恋愛フィルターこの人こんなにかっこよかったっけ?
カーテンの隙間からは爽やかな光が差し込み、チュンチュンとスズメが鳴いている。これが所謂『朝チュン』というやつなのだろうと考えながら安原は、目の前の恋人の寝顔から目が離せなかった。
昨晩、処女とかいうものを喪った。いや、失くしたとか奪われたかのような言い方は良くない。安原の方もとてもその気だったので、放り投げたとか明け渡したとか、そういう初体験だった。
いっぱいいっぱいでなにがなにやら、目をまわしているうちに済んでしまったけれど、とりあえず腰やら尻やらに鈍痛があるので夢ではないだろう。同じベッドで恋人も眠っていることだし。
――そう、その恋人が問題なのだ。
寝乱れてあちこちに跳ねている色素の薄い髪の隙間から覗く、見慣れたはずの滝川の顔を至近距離からまじまじと見つめる。僕の恋人はもしかしてもしかするとものすごくかっこいいんじゃないだろうか?頭が恋で茹だった安原は本気でそんなことを考えてしまうのだ。
いや、朝だからもちろんヒゲは伸びてきている――しかし髪と同じく色素が薄いのであまり目立たない――し、口が薄く開いていて明らかに気の抜けた寝顔だ。だから別に彫刻のように美しいとかそういうことではない。それが分かるくらいの冷静さは一応は失っていなかった。
「……」
二度寝してしまおう。このまま寝顔を見つめて過ごすのはどうにも気恥ずかしい。いや、単純に寝顔を面白がって観察できるような心境であればそれも良いのだが、恋人を『なんてかっこいいんだろう』とうっとりしながら過ごすのは安原にとってはあまりにもむず痒いことだった。
しかし、2人でベッドにいると温かいとかいうよりももはや熱いのだな、と思う。考えてみれば当然だ、36℃程度を保つ巨大な湯たんぽが同じ布団の中に入っているのだ。安原は滝川の身長体重について詳しい数字は知らないが、身長については以前自販機と同じくらいあるな、と思ったことがある。つまりだいぶ大きい。細身だが筋肉がそれなりにあるところは昨晩実感したところだから、身長も相まって安原より軽いということはないだろう。そんなサイズの人肌のぬくもりと同衾。暑くなるに決まっている。
今後一緒に寝る日は普段より薄い上掛けでいいな、と布団から腕と足を出して涼を確保し、同時に頭だけは滝川に寄せ、目を瞑った。今後。今後か。この先何度も2人一緒に眠る機会があると至極自然と考えているのが不思議で、幸せだ。
「あ、起きた?」
再び目を開いた時には、部屋に入る光は爽やかというには強く、まぶしかった。ずいぶん寝過ごしたらしい。
「……おはようございます」
「おはよ。よく寝てたな」
隣に寝転がったまま、スマホでテトリスをしていたらしい滝川が笑った。
寝て起きてみてもやっぱりかっこいい、と思う。そのかっこいい恋人に自分の寝起きの顔をまじまじと見られたくない、と体勢を変えようとして、気付いた。部屋がずいぶん涼しい。
「……涼しい」
「うん。俺が起きたとき、布団半分剥いでるのに汗かいてたから冷房つけた」
そう言って、滝川に前髪を払われて額を手の甲で撫でられ、反射的に身を引いた。
「修?」
「だって、汗自体はもう乾いたかもしれないけど、汗臭いでしょう」
「そんなの気にならないようなことを昨日したと思うんだが」
「いやでも、あの」
「汗なんか触るどころか舐めたし」
「……」
確かにそのとおりだ。けれど、必死になって抱き合っている最中とその翌朝とではやはり意味合いが違う気がする。事後にシャワーは浴びているから最中の汗は既に流しているのだし。
安原が空腹の金魚のように口をパクパクさせてなにも言えずにいると、滝川はさも渋々、というような素振りで伸ばしていた手を引っ込めた。
「そんな気になる?昨日も嫌だったか、汗まみれでくっついたの」
