この夜を晴らす光 3高等部に進級すると校舎が変わり、中等部からエスカレーター式に進学した生徒に加えて受験入学組の生徒が増えることで内部にも変化が訪れる。
オレが試験に手を抜くようになったあと、入れ替わりに首席を維持するようになったのが伊月だった。
授業時間が終わってからも教師に質問を続けているガリ勉。
最初に感じた印象はそんなところ。「うるしばら」という初めて耳にした珍しい名字と、男にしては長めのボブヘアに性格暗そうな顔が特徴的で、名前も顔も自然と記憶に残った。
漆原伊月というフルネームを初めて見たときには、名は体を表すとは良く言うものだと感心した。漆塗りの器みたいにカドのない穏やかな雰囲気に、ツヤのある髪と陰気だが小綺麗な顔の造り。伊月という突飛じゃないが誰とも被らない名前も、静かなのにハッキリとよく通る声の印象と合っていた。
だから、いざ初めて話しかけられた時は、予想外にズケズケと距離を詰めてくる言動に驚いた。勉強しかしてこなかったヤツはたいてい声を荒げればビビって関わって来なくなるのに、伊月は微塵も気にすることもなく平然と横に座ってきた。
話す声のトーンは静かで、食べものを口に入れるときも大口は開けずに行儀良く食べる。落ち着いた態度は遠目に見ていた印象と食い違うものではなかったけれど、いきなり人のパンを欲しがるわ、人のことを指さすわ、遠慮なく失礼な物言いをしてくるわ……。
肝が座っているというか、妙な度胸のあるヤツだった。
「やあ、ガッちゃん」
「ぁ?」
レジ袋を提げた手にブリックパックの飲み物を持って屋上へ現れた伊月が、急に妙な呼び方で声をかけてきた。
「牙頭のままでも良かったんだけどさ、ガッちゃんのほうがしっくりくるなって」
「こねぇよ。んな呼ばれ方されたことねーぞ」
「まぁまぁ、僕もいっちゃんでいいから」
当然のように横に腰をおろして、伊月は相変わらずマイペースに話を進めていく。
そういえば、コイツそんな呼ばれ方していたか。変なヤツだが、友達が居ないわけではない。休み時間に教師へ熱心に質問を投げかけているときも周りをクラスメイトに囲まれていたし、下校時間に見かけたときも数人と並んで談笑しながら歩いていた。遠目に見かける姿は大抵コイツも周囲も楽しそうに笑っていて、周りを怒らせたり疎まれたりしている様子はない。「ついていけない」と人が遠ざかっていくオレと違って、周りとうまくつるんでいる。
話していると、喧嘩慣れしているオレよりも案外コイツのほうが煽り性能が高いんじゃねーかと疑いたくなるような発言も飛び出してくるのに、そのマイナス点を差し引いても人の心に入り込んでくる話術があるし、本人に敵意が無いせいで毎回許してしまう。気に入らないヤツには納得するまで刃向かうオレですらこうなのだから、他の連中などコイツの掌で転がされているようなものだろう。
「……伊月でいいだろ。周りと呼び方合わせなきゃいけないルールでもあんのか?」
「いや、こだわりはない。ガッちゃんの呼びやすいように好きに呼んでくれ。ガッちゃんもガッちゃんでいいだろ?」
ここぞとばかりに気の抜ける呼び方を連呼するのでジロリと睨めば、伊月は白い歯を見せて爽やかに笑った。
「ていうか、名前覚えててくれたんだ」
「こんだけ付きまとわれてりゃあな」
「やっぱり情が深いんだな」
「何がやっぱりだよ」
「ガッちゃんは、誰でも利用できるレストランを日本中に作りたいんだろ? そういうこと笑って言えるやつ、偽善者じゃなければただの良いやつじゃないか?」
良くも悪くも、コイツは言い方がストレートだ。バカはバカ、クズはクズ、良いやつは良いやつ。口にする言葉に躊躇いがないので、本心かどうか疑う余地がない。本音を隠して嘘や建前で喋るようなヤツらとは違うのに、よくほかの生徒に混ざってやっていられるなと改めて感心する。
「お前、変なヤツって言われるだろ?」
「変って、誰から見て? 君? クラスメイト? それとも社会一般か? 僕は僕自身が良いと思った通りに行動してるから、自分では素直なやつだと認識してる。僕は全然変じゃない」
「……」
「僕は、結構ガッちゃんと話が合うなと感じてるんだけど、ガッちゃんは違った?」
