この夜を晴らす光 5「あげる」
「なんだコレ?」
屋上へ続く扉前の踊り場は、やたらと音が響く。PCのキーを叩く音さえ耳につくけれど、今日みたいに寒い日は我慢するしかない。
優等生らしく控えめな足音を響かせて階段を上がってきた伊月は、見慣れない大きな紙袋を手に提げていた。紙袋の中から出てきた何か小さなものを渡されて、受け取ったものを見れば、透明のラッピング袋のなかに長方形にカットされたチョコケーキみたいなものが入っていた。
「ガトーショコラだよ」
「……?」
「ガッちゃん。こういうときは斜に構えるより、素直に喜んだほうがいいよ」
「いや、そういうんじゃ……お前……なんだよコレ」
動揺して最初と同じ質問を繰り返していた。
チョコレートだというのは見れば分かる。分かった途端に、混乱した。
今日はバレンタインデーで、ここが男子校とはいえ教室の中はチョコ菓子の交換や彼女自慢の話で盛り上がっていた。だからバレンタインってことで伊月がチョコをくれたのが分かる。そこはいい。だけど、受け取ったチョコがどうも市販品じゃなさそうなことに狼狽えた。
チョコケーキの入った袋の口は溶着されていない。ただ金色の針金で止められているだけ。このサイズの売り物であれば義務として張り付けられているはずの、期限表示のシールもない。おそらく本当はもっと大きな本体から切り分けられただろう断面は綺麗だけど、ラッピングが簡素すぎるせいかケーキの端は少し崩れている。既製品を切り分けて袋詰めした可能性もあるが、だったら普通に小分けして売られているもの――たとえば教室で投げ交わされていたチ口ルチョコとか――を買ったほうが手間がないはずだ。
男子校のバレンタインなんてムサいイベントに、わざわざ手作りチョコなんて用意するか? 手作りだとして、コイツにこんな上等なモノが作れるか? つーか、ガトーショコラってなんだよ? 牙頭になんの反応求めてんだ?
頭の中を疑問に埋め尽くされて困惑の目を向けると、伊月の方も珍しく困り顔を見せた。
「予備校でさ、女子に配られるんだよ。友チョコってやつ?」
「……はあ?」
「女子みんなでチョコ交換して、男子にも配ってくる。断れる空気じゃないから受け取るだろ。そうすると、こっちもホワイトデーに何か返さなきゃいけなくなるわけだ。一人一人に。……なんか恥ずかしいだろ、一ヶ月も経ってから一人ずつにチョコありがとうなんて言ってお返ししてくの」
「へー……お前でも恥ずかしいとか思うのな」
「僕のことなんだと思ってる?」
ハァ、と溜め息をつく姿は、もしもここが教室だったら袋叩きにあったに違いない。モテ自慢。調子に乗ってる。愚痴に見せかけた嫌味。首席様に難癖をつけたがる有象無象の反応は簡単に想像がつく。
マイペースな伊月でも周囲の雑音は鬱陶しいらしく、ウザい絡まれ方をしたときはここで弱音をもらす日もある。自由気ままに周りを動かしているように見えて、ナイーブなところもあるんだと最近理解してきた。あるいは逆か。根が繊細で傷つくのが嫌だから、争いごとを起こさないように周りとうまくやっていく術が身についたのかもしれない。そんな性格だから、大量にバラまかれた義理チョコだったとしても貰っただけで済ますというわけにもいかず、律儀にお返しなんて準備しているんだろう。
「とにかく、そういうことで。今年はコッチも先手を打ってバレンタインに動くことにした」
「先手を打つって、バレンタインに使う言葉かぁ?」
そういうイベントじゃなくねーか、とまた別の疑問が浮かんだが、そのおこぼれで美味そうなチョコレートがもらえるわけだ、口出しするのは止めておいた。
「まぁいいや、サンキュ。……コレ、伊月が作ったのか?」
「あぁ。量があって大変だったから、家族にも手伝ってもらったけど」
チラリと見せられた紙袋の中には、オレがもらったのと同じようにラッピングされたチョコがどっさり詰まっていた。
「教室に置きっぱなしだと、食べられそうだから持って来た」
「あー……正しい」
男の手作りチョコでも欲しがるやつは居るだろうし、女子と交換する予定だと知ったら余計に危ない。見た目も普通に美味そうだし。親に作ってもらったと言われても、親すげぇな、と感心するクオリティだ。伊月が器用なヤツだとは知っていたが、こんな特技まであるとは知らなかった。
「すげーじゃん。売り物みてぇ」
正直にそう思ったので言葉にすれば、伊月は目元を和らげた。
「ガッちゃんのは一番綺麗な形のやつ選んだんだ。特別だから」
「特別?」
「だって、ガトーショコラだよ? 作りながらガッちゃんのこと思い出してたから、一番良いやつあげたかったんだ」
「…………」
今のどういう意味だ?
違和感を覚えて固まる。
バレンタインに特別なチョコレートを渡す相手。
チョコレートを作りながら思い出していた相手。
「……おう……」
踊り場の床は冷たくて、扉に吹きつけてくる風の音も寒さを増長させるのに、首の後ろ側がじりじりと熱くなる。
伊月は特に照れる様子もなく平然としている。だから言葉通り以上の意味はない。理解はしても、つい目が泳いだ。
「ありがとな」
「どういたしまして」
弾んだ声で笑顔を返されて、照れくささを無視してコッチも笑顔を見せる。別にニヤけたわけじゃねぇ。
=== === ===
到着のチャイムが聞こえて玄関に伊月を招き入れると、背中に隠されていた手から花束が出てきた。情熱の赤とまではいかずとも、ランチタイムの手土産にしてはなかなか派手なバラの花束を差し出されて、つい先日バラでも渡して好意を匂わせようかと考えていた自分を思い出してバカ笑いした。
『そんなに笑うなよ。ちゃんとガッちゃんのこと考えて選んだんだぞコレ』
照れて顔を引きつらせる伊月は、耳まで真っ赤になりながら余計に恥ずかしいことを口走っていた。
あんなに分かりやすく照れるところを見たのは、いつぶりだ? オレの前でも弱音を吐かなくなって、ショゲた顔も見せなくなって、感情が死んだ目で澄まし顔を取り繕うように変わって、どれだけ経っていた?
