鍾タルワンライ「はじめて」小さなスプーンで掬い上げると、杏仁豆腐の欠片がふるりと震えた。そのまま、ゆっくり口へと運ぶと上品な甘みが咥内に広がる。
時刻は夕刻を過ぎ、夜に足を踏み入れた頃合い。穏やかな灯りの照明に照らされた個室は他の客の気配もなく、ゆっくりと食べ進める事が出来た。
「あ~、食った食った。腹がはち切れそうだよ!」
前菜から始まり、主食を食して、最後にはデザート。どれも絶品で、腹が破裂寸前だ。
たまには贅沢も良いだろうと勧められて訪れた店だが、おかげで満ち足りた腹を撫でさする手が止まらない。
誘って来た当の本人は食後の茶を手に微笑ましそうな表情を浮かべていた。
「満足したようで何よりだ」
「先生のオススメって言う時点で期待はしてたけど、予想以上だ。この後で体を動かせたら最高なんだけどなぁ」
「加減をするのであれば相手をしても良いぞ」
「え、本当に?」
「ああ。それと今日の支払いは俺が持とう」
どんな風の吹きまわしだ。いきなりの好待遇に困惑を浮かべる。
いつものように財布を探しては見つからないのだろうと言う予想も、相手の手中にある重量を感じさせる財布の存在によって否定された。
支払いだけなら、まだ良い……と言うより、常に俺が支払うことが当たり前のようになっているのは如何なものかと思う。
その上で、手合わせの相手をすると言う変わりように疑うなと言う方が難しい。
何か目的でもあって知らずのうちに報酬の先払いをされたのではないか考えると、先ほどまで幸福感に包まれていた表情が訝しむものに変わる。
「先生が? 随分と大盤振る舞いだね。今日は何かあったかな」
「公子殿は今日が誕生日なのだろう? 北国銀行で翁が教えてくれたんだ。一緒に贈り物を……と思ったが、納品が間に合わなくてな。だが、何もないと言うのも味気がない。そこで食事と運動を……公子殿?」
顔を下に向けて伏せ、口元を手で抑え、更には肩を震わせていることに気付いた相手が覗き込むように様子を伺う。
先ほどまでの警戒が無意味であったこと。その行動の理由が、まさか自分の誕生日を祝う為だったと知ると、じわじわと嬉しさが滲んだ。人に見せられないほどに緩んだ顔をしているに違いない。それと、思わず笑ってしまった理由が、もう一つ。
「気遣ってくれたところに悪いんだけど、俺の誕生日は来月なんだ。先生でも間違える事があるんだって思ったら、つい」
「しかし、」
「翁から話を聞いたんだっけ。彼には孫が多いから、その中の誰かと間違えたんじゃないかな」
翁と呼ばれる老公は北国銀行に日参し、話し相手を探すことが常となっている。
年月の経過で記憶に朧なところはあれど、様々な造詣に深く。近隣のご意見番のような役割もある彼を、周囲の人間たちが邪険にすることはない。目の前の相手と交流を深めている様子も多く見られた。
傍から見たら、それこそ祖父と孫のような姿だが、実際は逆と言うのを知るのは仙人たちと、タルタリヤくらいのものだ。
きっと誕生日の話も、彼と交流を深めている際に聞いたのだろう。誕生日の記憶違いではあったが。
「ねぇ、贈り物って来月には間に合う?」
「……ああ、あと数日もすれば届く手筈だ」
「じゃあさ、今日のところは俺が払うよ。その代わり、来月の20日も空けておいて。贈り物も間に合うみたいだし、その時には先生にご馳走してもらうつもりで行くから。ね?」
首肯を返す相手に次の約束を取り付けると、伝票を引き抜く。どことなく落ち込んでしまったようにも見える相手には悪いが、先の楽しみが増えただけのことだ。
『はじめてのご馳走』を楽しみに当日まで指折り数える自分もいるのだろうが、悪い気はしないな。と、タルタリヤはそっと笑った。