理想の夫「付き合う前より付き合ってからのほうが優しい男は絶対に手放しちゃいけないんだって」
滝川の部屋、ソファに並んで見るともなしにバラエティ番組を眺めてスーパーカップのバニラアイスを口に運びながら唐突にそんなことを言い出した安原に、滝川は首を傾げた。
「なにそれ」
「付き合う前は相手に選ばれたくて良いところをアピールしまくっている状態だから素じゃなくって、射止めたらゲームクリア、数カ月もしたら安心しちゃって大抵の人はあんまり頑張らなくなるっていう話。職場の女性陣の婚活トークが出どころです」
「なるほどなあ」
あ、と口を開けてねだると、安原は笑ってアイスをスプーンに山盛りすくって滝川の口に入れてくれる。甘い。
おしゃべりがしたいようだったので、テレビの音量を下げて少し体の向きを変えた。
「それを聞いて、そういえば法生さんって付き合ってからのほうが優しいよなって思ったんですよね」
「なんだ、俺がいい男って話?」
「まあ、そういう男を選んだはずだったのにいざ結婚したら本性現して超ド級のモラハラ男だったことが判明してすったもんだの末に離婚した、っていう上司の話がオチとしてついてきたんだけど」
「……」
どう反応していいかわからずつい黙ると、安原はケラケラと笑った。
「こういう人はアタリ、みたいな言説なんて実際のところはさしてあてにならないものだと思うけど、それでももしかして僕はものすごいラッキーなんじゃないかとは思っていて」
「へえ」
「僕のこと好きでしょ?」
「好きだよ」
「うん、僕も大好き。……あなた、こういうときはぐらかさなくなったよね。昔はもっと困った顔して、なんて答えようって考えてたのに。何年も経つと『そんなことわざわざ聞くなよ面倒くさい』とか言う人もいるそうですよ」
俺も昔はそうだったけど、と言っていいものか悩む。過去の恋人の話をするのを、安原は嫌がる。安原に限らず大抵の人がそうなのかもしれないが、その点滝川は安原の初めての恋人になれたことでそういった心労が一切ないので楽をさせてもらっているといえるだろう。
「なんて答えよう、っていうか……正確には『どの言葉を選ぼう』って感じだったけどな。なんつーか、まだ功名心があるというか、思いも寄らないことを言われて驚いたり喜んだりする顔が見たい、とか。まあ気恥ずかしいのもあったよ。あんまり真面目な顔して迫って、重い男だって引かれたら嫌だとかも」
「へえ、初耳」
「かっこつけの小心者で。あー、だから、俺も普通に、付き合ってからのほうが安心してるし……実際、長くなればなるほど気安くなってると思うけど」
「確かに、僕が食べてるアイスが欲しいとき昔は『一口ちょうだい』ってちゃんと口に出して言ってた」
言いながら、また安原はアイスをスプーンにとり、滝川の口元に差し出してくる。今度はねだってないぞ、と思いつつ口を開くとアイスが入ってくる。
「こうやってお前が俺を甘やかすから」
「でも、そもそもこんなふうにあーんするのって、僕が扁桃炎で寝込んだ時にあなたがしてくれたのが最初ですよ。ちょっとだけでもカロリー取れって」
「え?そうだっけ」
「うん。それまでは一口だけ欲しいって時はスプーンとカップごと相手に渡してましたから。お互いにね」
「……言われてみれば、まあ、そうだったかな。あんま覚えてない。ほら、その半月前にお前胃腸炎もやって、ただでさえ体重落ちたのにさらに痩せちまうと思ってヒヤヒヤしてて」
元々平たい腹が、骨に皮膚が張り付くように肉が削げてへこんでしまっていた。胃腸炎はなるべく食べないでいたほうが回復が早いというので仕方ないのだが、治ったと思ったら体力や肉付きが回復しきる前に扁桃炎になり今度は喉が痛くて食べられなくなったのだから滝川の心配は当然だっただろう。
「寝込んでた間うちの家事まで全部引き受けて、僕のためにアイスとかゼリーたくさん買ってきて、それを食べさせて、通院の送り迎えまで」
「我ながらなかなかに甲斐甲斐しかったな」
「理想の夫ってこんなかな、とか思ったりして」
「そんじゃ、お婿さんにしてくれる?」
ほんの冗談のつもりで口にした言葉に、安原は目を逸らした。
