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    🍴「君をつくってくれるのは、」
    2021/5/16発行
    9話後の世界線でつきあうに至る2人
    掲載した15本+おまけ1本のうち8本が読めます

    同じ世界の2人→ https://poipiku.com/1973723/8408259.html

    #ジョーチェリ
    giocelli

    ■定休日のパニーニ

     提げられた「CLOSED」の札を無視して、薫はドアに手をかけてみる。カランカランと軽快なベルの音が鳴りわたった。
    「すみません、今日は定休日で……って、なんだ、薫か」
    「なんだとはなんだ」
     厨房から顔を覗かせた虎次郎は私服姿だ。メニューの試作でもしていたのだろう、店内には香ばしい匂いが漂っている。
    「カーラが瀕死だ、コンセントを貸せ。俺にはアイスコーヒーを」
    「定休日だ、つってんだろーが」
    「金なら払う」
     虎次郎は顔をしかめて溜息をつきながらも、薫に訊いてきた。
    「おまえ、昼飯は?」
    「まだだ」
    「ちょうど新作の試作中だったんだが、食うか?」
     薫がうなずくと、フッと笑って「待ってろ」と奥に引っ込んでいった。
     薫はカーラをいつものコンセントに繋ぎ、カウンター席に腰を下ろす。やがて、虎次郎が皿とグラスを手に戻ってきた。
    「感想を聞かせてくれ」
     皿の上にはパニーニ。具はトマトと焼き魚のようだ。
    「なんの魚だ」
    「グルクマー」
     薫はまずアイスコーヒーのストローを咥えた。虎次郎が隣に腰を下ろしてくる。
    「トルコの鯖サンドを真似してみたんだ」
     じゅうぶんに喉を潤してから、パニーニを手に取る。不躾な視線をなるべく気にしないようにしながら、かじりついた。
    「ん……!」
     皮を香ばしく炙られたグルクマーに、薄切りレモンとトマトの酸味。そこに、玉ねぎ入りドレッシングの複雑な風味が合わさって、絶妙なハーモニーを奏でている。
    「ドレッシングにはバルサミコソースとヨーグルトを使ってる」
     薫は、口の中のものを咀嚼しながらうなずいた。どういう計算と化学反応によって、この味わいが生みだされるのだろう。見当もつかない。
     黙々と口に運ぶ薫の様子に安心したのか、虎次郎も皿のパニーニを手に取った。ひとくちずつが大きいので、薫よりも先に食べ終えてしまう。
    「エスプレッソも呑むだろ」
     最後のひとくちをもぐもぐと噛みしめながら、薫はうなずいた。カーラの充電が終わるには、まだしばらくかかる。
    「で、どうだった?」
     皿に添えられていた紙ナプキンで口許を拭って「悪くはない」と答えてやると、虎次郎は破顔した。
    「おまえが気に入ったなら、メニューに加えて間違いはないな」
     気に入ったとまでは言っていないと反論しようか迷ったが、今日のところは流すことにした。
     出されたエスプレッソのカップに唇をつける。強い苦味が心地いい。
    「薫、今週末のSには」
    「顔を出す予定だ」
     おまえもだろと返せば、虎次郎もゆっくりとうなずく。
    愛抱夢あいつが何を企んでやがるか……分かんねぇうちは、目を離すわけにいかねーからな」
     長らく膠着状態だったS周りの事態が、この春から少しずつ動きはじめている。何かが大きく変わろうとしている予感を、ふたりはそれぞれに感じているのだった。


