恋人できたよ「ぼーさんっ、彼女できたの!?」
数日ぶりにSPRのドアをくぐった滝川に投げかけられた第一声は、予想だにしないものであった。
オフィスには、麻衣とタカ、そしてもう一人。
「トキ?」
滝川が趣味でやっているバンドを応援してくれている、大学生の時田あゆみだった。
マイナーなアマチュアバンドのおっかけとしては少しばかり珍しいかもしれない、清楚という形容がぴったりの外見だ。ライブに来るときはさすがにヒールは履いてこないのだが、今日はかかとの細いパンプスで、白い薄手のニットに膝丈のブラウンのスカート姿だ。女性のファッションには詳しくないが、靴以外はいつもこういう雰囲気の服をしているよな、という印象は滝川にもある。
「ノリオ……」
困ったように眉を下げるのはタカだ。トキとさほどに仲が良いとは聞いていないが、2人とも楽屋に遊びに来るくらいにはバンドメンバーと仲が良いので、話したことはあるはずだった。
「え、なに?どうしたんだよ。つーかなんでここにいるんだ。いやまず彼女ってなに?」
「いいから!いるの?いないの?」
仁王立ちでぴしっと人差し指を立てる麻衣の目の前で、首を傾げた。
「まあ、彼女……は、いないけど……?」
ただ、彼氏はいる。
先週末初めてのお泊りデートなるものをしたばかりの、付き合い立てホヤホヤの恋人。
「でも、私、聞いちゃったの。楽屋で話してたもん……ノリオ、ずっと好きだった子と、ようやく付き合えることになったらしいって。その時はノリオはいなかったけど……」
トキは可哀想なくらいしょんぼりとして、今にも泣き出しそうに声を震わせている。
「あー……」
「ぼーさん、心当たりあるんだ?」
じとりと麻衣に睨まれ、タカはやはり混乱しつつも困り顔だ。
「それはともかく。なんでトキがここにいるんだよ。その話がしたいなら楽屋来たときで良かったろ」
ここは渋谷サイキックリサーチ。しょっちゅう出入りしているとはいえ、滝川はここの職員でもなんでもないし、トキはバンドを通じての知り合いでしかない。
「ごめんなさい、私……」
「ノリオ、あの、あたしのせい……っていうか、その、ちょーっと誤解があったみたいで」
タカがおずおずと手を挙げるのに視線を向ける。
「誤解?」
「前にさ、好きな人いるって教えてくれたじゃん」
「あー、あったなぁ」
1年近く前の話だ。たまたまオフィスで2人になるタイミングがあって、意を決したようにタカは『ノリオ、もしかして好きな人いる?』と切り出した。
その頃既に安原を特別に思いつつある自分に気付いていた滝川は、図星を指されて内心たじろいだ。どうにか表情は取り繕えたと思うのだが、そもそも他人の目にも明らかなほど態度に出していたつもりはなかったのでポーカーフェイスがどこまで通じるか自信はなかった。
黙ってしまった滝川に、タカは『明るくて、結構年下でさ。あたしも知ってる人で……』と続けるので、もうこれはバレていると滝川は白旗を上げたのだ。
『あー、女の子ってのはどうしてこう鋭いかな。悪いんだけどさ、ヒミツにしててくれるか?成人するの待つつもりなんだ』と答えた滝川に、タカは『わかった、まかせて』と頷いてくれた。
滝川は、他人から向けられている感情にさほど鈍いたちではない。タカもトキもタキガワノリオのファンであることを隠していなかったし、少女が年上の男に憧れる時期というのはありがちなものと知っていたし。そして、それは本気の恋愛とは別物だろうと考えていた。となれば当然滝川としては気付かないふりをしたり冗談として流す以外にない。更に、ファンに手を出すのはマズイというバンド内での共通認識もあった。
それで、と続きを促すと、タカは元々小柄な体をさらに小さくして白状した。
「ノリオの好きな人、あたし、……麻衣のことだと思ってたんだ」
「へ?」
「はあ!?」
「麻衣といるとき楽しそうだし、大切にしてるのわかってたから。だから、トキちゃんからノリオに彼女いるって話を聞いた時に麻衣のことが頭に浮かんで」
タカの話を要約するとこうだ。