くっつく、という言葉はあまりにも色々省略してすぎている気がするが朝からあからさまで過激な事を言って欲しいというわけでもないのでそれはいいとして、と安原は考える。
嫌なわけがないのだが、むしろそれが不思議だ。他人の汗なんてものは仲が良くても基本的に触れたいものではない。まして体を密着させるだなんて。真夏の満員電車がどれだけ苦痛か、という話である。服越しでも辛い。けれど相手が滝川なら別だ。滝川も同じように思ってくれているということか、と鼓動が跳ねる。
「……嫌じゃなかったですよ。むしろ、……」
「むしろ?」
「わかるでしょ。っていうか、2人一緒に汗をかくならお互い様ですけど、僕だけ汗臭いのが嫌って言ってるんです。可愛い恋心じゃないですか、尊重してくださいよ」
「そもそも汗臭くないし」
「嘘言わないで」
強く言って、滝川に背を向けて布団を頭まで被る。部屋が涼しいとはいえ全身完全に包まれてしまえばさすがに少し暑い。考えて、膝から下だけ布団から出した。なんだか間抜けな気もするけれど、今これ以上汗をかくのは避けたい。
「嘘じゃねえって。あ、2人でならいいってんなら、今から一緒に汗かくようなことする?」
ベッドから出ていかない以上本気で怒っているわけではないことくらいお見通しなのであろう滝川は焦った様子もなく布団の上からぽんぽんと優しく叩いてくる。口調も明らかに冗談で、その余裕が悔しい。
「ああ、聞きそびれてたけど、体大丈夫か?痛いとかつらいとか」
「……平気です」
「そうか、よかった」
恋人が異様にかっこよく見えることと、下半身がダルくて少々違和感がある程度のことだ。嘘ではない。
「おーい、二度寝すんの?」
正確には、これでまた眠ったら三度寝になる。さすがにこれ以上は寝られないだろうし、この状態で寝たらまた汗をかいてしまう。
「……法生さんのせいですからね」
布団から少しだけ頭を出して、声が通るようにして言う。まだ顔は見られない。背中を向けたままだ。
「俺のせいって、なにが?」
「誰かと一緒にひとつの布団で寝ると、こんなあったかいんだって知らなかったから……、だから明け方、暑くて」
経験のなさが露呈するのはどうしたって恥ずかしい。安原が恋愛経験に乏しいことなどとうにバレていても、だ。布団の中で身を縮める。
子供っぽいことばかりしてしまう安原を、滝川は心底愉快そうに笑ってから勢いよく起き上がった。
「なるほどな、俺のせいだ。責任取ってお湯張ってくるから、のんびり朝風呂しようぜ。汗流したら朝飯……いや、昼飯の時間になってるか。何が食いたいか考えとけよ」
「え、……あの、もしかしてなんですけど、一緒に入るって言ってます?」
「一緒に入ろう、って誘ってる。どう?」
恋人と一緒に風呂、というシチュエーション自体はとても甘美だが、冷静な状態の滝川に明るいところで体を見られるのはとても恥ずかしいような気がした。いわゆる惚れた欲目というものを差し引いても、滝川に比べて安原の体は貧相だ。いや、日本の20歳の男性の平均程度の肉付きで、可も不可もないだろうと思うが、滝川の方は可なのである。多分、おそらく、安原の恋愛フィルターのせいではないと思う。
「……狭いでしょう」
「あのな、俺は嫌か嫌じゃないか聞いてんの。一人でのんびり入ってリラックスしたいなら素直に言えよ、駄々こねたりしないから」
ゆっくり考えとけ、と風呂場に向かう滝川の背中を見送って、安原はようやく布団から出た。
そういえば布団だって汗を吸っているはずだ。シーツを剥いで洗いたいと言ったらさすがに呆れられるだろうか?いや、まずは風呂に一緒に入るのか一人で入るのかを決めなければ――考えながら、なんて平和なことで悩んでいることかと少しおかしかった。