    ■いつものカプレーゼ

     ぼやけた視界に、駆け寄ってくる虎次郎の姿が映る。
    「薫!」
     その名で呼ぶなと、あれほど言っているのに。まったく、おまえときたら、どうしようもない阿呆だな……力強い腕に抱え上げられながら、薫は意識を手放した。
     次に目を開いたときには、白い天井に白い壁、消毒薬と湿布のにおいに包まれていて、傍らには、心配そうに眉をひそめて自分を見つめている虎次郎がいた。
    「薫?」
     気配に気づいたらしい虎次郎が、ベッドのほうへと身を乗り出してくる。「心配いらない」と言いたかったのだが、喉が乾燥しているせいか、うまく声を出すことができない。
    「いい、いい、無理するな」
     虎次郎の手が、薫の胸のあたりをポンポンと軽く叩く。
    「点滴が終わるまではここにいてやるから、まだ寝てろ。な」
     やわらかなリズムが心地よくて、言われるまま、薫はふたたび目を閉じた。鎮痛薬を投与されているのだろう、あっというまに夢も見ない眠りに引きずり込まれていった。
     朝になって目が覚めて、昨夜のことを思い起こしてみて、終わったんだな……と薫は自嘲混じりに溜息を漏らした。
     まさかボードで殴打されるとは思ってもみなかったけれど、いま薫の胸にあるのは、怒りや悔しさというより、むしろ、すっきりと晴れやかな気分だった。
     ずっと引きずってきた、忘れることができずにいた、愛抱夢への憧れ、青春と呼ぶほかなかった日々。すべてが粉々に打ち砕かれた、その跡地には、それでもなお「あいつは凄いスケーターだ」という消せない銘が刻まれている。
    「俺が、これしきのことで諦めると思うなよ」
     この程度の怪我、さっさと治して、いずれ再戦を申し込んでやるから、覚悟しているがいい。自由に動かすことのできない右腕と左足に舌打ちをしつつも、薫は顔を上げて前を向く。それから――常に自分の傍らにいた男のことを、ぼんやりと思い浮かべた。
    (ここにいてやるから)
     子どもを寝かしつけるみたいに薫の胸を叩きながら優しい眼差しで見つめてきた虎次郎の、眉間に寄ったままだったシワを、想う。
    「……どうしようもない、阿呆め」
     巡回の看護師がやってきて、今日は一日精密検査だと予定を告げられる。
    「朝食が済んだら、迎えにきますね」
     トレーの上に並んでいるのは、食パン、ヨーグルト、ゆで玉子、レタスとトマトのサラダ。ほとんど食欲はないが、回復のために必要な食事だ。左手でフォークを手に取る。
    「…………」
     やはり、病院食はひどく味気ない。彩りもよくない。こんなものだけ食べていたのでは、治る怪我も治らない……内心でぼやきつつ咀嚼に努めるうち、ふいに舌の上に、爽やかなトマトとバジル、瑞々しいモッツァレラチーズの風味が呼び覚まされた。先週、虎次郎の店で食べたカプレーゼの記憶だ。
     そうだ。検査をすべて終えたら、どうにかして病院を抜け出して虎次郎を訪ねてやろう。包帯だらけの薫の姿にまた顔をしかめるかもしれないけれど、おまえが気に病む必要はない、こんなものかすり傷だと見せつけて安心させてやるのだ。


    ■辛口ペンネ・アラビアータ

    ■スタート地点は、/ポーク玉子おにぎり

    ■懐かしのタコライス

     薫に向かう自分の感情が、同性の幼なじみに対するものとしてはいささか特異であることを虎次郎が自覚しだしたのは、高校生になる直前の春休みだった。
     その日も、朝から一日じゅうふたりしてスケートで競いあい、「おまえん家でなんか食わせろ」と横暴なことを言いだした薫を連れて、夕方帰宅した。虎次郎の家は共働きなので、この時間はまだ家に誰もいない。
     冷凍庫にちょうど作り置きのタコミートがあったので、軽く炒めて、トマトとレタスといっしょに米飯の上に盛る。
    「できたぞ」
     行儀悪く椅子の上に片膝を立てて雑誌を読んでいた薫が、顔を起こす。
    「タコライスじゃん」
     挽き肉を炒めるところから自分で作ったのだと言うと、薫は感心したように「ふーん」と唸った。
    「美味い?」
    「悪くない」
     薫の返事に、虎次郎は心の中で「よし!」と快哉を叫ぶ。口に合わなければ、薫は黙って食べるのをやめている。
    「あっつ……」
     食べ終えてスプーンを置いた薫が、手の甲で額の汗を拭った。その手はそのまま首の後ろへと回り、襟足の髪を持ち上げる。
    「ずいぶん伸びたな、髪」
     露わになった白いうなじに、目が吸い寄せられてしまう。
    「夏になったら、ポニーテールにでもするか」
     虎次郎の視線に気づいてか、薫がそんなことを言って笑う。
     曖昧に笑って流したけれど、内心では、白すぎるその首筋を人目に晒すのは、やめたほうがいいんじゃないかなと思ってしまった。どうしてと訊かれても答えることができないから、薫には言わないでおく。