前回のライブの折、たまたまトキは楽屋でバンドメンバーが滝川に恋人ができた話をしていたのを聞いてしまった。真偽を確かめようと思ったが、滝川はそのすぐ後にナルから連絡を受けて調査にかかりきりになり、接触の機会がつかめなかった。しかし、一刻も早く事実を確かめたかったトキは特に滝川と仲のいい、妹分的な存在であるタカに連絡を取ることにしたらしい。彼女たちは特に仲良しというわけでもなく直接の連絡先は知らなかった。それでも何人かを経由しほうぼう頼み込んでラインIDを手に入れた、それが昨日のことだという。
トキから話を聞いたタカは、滝川がついに麻衣と恋人になったのだと思った。現在の成人は18歳だから、成人してから口説き始めてとうとうその時が来たのだと考えたらしい。滝川の感覚では未だ二十歳が成人なのだが、もちろんタカはそんなことなど知る由もない。
人物に心当たりがあることを、タカの表情からトキはすぐに察したという。その子に会いたい、直接聞いてみたいと強く主張するトキに、タカは心底困った。麻衣がまだ話してくれていないものを、こちらから聞き出すのは申し訳ない。ただ、話しにくかったのならむしろ言ってくれたほうが嬉しいということは伝えようと決めて、トキには『まずあたしから確認してみるから、待ってて。もしかしたら人違いかもしれないし』と言い聞かせて帰した。
「それで直接聞こうと思って今日ここに来たら、気がついたらトキちゃんがすぐ後ろにいて……どうしても一緒行く、って」
「ごめんなさい、ごめんなさい……どうしても気になって、いてもたってもいられなくて」
「そーゆーわけなの。もう、びっくりしちゃったよ。ぼーさんと付き合ってるのかって聞かれて、でもそんなわけないでしょ?それで否定してたんだけど、どーにも時田さんが納得してくれないから、もうこれは本人に来てもらうしかないかって話になってるところにぼーさんがちょうどよく現れたわけ」
「なるほど……。てかこれナルちゃん知ってんの?」
無関係な人間が勝手に立ち入って騒いでいるのを知ったら、どれほど嫌がるか。
戦々恐々と麻衣に小声で尋ねたところ、首を横に振った。
「前回の調査で気になるデータが取れたんだって。前に……ほら、あちこち旅行、じゃないけど。してたときあったでしょ。そのどこだかに関連しそうななんちゃらがどーちゃらで、現地に行くって言って、新しい機材抱えてリンさんと2人で出かけたよ。東北、泊まりがけだって」
それを聞いてホッとした。絶対零度の雷が落ちることはないらしい。
「それで、彼女いる疑惑、どーいうことなの?」
「あー、だから、相手がある話だろ。俺が今しゃべっちゃっていいもんか困ってんだよ」
「相手って……ホントにいるんだ?」
「いるんだよ。ちょーっと落ち着いて、待ってくれるか。その間にアイスコーヒーちょうだい」
「はいはい。時田さん、おかわり紅茶でいいかな?タカは?」
女子3人組が話している間に、スマホを取り出す。もちろん彼女ならぬ彼氏に連絡するためだ。
今日はまだ大学だろうか、それならば出られないかもしれない。そう思いながら通話ボタンを押すと、目的の相手はすぐに応答した。一度、オフィスから出る。
「もしもし?」
『はい、どうしました?』
「あー、今ちょっとめんどーなことになってて。今日バイトか?」
『ええ。今から向かうところです。休みの予定だったんですけど、今日は渋谷さんとリンさんが急に出かけることになって、もし時間があるようならそのぶん谷山さんとデータをまとめてほしいと頼まれまして』
「あのさ、今日、麻衣たちに俺たちのこと話したいんだけど、嫌か?」
ほんの少しの沈黙があり、それから安原はいつもどおりの声音で『ふむ』と言った。
『構いませんけどずいぶん急ですね。面倒なことになってる、っていうのとなにか関係が?』
「関係大アリ。いや、実はな」
先ほど聞かされたばかりのことを丸々安原に伝えると、電話口の向こうでさすがに安原も驚いている様子だった。
『ははあ、法生さん、モテますねえ』
「さすがに予想外だったけど。ナルちゃん不在でまだラッキーだったと思うしかねえわ」