昼食をレジ袋から取り出しながら、伊月が首をかしげる。そこらですれ違う女子よりも綺麗な黒髪がサラリと揺れると、丸い頭に浮かぶ光の輪も揺れる。
オレが嫌われ者だと分かっていながら、毎日のように絡んでくる変わり者。デリカシーがないのか無遠慮に距離を詰めてくるクソマイペース野郎。なのに、コッチの情報を目敏く察知して心まで正確に読みあててくる。遠慮ないストレートな物言いが的外れでなく的確な場所に刺さるので、苛立つどころかいっそ清々しかった。
「……違わねぇ」
「僕が話しかけに来るの嬉しいだろ?」
調子に乗りやがって。わざとらしく舌打ちを鳴らすと、伊月は可笑しそうな声で笑った。
「アタリ、って顔に書いてある」
「るっせぇな。黙って飯食え」
「っ、あ、痛い、ぶつなよ! 暴力反対」
十六年以上の人生のうち、ほんの少しの時間しか関わっていない相手に自分が受け入れられる異常さを、青春映画ならば運命の出会いと表現するのかもしれない。
でも現実は映画じゃない。オレと伊月は、嫌われ者とクソマイペース野郎が、マイナス同士を掛け合わせたらプラスになるように異常に噛み合っただけ。ちょっと話が合うぐらいで、運命だなんて浮かれちゃいない。
それでも、一人になれるのが快適で使っていたはずの屋上に、今は伊月が現れることを待ちわびているのは否定できなかった。
「そういうの悪いとこだ。照れ隠しにしたって穏便にいこうよ」
「照れ隠しじゃねーわ、イラついてんだ」
「そうそう、こういう方がいいな」
「テメー、何がそうそうなんだよ!」
「あははっ」
フェンス越しの空を背景にして穏やかに笑う伊月は、校舎の中で見た物静かな姿よりも活き活きとして見える。ガリ勉で、クソマイペースで、人のことおちょくってきて、陰気そうな顔で名前に「月」なんて入ってるくせに、ヤケに青空が似合う伊月の笑顔を見ていると怒る気力がなくなっていく。
伊月が居ると、空の青さがやたらと眩しい。
見慣れた屋上からの景色が、妙に晴れ渡って見えた。
=== === ===
賭場に行くことがなくなってから、仕事の能率があがった。
そりゃそうだ。単純にギャンブルに割いていた時間をほかのことに回せるし、生死の絡む緊張感から解放されたこと、なにより、伊月が死ぬんじゃねぇかと危惧していた不安が解消された。常に頭を悩ませていた問題がひとまず好転したおかげで、サッパリとした気分で仕事ができた。
現場から上がってくる報告に指示を飛ばしながら急ぎの書類仕事をさばいていたが、時間を確認すると、そろそろ次の予定に向けて移動した方がいい頃合いだった。
荷物をまとめて場所を移る前に、社内スケジュールに予定が増えていないかPCでチェックする。大きな変更連絡はなく、緊急で対応しなくちゃならねぇ仕事もなさそうだ。
モニターに映る範囲の日には、ビッシリと予定が詰まっている。会議、視察、挨拶周り――仕事で埋め尽くされたカレンダーを少し先へスクロールすると、来週後半に一日だけ、何も予定を入れていない空白の日が現れる。
あちこちに仕事をぶん投げて、どうにか作った休み。伊月がうちに来るまで、あと一週間だ。
ゆっくり二人で食事をして、部屋でダラダラとくっちゃべる。これまでにも何度も同じようなことをしてきたが、今回は少し特別だ。
賭場を辞めて『これから』どうするか。
初めて二人で話しあう機会になる。
「そんな風に生きないでくれ」と、オレはずっと言えなかった。
もしも、オレの言葉で伊月を余計に苦しめることになったら。
もしも、深く傷つけて拒絶されてしまったら。
もしもの可能性に怖じ気づいて、言うべき言葉をかけてやれなかった。
オレもアイツと同じで、不確定な未来に対して随分と弱腰になっていた。
自分にすら価値がないなんて、もう二度と言わせてたまるか。
積み重ねてきた努力が不運のせいで全て無駄になるなんて、そんなことも思わせたくねぇ。
お前には価値があって、お前の努力は胸を張って誇れるものだと、オレが伝えてやりたい。
オレのダチがどんなに素晴らしい人間か、いくらでも聞かせてやりたい。
だから、オレは自分の思いを言葉にしなくちゃならねぇ。
アイツのためにも、オレのためにも。
世間にとって価値あるものをいくら掻き集めたところで、結局オレが欲しいものはアイツだけだった。