     そんな大昔のことをふいに思い出してしまったのは、大怪我をしているにも関わらず「今夜はSに行く」と一歩も退かない薫の身仕度を手伝わされているせいだろう。
    「もう少し上……そう……待て、引っ張りすぎだ、痛い」
     片手が使えない薫の髪を、虎次郎がまとめ上げようとしているのだが、鏡越しに飛んでくる指示がいちいち面倒くさい。
    「うるせぇなぁ、そんなに文句があるなら自分でやれよ、ヒョロ眼鏡」
    「右手がこの状態でできると思うのか、どあほうめ」
    「手伝ってもらってる立場で、どうしてそこまで偉そうにできるかなぁ」
     どうにかOKが出た。しっかりと紐で結わえられた桜色の毛先が、うなじにはらりと散りかかる。ああ、きれいだなぁと感じ入ってしまい……そんな自分に苦笑する。
     あのころと比べて、少しだけ変わった部分があるとすれば、薫に対する自分の感情を、虎次郎自身が言葉で表せるようになったことだろうか。薫本人に伝えることができるのは、まだまだ先の話になりそうだけれど。


    ■さよならマルゲリータ

    ■ブルーモーメント・カフェラッテ

     懐かしい夢を見たような気がする。ひどく昔の――
     薫は数回まばたきをしてから目を見開き、青白い天井を見上げた。光の筋が走り、カーテンの影が揺れている。顔を窓のほうへと向け、カーテンの鮮やかなオレンジ色を目にして、そうだ、ここは病室ではなく虎次郎宅の寝室だったと思い出す。昨夜は外泊届を出していたので、ビーフのあとは虎次郎の家に泊まったのだ。
     カーテンの隙間から覗いている空は、青から淡い水色へのグラデーションを描いていた。まだ早朝のようだ。寝返りを打って確かめれば、広いベッドの隣に寝ていたはずの虎次郎の姿はすでにない。
     壁一枚を隔てたキッチンではシュンシュンと湯の沸く音がしていた。濃い珈琲の香りが漂ってくる。
     薫はベッドから身を起こし、乱れた髪を軽く手で梳いて束ね直した。足首の具合を確かめてから、壁伝いにキッチンへと向かう。
    「おわっ、びっくりした……もう歩けるのかよ」
     大きな身体を屈めて作業をしていた虎次郎が、物音に気づいて薫を振り返り、心底から驚いた顔を見せたので、笑ってしまう。
    「かすり傷だと言っただろう」
    「さすがは化け狸、すげー回復力だな」
     蹴りつけてやりたくとも、さすがに難しい。奥歯を噛んで睨みつけた薫に、虎次郎は「つーか、まだ寝ててもよかったのに」と椅子を勧めてくる。
    「音で起こしたか? ごめんな」
    「いや、いつもこのくらいの時間には、いちど目が覚める」
     もともと薫は、眠ることが得意ではない。特にこのところは、身体を動かしていないこともあって、寝付きも悪いし、眠りも浅かった。
    「なら、もうしばらく横になってろよ。朝飯のあと、病院に送ってやるから」
     薫は応えず、椅子の背に組んだ腕をのせてもたれた。やっぱ眠いんじゃねーの? と顔をしかめつつも、虎次郎は流し台に向き直って作業を再開する。
    「ほら。これでも飲んでろ」
     手渡されたマグカップをなみなみと満たしているのはカフェラテのようだ。ミルクと混ざりあったエスプレッソの芳醇な香り。熱さを確かめながら口に含んでみた。はちみつで甘みがつけられている。
    「虎次郎」
    「んー?」
     虎次郎の大きな手が、野菜を洗い、卵を割り、パンをスライスする。よどみのない動きに、生きるため日々の糧を扱う、それがこの男の日常なのだと、改めて思い知らされる心地だ。
    「おまえ、どうして」
     俺のためにここまでしてくれるんだ? と言いかけて、いや、この言い様はさすがに驕りすぎではとためらい、カフェラテをひとくち。薫の好みよりもほんの少しだけ、甘い。
    「『どうして』なんて……今さら、んな顔して訊くようなことか?」
     どんな顔をしているというのだ、と眦を吊り上げた薫を横目に見て、虎次郎が微笑む。
    「もしも逆だったら、おまえだって同じことをしてくれただろう?」
     逆だったら? 言われて薫は考えてみる。
     もしも――虎次郎が先に愛抱夢と対戦していたら。怪我を負わされていたら。それでもSを観戦したい、そう言い張ったとしたら。果たして薫は、虎次郎が自分にしてくれたみたいに、勝負の結果を受け容れ、病院に付き添い、不自由な仕度を手伝って、Sに同伴してやることができただろうか?
    「…………」
     薫は顔をしかめて、甘すぎるカフェラテを啜った。
     もしかしたら、虎次郎の言うとおりなのかもしれない。自分たちは幼なじみで腐れ縁で、切っても切れない関係なのだから。
     だが薫には、こんなふうに、あたかもそれが自然な振る舞いかのように、相手に尽くすことはできないに違いない。
    「……自惚れの強いゴリラだな」
     薫の憎まれ口を背中で受け流して、虎次郎は朝食の仕度を続けている。今、顔を見られていなくてよかった、とひそかに自分の頬をさする。
    「決勝戦までには退院する」
    「それを決めるのは、おまえじゃなくて主治医の先生だけどなー」
    「これ以上、おまえの世話にはならん」
    「あぁ? じゃあ、もう差し入れも必要ないって?」
    「それとこれとは……話が別だ」
     笑いだしながら振り返った虎次郎が、両目をやわらかく細めて、薫の顔に手を伸ばしてくる。大きな掌が、ついこのあいだまでガーゼに覆われていたあたりを軽くなぞって離れてゆく。
    「目立つ箇所に痕が残らなくてよかったな」
     薫は空になったマグカップを虎次郎の胸に向かって突っ返した。
    「傷のひとつやふたつは、むしろ勲章だ」
    「さすが、男前だねぇ、桜屋敷先生は」
     薫の手ごと、上から掴むようにしてマグカップを受け取った虎次郎が「リハビリにも付き合ってやるよ」なんて、存外に真剣な目をして言うものだから、調子が狂って、薫も素直にうなずいてしまった。