熱心過ぎるファンというのは、たまにはいる。己に対してでなくても、色々と話を聞くものだ。しかし、まさかSPRに現れるとは思っていなかった。
『そういうことなら、急ぎます。ていうか、やっぱり谷山さんには話しておくべきだったなあ……わかってたのに、僕としたことがぬかりました』
「まあ、そうだけどさ。しょーがないだろ」
『……はい。うん、そうですね』
安原は、男の体を前に滝川がどうなるか不安だったと言った。恋愛感情と性的欲求は必ずしも一致しないらしい、と。実のところその言い分がよくわからなかった滝川は、翌日オフィスに彼を送って帰宅してから、調べてみたのだ。
曰く、ロマンティックとセクシュアルは別物で、恋愛感情はあっても性的欲求を感じないという人も、その逆の場合も、そしてどちらも感じないという人もいるという。その両方が異性に向いている人が大多数なのだ。これに当てはめてみると、安原は滝川について『同性へのロマンティックはあってもセクシュアルについてはどうなのか』を疑問に思っていた、ということだろう。結果、どちらもたいへん持ち合わせていたということが判明したので、今は安心して関係を公表できる気持ちになったのではないか、と想像している。
『法生さん、バンドの人に僕のこと話してたんですね』
「……最後の方、マジで1人我慢大会みたいな状態だったから。誰かに言わないとヤバかったんだよ」
実は滝川はリンにもちらりとこぼしてしまったことがあるのだが、それは安原にはまだ伝えていない。どれだけ余裕がなかったんだと呆れられるのが嫌で秘密にしている。リンなら性格上、わざわざ安原にバラしたりしない。
『ふふふふ……僕のこと、大好きですねえ』
嬉しそうな声が可愛くて、滝川も声を出さないようにして笑った。
『あ、そろそろ駅なので切りますね。僕が着くまでに言っちゃってもいいですけど、そこはお任せします。時田さんの様子を見て決めてください。あとは、早く聞きたくてウズウズしてるだろう谷山さんの様子も』
「そーするよ。じゃ、待ってる」
通話を切って、深呼吸する。オフィス内に戻るのが非常に億劫だったが逃げ出すわけにもいかないので、結局大人しく入ると、麻衣が「はい、アイスコーヒー」とグラスを置いてくれた。
「サンキュ」
ソファに座ると、トキもタカも悄然としている。麻衣も当初の勢いは落ち着き、気遣わしげに視線を彷徨わせていた。
「とりあえず、このあとちゃんと話すけどな。まず、トキは反省しろよ。いてもたってもいられなかったって言うけどな、こんなふうに人に迷惑かけるようなことはしたら駄目だ。ここは俺が懇意にしてる人の構えてるオフィスで、今日はたまたま不在だったけどもしそうでなかったら大変だったぞ」
まずトキは問答無用でオフィスから放り出されていたに違いない。
「ごめんなさい……」
「聞きたいのは俺のことだったんだろ。タカじゃなくて俺の連絡先なり本人なりを探すべきだった。わかるな?……まー、それはそれでよろしくはないけど。一歩間違えたらストーカーだ」
そもそも、このオフィスにたどり着いたのはタカを尾行していたのだろうから、既につきまといに該当しそうだ。
「そんな、私、そういうつもりじゃなくて」
「お前がどういうつもりだったかは、この場合関係ないんだよ」
「はい……」
しょんぼりしているトキに、これから更に追い討ちをかけることになるのだと思うと気が重い。だが、安原との関係を公表できると思うと肩の荷が下りるような気分がする。
「それで?そのー、お相手に確認できたの?話していいか」
「これから来る」
「えっ」
「隠し続けるつもりは元々なかったんだけどな、話すの遅くなって悪かった」
麻衣と、おそらくタカも、これから来る人物について色々思い浮かべているだろう。
そうして当然会話も弾まないまま気まずい時間が過ぎて、とうとうオフィスの扉が開いた。
「どうもー、お疲れ様です」
ニッコリ明るく笑う、安原修の登場である。
「あっ、安原さんか。リンさんから聞いてるよ。本当はお休みだったのにごめんね」