現状出来もしないことを軽口として言うのはまずったか、と後悔してももう遅い。――そもそも、結婚ができるのならばするのだろうか。滝川は、自分がどうしたいのかどうかも正直曖昧だ。法的な手続きなどしなくても安原とはずっとこうしていられるような気分になったりもする。そして、婚姻届とかいう紙切れを国に出したところで続くか続かないかには大した影響がないだろうとも思う。
それでももしも結婚をするとなったら、安原法生になるのか、滝川修になってくれるのか。いや、同性婚が実現する頃には夫婦別姓も選択肢に存在するかもしれないが、その上で苗字は同じがいいという話になる可能性もあるだろう。その場合、彼が安原でいたいのなら自分は滝川の姓でなくても特に問題ないように思う。けれど、彼の両親は自分が安原になることを受け入れてくれるのか、とは考えてしまうのだ。妹とは会ったことがあるし恋人として紹介もしてもらっているけれど、両親には打ち明けていない。
そんなことをつらつらと考えていると、安原はテレビの画面をぼんやり眺めながら口を開いた。
「……良い父親にもなるだろうなぁ」
独り言のような調子だった。単なる感想、というような声音で、けれどその言葉の意味するところは考えるまでもない。滝川が安原との結婚についてを考えている間に安原は滝川が父親になること――つまりは安原と別れて女性と家庭を作ることを考えていたのだとしたら。
「修。もしこれが別れ話なら俺は聞きたくない」
肩を掴んで強引に目を合わせて言うと、安原はぱち、と瞬きをして、それから口の端をそっと丁寧に持ち上げて笑った。
「違いますよ。ほら、年齢的に友人の結婚報告なんかも聞くようになって……ちょっと想像しちゃっただけ。ごめんなさい」
安原は先月、同窓会に出かけていった。あー楽しかった、とニコニコ笑って上機嫌に帰ってきたと思っていたけれど、その時から内心では屈託があったのだろうか。何年も一緒にいて、わかることがずいぶん増えたと同時にまだ理解できていないのだと実感する機会も増えた。もっと前はきっと、わかっていないことにすら気付けていなかったのだろう。
「びっくりさせんなよ……」
「うん、でも、後ろ向きな気持ちになったことを隠さず共有したことを褒めてくれてもいいよ」
「そうだけど。心臓止まるかと思った」
「ええ?困るなあ。僕、霊感らしきものまったくないんだから。あなたがそのへんで僕に好きだとか愛してるだとかどんなに主張していても気付けないのに」
いい父親になりそうだと言った口で、舌の根も乾かないうちに当然のように滝川が安原に未練を残して結節点になり、死してなおこの世に留まる前提の話をする。この男は、どれだけ人の心を振り回せば気が済むのだろう?
「……しゃーないから、そんときゃ頑張って、誰にでも見えるレベルの霊障起こすよ」
「怖いのは嫌だから、心温まる感じでお願いします」
「俺だってことがわかってりゃ怖かないだろ」
「ジャンプスケア的な恐怖はどうにもならないでしょ。生きてるあなたがコップ落として割った音でも普通に飛び上がるし。だからいきなりバッと登場したりとかしないで、さりげなーくふわふわとそのへんにいてよ」
「じゃあ毎晩ベッド潜り込もうかな」
そんな都合のいい幽霊なんかありえないとわかっていてお互いに適当なことを言う。これでもし明日にでも滝川が事故や何かで死んだりしたら、安原は『どこにいるか全然わかんないんですけど!僕にも見えるように努力してくれるんじゃなかったの?』とでも泣いて怒って責めてくれるのだろうか。
「……アイス、溶けかけてるぞ」
安原の手からスプーンを奪って、一口すくって口に入れる。
「僕、こういうふうに食べさせてもらうの、すっごく小さい頃ぶりだったんですよね。僕に限らず大抵の人はそうかもしれないけど、妹もいるし。風邪を引いて寝込んでる僕に手がかかると妹が『お母さんをとられた』って大泣きしちゃうものだから、早々に『自分で食べれるよ』なんて強がってね」
「ああ」
「実は心細くて甘えたかったんだけど、……あとは、お兄ちゃんぶりたくもあったんだろうな。妹が寝込んだ時は僕がプリン食べさせたり。でもさすがに手つきが危なっかしかったのか母がはらはらしながら近くで見てて」
「可愛いな」