笑いながらも花束を両手で受け取ると、目尻を下げて安心した顔で伊月が笑った。飾らない自然な笑顔が、バラごと抱きしめたくなるほどたまらなかった。
『欲しいもの』と尋ねられて、思わず伊月の目を見たのが良くなかった。一瞬でも隙を見せたら、コイツが見逃すわけがない。言い淀んだことに気づかれた途端、静かな声に探る色が滲んだ。
「……とりあえず、飯冷める前に食おうぜ」
「わかった」
準備していた飯は、伊月が好きな物か好きそうな物で揃えている。
コイツの好きなもの、嫌いなもの、得意なこと、苦手なこと、大概のことはもうなんでも知っている。
伊月が苦手なことはオレが受け持つし、向こうが得意なことであれば口出しせずに任せる。料理に関してはオレのほうが食材の取り扱いに詳しいし、一人暮らしを始めた時期が早く自炊に慣れるのも早かったので、オレの受け持ちだ。伊月は甘いものを作るのが趣味だから、うちのキッチンを貸してデザートを作ってもらうことはたびたびあったが、一緒に料理をすることは殆どない。一緒に作るというのも悪くはないが、オレの性分としてはオレが作った飯を伊月に食わせてやりてぇし、一から十まで伊月が作ってくれたデザートが食べたい。そうやってオレが伊月を満たしてやれること、伊月がオレを満たしてくれることを無意識に確かめてきたのだと、今は理解している。
伊月がオレにくれた幸せを、オレは今までいくら返すことができたか。
コイツと出会うまでは、周囲の誰もがオレのやり方にケチをつけてきたけれど、伊月だけはそうじゃなかった。初めて同じ目線で話し合えた。
コイツのおかげでオレは孤独から抜け出した。冗談や例えではなく、世界が変わった。
誰もが居心地のいい場所を作ろうと夢見て行動しながらも、オレ自身はずっと居心地の悪さを感じて生きてきた。それも目標に向かうまでの必要経費だと割り切っていたつもりだけど、伊月と出会ったことで自分が満たされていなかったことを理解した。目標に向けて確実に成果を出しているはずなのにずっと退屈だったのは、物足りなさを感じていたからだ。
寂しかったんだ。
オレはずっと友達が居なかった。思い出がなかった。
伊月と友達になって、たくさんの思い出ができた。コイツと出会ってから、一人だと寂しいことも、一緒だと楽しいことも、争ったり従わせたりするだけではなく、人を愛することも学んだ。
伊月と出会ったことで、暗闇の中では見えなかったものが、光に照らされて見えるようになったみたいに。伊月はオレの世界を変えたんだ。
「墓まで持っていくことになるはずだったんだがな……」
食後のコーヒーを淹れて、二人でテーブルを挟んで向かい合う。
見つけた瞬間コレだと思ったフラワーアレンジメントは、やっぱり伊月の落ち着いた涼しげな雰囲気によく合っている。バラみたいな洒落た花よりも、ヒマワリの素朴な明るさと繊細で優しい青色が伊月にはよく似合う。
食事中にもオレの『欲しいもの』について探りを入れてきた伊月だが、「長くなるから飯が終わってから話す」と言ったあとは、大人しく待ちの姿勢に徹していた。今も静かにオレの声に耳を傾け、注意深い目でこちらを見ている。
笑えてくる。
全て無価値だなんだと宣っていたヤツが、コイツの『一番大切なもの』の『欲しいもの』を見極めようとして神経を尖らせている。クマの張り付いた青白い顔は変わらないけど、目の色は違う。手強いライバルに静かな闘志を燃やして、ひたむきに努力していた目を思い出す。やっと、また伊月の素直な貪欲さに触れられているんだと喜びが湧いてくる。匂わせるなんて駆け引きを忘れて、ストレートに全部ぶちまけたくなっている。
「お前はオレのダチだ。この先だって、お前とはダチとして楽しくやっていくつもりだ」
いま、伊月にはオレの声がどう聞こえているか。
冷静に言葉を選んでいるつもりだが、いつもより心臓の脈打つ早さが早いことは自覚している。
「……だけどよ、お前のパートナーにもなりたい。ほかのヤツにお前を渡したくないとか、そういうんじゃなくて、他人なんかどうだっていい。単純に、オレがお前に横に居てほしい」
勝った、負けた。どっちが上で、どっちが下。
オレの周りの人間関係は大概それで説明できる。だけど、伊月だけはそうじゃない。ただオレの横に居て欲しい。
「オレはお前に惚れてんだ。ずっと好きだった。お前が欲しい。お前に『生きてて良かった』って、オレが何度だって思わせてやりたい」
伊月が目を見開いている。呆気にとられた顔でオレを見る、その目を真っ直ぐに見つめ返す。
一世一代の要求だ。
「伊月、オレを選べよ」
返事がないまま時間が過ぎていく。
無言で見つめ合っていると気が遠くなりそうだったが、それでも、玄関先で見たようにまたジワジワと耳まで赤くなっていく伊月の反応を見ていると、悪い展開にはならないんじゃないかとイヤでも期待が高まった。