単純に仕事に来たものと思った麻衣が話しかける横で、タカはぱちくりと目を見開いている。滝川の思い人の特徴を彼女だけは知っているのだ。滝川より年下で、明るい、タカも知っている人物。他に候補に挙がりそうな人物は居ないように思うのだが、今の今まで安原だとは気付いていなかったらしい。
「……え、ええっ?ノリオ、もしかして」
「まさか、麻衣だと思ってたとはなあ。俺は最初からこっちのつもりで、別にごまかす気はなかったんだけど。確かに名前までは言わなかったかも」
「へ?なに?ぼーさん、何の話?」
「俺、彼女はいないって言ったろ」
「なんたって彼氏ですからねー」
朗らかに笑う安原を見て、トキは言葉もない。タカも麻衣も、わかりやすく驚愕している。
「すみません。僕の方でちょっと事情があって、少しの間ヒミツにしておきたかったんです。それが先週末解決したので、近い内にお話するつもりではあったんですけど」
「え、い、いつから!?」
「今月頭」
「あっ!安原さん、誕生日今月頭!!」
「そうなんです。この人、成人といえば二十歳っていうのが抜けないみたいで」
「なるほど……年下で明るくて未成年、あたしが思ってたのと条件が違ったわけだ」
納得する麻衣とタカから少し離れたところで、トキはまだ硬直していた。
「トキちゃん……、顔色、悪いよ。座る?具合悪い?」
気遣って座らせようとするタカの腕を跳ね除けて、トキはむずがる子供のように涙をこぼした。
「ノリオ、嘘だよね?諦めさせるために嘘言ってるだけでしょ?」
「そんな悪趣味なことしねーって。ほんとにほんと。ほら、落ち着けよ」
「だって、……だって私のことかもって思ってたんだもん!成人待ってるって……そんなに年下なのって楽屋で聞いたら、あいつは好きな子の二十歳を待ってるんだってみんなが笑ってたから、だから、だって私、来月二十歳だもん…!!年下で、真面目な子だって、聞いてたから……っ」
滝川がトキを好きなら、諦めさせるための嘘など言ったりするわけがない――などとはさすがに全員言い出せず、泣いて座り込んでしまったトキをタカと麻衣が宥めようと両サイドにしゃがみこんで背中や肩を撫でる。今度は拒否せず、されるがままだった。
「そ、その人の、どういうところが好きなのかだけ、知りたい……」
「トキ。お前ね、まだそーゆーこと言うか」
「信じらんないんだもん!何にも分からないままじゃ諦めらんないよ!」
ちら、と滝川が安原の顔をうかがうと、すまし顔ながらも瞳だけが『さあ、どうするんです?』と彼の好奇心を映していた。タカはトキを落ち着かせようとしているし、麻衣はタカとトキを気にしつつも『あたしも気になる!』と言いたげだ。
「……何、この羞恥プレイ。あー、ちゃんと答えてやるからこれで帰れよ。麻衣と安原は仕事で来てるんだからな」
「はい……」
視線を泳がせて言葉を探す。いつの間にか惹かれていたといった調子なので説明するのが難しい。いざ言葉にしようとすると、一緒にいて楽しいとかなんとか、そういう通り一遍のことしか出てこない。ただ、好きなところを説明できないようだとなにかしら本人の良いように解釈されてしまいそうでそれは困る。きっぱり諦めてもらわねばならないのだ。
「えー、っと。気が強くて頑固なとこ…?」
もう安原の方を見られず、滝川はそっぽ向いて絞り出す。どうだ、と反応を待っていると、ややあってトキは首を傾げた。
「わ、私だってそれに当てはまると、思う……」
「トキちゃんそこで食い下がるんだ!?」
「もしかして時田さんってめちゃくちゃ面白い人?」
確かに気が強くて頑固かもしれない。少し笑ってしまった。
けれども。
「安原はそれを発揮するところを選んでる。それが正しい判断かどうかは、見る人にも、その時々の場合にもよるんだろうけど。つまり俺は、こいつのその判断基準が、……好き、ってことになるかな」
緑陵高校での、教師や生徒、調査員たちへのそれぞれの対応。何を優先し、どこで我を通すか。いつ、何を言うか。そして、呪詛返しを全校生徒の代表となって諾と答えた理性と胆力。そういう、あの事件での一連の挙動がまず滝川にとって好もしいものだったのだ。当時は恋愛感情ではなかったはずだけれども、その後も変わらず積み重ねてきた彼の判断一つ一つを滝川は得難く思う。
