一歩晴れてお付き合いをすることになったわけだが、それから1週間ほど滝川は本業に忙しく、1度も事務所に顔を出さなかった。安原とて毎日バイトがあるわけではないがけれど、麻衣も会っていないという。調査が長引いたためにしばらくスタジオに籠る、と言っていたので体調は大丈夫だろうか、と思いはしたがそれだけだった。
そして8日目、専門書と格闘する麻衣の手元を覗き込み持っている知識で読み解くのを手助けしているところに、「よう」と滝川が顔を出した。
「ぼーさん!」
「おや、滝川さん。お疲れ様です」
「いやもー、疲れた疲れた。てわけでアイスコーヒー、ちょうだい♡」
にっこり笑う滝川は、至って普段通りだ。
「じゃ、あたしが……」
「ストップ。僕がやるから、谷山さんは勉強の続き。休憩はお茶が入ってからね」
「うっ……はーい」
「おお、修ちゃんたら鬼教師」
修ちゃん。
安原が突然のことに一瞬固まると、麻衣が首をかしげる。
「あれ?ぼーさん、安原さんのことそんなふうに呼んでたっけ?」
じわじわと顔に血が上ってきたように感じて、安原は会話に混ざらずにそのままキッチンへ向かうことにした。それでも、当然ながら二人の話す声は聞こえてくる。
「んや、初めてかな?多分。安原も成人したんだし、さすがにいつまでも少年とは呼べんだろ。だから、減った分バリエーション増やした。青年はいっぱいいるじゃんここの関係者」
「あ、てことはナルが成人したらナル坊って呼ぶのもやめるの?ナルちゃんて呼ぶ?……ナルちゃんはもう呼んでたっけ」
「どーかねえ、なったときに顔見て決める」
「なんだそりゃ」
すぐに戻れる顔ではない、という自覚があったので、インスタントやペットボトルでなくペーパードリップで淹れることにして湯を沸かし、フィルターをドリッパーにセットする。
深呼吸し、グラスに氷を入れる、途端にグラスの表面がひんやりして、火照った体に気持ちがよかった。
「あ、ちょい待ち」
「なに?……あ、なんかのお土産?」
「俺が用意したんじゃなくてもらいもんのお裾分け。ほれ、いい子の麻衣ちゃんはお勉強してなさい」
「うう、ぼーさんも鬼教師……」
ガサ、となにか、紙袋か何かの音と共に足音が近づいてくる。まだ平常心を取り戻していないのにと内心焦りながらも、すぐ後ろまで彼がやってくるのをおとなしく待つしかなかった。
「てことで、ほい。何かのお菓子。前に俺が調査に行ったとこからのお礼の品。もう、量が多くて」
キッチンに入ってきて袋から何処かの銘菓らしき包みを取り出す滝川に、仕方なく顔を向ける。にやにやと面白がっているのを隠さない表情に、あえてにっこりと笑ってみせる。
「ありがとうございます。今お茶と一緒に出しましょうか」
「そーね。あ、ドリップ」
「忙しかったんでしょう?美味しいコーヒーで労って差し上げようかと」
丁寧に包装紙を剥がしながら、滝川は普段よりもずいぶん安原の近くに立っていた。ほとんど腕が触れ合うような距離だ。それが、嬉しくもこそばゆい。
「所長とリンさんは所用があって今日は戻らないそうなのでお二人には明日、……滝川さん?」
「んー?」
至近距離で顔を覗き込まれた安原が反射で目を瞑ると、表面を掠める程度にくちびるが触れる。
仕事中ですよ、と喉元まで出かかったが、声が聞こえる範囲に麻衣がいることを思えば下手なことは言えない。
「労ってくれんだろ?んじゃ、3人分持ってっとくから、コーヒーよろしく」
「……はあい、承りました」
ちょうどお湯が沸いたタイミングで、滝川は戻っていった。
『めちゃくちゃ付き合いたての恋人同士っぽいな』、と頭のどこかでが冷静な自分が言うのに、『いや実際に付き合いたての恋人同士だから』とツッコミを入れながら、安原は熱い顔をぱたぱたと仰いでからコーヒーを淹れた。
「じゃ、お疲れ様でーっす!」
「お疲れ様です。また明日ね、谷山さん」
「気を付けてなー」
