恋人は仙人あれ、と思った。聞き覚えのある声がする――薄い板で区切られたすぐ近くから。
チェーンの居酒屋で、滝川はバンド関係の友人たちと酒を飲んでいた。価格が安く、そのぶんアルコールも薄い。酒が目当てなら来ない場所だったが、12月も末になって近頃は酷く冷える。だらだらと友人の愚痴を聞きつつ駄弁る会ということであったので、手近な店に適当になだれ込んだのだった。
そこで、席につき、しばらくくだらない話をしていたのだが。
『……だよね、それはでも……』
席は半個室といえるかどうか、座った滝川の頭の上あたりが格子状になっている木製の薄い壁で、テーブルごとに区切られている。賑わっているので特定の誰かの会話を聞き取るのは難しいが、さすがに隣のテーブルから恋人の声がすれば判別は簡単だった。滝川の背中の後ろ、薄い木の壁を隔てたところに安原修が座っているのではないかと思う。
「聞いてんの?ノリオ」
目前では、すっかり酩酊して目の据わった友人サヤカが眉をひそめて滝川を睨んでいる。顔は割といいのだが、さんざん泣いて怒って暴れたあとなので普段の面影はまるでない。男女2人ずつの4人組での飲み会だが、それぞれ別に恋人がいる。
「ん、あー、聞いてるけど。もう諦めろって、完全に振られてんじゃん」
「はあ?絶対諦めないよ。ほんとサイアク、なーにが『ミユキには俺がいないと駄目なんだ、お前はそうじゃないだろ』だっつーの!こんなに!生まれたちの子鹿みたいに弱々しいあたしをちゃんと見ろっての、なあ!」
「いやライオンみたいに強そーだけど……」
「うるっさ、見る目無さすぎ。まあでもいいよねノリオは彼氏とうまくいっててさあ」
その彼氏はたぶん隣のテーブルにいる。なんとなく、向こうも何人かのグループで来ていて、誰かがなにかを愚痴っているような雰囲気だった。漏れ聞こえる言葉の端々から察するに、最近恋人に振られた男が『俺の何が悪かったんだろう…』と半泣きで友人たちに慰められているようだ。盛り上がっているので、もしかしたら安原の方はまだ滝川に気付いていないかもしれない。
「どうしたら上手くいくわけ?なんかコツあんの?」
恨めしげなサヤカに、滝川の隣に座った友人が笑う。
「いや、ノリオだって今までは全然長続きしなかったろ。コイツがなんかコツを知ってるんじゃなくて彼氏くんがたまたまちゃんとしてる人なんだよ」
もしも安原が滝川を認識した上でこれを聞いていたら正直気まずい、と思いつつ、確認しようと思えば向こうのテーブルの他のメンバーとも顔を合わせざるを得ないだろう。現役大学生の恋人の友人と合わせるには、今日一緒にいるメンバーはあまりお行儀のいいタイプではなかった。金髪刈り上げだったり、耳どころか顔面にも複数ピアスをしていたり、単純に人相が悪かったり、そういう面々なのでなんなら滝川が1番大人しく見える有様だ。安原は誰に対しても基本的に物怖じせず平気で会話する男なのでいいのだが、その友人たちはどうだかわからない。恋人の友人に嫌われるというのは、当然ながらなるべく避けるべき事態だ。
「長続きったって、まだ1年も経ってないけど……」
安原とは、今年の3月に彼が二十歳になってから恋人になったのだ。一般的には長続きしてると言えるような期間ではないだろう。
「お前、今までは1年どころか短いと2週間とかだったじゃん」
「今んところ別れそうな雰囲気とかないんでしょ?なんかなー、今回続きそうじゃん?最近のノリオ見てると」
「はあ?」
「安定してるっていうか、地に足ついてるっていうか……」
「あたしだってケンタと地に足ついた安定したカレカノになれてると思ってたのに他の女にアッサリ取られたんだけど!?」
「だから浮気するような男のことはすっぱり忘れろって」
ぐだぐだと話している間にも、細切れに隣のテーブルの話し声が聞こえてくる。『寂しかったって言われて』『でもしょっちゅうデートしてなかった?』『足りなかったんだって。でも俺どうしても今は落とせない単位があって』『あの教授厳しいから』……真っ当に健全に、楽しく大学生をしているのだとよくわかる会話内容だ。滝川にも一応、そんな時期があった。
「薄々、わかってたんだよね。あーコイツ浮気してんなって。あんまヤんなくなってたし、デートも渋るし、トイレも風呂もスマホ離さないし」
「隠す気ゼロじゃん」
「でもさあ、本気であっちに持ってかれるとは思ってなくて。ちょっと問い詰めて怒って、いつもみたいに引っ叩いてケンタが謝ってきたら仲直りできる気でいたんだよ。そしたら、ミユキは頑張り屋で傷付きやすくてなんたらかんたら……知らんわ誰だよミユキ」
「俺らも知らねーよ……」