「少なくともこいつは、俺に恋人ができたって聞いたらまず俺に直接聞きに来るし、聞き出すまで手替え品替え食い下がって欲しい情報丸ごと引き出しにかかる」
滝川が安原を横目で伺うと、ニッコリと笑う。
「それが一番手っ取り早くて確実ですから。本人には知られたくない調査であれば搦め手でいくしかないですけど、この場合は僕が好意を持ってることは知っておいてもらわないと始まらないし」
「実際、もし恋人できたら教えてくれって言われたことあったよな」
あの時はたまたま安原の鞄から避妊具を見つけてしまってまず滝川の方から彼女がいるのかどうか聞いたのだったが、その話は他の誰にもしていない。まさか、麻衣たち女性陣に詳しい話をするわけにもいかなかったからだ。ならば男性陣はというと、やはりそういう話を楽しむ人種は滝川と安原以外にはいないのだった。ナルは論外として、ジョンはひたすら困らせてしまうだけだろうし、ギリギリのところでリンは黙って聞いてくれるだろうが話がそこから盛り上がるということはないだろう。
「ありましたね。いやー必死だったんですよ。どうにか土俵に上がらないと、って」
「あっもしかして、安原さんがぼーさんにふざけて好き好き言ってたのってずっと本気だったの!?」
「そうそう。なかなか信じてもらえなかったけど、かといって最初からあんまり真剣に言うとお断りされておしまいでしょ。長期戦だったよ」
「さっすが安原さん」
感心している麻衣を横目に、トキは呆然としていた。彼女は、どこからどう見ても好青年の安原が自分からは見えないところでずっと恋敵であったのを、今になって知ったのだ。大変な衝撃だろう。
追っかけをしているファンは、みな横一列だった。可愛い妹分、くらいの特別扱いはあれど、少なくとも恋愛的な意味においては誰かが抜きん出ているということは一切なかった。だからこそトキは、条件に合う自分がもしかしたら、と希望を持ったのかもしれない。滝川にとっては対象外だからこそ誰も特別扱いせず、そのことでもって線引きをしているつもりだった。
「相手が男だってこともメンバーには話してたんだけどなあ。誰もそこまでは言わなかったか」
「アウティングになっちゃいますし、あなたのいない場所ではそこは伏せるでしょう」
「あー、そうか……。彼氏だって言っていいって伝えとく。ごめんな、トキ」
「……ごめんなさい、あたし、みんなに迷惑かけて……すみませんでした」
落ち着きを取り戻した――というよりは虚脱したようなトキを、タカが手洗い場に連れて立つ。泣き腫らした顔のまま返すのは気の毒だ、という配慮だろう。
一旦は麻衣と滝川、そして安原の3人になって、肩の力が抜けた。
「はーびっくりした……」
小さくこぼすと、安原は苦笑した。
「僕もです。でも、1番驚いたのは谷山さんかな?まず最初に滝川さんの彼女だと思われたわけでしょ」
「いやもー、ほんとにびっくり。しかもぼーさんが付き合ってるのが安原さんだったなんて」
「ちょっと事情があったのは本当だけど、話の切り出し方に迷ってたっていうのもあるんだよね。どうしても驚かせちゃうだろうし」
「でも、あたしは嫌な驚きじゃなければべつに」
慌てたように言う麻衣に男二人は顔を見合わせて笑う。
「じゃー麻衣が例えば綾子と恋人になったとして、すぐ俺たちに言うか?」
「ええー、なんでそこで綾子ぉ?」
「同性で年の差があるから。まあでも、真砂子ちゃんでもいいよこの際」
「なるほど。……綾子と付き合ったとして?みんなに?うーん……全然想像つかない……んー、真砂子だったとして……?」
しばらくうんうんと真剣に唸って、結局ふうと大きくため息をついた。
「わかんないけど、……すぐには言えない、かも。多分。いつどんなふうに言えばいいか、悩みそう」
「な。昨日からお付き合い始めましたー!わーおめでとー!!……とか、そういうノリでもないぢゃん?」
「そだねぇ……あ、でも、言ってなかったや。おめでと、ふたりとも。あたし全然気付かなかった」