    ■ふたりでワインを

    ■さくらの心/ティラミス

    【羽田からの最終便で着く。】
     最後の客が満足顔で店をあとにしたので、本日の営業はこれにて終了、バイトを帰したタイミングでメッセージが届いた。ロック画面の通知に、虎次郎は苦笑いを浮かべる。
    【飯は?】
    【済ませた。ワインとドルチェの用意を。】
    「はいはい」
     薫がこの場にいたら「ハイは一回!」とドスの効いた声で凄まれただろう。口調も表情も脳内で完璧に再生できる。そのくらい、互いを知っている。
    【リクエストは?】
     続けて送った質問には返信がない。羽田発那覇行きの最終便を検索してみると、約15分後の到着だった。空港からタクシーだとして、店に着くのは今からおよそ40分後か。
    「毎度毎度……もう少し早めに連絡してこられないもんかね」
     せめて搭乗前に報せてくれればとも思うが、以前そう文句を言ったら「乗るときには寄るつもりなどなかったんだから、連絡できるわけがないだろう」とあきれた顔をされて終わりだった。
     その言い分がほんとうなら、飛行機の中で突然に俺のことを思い出して会いたくなったと受け取るが……かまわないのか? とは訊かないでおいてやる。たとえ駆け引きでも、相手を追い詰めはしないのが流儀だ。
     冷蔵庫を覗く。仕込んでおいたティラミスが目に入った。ドルチェはこれでいいか。ワインは、着いてから選ばせてやろう。
     薫に対して、つくづく甘い自覚はあるが、今さらどうしようもない。もう四半世紀近く、ずっとこうしてきたのだから。
     虎次郎が態度を変えたら薫はどんな顔をするだろうか? と、考えてみることもあるけれど――ちょっと想像がつかないし、もし、もしも、万が一にでも傷つけてしまったらと思えば、試したりなどできるはずがない。
     物思いにふけりながらグラスを磨いていると、ドアベルがカランと鳴った。虎次郎は、ことさらにゆっくりと顔を上げる。待ちわびていた、なんておくびにも出さないように。
    「やる」
     ずかずかとカウンターまで歩いてきた薫が、虎次郎の鼻先にずいっと紙袋を突きつけてきた。珍しいこともあるもんだ、と受け取って中を覗いて、思わず「おお」と声が出た。そっと取り出してカウンターの上に載せる。掌ほどのサイズに仕立てられた桜の樹だ。花も咲いている。
    「盆栽か。見事なもんだな」
     薫は椅子に腰を下ろすと、頬杖をついて虎次郎を見上げてきた。
    「向こうはちょうど満開だった」
    「それで、これを?」
    「いや、それはもらったんだ」
     わざわざ土産にしたわけではない、と言いたいのだろうが、空港からまっすぐここへ来た理由が、これを早く見せたかったからだと分かってしまって、虎次郎の口許は抑えてもほころぶ。
    「ティラミスでいいよな。ワインは自分で選べよ」
    「どうした。やけに気前がいいじゃないか」
     明日は嵐になるなと片眉を上げながらも、薫はいそいそとワインセラーを覗きにきた。
     冷蔵庫からバットごと取り出したティラミスを、スプーンでざっくりと掬って皿に盛りながら、なんでもないふうを装って誘う。
    「休みなら泊まっていけよ」
     まるで遠慮というものを知らない幼なじみは、「言われなくても、そのつもりだ」と秘蔵の白ワインを手に笑った。