グッ、とサヤカはビールを飲み干し、備え付けられたパネルで酒を選ぶ。回されたそれをぼんやり眺めて、適当につまみを選んだ。
『で、夜も痛かったって』
隣の、彼女に振られたらしい男の声だった。さして声量はなかったが、ちょうどこちらの会話の切れ目だったこともあり、なんとなく耳に残ってしまった。小声で「隣、学生?」「それ言われんのは辛いわ」などと囁きあっている。安原は何と答えるだろう、と気になって、友人たち同様つい聞き耳を立てた。
『普段から嫌がられてたのかよ?』
『そんなことなかったと思うんだけど、俺彼女できたのなんか初めてだし、どういうのが普通かわかんなくて』
声はもうほとんど泣きそうな調子だった。さすがにからかいにくい話題で、同情的なムードの様子である。難しいよなあ、と滝川も思う。
『2人のことなんだから世間の普通はわかんなくてもいいと思うけど、付き合ってる間はそういう話し合いしなかったの?』
安原だった。普段よりいくぶん柔らかい声音で、友人を気遣っているのがわかる。
『痛くないかとか嫌じゃないかとか最初は聞いてたんだけど、恥ずかしいからそういうの言わせようとしないでって泣かれちゃったことがあって、それからは……』
『それで結局痛かったって?』
『後で言われても困るよな。てか痛いかどうかは別に恥ずかしくなくね』
その会話にサヤカが苦笑いしている。誰が相手でもなんでもハッキリ訴えるタイプの彼女も、好きになった男には同じようなことが言えなかった過去があるのかもしれない。あまり静かに隣の話を聞いているのも悪いから、というようにこちらも会話を再開するが、どうしても隣が気になって生返事になってしまう。
『そういうことを話せるだけの関係性が築けなかった、ってことかなあ。どっちが悪いとかじゃなくて。だって、それは話さなきゃいけないことじゃない?でも、女の子にとってはどうしても言いにくいのかな』
『安原は?痛かったら言えんの?』
『うん。言ったことあるよ。そしたらちゃんとやめてくれるし、じゃあどうしたらいいかってのを話してる。何したら痛いかっていうのをわかってもらえれば次から痛くないようにしてくれるんだから』
『それは……俺もそう思う、けど、今思い出したんだけどさ。正直俺も、それされてもあんま気持ちよくないなーってことされても言えなかったわ。あ、痛いわけじゃなかったんだけど』
『うーん、それも僕は言っちゃうな。言い方次第じゃない?「それは嫌」よりも「こうしてくれたら嬉しい」ってほうが言いやすいし』
確かに安原は痛いとか苦しいとか、そういうことはすぐに申告するし、ああしてこうしてとハッキリ言う。もちろん飲み込んでいる言葉も多々あるのだろうけれど、言うべきと思えば言うのだ。滝川としてもそのほうが気楽だし、積極的に思えて興奮する部分も大きい。安原の反応が芳しくない場合でも、滝川が『こういうことがしたい』と示せば安原はそれで納得して受け入れてくれる。
『ああ、なるほど。言い方……ぜんっぜん、思い浮かばなかった。どうしようってぼんやり考えてただけで……』
『水野さんもそうだったのかもね。別にその時じゃなくても、昼間、2人とも冷静な時に別途話し合えればいいんだけど』
『いや普段はそういうの言い出せる感じじゃ……あ、これが話せるだけの関係性が築けなかったって話かぁ…』
『それぞれ性格が違うんだから、正解は一つじゃないけどね』
「……なんか、1人仙人みたいな子いない?」
ごく小さな声でサヤカが言うのに笑った。仙人はセックスの話はしないのではないだろうか、と思うが、言いたいことはよくわかる。老成しているということだろう。いつものことだが、二十歳とは思えない。
「……浮気されてるかもって最初に思ったとき、あたしがちゃんと向き合えば変わったのかな」
話し合え、という隣の仙人の言葉に感化されたのか、ぽつりと言う。
「気付いたとき実際はどうしたんだよ」
「信じたくなかったし、見ないふりしたよ。でも当然忘れらんないから、めっちゃ疑いまくって誰とどこ行くとか聞きまくって喧嘩して、夜中に寝てる間にそーっと指使って指紋認証ロック解除してLINEチェックして……その時はクロとは言えないかもくらいの話しかしてなかったから、気のせいだって思い込もうとしたり」
「うわ、ストレス溜まりそう」
「死ぬほど溜まった。んであたしがしょっちゅうキレてた」
「それは初手お話し合いしたほうがマシ。浮気前だったかもしんないじゃん」
「聞いたらその時期にはもう普通に浮気されてたし、結局LINEじゃ当たり障りない話しかしないでイチャ系の話はテレグラムでしてたって」
「あー……」
それなら別れるタイミングが多少変わるだけだったのではないだろうか。いや、浮気を許す気があるのなら、サヤカが暴走する前の段階であればケンタの完全な心変わりを阻止してやり直せたのかもしれない。こればかりは、今となってはわからないことだ。
