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    夏の夜のプールに忍び込む犬辻のぶつ切り

    夏(Summer Situation)

     周りはすっかり闇に包まれて、昼間あんなに聞こえていたセミの鳴き声も今は鳴りやんでいる。人も虫も息を潜めるような暗闇の中を、先輩と二人制服姿で歩いていた。
    「やっぱ夜なのに蒸し暑いね……。歩いてるだけなのに汗かいてきたー、きもちわるい」
    「ほんとむしむししますね」
    ボーダーの夜間任務で帰宅するのが深夜、なんてことはしょっちゅうだったし、この時間に外を歩くことももうすっかり慣れ切っていた。今日みたいに学校が終わってからボーダーに直行して、任務が終わるのは今みたいな夜更け、なんてことも珍しくない。それに俺は、学校終わりの任務は確かに疲れるけれど、先輩と静まり返った夜の街を歩くことは結構気に入っていたのだ。先輩と制服姿で深夜の住宅街で声を潜めて笑ったり、コンビニでアイスを奢ってもらったりするのが。
    「どうする? ちょっとコンビニ寄ってアイスでも食べる? じゃなきゃやってらんないな~この暑さ。ガリガリ君食べたい」
    「あ、いいですね」
    「でもさ~~昨日も同じこと言ってコンビニ寄ってアイス食べたよね」
    「そうですけど、別に良くないですか?」
    「なんか他に涼しくなる方法ってないかな~!」
     先輩は隣でうんうん唸り出した。俺は別に今日もアイスでいいんだけどな…と内心考えながらも、とりあえず先輩を見守る。
    「あ!おれもっと手っ取り早く涼しくなる方法思いついちゃった!」
     先輩が隣で急に叫び、思わずビクッとする。……俺は思わず先輩に疑いの目を向けてしまった。
    「思いついたとこ悪いんですけど、先輩の思い付きって、なんとな~く信用できないんですよね……」
    「なにそれひっどい! 大丈夫だって、おれに着いてきてよ。辻ちゃん、思い出作りしに行こう!思い出作り!」
     くるりと振り返った先輩が突然言う。そのまま俺の手を引いて、楽しそうに駆け出した。
    「は? 先輩、思い出作りって……? 涼しくなる話は……? うわっ、ちょ、待って先輩!」
     先輩の背中が楽しそうに弾んでいる。手を引かれるままに、俺たちは真夜中のアスファルトを駆けて行った。