    ■甘やかなアフォガート

    「薫、そこで寝るなよ。寝るならベッドに移動しろ」
     虎次郎の家を訪れて夕食を摂ったあと、ソファの背にもたれて気持ちよく微睡んでいた薫の肩を、無粋な手が揺すってくる。
    「ん……寝ていない……」
    「どう見ても寝てるだろうが」
     虎次郎が溜息をつく。もう片方の手に持っていた器をサイドテーブルに置く気配がした。あ、それは俺の――
     薫はガバッと身を起こす。薫を抱き起こそうと屈み込んでいた虎次郎が、「おわッ!」と驚いた声を上げてのけぞった。
    「おま……! 危うく顎に頭突き食らうとこだったじゃねーか!」
    「俺のドルチェ」
    「はいはい……」
     食い意地の張ったお姫サマだこと、とぼやきつつも、虎次郎はガラスの器を手渡してくれる。
    「ハイは一回でいいし、俺は姫じゃない」
     虎次郎は肩をすくめただけで言い返そうとはせず、薫の隣に腰を下ろしてきた。狭くはないソファなのに、膝が触れあう近さ。
    「……暑苦しい」
     肘で押しやろうとしてみても、びくともしない。平然と、手にしたスマートフォンをいじっている。……どうにも、調子が狂う。
     薫は気を取り直して、手にした冷たい器に目を落とした。中身はバニラアイスに珈琲のかかったアフォガートだ。添えられたスプーンで掬って口に運ぶ。
    「ん……!」
     とろりとした珈琲色の液の正体は、カルーアだった。かすかな苦味を残して、甘い塊は優しく溶けてゆく。
     無言で食べつづける薫の横顔に、視線が向けられた。
    「気に入ったか?」
     横目でちらりと見やる。濃い紅茶色をした瞳が薫を見つめていた。口にしているアイスクリーム以上の、胸焼けしそうなほどに甘ったるく感じられる眼差し――このところ、ふたりきりでいるときなどに、こうして見つめられることが多くなった。
     ダメだ、調子が狂う……
    「!」
     いきなり伸び上がって頬に口づけた薫に、虎次郎が目を丸くする。どうだ、驚いたか。少し溜飲が下がった。
    「ああ、気に入った」
     虎次郎はまばたきをひとつ、それから、頬についたアイスを拭った指をぺろりと舐めると、薫の顎に手をかけてきた。
    「そりゃ、よかった」
     器に残っていた最後のひとくちをスプーンで掬い上げた薫は、それを虎次郎の口許へと差し出す。意図を察したらしい虎次郎が、かすかな笑みを浮かべて開いた唇に押し込んでから、肩に両腕を投げかけた。虎次郎の両目を見据えたままで顔を近づけてゆく。虎次郎も目を閉じない。視界がぼやけて焦点が合わなくなり――とうとう、唇と唇が重なった。
     ひんやりと甘い虎次郎の唇が、かおる、と動く。薫は虎次郎の髪を掴んだ。ぐいっと引き寄せながら隙間から舌をねじ込み、アフォガートごと舌を吸う。
    「ン……」
     虎次郎が、薫の身体に回した手をためらうみたいにさまよわせている。喉で笑ってやったら、思い余ったみたいにきつく抱きしめてきた。気分がいい。
     自分ばかりがペースを乱されるのは悔しい。たまには虎次郎も、薫の言動にうろたえて調子を狂わされるべきなのだ。