勉強が終わって急に元気になった麻衣は、このあと仕事終わりの真砂子と待ち合わせて食事の予定があるらしく、ウキウキと帰っていった。真砂子は最近忙しくしばらく事務所に寄る時間はないだろうとのことで、滝川のお裾分けのお菓子は麻衣が渡しておくという。
「……さて、修くん。念願のふたりきりなわけだ」
「職場なんだけどなあ」
「就業時間は終わっただろ?まあ安心しなさい、襲いかかったりしないから」
「仕事中にキスされた気がするんですけど」
「あれは偶然顔が当たっちゃっただけ……ってのは苦しいか。怒った?」
大の大人の男が小首をかしげてみせるのを、ちょっと可愛いと思ってしまう浮かれた己の頭が憎いと安原は思う。ただ、滝川にはそういう所作が自然なように感じさせる不思議な魅力があった。
「……恥ずかしかっただけです。見える位置じゃないけど谷山さんがいたし。いきなり修ちゃんって呼ぶし、僕で遊んでますね?そういうことしてると、僕も滝川さんで遊びますよ」
「いやあ、二人の時に修って呼んでたらそのうちあいつらの前でもポロッと言っちゃいそうだろ。そんときに焦りたくないし」
「つ、つまり、僕らってヒミツの関係……」
よよよ、と大げさに悲しんでみせる。何も本当に悲しい訳ではなく、自分たちの今後のスタンスを気負いなく決めたいだけだ。わかっているのか、滝川はカラカラと笑う。
「どーせそのうち気付くだろ。いや、だからこそ言っといてもいいんだけどな。わざわざ宣言するとジョンあたりが3人部屋の時気を使うかなー、ってくらいで。伝えといたほうがいいか?」
「……とりあえず、ヒミツで。背徳感があってなんだか楽しいですしね。でも、谷山さんは隠されるの嫌かなあ……」
「あー……ここで3人になることも多いし麻衣には言っといてもいいかもしんないけど。隠したいわけじゃないって言っとけば麻衣から他のやつに広がるだろうし」
ただ、安原としては気にかかるのは高橋のことだった。高校卒業後、一般企業に就職した彼女は現在ではこの事務所のバイトは辞めている。それでも顔を見せに来ることはあるし、麻衣とも相変わらず仲が良い。そして、今もタキガワノリオのファンだ。麻衣が彼女に伝えることになるのはなんだか申し訳ないように安原は思うが、かといってわざわざ自分から言うのもおかしい。滝川の言うように、なんとなくで気付いてくれると助かる関係性ではあった。あまり誠実なやり方とはいえないかもしれないが、彼女の抱いているものが恋愛感情なのかどうかもわからない。そうなのかな、と勝手に想像しているだけだ。
「つっても、ナルとリンは知ったところでなんも気にしないだろうし、真砂子ちゃんや綾子にとってもどうでもいい話だろ?」
「そうですねえ。……とりあえず、保留で」
「あいよ。しかし背徳感かあ、ムッツリスケベ?」
「いいえ、僕はわりとハッキリスケベです」
「ンフッ……あー、笑っちまった。そお、ハッキリスケベなの修ちゃん。なあ、んじゃキスしてもいい?」
「えー……ダメです」
「なんで」
む、とわかりやすく不満満載の声の滝川に、安原はびしっと人差し指を立てて鹿爪顔をしてみせる。
「考えてもみてください。もしも万が一、ここで心霊現象が起きたとしましょう。あるいはなにか事件。泥棒に入られたとかですね。その場合、おそらく渋谷さんはこの部屋にあるものでサイコメトリしますよね」
「……そうね、するだろーね」
「どのくらいの精度で見たいものが見られるのか僕には想像できませんけど、そういうイレギュラーが起きてもしも僕らがここでイチャイチャしてるのを見られた場合、もう、絶対、その後ものすごーく働きにくいですから。渋谷さん本人は嫌味を言って終わりかもしれませんが、僕の気持ちのほうは大変に大問題ですよ。リンさんにもなんとも言えない目で見られるはずです」
「そらそーだ……」
「というわけで、納得していただけたと思いますのでお話し合いだけで済まないなら場所を移しましょう」