「それでよくまだ諦めないとか思えるなサヤカ」
「まだ好きだし。ミユキとかいう女より絶対あたしのがいい女だから。ノリオは浮気されたらもう無理派?」
「あー……浮気されて別れたことはあるけど」
随分前の話だ。
「そんときの彼女のこと覚えてるけど、そもそも明らかにノリオあいつのこと大して好きじゃなかったじゃん。ミキでしょ?他に好きなやついるならそっち行ったらいいんじゃないの〜くらいのノリじゃなかった?そういうんじゃなくて、めっっっちゃ好きな相手の話をしてんの。例えば、今の彼氏がもし浮気したら別れる?」
「……うーん」
隣のテーブルは、誰かが気分が悪くなっているらしく――おそらく彼女にフラれた男がヤケになって飲みすぎたのだろう――少し静かになって、ぽつぽつと体調を伺ったり雑談をしたり、という落ち着いた流れになっている。つまり、こちらのテーブルの会話はよく聞こえるだろう。ノリオノリオと連呼されているのだし、さすがにもう気付かれているものと思われる。今更ながら、気楽な飲み会のはずがよくわからない事態になってしまった。
「浮気ねえ。……多分、実際やるより前に俺に別れ話してくる気がするんだよな。酔っ払った勢いでとかもない、酒全然だし」
「つまりそもそも、浮気しない?」
「うん。ほかに好きな人ができたんです、って言われるのが先」
「うわあ、お前の彼氏かっこいいな」
「よし、捨てられないように祈ってやるよ」
「そりゃどーも、真剣にお祈りしてちょーだい」
眩しすぎるくらい明るい未来のある大学生だ、ひたすら好きなことをするためだけに安定を投げ捨てて生きている滝川に愛想を尽かす日も来るかもしれない。大学や、今後就職して社会に出たらもっと良いと思える相手がいくらでもいるだろう。現在の滝川にとっては安原と離れるなど想像もできないことだが、だからといって彼に捨てられないために生き方を変えられるかといえば、おそらく一生、そうではない。
「じゃあノリオは?浮気しないの?」
これは、安原が聞いていようがいまいが返答は変わらない。
「する意味ないことわざわざするほど暇じゃない」
「ノリオのノリオはもう枯れてると」
「ふざけんな現役だわバカ!」
ワハハ、と一同がバカ笑いする中、隣でもなにやら笑い声がした。失恋したなんとかクンが少しは元気になったならいい。安原が、滝川の知らない男を心配しているような時間は短いほうがいいのだ。
「そうじゃなくて。ノリとか雰囲気とかで好きでもないやつとやるより、好きなやつとやるほうが楽しいだろうが、単純に」
「……ノリオがいい男っぽいこと言ってる」
「なんか腹立つわ」
野次を飛ばす友人たちは、無視だ。
「だからなサヤカ、お前がいても更にミユキともやりたいような男はやめときなさい」
「でもあたしはケンタが良いんだよ!!」
「はいはいそーだろうとも」
言って、ハイボールを勢い良く飲むサヤカを眺めつつ、滝川は串揚げを口に入れた。恋愛というのは理屈ではないのだ。理屈でできるものなら、早々に安原に惚れて二十歳になるまでお預けを食らうようなことはなかった。だが、あの日々があるからこそ今があるのだ。
「自力で帰れる程度にしとけよ、酒」
「あたしにはもう迎えに来てくれる男もいないしね〜ってうっさいわバカ!自虐すんのやだもう!こんなボロボロになっちゃってさあ、どう考えてもミユキより弱々しいだろうがよ!」
「めんどくさくなってきたね」
「そうだなあ」
元より面倒な愚痴に付き合ってやるための会なのでいいのだが。そこで、滝川のスマホ画面が光った。LINE通知だ。
《僕らはお先に解散します》――安原だ。
気付けば、隣のテーブルは帰り支度を始めている。近くにいると思うと妙な気分ではあったが、帰ってしまうとなったらそれはそれで寂しい。自分も適当なことを言って抜けようか、と考えたとき、もうひとつ吹き出しが増える。
《サヤカさんが早く元気になるといいですね。やけ酒のようですし、必要そうなら家まで送ってあげてください。あなたが僕のことをとっても大好きで、浮気なんて夢にもしようと思ってないことはよーくわかったので、そのくらいでヤキモチ妬いたりしません》
そこにウインクしながらピースを決めているカニのスタンプまで追加で送られてきて、思わず笑ってしまった。
「あ、ノリオなんかニヤニヤしてる」
「おうよ、愛しのダーリンからのLINEだからな」
「はー、ごちそーさま。幸せそうで何より」
この飲み会が終わったら安原の部屋に行こうか、と思った。お酒臭いと文句を言いながらも、きっと狭いベッドに招き入れてくれるだろう。