    ■誘惑の島らっきょう

    ■とろけるまで煮込んで/ラフテー
    ■たまには、こんな日も/玉子粥

     珍しく、虎次郎が体調を崩した。朝起きたら、喉が腫れて声が出なくなっていたのだという。
    「深夜にあんな格好をして出歩くからだ。手間をかけさせやがって、軟弱ゴリラが……」
     薫はチッと舌打ちをしながら、虎次郎のベッドサイドのテーブルに、頼まれて買ってきたスポーツ飲料と風邪薬と冷えピタを並べた。
    「悪ぃ」
     ほんとうに、ひどい声だ。病院に行ったほうがいいんじゃないかと思うが、あいにくなことに今日は祝日である。
    「飯は食ったのか?」
     虎次郎が首を横に振る。薫はもういちど舌打ちをするとキッチンに向かった。
     冷凍庫に米があったので、電子レンジで解凍する。手鍋に湯を沸かして放り込み、軽く煮てから玉子を落として、白だしと醤油少々で味を調えた。
    「薬を飲む前に食え」
     出来上がった玉子粥を虎次郎の許へ運ぶ。背中に枕を宛てがって身を起こした虎次郎は、器を受け取ると、添えてあった木の匙を手に取り、上目遣いに薫を見上げてきた。
    「なんだ、そのツラは」
     虎次郎が匙と薫とを交互に見る。厭な予感に後ずさろうとする薫の手首を、虎次郎の手がはっしと掴んだ。
    「しないぞ、そこまでは」
    「…………」
    「病人だからって甘えるな」
    「…………」
     渾身の力で振りほどこうとしても、虎次郎の力は異様に強く、熱い指は剥がれていかない。ほんとに具合が悪いのか、おまえ と薫は叫ぶ。虎次郎は無言のまま、じぃっと薫を見つめつづける。熱で潤んだ瞳が、縋ってくる犬のようだ。
    「あーっ、もう……!」
     ついに根負けした薫は、虎次郎の傍らにドカッと腰を下ろした。粥の入った器を奪い返し、虎次郎の手から引ったくった匙を突っ込む。粥ののった匙を口許に突きつけられた虎次郎は、何がそんなにうれしいのか、両目をとろりと笑み崩れさせて唇を開いた。
    「……ッッッ」
     冷ましもしないまま突っ込んだので、熱すぎたらしい。両手で口を押さえて呻いている。いい気味だ。
    「自分で食うか?」
     だが、薫の問いにはかぶりを振る。涙目になっているくせにとあきれながらも、薫はもう一匙、粥を掬った。こんどは上下に揺すって軽く冷ましてから、口に運んでやる。
     唇に匙の先がちょんと触れるたび、あ、と大きく口を開ける虎次郎は鳥の雛のようで、しだいに笑いがこみあげてきた。くつくつと笑いながら匙を運ぶ薫に、虎次郎は不思議そうにまばたきをしている。
     ようやく食べ終えて薬を飲み、ふたたび横になった虎次郎の額に、薫は冷えピタを貼ってやった。そのまま掌を当てていると、うっとりと目を閉じた虎次郎の唇が「ありがとう」の形に動く。
    「この借りは高くつくぞ。愚かなゴリラめ」
     悪態をつきつつも、ひそかに「早くよくなれ」と唱えて、汗ばんだ額にキスを落としてやった。


