002_雨水(2月19日頃) 風見は昼食を買うためにコンビニに来ていた。一週間ほど前には全面に押し出されていたチョコレート菓子たちも定位置に戻り、今度は桃の節句に向けた案内が店内に目立つようになった。茶色や赤の装飾がピンク色に変わっている。最近の雛祭りはちらし寿司のほかにケーキも食べるらしい。実家に帰れば準備に駆り出されることもあるが、男性かつ一人暮らしの風見に関係があるのは、三日の夜に安売りされるちらし寿司くらいだった。
陳列棚にまばらに残っているおにぎりをいくつか選んでレジに向かう。カウンターの上には二センチ四方のチョコレートが並んでいた。よく見かける牛のような柄のものと、桃色に間の抜けた字体で「さくらもち」とプリントされたものだった。間食にでもしようと、風見は一つずつ会計に追加した。
最高気温は二桁になり始めていたが、外で食べるにはまだ寒い。それに、この後はデスクワークの予定だった。風見の雑然とした机上には、食事に適したスペースはほとんど存在しない。しかし、車中で食事を済ませるよりは、机と椅子がある方がいくらか休まる気がした。デスクでなら、引き出しに常備してある味噌汁を飲むこともできる。
風見は庁舎に戻るべく、ハンドルを握った。
結局風見が昼食にありつけたのは庁舎に着いてからさらに数十分経ってからだった。部下からの報告を受け、それをさらに警視庁の上司に報告している間に時間が過ぎていたのだ。やっと一人になれた風見は給湯室で味噌汁のカップにお湯を注ぐ。降谷に食生活の改善するよう言われてから、風見はなるべく味噌汁なり適当なカップスープなりを摂るようにしていた。といっても、降谷には「そうじゃない」と言われることは容易に想像ができるが。
自席で味噌汁をすすると、空腹に染み渡るような気がした。気が付けば定時まであと一時間程度になっている。風見は小さくため息をついてから、おにぎりのフィルムを剥き始めた。ぱりぱりとした海苔が細かい破片になってグレーの事務机に落ちていく。後で片づけなければ、と思いながら風見は無心におにぎりを頬張った。
味噌汁も飲み終え、ついでに購入したチョコレートを食べようとしたところで、スマホがメッセージを受信した。降谷からだった。メールには合流地点と時間だけが表示されている。今夜は夕食もここで済ませなければならないらしい。落ち合う時間を逆算した風見は、今まさに食べようとしていた小さな粒を二つともジャケットに放り込んで、パソコンに向かった。
日が落ちて数時間経った頃、風見は待ち合わせ場所に向かった。といっても、今回は警視庁内の休憩スペースだ。
品揃えがあまりよくない自動販売機二台と、背もたれのない黒いソファーが一脚あるだけのこぢんまりとした空間に、降谷はいた。手にはまだ開けていない缶コーヒーを持っている。警視庁内の蛍光灯はほぼLEDになっていたが、節電のため電灯が間引かれている。それゆえ夜になると廊下も休憩スペースも薄暗かった。自販機だけが煌々と光を放っており、ソファーを無視して壁に寄り掛かる降谷の髪を明るく照らしていた。
「お疲れ様です」
風見も適当に微糖のコーヒーを購入して、降谷の横のソファーに座った。隣で立っている降谷に記録媒体を渡す。
「夕食は?」
降谷がプルタブを引き上げながら尋ねた。降谷の方はこちらに共有したい情報はないらしい。
「食べました」
素直に答えたものの、「またチョコレートだけで済ませてないだろうな」と疑いのまなざしを向けられる。この上司は何かと風見を気にかけてくれる。降谷の言うことは正論なのでできる限り従おうとしているが、風見にはやや面倒に感じられることもあった。
「インスタントばかりですが、昼夜ともにそこそこのカロリーは取りました。……チョコレートも買いましたけど」
以前降谷に指摘されたのは十分な食事をとっていないことだったため、栄養バランスはともかくそれなりの量を食べていれば、ひとまず説教は飛んでこないだろうと思っての発言だった。
「そうか」
それでもインスタントばかりではだめだとか小言を言われるのでは、と思ったが、降谷はそれ以上言わなかった。自販機の低い駆動音だけが響く。風見は目の前の自販機の「節電中」という文字に目を向ける。普段、降谷は情報のやり取りが終わればすぐにその場を離れるが、少し休憩するつもりらしい。ちびちびとコーヒーに口をつけるだけで風見の隣に留まっていた。
「ポアロのチョコレートのメニューはどうなったんですか」
先日、降谷と会った際に話題になっていたことを投げ掛けてみた。
「好評だったよ。パフェとガトーショコラ」
「食べられなくて残念です」
風見は人並みに甘いものが好きなのでそう伝えた。
「ガトーショコラなら君に持って来られたな」
しっとりと濃厚なガトーショコラを想像して、風見は食べられなかったことを心残りに思った。この人の作るものは何でも美味しい。「いただけていたら、バレンタインチョコ無しにはならなかったんですが」と冗談を言うと、「君、モテないのか?」と思いのほか真面目なトーンで返されてしまった。
「安室透はモテるんでしょうね」
「はい」とも「いいえ」とも返しがたく、風見は自身のことには触れないことにした。この人が降谷零として贈り物を受け取ることは職務上ありえないため、安室の方を話題にしたが、「まあ、それなりに気に入られるようにはしているけど」と微妙にずらされた返答がきただけだった。
「いい人はいないのか?」
予想外の発言に、顔を横に向ける。降谷は、興味津々まではいかないが、からかうように薄く笑みを浮かべていた。彼がこの手の話を振ってくるのは珍しい。部下に男女関係を尋ねるのはセクハラだという意識があるのか、酒の席でも話題にしてきたことはほぼなかった。交際関係は上司に報告することになっているが、報告先は降谷ではなく、自身の所属する組織の上司だ。だから風見自らそういった話をすることもなかった。といっても、風見の人間関係は降谷にも伝わっているはずだ。降谷の連絡係になった数ヵ月後に破局の報告をして以降、何もないが。
「いませんよ」
知っているでしょう? というニュアンスを汲み取った降谷が「ココアでも買ってやろうか」と自販機を指さす。先ほどはああ言ったが、別にチョコレートを貰いたいわけではない。ふと、風見はポケットに入れたままの菓子を思い出した。
「チョコレートなら持っているので……」
手のひらに乗せた二粒を降谷に見せる。
「それ、しょっちゅう新製品が出るよな」
「食べます?」
「さくらもち味」を差し出すと降谷は素直に受け取った。しかし「これ、この間試したんだよな」と、風見の手に残っていた定番の味の方と交換する。
「もしかしてあんまり美味しくないんですか」
「いや? 僕は食べたことあるから、君に譲ろうと思って」
降谷は風見の座っているソファーの端に缶を置いて、包みを開け始めた。それに倣って風見も桃色の包装を開けた。パッケージよりも淡い桜色のチョコレートが顔を出す。一口で食べてしまうと、塩気のある桜味が口に広がった。もちもちとした触感があり、チョコレートに餅のようなグミのようなものが包まれているらしかった。
隣では降谷が同じように小さなチョコレートを口に含んでいる。
この人は、あと何分ここにいるのだろう、と風見は思った。降谷の置いた缶には、一息で飲みきれるほどしかコーヒーが残っていないはずで、風見の握る缶には何も残っていない。
自販機の明かりがまぶしかった。