「でしょう?ま、そんなことはすっかり忘れてこうして育ったわけなんですが、あのとき久しぶりにあーんなんてしもらって、薬飲んだらさっさと寝ろって毛布被せてもらって……うとうとしてるときに、そういう子供の頃のことを思い出して、すごく嬉しくなったんです」
ぷにぷにとまだ幼児特有の肉付きをした幼い安原修が、良い兄らしくしようと妹に気遣って強がり、体調が悪い中1人でアイスだかプリンだかゼリーだかを一生懸命口に運ぶさまを想像する。もちろんそこに滝川はいない。固く絞ったタオルで汗を拭き、アイスノンを替えて、スプーンを往復させる係に滝川がなれるのはもっとずっと後のことになる。保護者ではなく、恋人の座こそがほしいのだから。
「俺は父親にはならないから、この先も誰にも気を遣ったりしないでお前は俺を独り占めできるよ。ヨボヨボのジジイになっても」
「……プロポーズみたいに聞こえるんだけど?」
「今んとこ法的には結婚は無理だけどな。どうしてもなんかするとしたら、パートナーシップ制度か養子縁組」
「養子縁組したらそれこそあなた父親になっちゃうよ、子供は僕だけど。あれって問答無用で1日でも年上のほうが親だから」
まるきり同日生まれならどうなるんだろう、生まれた時間が早い方なのだろうか?自分たちには関係のないことだけれど。
「ねえパパ、もう一口」
「ダーリンと呼べ」
「いいからアイスちょうだいダーリン」
「横柄なハニーだな」
安原の持つカップにスプーンを突っ込む。もうずいぶん柔らかくなっていて、するりと埋まる。
開いた口に入れてやり、スプーンを引き抜いたのと同時に口付けた。冷たい唇をぺろりと舐める。
「……もっと」
「アイス?」
「キス」
「食べきってからじゃないと本当にもう溶けかけだぞ」
「じゃあどっちも」
可愛いワガママに笑って、またひとくち食べさせて唇をふさぐ。もっと深く、と望む欲を宥めすかして、軽く触れ、啄み、擦り合わせると安原は楽しそうに喉の奥で笑った。
付き合い初めて以降のほうが滝川が優しいというのは、安原からしたら事実なのだろうから滝川からわざわざ間違っているとは言わないけれど、正確ではないように思う。滝川がどうこう、というのではなく、安原が滝川に甘えてくれるようになったのだ。
幼少期から早熟で妹や親の手前しっかり者として振る舞ってきたという安原は、長じてもやはり同じくさらに広い人間関係の中で頼れるしっかり者として生きてきた。先読みし、先回りし、望む結果を出すために人を動かして表に裏にと立ち回る。それができてしまう男で、実際に気性にも合っているのだろう。だからこそ最初は恋人にも上手く甘えられなかった。滝川が当たり前の顔で甘えてもいいのだと示すことで、ようやく人に見せないようにしてきた部分に触れることを少しずつ許してくれるようになったのだ。
寝込んでいる間の家事や世話だって、友達付き合いをしていた頃や付き合い始めた当初であればやんわりと拒否されたのに違いない。『この程度なら大丈夫ですよ、心配しすぎ』なんて笑って肉の落ちた体で部屋にひとりきり、せいぜい買い出しを頼んでくれたらいいほうだったのではないだろうか?
安原が滝川に甘えることを己に許して、ようやくそれから、滝川が優しくしてやることができる。そういう順番なのだ。
最後の一口を食べさせて、ちゅうと唇を吸うと安原は満足げに目を細めた。
「……付き合うとか、結婚とか、そんなのは全然ゴールじゃない。その程度でクリアした気になってるやつはバカだよ」
安原の手からアイスのカップを取り上げて隅に置き、安原の背中に腕を回して抱き寄せる。
「じゃあ法生さんは、どうなったらゲームクリア?」
「死んでも化けて出ることになってる俺に聞く必要があるか?それ」
死んだらそこですべてが終わり、というものでもないのを知っている以上、滝川と安原にとって2人の人生は『死が2人を分かつまで』どころの話ではない。
「……もしあなたが僕に分かるレベルの霊障起こせなかったら、原さんを呼んで確かめてもらうから」
「真砂子ちゃんに『毎晩ベッドに潜り込むって言ってたけどちゃんといますか?』って聞くの?恥ずかしいやつ」
「原さんが来る時は気を利かせてリビングとかわかりやすいところにいて!」
もう、と拳で背中を叩かれて、大声で笑った。