    ■ゴーヤーチャンプルーの午後

    ■「カルボナーラ、ください」

    ■君をつくってくれるのは、

     明け方近くまで互いになんども求めあって、ほとんど意識を手放すみたいに眠りに就いた。
     それなのに、アラームをかけていなくても朝になるとこうして目覚めてしまうのは、職業病のようなものだ。
    「ん……」
     虎次郎は、身じろぎしながら目を開いた。視界いっぱいに広がっている桜色。絶景だなとしみじみ噛みしめながら、深く眠っているらしい薫の寝顔にしばし見入った。鋭く見据えてくる三白眼が隠されていることで、表情の印象は大いにやわらいで見える。透った細い鼻梁、頬に影を落とす長い睫毛。彫刻刀で刻んだような薄い唇は桜貝の色をしている。美しい男だなあと溜息が漏れた。
     満足いくまで眺めてから、枕にされている腕をそうっと抜き取ろうとしたら、むずかるような仕種で胸に擦り寄られた。「薫?」と呼んでみたが、目を覚ましたわけではなさそうだ。思いきって腕を引き抜き、滑り落ちそうになっていた上掛けを裸の肩にしっかりとかけてやる。夢の中にいるのだろう頬にキスを落として、虎次郎はベッドから降りた。
     シャワーを浴びて歯を磨き、スウェットのパンツだけを身に着けてキッチンに立つ。特にリクエストはなさそうだったので、冷蔵庫を覗いて、賞味期限の近い卵を使いきってしまうことにした。フリッタータなら、冷めてからも美味しく食べられる。
     野菜室から取り出したじゃがいもの皮を剥き、サイコロ状に切る。水といっしょに鍋に入れて火にかけ、そのあいだにトマトを粗く刻んでおく。ボウルに割り入れた卵を丁寧に撹拌して、茹であがったじゃがいもとトマトを加えたものをフライパンに流し入れ、コンロにのせた。ときどき掻き混ぜながら、弱火でじっくりと火を通す。あとは余熱で、となったら底に軽く焼き色をつけて出来上がりだ。
     火を止めて伸びをしていたら、寝室のほうからカーテンを開ける音が聞こえた。
    「薫、起きたのか」
     フローリングの床をぺたぺたと裸足の足音が近づいてきて、薫が姿を現す。
    「おはよう」
    「……はよ」
     すぐにシャワーを浴びるつもりなのだろう、虎次郎が放置していたTシャツを着ている。半袖が五分袖くらいになっているうえ、すらりと白い脚が裾から伸びており――気だるげな表情も相俟って、なんというか壮絶に色っぽい。
    「俺の着物は」
    「洗面所に置いてある」
    「シャワー浴びてくる」
     俺が戻るまでに服を着てヒトらしい姿になっておけ類人猿めが……と言い置いて、薫は廊下の向こうへと去っていった。分かりにくい照れ隠しだなぁと笑いながら、虎次郎は素直にシャツを羽織る。



     濡れ髪をタオルで拭きながら戻った薫を見て、虎次郎があきれた顔をする。
    「乾かさねーと風邪引くぞ」
    「先に朝飯にする」
     言外に「あとで、おまえが乾かせ」の意を込めて見上げると、通じたらしく虎次郎は肩をすくめた。
     ダイニングテーブルの上には、すでにいくつもの皿が並べられている。イタリア風のオムレツ、レンズ豆のスープ、トマトとレタスのサラダ、ほかほかと湯気を上げているフォカッチャ。
     薫は虎次郎と向かい合わせの席に座り、いただきますと手を合わせた。掌サイズのフォカッチャを手に取り、ふたつに割く。まずはひとくち、そのままで噛みしめてみた。オリーブオイルと香草の香りが口の中にじわりと広がる。
    「美味いな。焼きたてなのか?」
     素直に褒めた薫に、虎次郎はちょっと驚いたみたいにまばたきをしてから「生地を冷凍してあるんだ」と説明してくれた。
    「こっちのも美味い」
    「そりゃ、よかった」
     オムレツもスープもサラダも、薫好みの味付けだ。おおらかで、温かくて、意外なほどに細やかな部分もある――作り手の人間性が溶け込んでいるようにも感じられる味。仕事や人間関係でどんなに打ちのめされたとしても、虎次郎の料理を口に突っ込まれたら、薫はきっと生き返ってしまう。認めるのは悔しいが、もうずいぶんと前から、胃袋をがっちり掴まれているのだ。
    「今日、どうする。どこか出かけるか、家で過ごすか」
     虎次郎に問われて薫は考え込む。窓の外は気持ちよく晴れているのでスケートに繰り出したい気もするが、溜まっている疲れをほぐすために部屋でのんびり過ごしたい気もある。
    「おまえが決めろ」
     虎次郎に丸投げして、オムレツの最後のひとかけらを口に放り込む。虎次郎は「えー」と唸ってから「ちょうど観たい映画の配信が始まったところなんだが」と提案してきた。薫も少し気になっていたタイトルだ。
    「分かった。付き合ってやる」
     破顔した虎次郎が、薫の口許に手を伸ばしてきた。「付いてる」と唇の端を指で拭われる。「いきなり顔に触るな、口で言え」とテーブルの下で蹴飛ばしてやっても、こたえた様子もなく笑っている。
     きっとこれからもこんなふうに、薫は虎次郎の食事に、虎次郎自身に、支えられながら生きてゆく。恥ずかしいとか申し訳ないとは思わない。こうして薫に与えることが虎次郎本人も満足させていると、薫は信じて疑わないから。薫が人生の最初期、まだ幼稚園の砂場で遊んでいたころに得た確信なのだ、間違っているはずがない。
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