまま首を傾げる。
「いえ、合っています」
「そう、なら良かった。なんか停止しているから違ったかと思った」
昼飯の提案をするようにあっさりと、目の前の人が言う。慌てて大きく首を横に振る。元より返事は求めず、もしされたとして優しく感謝の意でも伝えられると考えていた。だからせめてかっこだけはつけようと思っていた。だが、その算段は想像もしなかった彼の返事によって脆くも崩れ去った。どうしていいかわからず、頭を下げた。
「あの…よろしくお願いします」
「はは、なにそれ固いね。はい、よろしくね」
ポンと頭を撫でられ頭を上げると、にこやかに笑う彼の笑顔があった。間違いなく、今までで一番眩しいと感じた。
その後、交際は順調だと言い切れた。その要因の大半は、ホークスのおかげだ。若くしてビルボードチャートで二位まで駆け上がり、その人気が実力だけでなく彼の男性としての魅力も後押ししていたのは世間の知るところだ。恋人にしたいだの抱かれたいだのという女性週刊誌のアンケート通り、彼の振る舞いは理想通りの恋人だと言えた。恋愛に関しての経験値がほぼゼロの自分でも良く分かった。彼の行動は全てがスマートだった。これまでもそれなりに親しいという認識があったが、恋人という関係になるとこれほど違うのかと驚いた。ベタベタとするわけではないが、それとなく増えたスキンシップや言動に、特別であることを匂わせてきた。
叶わぬと思っていた未来を歩いている現実に、文字通りに舞い上がっていた。だが、高揚感はすぐに違和感に変わった。彼の全てが芝居がかっているように見えた。当初は、過去彼に寄り添った女性、もしかしたら男性かもしれないが、に対する嫉妬かと考えた。もしくは慣れた彼と比較して、何もできない自分を不甲斐ないと感じたのかとも考えた。しかし、そのどちらも違うと思えた。
では、自分は彼とどうありたいのかともう一度考えた。彼に対しての恋慕は確かにあった。だが、寮生活時代に回し読みをした恋愛系の少女漫画の中にいた恋人たちようでいたいわけではなかった。本当は、ヒーローとして横に並びたかったが、難しくなった。しかし、ホークスは立場が変わっただけで理想への最速を歩んでいるに変わりない。ならば、少しでも彼の理想を実現できる存在になりたいのだ。彼が一番に頼れるヒーローになりたい。ホークスにそう思ってもらいたい。だから、エスコートされる自分は、何処か悔しいと思っても差し支えないだろう。
では、ホークスはどうなのだろうか。
告白を受けたということは、少なからず好意を持たれていると思っていいのだろう。だが、真意はわからない。
大口を開けて笑うのが好ましかった。他愛もない話にも、ホークスは笑ってくれた。級友たちの話を写真を見せろとよくせがまれ、送った。その代わりにとホークスも自分の写真をくれた。パトロール中、休憩と屋根に留まるのが楽しみだった。屋根の上でホークスと話せるのは自分だけだとひっそり優越感に浸った。任務中、初めて横に並べた時、驚きながらも満面の笑みで褒めてくれた。任務終わり、ゆっくりと浮遊する時間は一日のご褒美のようだった。どれも、ホークスの素に見えた。
ふと、気づいてしまったのだ。交際を始めてから、そんなホークスを見たことがあっただろうか。
近づいてきた身体を無意識のうちに押し返した。頬に添えられた手が一瞬固まり、すぐに後頭部を撫でた。ホークスが少しだけ困った顔をした。
「ごめん、やだったかな」
「いや、違う」
いくら経験が少なくとも分かった。頬に手を添えられ、僅かに力が入り、顏が近づいてきた。恋人という関係を開始されてから三ヶ月。多忙にも関わらず、ホークスは会う時間を増やしてくれた。手を繋ぐ、抱擁する、とステップを踏んでくれた。成人済ということを考慮すれば、ゆっくりと進んでくれた。ならば次は、ということだろう。
「無理せんで」
「そうじゃないんだ」
ただならぬ空気を感じ取ったのか頭をもう一度撫でてから、ホークスの手も離れた。
「聞きたいことがあるんだ」
「ん?」
目を細め、俺の言葉をホークスが待つ。交際を初めてから、ホークスがいつもこういう顔をする。微笑と言えばいいか、そういうどこか貼り付いたような表情だ。
「貴方は、俺のことが好きなのか?」
俺の質問は予想外だったのだろう。瞬きが増えた。
「どしたの、急に」
「いいから、教えてくれ」
気を抜けば声が震えてしまいそうだった。ホークスは、ほんの一瞬だけ迷いを見せてから口を開いた。
「常闇君のこと、大事だよ。嫌いになるなんてないし」
ホークス、の言葉の対義語は好きにはならない。視界が一気にぼやけた。少女漫画の主人公なんて望んでいないと思っていたくせに、この反応はまるで恋愛漫画の主人公ではないだろうか。感情が上手く制御できない。ボロボロと落ちていく涙を止めることも拭うこともできない。
「常闇君」
「恋人関係を解消させてください」
こちらに伸びてきていた手がぴたりと止まった。
「待って、なんて言った?」
「俺からの申し出だったのに、すまない。別れてください」
眉間に皺を寄せ、目が大きく見開いている。ああ、これはきっと素の表情だ。最後に見られるなんて、なんという皮肉か。
「最近、お弟子君来ないな」
減らしたはずの未決裁の箱の上にばさりと書類を置きながら先輩が話しかけてくる。時代はペーパーレスではなかったのか、と疑うほど紙の書類は減らない。
「だから、上じゃなくて下に置いてください。一番下に辿りつかなくなる」