たった一人のダチ。伊月に、自暴自棄にならず未来への期待を持って生きてほしい。そのために声援をあげるダチでありたい。
腹の底からそう思っている。これは嘘じゃない。これがオレの本音だ。
だけど――それで全部かと自分に問えば、今まで言葉にできずにいた想いがまだ残されている。
『お前が、僕の一番大切なものなんだ』
伊月の真剣な声に、息が止まった。
沸き上がる気持ちに言葉が追いつかなくて、ただ手をとって、抱きしめて、言葉にならない気持ちを分け合いたかった。
この先、アイツが嬉しいとき、悲しいとき、二人でもっと深く同じ感情を分け合いたい。オレの喜びも伝えたい。体が邪魔になるほど近くで、伊月に触れたい。
もっと伊月が欲しい。ダチのポジションだけじゃなくて、恋人としても結ばれたい。十七年間築いてきた友人としての絆も失いたくないが、恋人としても伊月の隣を独占したい。強欲に伊月のすべてを求めている。
今までは、自分の感情に無意識に嘘をついていた。
だけど、自分が嘘をついていたことに気がついて振り返れば、見ないふりをしてきた違和感にも意味があったような気がしてくる。
目の動き、声の響き、咄嗟の仕草――僅かに垣間見えた友情とは違うもの。大人になってからの伊月は、無意識レベルで本音をうまく隠していたけれど。昔のアイツは良くも悪くも素直で、裏表のないヤツだった。記憶に残る違和感を引き寄せていくと、もしかすると、と期待が膨らむ。
読みにいまいち自信が持てないのは、伊月の恋愛観が不透明だからだ。
十七年の付き合いがあるが、アイツがたった一時でも色恋ごとに積極的になった覚えはない。
高校は男子校だったが、アイツは予備校に通っていて女子とも接点があった。極端な飢えや拒否反応がない分、恋愛に対しても過度な期待や嫌悪を示さず鷹揚に構えていた。周囲には同性に対して興味を持つヤツも居たが、アイツはそっちの恋愛についても関心がない様子で他人事として受け流していた。
『僕が興味あるって言ったら、真っ先に相手として勘ぐられるのガッちゃんだろうな』
なんのタイミングだったか、ゲーセンの中でまるで自分は無関係みたいな顔でそんなことも言われた。
……ああ、そうだ、アイツがゲームで同じストラップを二個落としたから、片方をオレに渡してきたときだ。正直嬉しかったが、携帯に同じストラップをつけるなんてカップルのやることじゃねぇかと渋っていたら、そんな話になっていた。最後にはいつも通りアイツの言い分に乗せられる形になって、ゲーセンで取れたちゃっちいストラップを高校を卒業してからも使い続けていたんだった。
この思い出にしたって、純粋な友情か、そこからはみ出した別のものか、判断に困るラインだ。
大学生になると整った顔立ちに学歴も加わって一気にモテるようになり、女に興味が出るかと思っていたら、寄ってくる女は「学歴」や「弁護士の卵」目当てなのだろうと逆に女に辟易するように変わった。社会人になってからは激務に追われ、恋愛どころではない状態で三十路を越えて今に至る……。
恋人が欲しいとか、結婚したいとか、そういうことを思うだろう時期に何もかも無価値だと考えを拗らせていったため、伊月の恋愛への価値観が分からない。
心境が変わったことで、どんな変化を見せるやら。女に興味を持つようになるか。男がいいと言い出すか。オレはどうかと訊ねたら、どんな顔をするか。
ガキのころの記憶にある違和感だけで、脈ありと判断するのはアホすぎる。
いきなりマジだと迫って困惑させるのは避けたい。とはいえ軽く口説いてみるだけじゃ、戯れ合いの延長だと思われて意味がねぇ気がする。
コッチの気持ちを匂わせて意識させるには、どうすりゃいいか。
……花でも贈るか?
ガラじゃねぇ。このナリで花束なんて、クドすぎて笑えることは分かっちゃいる。
だが、色恋沙汰に関心の薄い人間にも伝わるようにコッチの想いを匂わせるには、手垢のついド定番なアプローチのほうが効くんじゃないか。
ギャンブル卒業祝いとかこじつけて、分かりやすくバラの花でも包んでやろうか。
これから行く先の近場に花屋があったことを思い出して、通りがかりに下見して行くため、さっさと仕事場を出ることにした。