    「はぁ、着いた着いた! つっかれた~! これはきつい!」
    「それは俺のセリフですよ……! ていうか、思い出作りって、ここ……」
    夜とはいえ、まだ真夏だ。俺も先輩も汗をかいて、シャツが背中に張り付く。手を引かれるままにたどり着いたのは、六頴館高校……俺たちの通っている学校だった。夜の学校は、当然静まり返っていて、昼のそれとはまったく雰囲気が違う。誰もいない闇に包まれた静かな学校は、不思議な迫力があった。
    「で、何をするつもりなんですか? 一体全体」
    「うわ、辻ちゃん冷た~い! まあまあ、着いてきてって」
     先輩は校舎に入るつもりはないらしい。またずんずんと俺を置いて歩いていく。置いて行かれたくなくて、慌ててその背中を追いかけた。
    「先輩、どこで何するつもりなんですか……?」
    「ふふ、目的地はね、ここです!」
     先輩がバーンと手を広げて見せたのは…なんとプールだった。夜のプールは周りの音を吸収するかのように静かに水面が揺れ、月の光に反射している。
    「プ、プールで何するつもりなんですか……!? まさか泳ぐってわけじゃ……」
    「そのまさかでーす!」
     プールは高い柵に囲まれていたが、先輩はそんなことお構いなしだ。荷物を勢いよく柵の向こう側まで投げて、そのまま器用に登って行った。
    「ちょ、先輩、まずいですって……! もしだれか通ったら……」
     柵の内側にたどり着いた先輩に金網越しで説得しようとするが、先輩はどこ吹く風だ。
    「大丈夫だって。この辺住宅街とかじゃないしさ。夜通る人もほとんどいないでしょ。辻ちゃんも荷物こっちに投げなよ、キャッチしてあげるからさ」
     ね? 辻ちゃん。先輩は首をかしげながら無邪気に笑っている。まるで俺が誘いに乗ることを確信しているようだった。まっすぐ俺を見つめる、プールの水面のような青い瞳。…俺はこの目にはとても弱いのだ。
    「はぁ……。じゃ、先輩、投げますからね、はい!」
    「うわうわうわうわ、勢い良すぎだし急すぎ!」
     ぎゃーぎゃー言う先輩はとりあえず無視して、俺も金網を上る。
     先輩の隣にジャンプして降り立つ。夜のプールは静かに凪いでいて、まるで海のように広く見える。
    「先輩、ほんとに大丈夫なんですか……?」
    「大丈夫大丈夫。放課後に水泳部の奴らが水新しく入れ替えてたから。全然きれいだし冷たくてきもちいよ、きっと」
     先輩は靴と靴下を投げ捨て、ネクタイも外しながら楽しそうに言う。
    「いや、そういうことじゃなくて、」
    「ほら、いこう!」
     先輩が突然走り出した。そのまま勢いよく手を引かれ、問答無用でプールに向かって走る。うわ、と叫んだ瞬間、目の前の先輩がふわりと大きくジャンプした。
    「うわ、せんぱ、うわっ!!」
     バシャン、と、派手に水しぶきが飛んだ。思わず目を瞑る。先輩は勢いよく飛び込んで、真っ暗な水の中に潜っていった。先輩が顔を出すのをハラハラしながら見守る。月明りしか頼りがない暗い夜の中では、水中の様子はプールサイドからじゃ全く分からなかった。水面に金色の頭が浮かんでくるのを待っているが、なかなか顔を出さない。段々と不安になってくる。まだ顔を出さない。もう、堪えきれなかった。靴を投げ散らし、靴下も脱いで勢いよく水の中に飛び込む。汗をかいた体が、ひんやりとした冷たい水に包まれる。水の中で目を開く。暗いプールの底で、先輩の姿がゆらゆらと蜃気楼のように揺らめいていた。安心したと同時に、揺らいで光るその姿に、水の中にいることを忘れ見とれてしまった。
     不意に息が苦しくなり、慌てて水面に顔を出した。ゼエゼエと大きく息を吐いていると、少し離れたところで先輩も顔を出していた。先輩のフワフワの髪の毛はぺったりとくっついて、なんだかいつもより幼く見える。俺の顔を見た先輩は、ゲラゲラと笑いだした。
    「あっはははは! 辻ちゃん髪いつもより更にぺったんこ! かわい~!」
    「何笑ってんですか! 心配したんですよ!」
    「おれが顔出さなかったから? でも気持ちいでしょ、ほらこっちおいでよ!」
     先輩はすいすいと水をかきながら泳いでいく。その姿を見ていたら、なんだか真面目に怒るのも馬鹿らしくなってきた。俺はおとなしく先輩の後を追う。
    「いやー、辻ちゃんが荒船みたいに水泳嫌いじゃなくて良かった」
    「えっ、荒船さん泳げないんですか?体育とかすごい得意そうなのに」
    「水に顔付けるのも無理らしいから相当苦手みたいだね。こんなに気持ちいのにねえ」
     先輩は水にぷかぷか浮かびながら言う。俺もそれを真似して、水面に体を浮かべて漂う。夏の蒸し暑い空気に晒されていた体がスッと冷えていくのが心地いい。水に浮かびながら空を見上げると、大きな月が輝いているのが見えた。先輩の方を盗み見る。先輩は水にぷかぷか浮かびながら、ぼーっと月を眺めているように見えた。
    「先輩、何考えてるんですか?」
    「え? えーーー……。特に何も」
     嘘だな、と思った。先輩はぷかぷかと揺れながら何か考え事をしているようだった。先輩は一見明るく、軽そうにも見えるが、実は思慮深いし相手のことを考えている人だ。でも、何を考えているかはなかなか表に出さないし、教えてくれない。
    先輩が俺に素直に心の内を見せてくれたら、とこの頃よく思う。先輩が何を考えているのかを知りたかった。これは俺の自分勝手な願いだけれど。
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