「前は月に一回くらい来てただろ、いつから来てないんだよ」
「話聞いてます?」
「四ヵ月くらいか?」
わざとらしくため息をつきながら箱の一番下から書類を引っ張り出す。用事は終わったはずなのに出ていかないので、これは答えないと駄目なやつだ。
「…半年じゃないですかね」
「そんなにか?他で会ってるのか」
「いや、会ってないですね」
ふうんと、手に顎を当てながら窓の外に視線を移している。数枚捺印をし、ファイルに戻して目の前の人に突き出した。
「はい、これ終わったんで戻るついでに持って行ってください」
「そろそろ会って叱ってもらえよ。酷い顔してんぞ」
ファイルをひらひらと振りながら部屋を出ていく。ドアが完全に仕舞ったの確認してから、椅子の背もたれに身体を預けた。ナガンへの回答は嘘ではない。しかし、真実でもない。お弟子君、つまり常闇が公安のカフェに最後に来たのは半年前だ。その日、常闇から告白を受けた。その後、交際期間中は公安ではない場所で会った。交際期間は僅か三ヶ月。別れてから三ヶ月経つ。そこからは会っていない。最後に会ったのは、別れを告げられた翌日。それが約三ヶ月前だ。
告白自体は思いがけないものだった。しかし、すとんと納得をした。師と呼ばれるほど何かしたとは思っていないが、彼から慕われるのは心地よく、ずっと縁が切れないといいなと考えていた。師弟などという関係性なしに、とても大切な存在だった。そんな彼からの好意に驚きはしたが、受け入れるのは簡単だった。告白は彼からだが、恋人になるのを提案したのはこちらからだった。常闇は恋人になることは考えていないようだったが、戸惑いながらも承諾をしてくれた。あのなんとも言えないはにかんだ表情は今までみたことがなく、素直に可愛らしいと思った。
交際は順調だったと思っている。過去の経験や鍛えられたスキルに、彼の好みを少し織り交ぜて、恋人関係を築いていった。様々な言動に彼は時に喜び、時に恥ずかしがり、反応の良さにほくそ笑んだ。だから、何も間違っていないと思っていた。
だが、キスをしようとして明確に拒否をされた。そして「俺が好きなのか?」と問われた。
俺は、彼の望む答えを返せなかった。それまで必死に我慢をしていたのだろう。決壊したように大粒の涙を零してしまった。そして、別れてくれと言われたのだ。頭の回転の速さには自信があったが、何も追いつけなかった。だが、どこか頭は冷静で、辛い彼には申し訳ないが俺はその涙が美しいと思ってしまった。
その日、泣き止まぬ彼を抱きしめた。拒否をされるかと思ったが、大人しく胸に納まってくれた。泣き疲れた彼を抱え、悩んだ末に抱きかかえて布団に入った。交際中、家に泊まることはあっても寝床はずっと別だった。別れた日、初めて同じ寝所に入った。起きて意識が戻って彼は一瞬戸惑っていたが、嫌がるそぶりはなく、ただ気まずそうにはしていた。そして、いつも通りに丁寧に挨拶をして出ていった。それが最後に会った日だ。
彼の問いかけへの返答は間違っていたのだろう。求められていた答えと相違していたのは、気づいている。だが、実際そうなのだ。はっきりとした恋愛としての気持ちがあったかと言われれば、ない。しかし、告白を受けて恋人になるのに抵抗はなかった。関係性だけでなく、いわゆる恋人としての行動も実に自然にできた。スキンシップだって同じだ。手繋やハグはもちろん、拒否されたがキスだってできる。その先も、男同士だから話し合いが必要だが、常闇がしたい方に任せるつもりだった。それくらい彼になんでも許せる心づもりだった。でも、彼はそうじゃなかった。
モニター下に置かれたツクヨミフィギュアと目が合った。デフォルメされたころりとした見た目が可愛らしく、見ると自然と口角が上がる。その横に、ヒーロー姿の自分のフィギュアが飾ってある。人気の若手ヒーローフィギュアコレクションにツクヨミはじめ元雄英高校A組が選ばれた。自分で購入する予定が、貰って欲しいと本人からプレゼントされた。その際に、昔同じシリーズで出されたホークスフィギュアも渡されたのだ。驚きどうしたのだと尋ねれば、先輩に貰ったと言った。常闇の言う先輩はホークス事務所のサイドキックたちのことで、所長不在ながらも現在も事務所の看板は変えずに運営をし続けてくれている。そんな彼らが、倉庫から探し出してくれたのだそうだ。いつもはっきりと話す彼が、自分と並べて置いて欲しいと控えめにお願いをしれこれば、喜んで承諾した。普段は自分のグッズに興味はないが、常闇からなら別だ。自宅に持ち帰ろうとしたが、一日の大半を過ごす委員長室のデスクへ置くことにした。訪問者に見えず、自分は直ぐに確認できる場所を確保し、並んで置いたのだ。
「お前は横に入られてよかね」
ぴんと指で弾けばぐらりと揺れ、あろうことがツクヨミフィギュアの方に倒れ、一緒に転がってしまった。自分のフィギュアなのに、なんだかむっとしてポジションを戻す。そして、ツクヨミの頭を指の腹で撫でた。
「もう俺は君の横に並べんからね」
失った羽を惜しんだことはない。しかし、ツクヨミと二人で飛んだ空は時々思い出す。空は自分のもので、一人きりだった。そこに彼が突如現れた。まだ一年生だった彼が、来年再来年、そしてヒーローになったら自分とどこまで飛んでいけるのだろうか。そんな夢想を一度もしなかったか、と聞かれたら、答えは否だ。
「それじゃだめなんよね」
窓の外を見た。今日は快晴だった。