「僕は皆さんの前でも猛烈にアタックしてたんだけどなあ。すごく素直だったでしょ?」
「たしかに」
あはは、と声をひそめて笑う。まだオフィスには、失恋したてのトキがいるのだ。
あけっぴろげで能天気なように見えて他者をきちんと見ている、まっとうな善性を持った麻衣のことを滝川はとても気に入っている。可愛いとも思う。気が強くて頑固なのは麻衣も同じだ。そしてそれを発揮する局面を、暴走するのは困りものだが滝川はかなり好ましく思っている。安原と同じに。
なのにどうして、好意が恋愛感情になったのは安原だけなのか。
トキへの説明だけでは実は、完璧ではない。けれど滝川自身うまく言葉に出来ないのだ。何かが違う。なぜ麻衣は妹のように可愛がるので満足できて、安原は恋人にしたくてたまらなかったのだろう。なにかが違えば、麻衣に恋することもあっただろうか?タカやトキには?なぜ、他の誰でもなく安原だったのか。
滝川には今もそれがわかっていない。いや、誰にとってもそれはわからないものなのだろうか。
「あ、トキちゃん、落ち着いたよ」
タカがトキを連れて戻って来る。軽く化粧直ししたのか、それとも気持ちの問題なのだろうか、なんとなくスッキリしたような顔をしていた。
「ご迷惑おかけしました。ごめんなさい、本当に」
頭を下げるトキに、タカが寄り添う。
「あたし、トキちゃん送ってくね」
「ありがとな、タカ」
「へへへ、ノリオのためだからね。……ファンだし、うん」
またね、とタカは笑顔でトキを連れてオフィスを出ていった。
「……さて、それじゃそろそろお仕事しましょうか」
「ハッ、そういえばカップルに挟まれてるじゃんあたし!おじゃま虫!?」
「そんなこと言っても、データの集計からは逃さないよ谷山さん。滝川さんも時間があるなら一緒にどうです?」
「俺は高みの見物。このあとお仕事あるからあと1時間くらいしたら出るもん」
「ちぇ、ぼーさんのケチ」
「それじゃ僕は資料持ってきます」
専門性の高い頭脳労働はもっぱらナルの担当だから、任されているのは単純作業だ。麻衣が調査中に書き溜めた手書きのメモを整理するべく荷物を広げたところで、滝川は「悪かったな」と小さく謝罪した。
「んぇ?」
「だいぶ、焦ったろ?」
「……うん、まーね。びっくりした」
色々と誤解があったわけだが、憧れの人の好きな人が仲の良い友達だと思っていたタカは辛かっただろうし、それを今になって知った麻衣も複雑だろう。
「……ぼーさん、ずっと安原さんのこと好きだったの?」
「うん。……もう認めざるを得ないなってなったのが1年くらい前かな。まあ、その以前からちょっとずつ」
「そっか」
言って、麻衣は口を閉じた。資料を整理する手は止まり、視線を泳がせる。
「麻衣?」
「……好きって、なんなんだろうって思って。その人のことを考えると心があたたかくなって、よし頑張ろうって思えるものだって思ってたんだけど、それって恋に限ったことじゃない気もするし。それにさ、逆に時田さんみたいにすごく辛くなっちゃったりもするんだよね」
「そうだなあ……」
「ぼーさんもわかんない?」
「かなりの難題」
「……安原さんでもむずかしいかな?」
「聞いてみたら良い。おーい、修ちゃんや」
「はいはいなんですかおじいさん、もうご飯は食べたでしょ」
ニコニコしながら、ファイルを抱えて戻って来る。既に準備は済んでいたのを、滝川と麻衣が話していたから気を遣って席を外していたらしい。
全員が座ったところで、麻衣が小さく手を挙げた。
「好きってなんなんだろうねって話をしてたの。安原さんはどう思う?」
安原は、目を丸くして数秒考えてから、
「難題ですね」
と首を傾げる。
「じゃあさ、聞いてもいい?嫌だったらそう言ってほしいんだけど、ぼーさんのどういうところが好きなの?」
ドキ、と滝川の心臓が跳ねる。滝川が安原の好きなところを本人に伝えたことがなかったのと同じく、その逆もまた聞いてはいなかった。
「やあ、照れるな本人の前で。そうですね、優しいところ?」
ガク、と力が抜ける。
「ってお前、なんつーありがちな」