びしっと言うと、滝川は目を丸くする。
「場所、移したらいいの」
「もちろん望むところです。……けど、あまり顔色が良くないしクマができてますよ」
安原が滝川の目の下を指先でなぞると、くすぐったかったのか少し笑った。それとも、見抜かれたことに苦笑が漏れたのかもしれない。
「疲れたって言ってたの、本当なんでしょう?実は、さっきのコーヒーはノンカフェインのやつでして。今日は真っ直ぐ帰ってしっかり寝るのが一番良いと思います」
「……どーりで、味違ったわけだ」
「でも、さすがにもったいないので……今日だけ、っていうのを落とし所にしませんか」
「ん?」
「ここでキスするのは、今日限定。既に一回、しちゃったし」
笑って、安原から唇を重ねた。
ほんの一瞬だったその温度を追いかけるようにして、今度は滝川から触れる。
そのまま、逃さない、とでも言うかのように滝川の右腕が安原の肩を捕まえ、左の手のひらが頬を包んで、キスが繰り返される。角度を変え、名残惜しげに何度も。
滝川の指が安原の眼鏡に当たって、カチ、とかすかな音を立てた。
「……つまみ食い、ですよね?」
「うん、まあ、さすがになあ……」
言いながらも、やわやわと唇を食むように何度も啄み、未練たらしく指で眼鏡のふちを撫でている。
「……僕のこと、お持ち帰りしたい?」
「したいよ」
「正直者ですねえ」
「うん。でもまあ、せっかくのご馳走はこんな寝不足で疲労困憊の時にはもったいないもんな。もーちょっとおあずけしとくから、健気な俺にもっかい修ちゃんからチューして」
「ふふふ」
ちゅ、と軽いキスをして、離れる。本当は、自分の手でメガネを外して深く口付けてやろうかと不埒な思いが過ったが、待ったをかけたのは安原自身だ。さすがに我慢した。
「好きですよ、法生さん。今日会えたの嬉しかったです。……ちゃんと寝て栄養を摂って元気な時に、僕の眼鏡も眼鏡以外も、お好きなようにしてください」
「こら、法生さん今必死なんだから誘惑すんな」
「あははははは!」
「ったくお前は」
わざとらしく子供扱いをするかのように、安原の頭をぽんぽんと撫でる。文句を言ってやろうと安原が口を開いたところで、その手のひらが後頭部を滑り、うなじをなぞる。
「……っ」
「酒、もう飲んでみた?」
「え?いえ、っ、まだ……アルコール有りの誕生日祝い、してくれるんでしょう?」
固い指先は、安原のシャツの襟ぐりの内側に入り込み、優しく皮膚を撫でている。ぞわぞわとした感覚に襲われながらも必死に安原は平静を装って答えるが、滝川は何食わぬ顔だ。ただ色素の薄い瞳だけが常にない色を湛えている。
「そ。まだアルコール耐性どんなもんかわかんないなら、外より家のが安全だな。完全に下戸ってやつもいるし。てことで、都合の合う時に俺んちでどう?飲みやすい酒用意しとくから」
明らかすぎる誘いに、それでも安原は意識して笑ってみせる。
「酔っちゃって帰れなーい、ってやつをやらなくても連れてってくれるってことですか」
「うちでやってくれてもいいけど?帰れなくなればいいじゃん、泊まってけば」
「ええと、……帰れない、って言うのはなんだか負けた気がするので、最初から泊まるつもりで着替え持ってきます」
不可抗力ではなく己の意志で帰らない、というほうが、安原の自意識に沿っている。プライド、といってもいい。
それを聞いた滝川は、ニヤリと口角を上げる。
「……俺、お前のそーゆートコ好き」
「へえ、いい趣味してますね」
「まーね。ほれ、お前も帰るだろ?駅まで歩きがてら予定立てようぜ」
連れ立って扉を出て、施錠する。セキュリティを入れて、外に出ればもう本当にプライベードだ。
本当は、安原こそこのまま滝川をどこぞに連れ込んだり連れ込んでもらえるように画策したりしたいところだというのに、恋人の体調を慮っている。
僕ってできた彼氏だなあ、などと考えながら、安原はいたっていつもどおりの笑顔を作って歩き出した。