「ありがちなのは、それだけ多くの人が優しさって要素に惹かれるってことでしょう?僕も普通の男の子ってだけの話ですよ」
「ならジョンに惚れるだろ」
「確かにそうですけど。えーと……強いて言うなら、色んな人に対してそこそこ面倒見が良いところ?」
「自分にだけ優しいほうがいいとかじゃないの?あ、本当にそんな人がいるかは別として」
「だって、ある程度好意がある相手には優しくするのは当然じゃない?下心なく、特になんとも思ってない相手にでも親切にできる人のほうが魅力的なんじゃないのかな。あくまで僕の価値観の話だけどね」
「なるほどぉ……」
確かに含蓄のある話かもしれないが、滝川としては困惑するしかない。
「別に俺、特に優しくもねーけど……」
「本人には分からないんですよねえこういうの。滝川さんって口では色々言いますけど、結局口しか悪くないというか。あ、態度も悪いか」
「あとは人相も悪い!」
「うーん、結構散々ですね」
麻衣と安原は明るい笑い声をたてる。好きなところの話のはずが、悪口を言われているのが解せない。しかし、褒めちぎられても居心地が悪いだけなのでこれはこれでいいか、と滝川も苦笑した。
一口お茶を飲んで落ち着いた安原が、ふと思いついたように首を傾げる。
「でも、もしかしたらこれも全部後付けなのかもね。まず先に理屈も何もなく惹かれて、なんでこの人のことばっかり考えて気にしちゃうんだろう、って悩んだ時に『こんなに頭から離れないのは恋かもしれない』と考える。思い込むって言ってもいい。で、それから自分がその人を好きになるに足る理由を探すのかも」
「……それ、なんとなくわかるかも。うん」
「人によるだろうけどね。ほら、好きな人の夢を見る、とかも。好きになったから夢に出てきたのか、それとも夢に出てきた人がいて『夢に出てきたということは好きなんだろう』と判断するのか……わかんないでしょ。でもきっと、どっちだとしても本人が恋だと思ったら恋なんだよね。平安時代なんかは、むしろ夢に出てきた人が自分のことを好きなんだろう、夢の中で会いに来てしまうくらい……って解釈だったりしたらしいけど」
「……」
「谷山さん?」
「あ、ううん。ちょっとね、むずかしーなって思っただけ」
「お嬢ちゃんは知恵熱でちゃうかもなあ?」
わしわしと滝川が麻衣の髪をかき混ぜる。もう!と怒りながらぼさぼさになった髪を整えに鏡に走る麻衣を見送って、滝川は安原に視線を移す。
「……俺の夢、見たことある?」
「ありますよ」
「そお。俺もお前の夢見ることある」
「どんな?」
「ナイショ。恥ずかしいだろ」
「へえ、恥ずかしい夢見てるんだ」
「こら」
2人して笑った。
今この時、泣きながら帰る女性がいることが分かっていながら安原との関係を喜ぶ己の心の内が酷く醜いようにも思えるが、それが人の常だと俯瞰した己が言うのも聞こえる。やはり自分は優しい人間ではない、と滝川は思う。全員の希望は通らない。そういうものなのだ。例えば安原が翻意して滝川との関係を打ち切ったとして、それで滝川がトキに心を移すというわけでもない。
「あのね、僕、あなたがみんなに平等な人だと思ってるわけじゃないですよ。ていうかそんなのは神様の領域の話でしょ?それも日本の八百万じゃなくて一神教かな、ブラウンさんの管轄。僕は全く詳しくないですけど……」
「ああ」
「……上手く言葉にできないな。本当、難しい話だ。突っ込まれても明確な答えが用意できないし、今度から見た目がすごくタイプって言っとこう。一目惚れだって」
笑う安原を横目に、アイスコーヒーを飲みながら考える。いつかこいつのこういうところが好きなんだ、とハッキリとした言葉で説明できるようになる日が来るのだろうか。来ないような気がするが、そもそも滝川は自分が男に惚れるようなことがあろうとは全く思っていなかった。そんなふうに人生というのは分からないものなので、もしかしたら言語化できるようになることもあるかもしれない。
その時には、まず本人に聞かせてやろう。きっと内心、今回のことで驚きや衝撃を受けたであろう安原が、その日まで恋人であってくれたら。
いつか、の話だ。